その後、華ちゃんがどのような決断を下したのかは、希子にもすでにわかっている。その結果として、希子は今ここにいる。小笠原希子ではなく、植田希子として。小笠原華子ではなく、植田美佐に育てられて。
「ちょっと休憩しようか」
希子の顔をのぞきこんで、お母さんが言った。
「飲みもの、買ってくるね。希子はここで待っててくれる?」
これまでの長い話を希子が咀嚼するために、ひと休みしたほうがいいと考えたのかもしれない。希子はうながされたとおり、ひとりでベンチに残った。
お母さんの話に没頭している間に、入院患者のおじいさんたちはいつのまにかいなくなっている。蝉の声ももうしない。頭上をあおげば、建物に四角く切りとられた空が、ほのかに赤みを帯びている。
夕焼けの色だ。血の色でもある。きれいといえばきれいだけれど、なんだかちょっと不吉な感じもする。
血、と胸の中でつぶやく。わたしとお母さんは、血がつながってない。
いつしか話にひきこまれてしまっていたけれど、こうやってひとりになると、再び現実が重くのしかかってくる。そう、現実だ。もう受け入れるしかない。最初はとうてい受け入れられないと思ったけれど、事実は事実だ。動かせない。
事実を知りたかった。知ればすっきりするはずだった。でも、いざ知らされてみたら、全然すっきりしていない。頭の中がごちゃごちゃしていて、考えがまとまらない。脳内で何人もの自分がてんでに言い争っている。
意味わかんない、とひとりがわめく。そんな大騒ぎしなくても、ともうひとりがなだめる。いや騒ぐでしょ、ショックでしょ、と三人めが割って入る。別にどうってことない、綾乃ちゃんも言ってたし、うちは血のつながりに頼らない新しい家族だって。血がつながってない子どもっていえば、泉水もそうだね? そうといえばそうだけど、なんか違うような。うん違う、だって泉水は、お母さんと血がつながってないってことを最初からちゃんと知ってるもんね。
お母さんがベンチに戻ってきたので、希子は勢いに任せてたずねた。
「なんで秘密にしてたの?」
思ったよりも語気が強くなったが、お母さんに動じる様子はなかった。左右の手に持った紙コップの片方を希子に渡して、ベンチにかけ直す。
「これから、それも話そうと思ってた」
中庭をぐるりと見回した。先ほど聞かされたばかりの、危険、というひとことが脳裏をかすめて、希子も周囲をうかがった。誰もいない。
「わたしは最初、華ちゃんが出産してすぐに、その赤ちゃんと養子縁組すればいいと思ってた」
植田家の子として育てて、物心がつき事情を理解できるくらいの年頃になりしだい、一部始終を説明する。さらに、その事実を公にできないことも伝えた上で、家の外ではみだりに話さないように言い含める。
「華ちゃんも好きなときに会いに来たらいい。いっそわたしたちと一緒に住んでもいい。そうすれば育児にもかかわれるし」
その想定どおりに事が運ばなかったことは、希子も身をもって知っている。希子は華ちゃんと一緒に住むどころか、存在すら知らなかった。
「華ちゃんに、反対されて」
お母さんは言う。
「せっかくそこまでするんだったら、本当は華ちゃんの子だってことも、急いで言わなくたっていいんじゃないかって」
本人や家族だけに事情を伝えたとしても、なにかの拍子に家の外でも話してしまうかもしれない。幼児を相手に厳重に口どめするのは難しいし、隠しごとを強いて精神的な負担をかけてもいけない。
「一理あると思った。複雑な事情だし、子どもには理解しにくいだろうしね。当面はなにも知らせないでおいたほうが、のびのび育ってくれるんじゃないかと」
お母さんが希子と目を合わせ、弁解するように言い添えた。
「もちろん、いつかは話すつもりだったんだけど」
その「いつか」までは、育ての母とは別に産みの母がいることは伝えないでおこうというのが華ちゃんの意見だった。その前提で、子どもと会うのもがまんする。不用意に周りをうろうろして、混乱させてしまいたくないという。
「ともかく、中途半端はよくないって言って」
華ちゃんの本音としては、もちろん会いたい。できることなら、ずっとそばにいたい。自分の子であり、最愛の男性の子でもある、世界一大事な存在なのだ。けれど、大事だからこそ、幸せに育ってほしい。なによりも最優先すべきなのは、子どもが心身ともに健やかに成長することだ。
「ある程度おとなになって、一人前の判断能力がついたときに、全部まとめて話したほうがいいって」
その前提で、子どもと会うのもがまんする。不用意に周りをうろうろして、混乱させてしまいたくないという。
「そうするんだったら、養子縁組よりももっといい方法があるんじゃないか、ってことになった」
養子縁組をしたら、戸籍にその記録が残る。実際、自らの出自を知らずに育った養子が意図せず真実を知ってしまう理由として、最も多いのはそれだという。
希子は自分の戸籍を見たことがない。気にしたこともない。どうなってるんだろう、と思ったのを見透かしたかのように、お母さんは続けた。
「結論からいうと、戸籍上、希子は養子じゃなくて実子になってる」
心もち声を落とし、言い添える。
「ちょっとややこしいんだけど」
法学部を出ている華ちゃんは、もともと養子の問題に関する事例もいろいろと知っていた。こんなことになってから、さらに詳しく調べもしたらしい。
「正式な養子縁組じゃなくて、出生届を出すときに最初から別の家の子として届け出るってことも、昔は普通にできたんだって。今とは違って、親戚の間とかで子どものやりとりをするのも、そんなに珍しくはなかったみたいで」
昔は普通にできた。今とは違って。歯切れの悪い言い回しがひっかかる。
「だけど今の時代は、病院で出生証明書をもらって、役所に届け出るときに添付しなきゃいけない。母親の名前を勝手に書き換えることはできない。小笠原華子じゃなくて植田美佐って書いて下さい、ってお医者さんに頼むわけにもいかない」
頼んでも断られるはずだし、そもそも他人を巻きこんでしまうのは避けたかった。ふたりで考えた末に、ひとつだけ方法を思いついた。
華ちゃんはお母さんの保険証を使って通院し、出産したらしい。
「そんなこと、できるの?」
「うん、できちゃった」
本当はだめなんだけどね、他に方法がなかったから、とお母さんはきまり悪そうに言い訳する。
「ばれたらやばくない?」
「まあね。でも、背に腹はかえられなかったから」
「あ、だから、わざわざ長野の病院を選んだの?」
「うん、万が一にでも、知りあいと出くわしたりしないようにね。ふたりとも縁のない、遠くの街がよかった」
厳密にいえば、華ちゃんには長野とごく薄い縁があった。昔、母方の祖母が県内に住んでいたそうだ。華ちゃんが小学生の頃に祖母は亡くなり、すっかり足が遠のいていたが、楽しい思い出が多く、いい印象が残っていたようだ。
「病院のそばに家を借りて、引っ越してきたの。希子が生まれた後も、半年くらいはそこで暮らした」
長野で出産することにしたとお母さんは勤め先に申し出て、仕事を休んだ。しばらくのんびり休養したいと華ちゃんは両親に言い置いて、実家を離れた。両親は心配していたけれど、兄が味方になってくれた。
「華ちゃんと相談して、慶太郎さんにだけは事情を打ち明けることにした」
信頼できるとふたりともが認めた、たったひとりの例外だった。
「なにもかもふたりで進めるにはやっぱり限界があるし、どっちかになにかあったりしたときの保険っていう意味でも」
小笠原さんの、あの深く響く声音がよみがえる。あなたのそばには、あなたのことを大事に思っているおとなが何人もいる、と言っていた。
東京に帰ってきてからは、華ちゃんは希子に一度も会っていない。
本人の言葉を借りれば「中途半端」を、断固として避けたのだった。お母さんとすら年に一回顔を合わせる程度だという。写真やお金の受け渡しも、ほとんど兄を通している。政治家一族だけあって情報漏洩に関しては神経質で、極力メールやネットには頼らず、現物の手渡しにこだわっているらしい。
「華ちゃんも今はもう、事件の直後ほどぴりぴりはしてない。当時は、ちょっとでもゆだんしたら希子の命が危ないって思い詰めてたから。一分一秒も気は抜けない、みたいな。あとマスコミのほうも、もちろん気をつけるに越したことはないけど、そこまで心配しすぎなくてもいいと思う」
歳月を経て、差し迫った危機感は少しずつ和らぎ、華ちゃん自身の精神的な傷もしだいに癒えてきた。議員秘書を辞し、弁護士として再出発も果たした。
「じゃあ、教えてくれてもよかったのに」
希子が言うと、うん、とお母さんは困ったように応えた。
「ただ、せっかく希子がまっすぐ育ってくれてるし、不自由も感じてないなら、もうしばらくこのバランスで現状維持もありかなって気もして」
「そんな」
つい、声がとがる。まっすぐ、というとなんとなくいい感じに聞こえるけれど、なにも知らずにのんきに過ごしていた自分がばかみたいだ。
のんきでばかみたいだ、けど、それは希子のせいじゃない。
「不自由に感じようがなくない? なんにも教えてもらってないのに」
全部、お母さんたちが勝手に決めて、勝手に進めたことだ。お母さんの言っていたとおり、希子のためを思ってやってくれたというのも、他に方法がなかったというのも、わかる。お母さんと華ちゃんが、生まれてくる子を守るために全力を尽くそうとしたのは事実だろう。
でも、別に希子がそうしてほしいと頼んだんじゃない。自分自身のことなのに置いてけぼりにされたようで、され続けていたようで、納得いかない。
「そのとおりだと思う。希子には悪いことしたって、反省してる」
お母さんは反論も言い訳もしない。ちょっとずるい。そんなふうに謝られたら、こっちばっかり責めたてるのはそれこそ悪いような気がしてしまう。
「希子が、特に最近は、いろいろ考えてるのはわかってた。ちょうど今月華ちゃんと会うから、そのへんも報告して、今後のことを相談するつもりだった。伝えかたとかも含めてね。ひとりで決められることじゃないし」
毎年八月、希子の誕生日を節目として、報告がてら対面で話すのが十年来の習慣になっているそうだ。
「けど、それじゃ遅すぎたね」
お母さんが背筋を伸ばした。
「昨日話して、よくわかった。希子の気持ち」
あの後、お母さんは急遽華ちゃんと会ったという。希子とのやりとりを伝え、これからどうするかを話しあった。
「希子のために黙ってたつもりだった。だけど、それはあくまでわたしたちの判断で、結果的には希子を混乱させた。不安にもさせた」
ごめんなさい、とお母さんがまた謝った。ひょっとして華ちゃんの分だろうか。
なにか言おうと思うのに、言葉が出てこない。怒濤の勢いで、しかも複雑な裏事情もひっくるめて話を聞かされて、そんなにすぐには消化しきれない。完結した長編漫画を一気に読み通すような、一クール分のドラマを一話から最終話までまとめて観るような、いや違う、希子の物語はまだ結末を迎えていない。これからシーズン2がはじまろうとしているところだ。
「華ちゃんがね」
お母さんが遠慮がちに言い添えた。
「できたら、希子に会いたいって。もし希子がいやじゃなければ」
そこまで言って不意に口をつぐむので、希子はちょっと戸惑った。「会ってあげて」とか「会ってみない?」とか、続きがあるのかと思ったのだ。
続きは、一応あった。ただし希子の予想とは違っていた。
「もちろん、今すぐ決めなくてもいい。ゆっくり考えて」
そう言われて、気づく。
これからは、わたしが決めるんだ。
希子が顔を上げたとき、ぱっと視界が明るくなった。何事かと一瞬面食らったけれど、中庭の照明がいっせいに点灯したのだった。
「すっかり長居しちゃったね。そろそろ行こうか」
お母さんが腰を上げ、周囲を見やった。
「十四年前、ここで華ちゃんともよく話したよ。そういえば、希子の名前を決めたのもここだったな」
希子に向き直って、目を合わせる。
「希望の子」
華ちゃんははじめ、ノゾミがいいんじゃないかと言ったらしい。望むに、美佐の美で、望美はどう?
「だけどわたしが、もっといいのを考えついちゃったからね」
希望の希に、華子の子で、希子。
「前もって決めてたんだけど、生まれてきた希子の顔を実際に見て、ほんとにぴったりだなってうれしくて。おおげさじゃなくて、おなかの底から力がわいてきた。まさに、希望そのもの」
病室で母子と対面したお母さんがそう言うと、華ちゃんは笑い出したという。
「わたしもまったく同じこと考えてたよ、って言って」
美佐ちゃんになりきろうとしすぎて、思考回路まで似てきたってこと? ううん違うな、 美佐ちゃんになりきる前から、この子はわたしの希望だったもんね。唯一の。
これ以上生きてる意味なんかあるのかな、ってあの頃のわたしは思ってた。もしもこの子がいなかったら、たぶんあのまま立ち直れなかった。この子の、希子のおかげで、生きる力をもらった。
「希子と一緒にここに来られて、よかった」
お母さんがもう一度、中庭を見回した。
希子もつられて首をめぐらせた。ベンチに並んで座る、女性たちの姿を想像する。ひとりは、まるくふくらんだおなかに両手をあてがっている。その隣に、もうひとりがぴったりと寄り添っている。
ふたりにとって──希子の母たちにとって──、生まれてくる赤ん坊は、厄介な重荷でも隠すべき汚点でもなかった。なんとしてでも守りたい、いとしい宝物だった。
八月八日は、今年も快晴だった。
日曜日で、お父さんもお母さんも仕事は休みだ。お父さんは朝からはりきって料理を作り、お母さんは家じゅうに掃除機をかけた。夕方から、希子の誕生日祝いをしてもらうことになっている。
家族六人に加えて、もうひとり、お客さんがわが家にやってくる。招待すると希子が決めた。
決めたことは、他にもある。
華ちゃんを招くにあたって、希子との関係をみんなにも話したいと希子が言うと、お母さんも賛成してくれた。四人ともびっくりしてはいたものの、当初の驚きがおさまってからは、希子への態度は以前と変わらない。打ち明けたらどうなるのか、不安でどきどきしていたのに、ちょっと拍子抜けしたほどだ。なんかみんな普通だよね、とつい翔ちゃんに言ったら、
「結局、希子は希子だしな」
と翔ちゃんは応えた。綾乃ちゃんも、まったく同じことを言っていた。希子ちゃんは希子ちゃんだもんね。たまに息が合わないこともあるふたりだけれど、今回は珍しく意見が一致したようだ。
「希子ちゃんには、お母さんもお父さんもふたりずついるんだね」
泉水は感慨深げに言っていた。
「生きてるお母さんがふたりと、生きてるお父さんがひとりと、死んじゃったお父さんもひとり」
なんだか感心したような口ぶりで、指を折る。
「僕は、生きてるお母さんがひとり、死んじゃったお母さんがひとり、生きてるお父さんがひとり」
翔ちゃんにはお母さんがひとりとお父さんがふたり、綾乃ちゃんにはお母さんとお父さんがふたりずついるということになる。綾乃ちゃんのことだから、あのひとたちは数に入れなくていいと憎まれ口をたたくかもしれないけれど。
お父さん──きょうだい四人にとって唯一共通の、「生きてるお父さん」──はといえば、希子の話に最も動揺していた。聞きながら、ちょっと涙目になっていた。同じ親として、なんとしてでも子どもを守ろうというお母さんたちの覚悟に深く共感したらしい。親友ふたりの強いきずなにも、心打たれたようだった。もともと友情とか約束とかに弱いタイプなのだ。
それから、今晩のごはんの献立も、希子が決めた。
リビングのテーブルには、大きな寿司桶が置いてある。中には、具材のまぜこまれた酢飯がたっぷり入っている。
「希子ちゃん、手が空いてるなら、これをトッピングしてもらっていい?」
リビングに入ってきたお父さんが手に持っていたボウルを希子に渡した。中身は錦糸卵だ。
「上にまんべんなくのせていって。敷き詰めるみたいに」
長野から帰ってきた日の夜、お母さんに昔の写真を見せてもらった。薄いアルバムに挟まれた十枚あまりには、どれも華ちゃんが希子とともに写っていた。希子を抱っこしてほおずりしているところ、顔を真っ赤にして泣く希子を途方に暮れた表情であやしているところ、腕まくりして希子を沐浴させているところを撮った一枚もあった。こんな顔なんだ、と希子はあらためて見入った。ネットで画像は見たけれど、表情が全然違う。希子と少しは似ているような、そうでもないような、実際に会ったらもっとよくわかるだろうか。
古い順から並べてあるので、ページをめくるごとに希子はどんどん大きくなっていく。
「これは?」
最後のページを開いて、希子はたずねた。食事の並んだテーブルの前に、希子を抱いた華ちゃんが座っている。
「初節句だね。ひなまつり」
写真の隅にも、三月の日付が入っている。希子は生後半年ちょっとだ。
「四月までには東京に戻るって決めてたし、最後に気合い入れてお祝いしたくてね。ちらしずしを作ろうってはりきったのはいいけど、ふたりとも料理は苦手だから、ものすごく時間がかかっちゃって」
「でも、おいしそうだよ」
「写真だと、見た目はまあまあなんだけど」
お母さんは苦笑していた。お父さんにちらしずしをリクエストするついでに、その話もしてみたら、いい話だなあ、とまたもや感じ入っていた。
いろいろ決めた一方で、まだ決められていないこともある。
「わたしが選ぶ、って言ってたよね。どっちの子になるか」
今朝、希子はお母さんにこわごわたずねた。華ちゃんに会うなら、それをはっきりさせなければいけないのだろうかと思ったのだ。
「それって、いつ決めなきゃだめ?」
少なくとも、今の希子には、家族のみんなと離れることは考えられない。耐えられそうにもない。翔ちゃんとも泉水とも綾乃ちゃんとも、お父さんとも。
そして、お母さんとも。
「急がなくていい。大事なことだし、ゆっくり考えて」
お母さんが即答してくれて、ほっとした。
七人分のお箸をテーブルに並べていたら、インターホンが鳴った。ちょうどお皿を持ってリビングに入ってきたお母さんと、目が合った。
「希子、出てくれる?」
希子はうなずき、玄関に向かった。
ドアを開けたら、まずなんて言おう。そういえば、それもまだ決めていなかった。
こんにちは? はじめまして? ありがとう?
深呼吸して、希子はドアノブに手をかける。