13 希望の子
絶句している希子に、お母さんはまず謝った。
「今まで黙ってて、ごめんなさい」
希子は返事もできなかった。
ここしばらくの間、実のお父さんの影を追いかけてきた。疑ったり、勘違いしたり、打ちのめされたり、そのたびにあたふたさせられた。動揺のあまり、取り乱してしまったこともあった。
だけど、この衝撃はその比じゃない。これまでけっこうじたばたしてきたけれど、今や身動きもできない。
「え、ちょ、ちょっと待って」
やっとのことでしぼり出した声も、変に裏返った。
「お母さんは、わたしの本当のお母さんじゃないの?」
口にしたそばから、その内容に自分でぎょっとする。
「血のつながりってことなら、そうだね、わたしと希子は血がつながってない」
お母さんのほうは、しごく落ち着きはらった口ぶりで答える。
「びっくりしたよね。ごめんね」
びっくりしないはずがない。車酔いしたときみたいに、頭の中がぐるぐる回っている。軽く吐き気さえする。
「大丈夫?」
お母さんがいたわるように言う。希子は力いっぱい首を横に振った。
大丈夫なわけない。ありえない。信じられない。
実のお父さんの謎をめぐって右往左往していたのは、たかだか半年ほどにすぎない。片やお母さんとは、十四年間ずっと一緒に暮らしてきた。
その長い年月が、たった今、一瞬でひっくり返った。
「お水飲む?」
お母さんがかばんを探り、ペットボトルを取り出した。
とっさに受けとったけれど、なかなかふたが開けられない。手が震えて力が入らない。お母さんもそれに気づいたようで、かわりに開けてくれた。
ひとくち飲んで、息をつく。ありがとうと言うかわりに、お母さんはなんでそんなに冷静なのと食ってかかりそうになって、のみこんだ。そんなの、聞くまでもない。お母さんにしてみれば、別に驚きの新事実でもなんでもないのだ。
残りを一気飲みしてから、口を開いた。
「なんで?」
声がかすれた。問いかけたはいいけれど、具体的になにを聞きたいのかは自分でもよくわからなかった。
なんで、お母さんとわたしは血がつながってないの?
なんで、血のつながっていないわたしを育ててきたの?
なんで、今までそれを黙ってたの?
「ちょっと長くなっちゃうけど、最初から話していいかな」
茫然としている希子に前置きして、お母さんは語り出す。
「さっき言ったとおり、希子の実のお母さんは、華ちゃん。あなたの実のお父さんと出会って、恋をして、希子を産んだ」
お母さんは一拍おいて、続けた。
「彼の名前は、長沢典之さん」
希子は機械的にうなずいた。ずっと気になっていた実父の、本名がとうとう明かされたというのに、特別な感慨はわいてこない。というか、はっきり言って、それどころじゃない。
「最初にふたりが出会ったとき、華ちゃんはまだ高校生だった。長沢さんは、華ちゃんのお父さんの秘書だった」
当初から、お母さんは華ちゃんに話を聞かされていた。
「新しく入ってきた秘書さんがかっこいい、ってね」
華ちゃんの父親である小笠原総一郎のもとでは、何人もの秘書が働いていた。新たに公設秘書として加わった長沢さんは、そのうち最も若手だった。といっても、華ちゃんよりはひと回り近くも年上だ。
華ちゃんが「かっこいい」異性を見つけて盛りあがるのはそんなに珍しいことでもなかった。その前はイギリス人の英語教師、さらに前は通学電車でたまに見かける他校の生徒に注目していた。いずれも、数カ月で流行は去った。今回もまた似たようなかたちで収束するはずだと思われた。
「でも、違った」
お母さんの予想を裏切って、華ちゃんの熱は一向に冷めなかった。
娘だけでなく父親にも、長沢さんは気に入られた。自宅に招いたり、食事をともにしたり、プライベートでも交流が深まった。親しくなればなるほどに、華ちゃんの想いは募った。長沢さんは優しく、それでいて芯が強く、聡明ながら謙虚で、かつユーモアもあり、つまり実に魅力的な男性なのだと華ちゃんはお母さんに熱弁をふるった。母や兄も、長沢さんの人柄と能力を買っていた。
何事においても積極的な華ちゃんのことだから、長沢さんに気持ちをぶつけるのかとお母さんははらはらしながら話を聞いていたが、またしても予想ははずれた。この件に限っては、華ちゃんは持ち前の行動力を発揮しなかった。
「長沢さんを困らせたくない」
というのが、その理由だった。
「わたしはまだ子どもだし、しかも小笠原総一郎の娘だもの。対等に恋愛できるようになるまで、がまんする」
華ちゃんの父親が娘の恋心を知ってしまったとしたら、長沢さんは難しい立場に追いこまれかねないというのだった。
「下手なことして、今の関係がこわれちゃうのもこわいしね」
華ちゃんはついでのように言い添えた。軽い口ぶりだったものの、お母さんには印象に残った。華ちゃんがなにかをこわがるところを、はじめて見た。
それから数年後、一途な片想いはいったん終わりを迎えた。長沢さんの結婚が決まったのである。
泣きながら電話をかけてきた華ちゃんのもとへ、お母さんは駆けつけた。華ちゃんは大学入学を機に、ひとり暮らしをはじめていた。お母さんも第一志望の医学部に合格し、別の大学に通いつつ、月に何度かは誘いあわせて会っていた。
ほぼ一晩中、華ちゃんは泣きやまなかった。お母さんはひたすら親友の背中をさすり続けた。
「潔くあきらめる」
翌朝、涙と徹夜で目を腫らした華ちゃんはしおらしく宣言した。
「長沢さんの幸せを願うことにする」
目は真っ赤に充血し、声にも力はなかったが、本気で言っていることはお母さんにも伝わってきた。
ところが、華ちゃんの願いはかなわなかった。
長沢さんの結婚生活が幸せとは程遠いものとなっているのを華ちゃんが知ったのは、その二、三年後だった。
華ちゃんは大学を卒業し、議員秘書として日々忙しく働いていた。ひさしぶりに実家に帰ったときに、両親がひそひそと話しているのを耳にした。
「いい男なのに、もったいないな」
「お気の毒にねえ」
顔の広い祖父や父のもとには、ありとあらゆる噂話が絶えず集まってくる。この家で生まれ育った華ちゃんにとっては、おとなたちのささやきかわす下世話な会話をそしらぬ顔で聞き流すことなどお手のものだったが、このときばかりは話に割りこまずにはいられなかった。
よく知っている名前が、耳に飛びこんできたからだ。
「長沢さんが、どうかしたの?」
両親が顔を見あわせた。
長沢さんの妻が、昔から恩人と呼んで慕う男性のひとり娘だという話は、結婚当初から聞いていた。その恩人とは亡父の旧友で、十代にして両親を亡くして途方に暮れていた長沢さんに、親身に手をさしのべてくれたという。精神面で支えられたばかりでなく、進学にあたって金銭的な援助も受けた。
そんな相手から、娘を嫁にもらってくれないかと持ちかけられたら、断りにくかったに違いない。
もらってくれないか、と下手に出て頼まれたのには理由があった。恩人の娘は、とある新興宗教の熱心な信者だった。
その教団の名前は長沢さんも知っていた。時折、新聞やテレビの報道で見かけていたからだ。強引な勧誘や高額な献金を問題視する声が上がったり、全財産を寄付させられたという信者の家族が教団を相手取って訴訟を起こしたり、世間での評判は惨憺たるものだが、一部の人々からは熱狂的に支持されている。長沢さんの妻もそのひとりで、一時は教団の道場で共同生活を送るほどに傾倒していたそうだ。心を痛めた父親が、ねばり強く説得を続け、ついに家へ連れ戻すことに成功するまでは。
今後は娘にまっとうな人生を送ってほしいと父親は願った。そのためには、そばで支えてくれるよい伴侶が必要だ。
そうして、長沢さんに白羽の矢が立ったのだった。
結婚してしばらくは、まずまず平穏に暮らしていたらしい。だが、教団の仲間が放っておいてくれなかった。再び道場に通うようになった妻を、長沢さんはなんとかしてとめようとしたけれど、翻意させることはできなかった。
義父に相談しようかとも考えたものの、父親には黙っていてほしいと妻に懇願された。父をまたしても失望させたくない、悲しませたくない、と泣いて訴える。身勝手というほかない言い分だが、実のところ、長沢さんにもその気持ちは理解できた。恩人を失望させ悲しませたくない。愛娘を託されたにもかかわらず、期待に応えられなかったことが申し訳なく、やるせなかった。
それまで心を通いあわせることのなかった夫婦は、皮肉にも、ここではじめて意見の一致を見た。親族や知人の前では、とどこおりなく結婚生活を送っていることにしよう。父親──妻にとっては実の、夫にとっては義理の──が健在のうちは、無用の心労をかけないように。
やがて妻は家を出て、道場に舞い戻った。長沢さんのほうは、引き続き同じ家にとどまった。盆と正月には、夫婦そろって妻の実家に顔を出した。他の誰にも、別居していることは黙っていた。
ただひとりの例外が、小笠原総一郎氏だった。
有能な政治家は、たいがい勘が鋭いものだ。小笠原氏も部下の不調を見逃さず、事情を問いただした。長沢さんはごまかそうとしたが、国会答弁じこみの執拗な追及には降参せざるをえなかった。他言しないでほしいと念を押した上で、結婚生活が破綻した経緯を白状した。
約束どおり、小笠原氏はこの話を口外しなかった。家の外では。
「華ちゃんたち家族にも、黙っておくように口どめしたんだって」
お母さんは言う。
「だから華ちゃんも、わたしにこの話をしなかった。長い間」
長年親しくつきあってきた長沢さんの苦境を知った小笠原家の人々は、口に出さずとも深く同情した。ことに母親は、どんどん痩せていく長沢さんの体調を心配し、たびたび自宅に招いては食事をふるまった。時間が許す限り、華ちゃんも参加した。はじめは恐縮していた長沢さんも、しだいに顔つきがほぐれてきた。ともに食卓を囲んでいると、まるで長沢さんが独身だった頃に戻ったかのようだった。長沢さんの妻については決して話題に上らないので、なおさらそう感じられたのだろうか。
以前と変わったのは、長沢さんというより、華ちゃんのほうかもしれなかった。議員秘書として一人前に働き、政治について、この国について、おとなたちと対等に語りあえるようになっていた。
少しずつ、華ちゃんと長沢さんの距離は縮まっていった。長い時間をかけて、本当に少しずつ。
十年以上もの歳月が流れた。長沢さんの義父が亡くなったとき、華ちゃんは三十代の半ばになっていた。
長沢さんは妻に離婚を持ちかけて、合意を得た。ただ、すぐさま籍を抜くのはまるで父の死を待っていたかのようで後味が悪い、とも妻は言った。それはそれで一理あるし、もともと精神的に不安定なところがある上、実父を亡くしたばかりで動揺もしている妻を、無理に急かさないほうがよさそうだった。財産分与など、協議しなければならないこともある。
そうはいっても、夫婦ともに離婚の意思は固まっている。後は、法的な手続きを粛々と進めていけばいい。すべて片がついたら結婚してほしいと長沢さんは華ちゃんに言った。待たせてしまって申し訳ない、とも。
かまわないと華ちゃんは答えたそうだ。今さらあせることはない。籍にこだわるつもりもない。
「それでもやっぱり、うれしかったんだろうね」
華ちゃんが沈黙を破り、長沢さんからプロポーズされたと親友に打ち明けたのは、その表れだろう。
そんなことになっているとはつゆ知らなかったお母さんは、仰天した。
詳しい経緯を聞くうちに、最初の驚愕はおさまって、かわりに喜びがこみあげてきた。感動してもいた。高校時代に華ちゃんが恋に落ちたときにも、大学時代に失恋して号泣していたときにも、お母さんはすぐそばにいた。二十年もの月日と紆余曲折を経て、親友の恋がとうとう成就したことを、心から祝福した。
「あともう少しだったのに」
お母さんがつぶやいた。拳を握りしめているのは、たぶん無意識だろう。相槌も忘れて昔話に聞き入っていた希子も、現実に引き戻された。
あともう少しで幸せになれるはずだった華ちゃんと長沢さん──わたしの両親、と呼ぶ実感はまだわかない──がハッピーエンドにたどり着けなかったことは、希子も知っているのだった。
事故の第一報は、当事者である華ちゃんの口からではなく、テレビのニュース番組を通してお母さんのもとに届いた。
「事故って、前にも話してた、交通事故のこと?」
希子はおそるおそる口を挟んだ。
「そう、それ」
お母さんは小さく息を吸ってから、言葉を継いだ。
「ニュースになったのは、事故っていうより事件だったから」
「事件?」
ぎょっとして聞き返す。実父は車にはねられて亡くなったはずだ。事件として取りざたされたということは、飲酒運転だったとかだろうか。
お母さんは小さく息を吸ってから、口を開いた。
「その車は、わざと突っこんできたの。華ちゃんたちに」
希子は息をのんだ。
「こないだは話さなかったけど、現場には華ちゃんもいたんだよ……いや、どっちかっていうと、長沢さんもいたって言ったほうがいいのかな」
「え?」
「犯人がねらってたのは、華ちゃんだった。長沢さんは華ちゃんをかばって犠牲になったんだよ」
小笠原総一郎を逆恨みした男による凶行だった。
何年も前に、本人を襲おうとして未遂に終わった前科もあったらしい。街頭演説の会場で聴衆にまぎれて近づき、刃物で切りつけたという。ただちに取り押さえられて、警察に引き渡されたが、警備員にかすり傷を負わせた程度ですんだこともあり、さほど重い罪には問われなかった。
が、この失敗によって、犯人はいっそう恨みを募らせたのかもしれない。長年にわたって次なる機会をねらっていたようだが、詳細はわからずじまいとなっている。先日お母さんから聞かされたとおり、当人も犯行の直後に死亡しているからだ。逃げようとしてハンドルを切りそこね、道沿いの建物に激突したという。
後日、警察の捜査によって、犯人がSNS上に犯行をほのめかすような文章を書き残していることが明らかになった。鍵のかかったアカウントに、小笠原総一郎をこきおろす罵詈雑言とともに、社会や政治全般に向けた呪詛の言葉が延々と書き連ねられていた。小笠原の娘をターゲットにすればうまくいくかもしれない、という一文は、事件のおよそ半年前に投稿されていた。女なら小さくて弱い、今度こそ確実にしとめてみせる、と書いてあったという。
「小さくて、弱い」
希子は思わず身震いした。この気温なのに、寒気がした。
「ひどい」
「ひどすぎるよね。許せない」
お母さんらしくもない、嫌悪感の露骨ににじんだ声だった。希子に体を寄せ、膝に手を置いてゆっくりとさする。
「華ちゃんにとっては、二重にショックだったと思う。長沢さんが亡くなったのはわたしのせいだって、自分を責めてた。華ちゃんだって被害者なのに」
外傷こそなかったものの、精神的にすっかりまいってしまった。夜は眠れず、食事ものどを通らず、仕事はおろか日常生活もおぼつかない。実家に戻ってしばらく静養することになったが、立ち直るまでには時間がかかりそうだった。
そうでなくても、人前に出るのは避けたほうがよかっただろう。政治家の娘をねらった襲撃事件がニュース番組で報じられたのはせいぜい二、三日だったが、その後もしばらくワイドショーや週刊誌ではさかんに取りあげられていた。長沢さんは「正義のヒーロー」として一躍脚光を浴びた。長年仕えてきた上司の大事な娘を、文字どおり命がけで守ったのだ。天涯孤独の身の上で、苦学の末に政治家の秘書として重用されるようになったという経歴も、その実直な人柄とあわせて紹介されていた。
「事件からふた月くらい経った頃だったかな、華ちゃんから連絡をもらったの。相談したいことがある、って」
できれば電話やメールではなく、会って話せないかと持ちかけられた。事件の後、何度かメッセージのやりとりはしていたものの、じかに顔を合わせるのはこのときがはじめてだった。
「体調をくずしてるっていうのは聞いてた。無理もないよね。だから、医者としてのアドバイスがほしいって言われるんだろうなと思った」
お母さんが華ちゃんの実家を訪ねるつもりでいたら、自分がそちらまで出向くと華ちゃんのほうから申し出てくれた。お母さんにとっても、そうしてもらえるならありがたかった。もうじき二歳になる翔ちゃんはやんちゃざかりでもあり、子連れで遠出するのは一仕事なのだ。
「その前に電話したときには、なにをする気にもなれなくて、家にひきこもってるって言ってた。ひとりで外出できるくらいまで回復してきたんだったら、いい兆候だと思ったんだけど」
実際に華ちゃんと対面してみて、その予測が楽天的すぎたとお母さんは思い知らされるはめになった。
約束の日、アパートを訪ねてきた華ちゃんは、げっそりと痩せこけていた。顔色がおそろしく悪く、まなざしにも力がない。十代の頃からずっと、いつだって生気に満ちあふれていた親友とは、別人のようだった。変わり果てた姿を目のあたりにして、お母さんは胸をつかれたけれど、表情には出すまいとつとめた。弱っている人々と向きあうときにどんな態度が望ましいのかは、仕事柄よく知っている。
「いらっしゃい」
明るく出迎え、玄関に招き入れた。靴を脱ごうとかがんだ華ちゃんは、視線をお母さんの背後へとすべらせた。
「こんにちは」
小さく微笑んで、声をかける。お母さんの陰に隠れていた翔ちゃんが、かぼそい声を上げた。
「だれ?」
「華ちゃんだよ」
お母さんは答えた。ふたりは何度か会ったことがある。
今日は華ちゃんがうちに遊びに来てくれるよ、とお母さんが告げると、はなちゃん、はなちゃん、と翔ちゃんはぴょんぴょん跳ね回って全身で喜びを表現していた。前に遊んでもらったのを覚えていたらしい。華ちゃんが来るまでの間、「はなちゃん、いつ?」「はなちゃん、まだ?」と何度も待ち遠しげにたずねてもいた。この調子では、翔ちゃんがかまってほしがって、おとなどうしでゆっくり話しにくいのではないかとお母さんは不安になっていたほどだった。
母親の足にしがみついてもじもじしている翔ちゃんを見下ろして、華ちゃんは首をかしげた。
「ひさしぶりだから、忘れちゃったかな?」
そうではなくて、以前会ったときの明るく溌剌とした「はなちゃん」と、目の前にいる痛々しくやつれきった女性が、一歳児の脳内ではうまく結びつかないだけなのだろう。またも胸が痛んだが、お母さんは気を取り直して息子をうながした。
「こんにちは、は?」
翔ちゃんは答えずに、華ちゃんを凝視していた。靴を脱ぎ、きちんと左右をそろえて置き直したところまで見届けて、だしぬけに目を見開いた。
「はなちゃん?」
「よかった、思い出してくれた?」
華ちゃんが目もとをほころばせ、お母さんも内心ほっとした。
リビングに通し、ソファをすすめた。キッチンでお母さんがお茶を淹れている間、華ちゃんが翔ちゃんの相手をしてくれた。上機嫌ではしゃぐ翔ちゃんの甲高い声が、キッチンにまで響いてきた。
お母さんがリビングに戻ると、翔ちゃんはソファによじ上り、華ちゃんに体ごともたれかかって甘えていた。お母さんはローテーブルにお茶の一式を置いてから、ソファの傍らの床に座った。
「翔、こっちにおいで」
母親に呼ばれても、息子はにやにやして体をくねらせるばかりで聞こうとしない。幼児にまとわりつかれ、華ちゃんがくたびれてしまうのではないかとお母さんは気をもんだ。かといって、ことさらに病人扱いするのもはばかられる。
「ごめんね、疲れちゃわない?」
「大丈夫だよ」
翔ちゃんの頭をなでながら、華ちゃんは答えた。
「子どもって、あったかいね」
訪ねてきたときよりも、顔つきが幾分やわらかくなっている。
「無理しないでね」
気分転換になっているのかもしれない、とお母さんは前向きに考えることにした。翔ちゃんを強引にひきはがそうとして、へそを曲げて泣きわめかれでもしたら、かえって負担になりかねない。
華ちゃんが翔ちゃんをしげしげと見つめ、話しかけた。
「翔くん、しばらく見ないうちに、こんなに大きくなっちゃって」
「ごはん、たべた」
翔ちゃんは誇らしげに言った。
「おにく、さかな、やさい」
ひとことずつ、足をばたつかせて拍子をとりながら続け、後の説明は任せるとばかりにお母さんを見やった。
「しっかり食べなきゃ大きくなれないよ、ってわたしがよく言ってるから」
お母さんは解説した。
「ああ、そういうこと。えらいね、お母さんの教えを守ってるんだね」
「えらい」
褒められた翔ちゃんが胸を張る。話の流れで、お母さんはさりげなく聞いてみた。
「華ちゃんは、食べてる?」
「うん、まあ」
華ちゃんが目をふせた。
「食欲がないのはしかたないけど、栄養はとったほうがいいよ。あと水分も」
「うん、水は飲むようにしてる」
少し口ごもってから、「匂いがね」と言い足した。
「匂い?」
「食べものの匂いが、どうもだめで。その日の体調にもよるんだけど」
ゆっくりと顔を上げて、お母さんと視線を合わせた。もの言いたげなまなざしを向けられ、お母さんにもぴんときた。
「それ、もしかして……」
「そうなの」
華ちゃんが小さな声で言った。
「わたし、妊娠してる」
話の続きは、翔ちゃんを昼寝させてから聞いた。
さほど待つ必要はなかった。午前中にめいっぱい体を動かした翔ちゃんは、お母さんのねらいどおり、お茶を飲み終える前にうとうとしかけていた。まぶたが完全に閉じるのをみはからって抱きあげても、むにゃむにゃと気の抜けた声をもらしただけで目は開けなかった。
リビングとひと続きになった隣の和室に翔ちゃんを寝かせると、お母さんは華ちゃんの隣に腰を下ろした。
「まだ誰にも話してないの」
華ちゃんが口火を切った。
「話せない」
お母さんも同じ意見だった。言えっこないだろう。
マスコミがこぞって褒めそやしていた美談の主人公と、彼が命とひきかえに救った上司の娘が、実は不倫関係にあった。そんなことが露見しようものなら、大騒ぎになるに違いない。離婚に向けて話が進んでいたとはいっても、長沢さんはまだ法的には妻のいる身だった。おまけにその妻は、ワイドショーや週刊誌の突撃取材を厭うそぶりもなく、どちらかといえば積極的に応えていた。夫婦仲が冷えきっていたことはおくびにも出さずに、悲劇の未亡人然として、カメラの前でしおらしく涙ぐんでいた。
「病院には」
お母さんの問いかけを最後まで聞かずに、華ちゃんは首を振った。
「行ってない。でも間違いないと思う。検査薬、何回やっても陽性だし」
ソファにもたれかかる。
「どうしよう」
うつむいた華ちゃんの顔は髪の毛で隠れてしまい、表情は見えなかった。おへそのあたりにあてがわれた両手に目をやって、お母さんはたずねた。
「華ちゃんは、どうしたいの?」
聞く前から、返事は予想がついていた。だてに二十年以上も友達づきあいを続けてきたわけではない。
「産みたい」
案の定、華ちゃんは答えた。おなかを守るようにおさえたまま、
「でも、不安で」
と、吐き出すように言い添えた。
「こんなに不安だって、知らなかった。ごめんね美佐ちゃん」
申し訳なさそうに言われて、お母さんは面食らった。なにを謝られているのかがわからなかった。
「もちろん自分なりに想像したつもりだったけど、全然わかってなかったと思う」
続きを聞いてようやく、華ちゃんの言わんとしていることがのみこめた。隣の和室に目が向いた。健やかな寝息がかすかに聞こえてくる。
二年前は立場が逆だった。妊娠していたのはお母さんで、華ちゃんに話を聞いてもらった。
お母さんもまた、不安だった。春くんと別れると決めたはいいが、今後の心配は尽きなかった。
ひとりで子どもを育てていけるのか。もしも自分になにかあったら、この子はどうなってしまうのか。ひとりめの子を自分の手で育てきれなかったという苦い過去も、お母さんの気を重くさせた。親友が弱っているのは、華ちゃんにも伝わったのだろう。電話で、時には家を訪ねてきて、よく話を聞いてくれたものだ。
そのときのことを、当人は反省しているらしかった。
「なんにもわかってないくせに、軽々しく励ましたりしてごめん」
軽々しくなんかなかった。けれど、軽やかではあった。華ちゃんはいつもそうだ。どんなときでも、常に下ではなく前を向く。
父親がいなくてもわたしがいるよ、と華ちゃんはきっぱりと言ってのけた。この子が生まれてくるのを、わたしはすごく楽しみに待ってる。もちろん父親のかわりにはなれないけど、でも、わたしにできることはなんでもやるよ。
「でもわたしは、華ちゃんに励ましてもらって助かったよ」
お母さんは言った。おなかの中にいる赤ん坊の存在を祝福し、慈しもうとしてくれる、信頼できる人間が自分以外にもちゃんといる。そう考えたら、安堵とともに勇気もわいてきた。だから今度はわたしが華ちゃんを励ます番だよ、と心の中でつけ足した。父親がいなくてもわたしがいる、あの言葉は沁みた。
「最初は、信じられなかった。頭が真っ白になるって、ああいうのを言うんだね。それから、猛烈にうれしくなった。あんなことになって、なにもかもおしまいだと思ってた。でも、おおげさだけど、生きる希望がわいてきたっていうか」
華ちゃんは訥々と言う。
「今は正直、混乱してる。うれしくてたまらないのに、それと同じくらい、こわくてたまらない」
ぶるりと体を震わせる。お母さんは思わず腕を伸ばし、華ちゃんのやせた肩を抱いた。骨ばった感触が手のひらに伝わってきた。
「わたしは、産みたい。この子に会いたい」
華ちゃんの声が耳もとで聞こえる。
「でも、この子はどうだろう? こんなところに、生まれてきたいかな?」
「わからない」
お母さんは正直に答えた。華ちゃんが身じろぎした。
「だけどそれは、わたしたちが判断できることじゃないと思う」
華ちゃんがお母さんのほうに顔を向けた。鼻先がくっつきそうになるほど間近で、ふたりは見つめあった。
「わたしたちは、ただベストを尽くすしかないんじゃないかな。生まれてきてよかったってその子が思ってくれるように」
華ちゃんの瞳をのぞきこんで、考えよう、とお母さんは言った。ふたりで一緒に、考えよう。
「で、考えたの。どうしたらいいのか」
お母さんはおもむろに言葉を切って、希子に向き直った。
生まれてきてよかったと思っているか、確かめるかのようなまなざしに、希子はたじろいで目をふせる。そんな重すぎる問いかけを、急にぶつけられたって困る。
お母さんと華ちゃんは、ふたりで考えた。何時間もかけて、時には言いあいにもなった。こんなに熱くなるのは、中学生のとき以来だった。
まず大きな難題は、どうすれば世間の目をかわせるかということだった。
「わたしはなにを言われてもかまわない。でも、子どもは巻きこみたくない」
大物政治家である小笠原総一郎の娘が、事件で注目されている中で父親のいない子を産んだとなれば、マスコミがおもしろおかしく騒ぎたてるかもしれない。今のところ、華ちゃんと長沢さんの関係は誰にも知られていないはずだけれど、万が一ということもある。長沢さんの子だということまではかぎつけられなくても、生まれてくる子が下世話な注目を浴びせられるのは避けたい。やがて成長したときに、悩ませたり傷つけたりもしたくない。
さらに、華ちゃんの懸念は、いわれのない誹謗中傷だけにとどまらなかった。
「小笠原の家に生まれたせいで、この子を危険にさらしたくない」
今回の犯人はもう亡くなっている。でも、また同じようなことを企てる輩が現れないとも限らない。
しかも華ちゃんは、小さくて弱いという理由でねらわれたのだった。より小さく、より弱い子どもは、格好の標的になってしまいかねない。
「実際、わたしも恨んだもの。小笠原総一郎の娘に生まれたせいでこんな目に遭ってる、ってね」
思い詰めた顔つきで、華ちゃんは訴えた。
「子どもに親は選べない。この子も、小笠原華子の子に生まれたくなんかなかった、っていつかわたしを責めるかも」
それに、と続けた声は震えていた。
「わたしはもう二度と、大事なひとを失いたくない」
哀しげながら決然とした口ぶりで、宣言した。
「それも、わたしのせいで」
「華ちゃんのせいじゃない」
お母さんはさすがに割って入った。華ちゃんはなにも悪くないのに、自分を責めるべきではない。華ちゃんはなんとも答えなかったけれど、
「そういう考えかたは、子どものためにもよくないんじゃない?」
とお母さんが言い足すと、弱々しくうなずいた。
華ちゃんはそれきり、途方に暮れたように押し黙ってしまった。静かになった部屋に、翔ちゃんの健やかな寝息だけが響いている。お母さんからも、かけるべき言葉が見つからなかった。
正直なところ、そこまで気に病まなくてもいいのではないかと思わなくもなかった。かといって、華ちゃんの考えすぎだと軽くいなすこともできない。目の前で長沢さんの命を奪われてしまった華ちゃんが、生々しい危機感に苛まれるのは無理もないだろう。小笠原華子の子として、小笠原総一郎の孫として生まれ育つとしたら、子どもが危険にさらされるかもしれないと華ちゃんは心底おそれているのだ。
華ちゃんが帰る時間になっても、翔ちゃんは目を覚まさなかった。
お母さんは華ちゃんを送り出して、リビングに引き返した。和室に入り、息子の寝ているふとんの傍らに座った。翔ちゃんはすやすやと安らかに眠っている。
生まれてくる子を、なんとしてでも守りたい。翔ちゃんの寝顔を見下ろしていると、あらためて、華ちゃんの想いが胸に響いた。わたしも、この子を守るためにならなんでもするだろう。なんだってできるだろう。
小笠原家の子どもという立場が、危険を呼び寄せてしまうかもしれないと華ちゃんは危惧している。だったら、小笠原家ではない、どこか安全な別の場所で育てればいいのではないか。
どこか安全な別の場所──ひとつだけ、心あたりがあった。
翌週、今度はお母さんのほうから、話があると華ちゃんを呼び出した。
「生まれてくる子を、わたしが育てるのはどう?」
単刀直入に切り出すと、華ちゃんは口をあんぐり開けた。
「美佐ちゃんが?」
「そう。植田家の子として」
はじめは、素朴な思いつきだった。しかし考えれば考えるほどに、悪くない案に思えてきた。今のところ、これ以外の代案は考えつかないから、最善の案ともいえる。
「華ちゃんがわたしを信頼して子どもを預けてくれるなら、だけど」
むろん、子どもをひとり育てるというのは、気安く引き受けられることではない。責任は重い。負担も。
けれど、だからこそ、まだ心の傷が癒えていない華ちゃんひとりに重圧を負わせるのが心配でもあった。マスコミの目や小笠原家を憎む敵におびえながら、華ちゃんがひとりで育てるよりも、落ち着くまではうちで引き取ったほうがいいのではないか。
「もちろん、わたしは美佐ちゃんを信頼してる。この世界の誰よりも。もっというと、自分自身よりも」
華ちゃんはまだ当惑顔だった。
「だけど、そこまで甘えちゃうのは、やっぱり悪いよ。翔ちゃんだっているのに、大変でしょう」
「まあ、それなりに大変かもだけど、なんとかなると思う。子どもをふたり育ててるお母さんって、別に珍しくないし」
長女の育児で喪失した自信を、長男のそれを通して着々と取り戻せていたことも、お母さんの心を強くしていた。ひとりでなにもかも抱えこみすぎて破綻してしまった、その反省を糧に、自分なりにどう生活を回していけばいいかがつかめてきていた。手をかけるところと抜くところ、自力でこなすべきところと他人の手に任せていいところ、家事も育児もバランスが大事だ。
「でも、自分の子じゃないのに……」
「華ちゃんの子なら、自分の子と変わらない。翔と同じように育てる」
お母さんは言いきった。
「覚えてる? わたし、春くんと結婚したとき、子どもはふたりほしいって言ってたでしょ? なんなら三人でもよかった。だけど春くんとは別れちゃったし、この先もう誰かと結婚するつもりもない」
その理由までは、口にしなかった。わざわざ言わなくても、華ちゃんには通じているはずだった。
「だから、もうひとり子どもを育てられるなら、わたしもうれしいよ」
子どもは親を選べない、とこの間華ちゃんは嘆いていた。そのとおりだ。子どもは親を選べない。普通なら。
ただ、この子の置かれている環境は、ちょっと普通ではない。だから例外として、母親を選ばせてあげたらいいのではないか。
いずれ当人が責任をもって判断できる年齢になった段階で、戸籍上どうするか──引き続き植田美佐の子として生きていくか、もしくは、養子縁組を解消して小笠原華子の子に戻るか──を自分で決めてもらう。一人前のおとなという意味では、十八歳が節目となるだろうか。メリットとデメリットやリスクを客観的に比較し、じっくり考えて結論を出してほしい。
もし華ちゃんが懸念しているとおり、小笠原家とはかかわりあいたくないと本人も望むなら、その意思は尊重されるべきだろう。逆に、やはり実の母親の子として人生を歩みたいというのであれば、それもいい。どちらを選んだ場合も、もう片方と縁が切れてしまうわけではない。
「もちろん、今すぐ決めなくてもいい。ゆっくり考えて」
実際には、そこまでゆっくりしている時間はなかった。おなかの中で、胎児は刻々と成長している。
でも、そんなに急かさなくても、華ちゃんはちゃんと結論を出すはずだとお母さんは知っていた。親友として、その中身もだいたい予想はついていた。