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 八月は初旬から猛暑が続いた。ぼくは大学の図書館に通い、勉強漬けの毎日を送った。二次試験が行われるのはお盆明けだ。朝から大学で勉強をして帰ってくると、アパートではお父さんが窓を全開にしてエアコンをつけて寝ていた。ぼくが窓を閉めるとガバリと起き上がり、「外気とないが混じり合ってグラデーションになるのがええんや……うちって書いてナイキ、室内の……空気……」と言って、また寝た。ぼくはお父さんを足蹴にして起こし、外に連れ出した。

「なんや永遠、パパとデートか。パパ活か。通天閣でも行くんか? 通天閣パパ活デートか?」

 連れ出したはいいものの、どこで話をしようかと頭をひねるぼくに、お父さんがいつもの調子で話しかけてくる。アパートから出て、振り向いて見上げると、通天閣はいつもと同じようにそこに立っていた。「せやな、行こうか」とぼくが返事をすると、お父さんは意外そうにぼくを見た。「通天閣なんかいつでも見れるやろ」といつもの調子で断られると思っていたのだろう。

 通天閣に上るのなんて、子どもの頃以来だった。塔の下は人が行き交い、展望台の受付は四十分待ちだった。ぼくとお父さんは通天閣のふもとで買った八個で二百円のたこ焼きを食べ、かき氷で頭をツンとさせ、瓶のミックスジュースを呷った。まるきり観光客みたいな楽しみ方だ。展望台まで上がる頃には、お父さんの鳥の巣頭も汗でぺしょ、としていた。五階の展望台から階段を登り、屋外に出る。二メートルほどの柵越しに、大阪の町が一望できた。鋭い日光が街並みを白く染めている。下から吹き上げてくる風に、髪の毛がバラバラと吹かれた。汗が引いていく。通天閣の塔を三百六十度囲むように設置された展望台には、一箇所だけ跳ね出し展望台がついていた。カップルがキャアキャアと悲鳴を上げながら先端に向かっていくのが見える。

「永遠も行くか?」

 お父さんがフェンスに背中を預けて揺れながら聞く。ぼくはすぐさま首を横に振った。高所恐怖症で、屋外展望台に出るだけで足が震えていた。お父さんが立つ外周の部分はガラス張りだ。なんでそんな場所でフェンスに背中を預けられるのか、まったくわからない。ぼくははやく用件を済ませてしまおう、と口を開いた。

「うちの学園祭に、出演してほしいらしいねん」

 単刀直入に言うと、お父さんは「へえ」と気のない相槌を打った。続く言葉が思いつかず黙るぼくを助けるみたいに、口を開く。

「なんや、学園祭に出演してほしい芸人の名前を忘れた? ほなおれがね、学園祭に出演してほしい芸人の特徴、ちょっと一緒に考えてあげるから、どんな特徴やったか教えてみてよ」

「忘れてへんよ」

「ええ? いつも乳首が星型に開いたTシャツ着てる芸人? イノモトやないか、その特徴は完全にイノモトやな。えっ、四十代のビジネスパーソンに人気? ほなイノモトちゃうかー。四十代のビジネスパーソンは裸芸人なんて視界にも入ってへんからねー」

「ええねん、ミルクボーイの漫才みたいな小芝居ええねん」

 ぼくは展望台のベンチに座り、フェンスに背を向けるお父さんと真正面から向き合った。頬に刻まれた皺と、日焼けした肌に、老けたな、と思う。小学生の頃から変わらないようでいて、お父さんも歳を取っている。

 お父さんは眉間に皺を寄せて聞いた。

「永遠はおれが出てええんか」

「え?」

「おれが親父やって、またバレるで」

 ぼくはまじまじとお父さんの顔を見つめた。

「……いまさら?」

 一瞬、視界が歪んだ。お父さんの背景には、見慣れた新世界の景色が広がっている。小学校も中学校も、探したら見つかるだろう。見慣れた串カツ屋の幟、毎日遊んだ児童公園のジャングルジム、中学校のすぐ横を走る線路。ずっと同じ町に住んでいる。生まれてからいままで。でもきっと、大学を卒業して就職したら出ていく。この町も、実家のアパートも。ビルの窓が日光を反射し、まばゆく光る。熱を孕んだ風に頬を撫でられ、頭が重く、熱くなった。

「そんなん気にしたことないやん。小学生の頃から、ずっとお父さんはぼくがどう思うかなんて気にせずどこにだって行って、どこにだって出て、どこでだって乳首出して、どこでだってSUSHIビームしてきたやん。いまさら気にすることちゃうやろ。お父さんの好きにしたらええやん。ぼくだって好きにするし。ぼくだって……」

「おう、好きにしたらええ」

 お父さんのすっぱりした言葉に、カッと頭に血が上った。喉元まで上がってきた言葉を、ぶちまけるように叫ぶ。

「ふざけんな、あんたがぼくを……っ、ぼくを、芸人の息子にしたんやろ」

 展望台からはうちのアパートが見えた。米粒ほどの小ささの、赤茶色の建物。部屋から通天閣が見えるってことは、通天閣からも部屋が見えるってことだ。いままで気づいていなかった事実だった。

 なんでもない顔をして突き放すようなことを言うお父さんに、掴みかかりたくなる。

「どうしたらええのか、もうわからん。好きにしたらええって言われたら、好きにすんなってこと? 芸人になるなって、芸人になれって言いたいん? ぼくが『教師になる』って言ったとき、どう思ったん。教師にはならへんって思ったやろ。お父さんならそう思ったやろ? もうなにが正解でなにが間違ってるか、どっちが表でどっちが裏か、ぜんぶわからんねん」

「自由にしたらええねんで」

 お父さんはさっきと同じようなことを言った。とぼけたような真顔で、それにさえ腹が立つ。

「だから、それはどっちやねん! 自由にすんなってこと?」

「頭で考えんなよ、笑いはパッションや」

「考えるよ。お父さんみたいに反射神経だけで生きてないねん」

「永遠はかしこいもんなあ」

 お父さんがようやく表情を緩めた。ぼくの目を覗き込む。お父さんが戎橋から飛び降りた日、胸の前で両手を回してみせたときの目だ。占い師みたいな、どこまでもまっすぐに見通す目。

「永遠、じゃあおれが決めたるわ。永遠はかしこいから、学校の先生になりなさい。頭でごちゃごちゃ考えるやつは根本的には芸人に向いてないねん。芸人なんてのは社会のはぐれもんや。わざわざはぐれにくる必要ない。永遠はおれと違う。いままですまんかったな。永遠はまともに生きるのがええよ。絶対、芸人にはならんほうがええ」

 背中を流れる汗が、冷たくなっていく。真面目な、これまで聞いたことないくらいに真剣な声だった。ぼくはもうお父さんの顔を見ることもできずに、俯いた。

「わかった。ぼく、先生になって、まともに生きるわ」

 街並みを染める光が、白から金色に変化していた。ビリケンさんの色みたいで少し笑えた。階段を降り、四階の展望台に移動する。少年が望遠鏡を覗いて大声で「うおー!」と叫び、父親に「静かに」とたしなめられていた。父親も望遠鏡を覗き込み、なにか見つけたのか、顔を寄せ合ってふたりで笑う。はしゃぐ少年の声に背を向けて、ぼくはエレベーターに乗り込んだ。

 

 

 教員採用試験の二次試験は、八月中旬、お盆が終わってすぐに行われた。寝坊して、朝食を食べるひまもなくバタバタと家を出た。試験会場に向かう電車の中で、お母さんが持たせてくれたおにぎりを食べる。アルミホイルに包まれた拳大のおにぎりだった。米を食べ進めると大きなカツが入っていた。カツって、前日にカツ丼とかで食べるものじゃないのかな、と思いながらも、ありがたく食べた。

 スマホが震え、ハッとして見るけれど、朝陽くんではなかった。朝陽くんからは、八月に入ってから何度も「ネタ書いたから読んで。永遠くんのツッコミは即興でもいけるようにしてあるから」とか「勉強とあたし、どっちが大事なの!」とかメッセージが届いていた。朝陽くんには、教員採用試験と新人お笑いコンクールが同日であると伝えていなかった。なんと返したらいいかわからず、既読無視を続けて、当日になってしまった。

 試験会場である大学のキャンパスは煉瓦造りの古風な建物で、敷地が広く、校門から歩いて会場に向かうだけで息が上がった。スーツで肩が凝る。会場に入ると、冷房の風が首元を冷やし、少しリラックスできた。受験票を出して受付を済ませ、廊下に進む。ずらりと並べられた椅子にぼくと同じようなスーツ姿の学生たちが背筋を伸ばして座っていた。そのひとりに目が吸い寄せられる。きっちりと前髪をピンで留めているから普段と雰囲気は違うが、真理だった。二次試験には筆答テスト、実技テスト、面接テストの三つのテストがある。隣の教室だから筆答テストだろうか、と観察していると、真理が顔を上げた。目が合う。表情だけで「よ」「偶然」と挨拶した。

 反対側に進み、案内されるままに椅子に座る。ワイシャツの襟の内側が首筋を引っ掻いて、鬱陶しい。首元を押さえていると、ふと影が差した。真理が隣に来て、

「永遠くん、いいの?」

 と囁くように聞いた。廊下の奥のトイレに向かおうとしているのか、小さなポーチを抱えている。

「……なにが」

「本当に先生になりたいの?」

 スマホがポケットの中で震えた。手に取ると、今度こそ朝陽くんの名前があった。通知だけを見て、画面をロックした。ブラックアウトした画面に自分の顔が映る。あと一時間でコンクールははじまるはずだった。面接が終わる頃には集合時間を過ぎているだろう。そうわかっていて、ぼくは電源を切り、スマホを鞄の底に沈めた。真理が続ける。

「ねえ、永遠くん。本当は違うんじゃないの。永遠くんは本当は――」

「こらそこ、私語をしない」

 鋭い声で会場のスタッフに注意され、首をすくめる。すぐにぼくのグループが面接室に呼ばれた。真理はまだなにか言いたそうだった。本当は、芸人になりたいんじゃないの。そう真理に聞かれたとしても、ぼくにだってわからなかった。お父さんみたいに生きるのは大変だって知っている。まともに生きるって宣言も、六年前に舞台で感じた高揚も本当。お父さんに植え付けられた反射神経が疼くのも、実習先の生徒が可愛いと思うのも、ぜんぶ本当で、どれも嘘じゃない。だから、答えが出せずに立ち往生していた。

 ぼくは真理の言葉に答えず、立ち上がった。真理とすれ違い、面接室に入る。

 面接室は二十人ほどが入れそうな講義室で、長机の向こうに面接官が三人座り、手前に椅子が五脚並べられていた。「失礼します!」と先頭の体格のいい男子学生が言い、それに続けてみんな「失礼します!」と大声で言って入室する。人数分の革靴が、静まり返った講義室にカツ、カツ、と響いた。

 全員が椅子に座ると、真ん中の面接官が口を開いた。

「それでは、簡単な自己紹介と、教員を志望する理由をお願いします。左の方から」

 促された女子学生が、「はい」と上擦った声で返事をして立ち上がる。パイプ椅子がギッと音を立てた。「わたしは……」と話し出した女子学生の声を、面接官が「あ、あの」と遮る。

「立ち上がらなくていいですよ」

「え、あ」

「座ったままで結構です」

 ドキッと、心臓が音を立てた。全身の筋肉が強張る。面接官はぼくたちを見回して、しっかりと念押しした。

「ほかのみなさんも、立たなくていいですからね」

 冷や汗が滲んでくる。浮かんだのは、小学校の教室だ。あの授業参観の日、道徳の時間であてられたときの記憶。教室後方に立つお父さんの圧を感じて、背中がぞわぞわしてきて。なんで、とうめくように思った。なんでこんな大事なときに――。

 女子学生が落ち着いたトーンで「わたしが教員を目指すのは」と理由を語る。子どもが好きで、教育を通して社会に貢献したいと思い、教員を志望します。そんな、まっとうな理由。まっとうに生きるひとが発しそうな理由だった。

「それでは、次の方」

 面接官の声は耳に届いているのに、返事ができない。面接官が不思議そうに、

「えー、井本さん?」

 とぼくの名前を呼んだ。脇の下を汗が伝う。

 ぼくはギュッと強く目を瞑り、「はい!」と講義室中に響く声で返事をして、立ち上がった。勢いをつけ過ぎて、椅子が激しい音を立てて倒れ、面接官が目を丸くする。「だ、大丈夫ですか?」とシンプルに心配してくれる面接官に、ぼくは元気よく頷いた。大学名と学部、学年を言って、名乗る。

「井本です。イノモトネオンです。永遠と書いて、ネオンと読みます」

 やめろ、と頭の中で冷静な自分が叫んだ。口が勝手に動く。

「エイエンでもトワでもなく、ネオンです。『永』はカタカナの『ネ』っぽいし、『遠』って『おん』とも読むじゃないですか。これが本当のキラキラネームってやつですね。大丈夫です、突然全身を発光させるみたいな超能力は使えないので、安心してください。教育実習では、ネオン先生と呼ばれていました。生徒はよく慕ってくれて、休み時間になったら『先生、バスケしよう』とか『ネオン先生、SUSHIビームして』とか、纏わりついてきて。かわいいですね。子どもってかわいいです。先生になってみたいなって、思いました。わりと本心から。でも、それは……」一度、あえぐように息をして、続ける。「あの、SUSHIビームって、知ってますか。一発ギャグなんです。いま、中学生の間で謎に流行ってるんですよ。イノモトって芸人のギャグでね、一発屋なんて呼ばれてますけど、あの人、実は何発か当ててるんです。時代ごとの子どもの心を掴んでるんです。なんでかは、わかんないですけど」

「あのー、井本さん?」

 面接官が困惑してぼくの名前を呼ぶ。どこかで、自分を俯瞰して遠くから見ているもうひとりの自分がいた。なんでおまえは、間違ったほうばっかり選んでしまうん。小学生の頃から、変わってへんやん。そう咎められて、でも、ぼくはヘラッと笑うことしかできない。三つ子の魂百までって言うやん? やから、しゃーないねん。

「すごいダサいギャグなんです。乳首のところが星型に切り取られたTシャツ着てね、『ここでSUSHIビーム』って叫ぶんです。意味わかんないし、ダサいし、恥ずかしいし、ダサいし、ダサいけど」

「井本さん」

「ぼくと父が考えたギャグなんです」

 ぼくは目頭が熱くなるのを感じた。衝動のままに、両手を乳首に当て、全力で叫んだ。

「ここでSUSHIビーム!」

 講義室の照明が明るい。白々しいほどに均一にぼくらを照らす蛍光灯。誤魔化しが利かない、明るすぎるほどに明るい舞台だ。

「ここでSUSHIビーム!」

 講義室内の全員が、呆気に取られたようにしてぼくを見ていた。だれひとり、笑っている人はいない。ぼくはその中で、しっかりと最後まで乳首をグリグリした。緩慢な動作で椅子を起こし、元の場所にセッティングする。「ええと……」と面接官が互いに目配せし合うのを見て、ぼくは椅子の脇に置いていた鞄を手に取った。ネタを披露し終わったときのように、きちんと両足を揃えて立ち、

「ありがとうございました!」

 と頭を下げる。当然、拍手は起こらなかった。ぼくはそのまま、面接の途中で面接室を飛び出した。

 廊下ですれ違った真理は、驚いたような顔でぼくを見た。くしゃ、と顔を歪ませて、大きく腕を伸ばし、親指を突き立ててグーサインを送ってくれる。ぼくが恋に落ちたときと同じ変顔だろうか、と一瞬思ったけれど、真理はただ、泣きそうなだけみたいだった。ぼくも腕を上げて、グーサインを返した。

 

 改札を抜け、ホームに降りると、地下のひやっとした風が頬を撫でた。線路の奥から、獣の唸り声のような電車の走行音が近づいてくる。スマホの電源を入れると、朝陽くんからは何件も着信が入っていた。通話ボタンを押しかけてやめ、いまから行くとだけメッセージを送信した。電車が到着し、シューッと音を立てて扉が開く。地下鉄の車内は空いていた。窓ガラスに映る自分の表情は、やけに平然としていた。電車の揺れに合わせてぼくの体もグラグラと揺れる。ようやく自分がしでかしたことの重大さを自覚して、頭を抱えた。でも、不思議と視界は晴れ、すっきりとした気分だった。

 地下鉄の改札を出て、デパートに入る。高い天井から落ちる眩い照明が、足元のタイルに反射し、空間全体が発光しているようだった。エレベーターのボタンを連打する。手に持っていたスマホが通知を知らせる。朝陽くんだった。ちょうどエレベーターが来て、後ろから押され、乗り込んでしまう。八階まで上がる間、スマホは震え続けた。エレベーターの中で、ぼくの鼓動とスマホの振動音だけが、うるさく響いた。

 ピンポーン、と機械音が鳴り、エレベーターの扉が開く。劇場エントランスに一歩足を踏み出した途端、朝陽くんが駆け寄ってきた。いつも柔らかく笑っている朝陽くんにしては珍しい、怒っているみたいな真顔だ。ガバッと抱きつかれる。

「あ、朝陽くん?」

 急いで来たから、汗も拭っていなかった。突然のハグに戸惑い、両手を朝陽くんの背中に回すべきか迷って、彷徨わせる。数秒して、朝陽くんはぼくから体を離した。舞台衣装らしい朝陽くんの細身のスーツからは柔軟剤のフローラルな香りがした。ほかに言うべきことがいっぱいあるはずなのに、思わず口が動いた。

「ぼく、汗臭い、ごめん」

 間の抜けた言葉。なんでカタコトなんだ、って自分でもおかしくなる。朝陽くんも息を漏らすように笑って、目を伏せた。

「ごめん」

 呟くみたいな、密やかな声だった。

「なんで朝陽くんが謝るの」

「……知ってたから。今日、採用試験だって。真理ちゃんに聞いてた」

 驚いたけれど、同時に、朝陽くんが謝ることではないとも思った。まったく真理ちゃんは、とぼくは笑って、

「朝陽くん」

 と名前を呼んだ。ガラス玉のように丸い朝陽くんの目が、ぼくを見る。

「ネタ、見せてよ」

 視線が一瞬、揺れる。朝陽くんはすぐに鞄に手を伸ばした。無造作に詰め込まれた黒いジャケットとストップウォッチ、筆箱の間から、ノートを取り出す。背が擦り切れ、使い込まれた方眼ノートだ。朝陽くんの指がページを捲る。黒鉛のにおいがする。中学生のとき、公園の土管の遊具にふたりでぎゅうぎゅうに入って、ネタを繰ったときの記憶が蘇ってくるようだった。

 裏口に回って、楽屋を通り抜ける間にも、ネタ帳を見続けた。雑然と小道具が詰め込まれた小部屋の端に、ずらりと椅子が並べられ、色とりどりの舞台衣装を着た男女がひしめき合うように座っていた。スタッフに案内されるがまま、端の椅子に並んで座る。朝陽くんが指で台詞をなぞりながら、ゆっくり読み上げる。ぼくも返す。テンポが速くなっていく。

「NHKの集金人って、一件契約ごとにヤクルト一本もらえるんやろ」

「報酬ちゃちくない? ふつう、契約一件一万とかやろ」

「でもふつうのヤクルトちゃうで。ヤクルト1000やで」

「どっちでもええわ。たしかに一時期プレミア価格で取引されてたけど」

「わかった、ピルクルもつけるわ」

「どっちもいらんわ!」

 目だけを上げると、朝陽くんもこちらを見ていた。ふたり、頷いた。

「えー、『永遠の朝』さーん。出番でーす」

 とスタッフの無機質な声に促され、立ち上がる。コンビ名で呼ばれたことに驚いて朝陽くんを見ると、朝陽くんは「信じてたから。永遠くんは来てくれるって」とニヤッと笑った。

 舞台袖へ向かうと、ステージに降り注ぐ照明の熱がじわりと伝わってきた。小規模とはいえ、賞レースの舞台らしい、緊張感がある。緞帳の脇からそっと客席を覗く。客席はほとんど埋まっていた。

 目を凝らすと、最前列の中央に、お父さんが座っているのが見えた。「私が今日の審査員」と赤字で書かれたタスキをつけている。

「永遠くん、なんで来てくれる気になったの」

 隣でノートに目を落としながら、朝陽くんが聞いた。前のコンビの一挙手一投足に反応し、客が笑う。声を上げる。お父さんは笑わない。口をしっかりと閉じている。閉じた口の端がピクピク動いていた。それに気づいているのは、たぶんぼくだけだろう。そういう人だった。おもろいはおもんないやし、おもんないはおもろい。

「だって、お父さんが『芸人になるな』なんて言うから」

 もう、なるしかないやんか。ぽろりとこぼれたその言葉は、しっくりとなじんで、ぼくの心を軽くした。朝陽くんはぼくをまじまじと見て、ため息をつくみたいに笑った。

 前のコンビが「ありがとうございましたっ!」と挨拶し、反対側の袖に捌けていく。お父さんがコメントを求められ、「なんやろ、にんじんって感じでしたね。甘いけど甘すぎない漫才で。生のにんじんより、スムージーのにんじんですけど」とよくわからないコメントをした。ほんまにお父さんは――。

 ぼくが苦笑したその瞬間、お父さんと、目が合った気がした。ぼくを見つけたお父さんが、笑って、うなずく。フッと照明が消え、出囃子が鳴る。真っ暗に塗りつぶされた視界を、一筋、ステージに伸びるスポットライトが横切る。ぼくたちのコンビ名が読み上げられると同時に、ぼくと朝陽くんは舞台に飛び出した。

 

 

(了)