第二話 初恋の時間
ひざが痛くて眠れない、と訴えると、お母さんはぼくの頭のてっぺんを見上げてからひざを撫で、「永遠も成長期だねえ」と湿布をくれた。ひんやりする湿布を貼って、はがれないようにネット包帯をつける。おじいちゃんみたいでダサかったけど、ひざの痛みは軽くなった。
中学にあがってから伸びつづけている背は、ついにお母さんを越すくらいになった。ご飯は茶碗二杯じゃ足りないし、夜まで体力がありあまって眠れない。
体だけじゃなくて心も、毎日不安定に揺れ動いていて、制御できない。無意識に足を苛々と揺らしては、お母さんに注意される。ぼくだって、ぼくがなににそんなに苛々しているのか知りたいよ、ってぐったりする日々だ。最近も、お母さんに「永遠、宿題は? 終わったの?」と聞かれたとき、ムクムクと反抗心が湧いてきて「いましようとしてたのに、そんなん言われたからやる気なくなった!」って文句を言ってふて寝した。「聞いただけでしょ」と困った顔をするお母さんを見ると罪悪感もあって、でも謝ることもできないから「もういい」なんて顔を背けて、そんな自分がはずかしくて苛立つ。悪循環の毎日だ。
だから、今朝お父さんがぼくの制服の開襟シャツに鋏を向けてきたときも、ぼくは思いきりその手を振り払った。
「なにすんねんっ」
お父さんは鋏をカニみたいに両手に持って、ちょきちょきと動かした。大きな裁ち鋏だ。当然のことみたいに、「永遠の開襟シャツ、おれとおそろいにしたろと思って。お父さん、乳首のとこ星型に切りぬくことにかけては職人やから。日本一やから。安心して任せてええよ」
と、ぼくのシャツに手を伸ばす。「ばか、やめろや!」と手を叩いて避けると、お父さんは髪から大量のフケを落としながら首をかしげた。お気に入りの友だちが遊びに乗ってくれなくて拗ねる子どもみたいに唇を尖らせる。
「なにほんまにいやがってんねん。ちょっとしたシャレやんか。永遠、最近冗談通じへんなあ。どないしたん? 生理か? バファリンルナ買ってこよか」
「いらんわアホ。そういうのもセクハラやから! セクハラ親父!」
「永遠もお父さんとSUSHIビームしようや。親子でSUSHIビーム芸人。一発屋卒業できるで。二発屋や。ちょっとそこに立っといたら、ちょちょっと切ったるから」
鋏がシャツに迫る。ぼくは飛び退いて、通学カバンを抱えてガードした。
「怪我したらどうすんねんっ」
「男なら乳首がなくなっても困らへんやろ」
「困るわ!」
「そりゃあ、永遠がおれみたいな乳首出してお金稼ぐ大人になったら困るやろうけど……なるか? 永遠、乳首出してお金稼ぐ大人になるんか?」
「なるわけないやろ!」
お父さん「乳首出してお金稼ぐ大人」ってワードが気に入って言いたいだけやん、と腹を立てるぼくに、お父さんは「ほんなら乳首なくてもええな」と鋏をチョキチョキさせて迫った。目的が変わってる! ぼくはカバンを引っつかんで、一目散に逃げ出した。
幼少期から何百回と繰り返してきたバカなやりとりも、いままでみたいに「なんだかんだおもろい」と思えなくて、ただフラストレーションが溜まる。肩をふりながら、大股で歩いた。
通学中、通天閣の真下で落ちあった朝陽くんにイライラが収まらないと話したら、「それは思春期ってやつだね」と諭された。
「反抗期だよ。ほら……『精神発達の過程で、他人の指示に対して拒否、抵抗、反抗的な行動をとることの多い期間のことである』。ぼくらも、もう中二だからね」
ウィキペディアの『反抗期』の項目を表示したスマホの画面を見せられる。中学生になってすぐに買ってもらったというスマホは、まだ傷ひとつついていない。
ぼくは同い年の朝陽くんに真正面から指摘されて、腹の奥がきゅうと痛痒くなった。赤面した顔を見られないように、歩く速度を速める。少し進んで、劇場の前にさしかかった。足を止めると、ついてきていた朝陽くんが「永遠くん?」と驚いた声をあげた。
シャッターのおりた店ばかりの商店街で、唯一色彩の派手な二階建てのビル。『笑劇館』という看板の筆文字はところどころペンキがはがれて、欠けている。軒先にならぶ紅白の提灯も薄汚れ、いつきても、あかりが灯っているところを見たことはなかった。緞帳の柄に塗られた扉と、白い塗り壁。その白を塗りつぶすみたいに、ホースで水を撒いたような形に黄ばんでいた。立ちしょんべんの跡だろう。
ぼくは劇場の壁にべたべたと貼られたチラシを見つめた。月間スケジュール表には、この劇場以外では名前も聞いたことがない芸人の顔と名前がならんでいる。『イノモト』の顔写真もある。その顔写真に、とぐろを巻く鼻毛とうんこマークが書き足されている。きっと近所のガキが書いたんだろう。教科書の偉人に落書きするみたいに。お父さん、えらい偉なって。そう、茶化す気持ちと反対に、胸がしんと冷えるのを感じた。
「お父さん、出るの?」
朝陽くんが、ぼくの肩から顔をのぞかせて聞く。朝陽くんはぼく以上に背が伸びるのがはやく、ぼくより頭ひとつぶん高かった。頬や腕にあった丸っこい印象も消えて、すっかり髪も短くなった。人懐こい性格だけ、そのままだ。
「今月は一回だけね」
ぼくはスケジュール表を指した。もともと減っていたお父さんの仕事は、ここ最近ゼロになりつつある。お母さんに「いいかげん、アルバイトでもしたらどうなの? 一発屋芸人総会のダーティー坂本さんがご紹介くださるんでしょう。一発屋芸人ばっかりバイトしてる吉野家、いいじゃない。新たな社会経験が芸の肥やしにもなるかもしれないし」と尻を叩かれても、腰をあげない。
お父さんに焦る様子がないのも、ぼくは不満なのかもしれない。お父さんが仕事をしていなくても、お母さんが看護師として激務をこなしてくれるおかげで家計は回っている。それでも、やっぱり一家の大黒柱としてどっしりしていてほしかった。五十歳を超えて「ここでSUSHIビーム!」って持ちギャグに縋ってるのは、芸人としてどうかは置いておいて、父親としてすっごくダサい。心底ダサい。親父の背中はもっと大きくあってほしい。だからぼくも、いつも反抗的な態度をとってしまうんだ。
ぼくがひとり納得して、朝陽くんに向き直ろうとしたとき、
「あの、南中ってこっちですか」
と、背後からいきなり声がした。振り返る。丸顔で目がぱっちりした、頬が桃色の女の子が立っていた。うちの中学のものではないけれど、どこか見覚えのある濃紺のセーラー服をきている。
朝陽くんが「そうだよ」と答えた。「ぼくたち南中の二年。よかったら……」
いっしょに行く? とつづけたかったにちがいないのに、女の子は「このあたりでおすすめの喫茶店とか映画館とか、ありますか? 涼んでいこうかなって」と重ねて聞いた。朝陽くんと顔を見合わせる。喫茶店とか映画館とか。お小遣いの少ない中学生であるぼくらには縁遠い場所だった。ぼくらが紹介できるのなんて、景品がほかより取りやすい射的場か、近所のおっちゃんがやってる串カツ屋くらいだ。
でも、期待たっぷりにこちらを見る女の子の丸い目を見ているとなにか答えなきゃという気がしてきて、ぼくは「ここ、劇場だよ」と建物を指した。「昼ごろからしか上演はないと思うけど、お笑いとか好きなら……」
「お笑い?」
女の子はきょとんとぼくを見た。ぼくは慌てて、説明を加えた。
「お笑いって言っても、テレビでやってるような流行りのやつじゃなくて……」
「あたし、お笑いって生で見たことない!」
パアッと女の子の顔が華やぐ。目を輝かせた笑顔に、心臓が跳ねた。
「あ、でもお昼までフラフラしてたらさすがに怒られるかな。今度行ってみる。今日は映画が観たくて、レトロな喫茶店も入ってみたいし、大阪といえばたこ焼きね! 通天閣も展望台があるんだったよね。うん、ありがと! 楽しい一日になりそう!」
女の子はひとりで捲し立て、通天閣のほうに歩きだした。中学校と反対だ。大きく手を振りながら遠ざかっていく姿に、ぼくたちは唖然とし、かろうじて手を振り返した。朝陽くんが「なんだったんだろ?」と苦笑いをするのに合わせて首をかしげながら、ぼくはその後ろ姿から目が離せなかった。
中学校の東側には南海電鉄の線路があって、授業中、先生の声が電車の音に負けることがよくある。担任の夏川先生もよく「電車の音さえなかったら、職員室から近くていい教室なんやけどなあ」とぼやいていた。
でも、その子の声は、ゴトゴトと校舎まで届く電車の走行音に負けずに教室に響いた。
「水田真理です。一か月前までは『織田真理』だったんですけど、親の離婚で『みずたまり』になりました。フルネームでは呼ばないでください」
凛とした、そっけないようでいて甘さもある、ずっと聞いていたくなる声だった。四時間目の小テストのために広げていた英語の教科書から顔をあげると、桃色の頬が目に飛びこんできた。濃紺のセーラー服。あの子だ。
朝のホームルームじゃなく、三時間目の休み時間に、なんで? そんなクラスの疑問に答えるように、真理は朗らかにつづけた。
「映画観てたら遅れちゃいました。映画館でゴダールが観れるんだね。名画座ってすごい。前の中学の制服で行ったから、『学校は?』って聞かれても『開校記念日なんです』ってごまかせて、ラッキーでした。あ、これからよろしくお願いします」
みんなポカンと真理を見る。夏川先生も、注意する言葉が出てこないみたいに口を開けていた。
教室はすぐ、波うつみたいに騒がしくなった。みんな、小声で口々になにかを言う。音の一粒一粒は判然としないのに、波だけがおそってくる。ぼくは小学生のころ、お父さんが原因で散々悪口を言われた光景を思いだして、スラックスを強くつかんだ。夏川先生は早口で「次からは遅れないように。うちの制服も、はよ買わなあかんよ」と注意して、真理を教室の後方に誘導した。空き教室からひっぱってきた机と椅子は古びていて、真理が椅子をひくとギーッと大きな音を立てた。
ぼくは真理を見つめたい気持ちを抑え、英語の教科書を開きなおした。一文読んで、あ、と振り返る。真理はつまらなそうに窓の外に顔を向けていた。長い黒髪が風になびいて揺れる。サラサラと音が聞こえてきそうだった。やっぱりそうだ。真理の制服は、ぼくが受験したあの私立中学校のものだった。
自分の開襟シャツに目を落とす。まだ二年生の夏がはじまったばかりで、去年の夏しか着ていない開襟シャツは、それでも襟ぐりがすこし黄ばんでいた。南中の校章が胸元に深緑の糸で刺繍されている。
ぼくは受験した私立中学校に落ちて、地元の公立中学校に進学した。点数は開示されなかったから、筆記テストの点数が足りなかったのか、面接で「ぼくがいままでで一番感動したのは、『火垂るの墓』を思い出してトイレを我慢し、漏らさずにおしっこできたときです!」なんて言ったのが悪かったのかはわからない。お父さんはあいかわらずぼくの上靴の甲の部分に油性ペンで「肉」って書いたり、お風呂の湯をぜんぶ焼酎に入れ替えようとしてお母さんにしばかれたりしている。全然「そんけーできる父親」じゃない。以前までのぼくなら、受験に失敗したこともお父さんのビョーキのせいだって思ったかもしれない。でも、ぼくは受験に失敗しても落ちこまなかった。ぼくは受験でスベッた、ってだけだ。
受験でのことは、一年以上経っても後悔していない。お父さんを見たら問答無用で波立ってしまうぼくの心の湖をもってしても、それは変わらなかった。ぼくは芸人「イノモト」をきらいになれない。近所のクソガキに落書きされていたら顔をしかめるくらいには、好きなんだ。
その日の帰りのホームルームで、夏川先生は「文化祭の出し物が足りてへんねん、だれかやってくれへんか」と呼びかけた。文化祭は毎年九月、夏休み明けの、校内がざわざわと落ち着かない時期に行われる。土曜に体育祭、日曜に文化祭と二日つづけて行われるから、運動部の生徒は文化祭にかまけている余裕なんてない。うちのクラスでも、だれも手をあげず、しらけた空気が流れた。夏川先生だけが困り顔で、呼びかけたときに挙手した腕をおろせずにいる。
ぼくもうつむいたまま、時間をやりすごそうとしていたら、
「永遠やれよ」
と、前の席の関助が突然言った。嫌味な笑みをうかべて、仲間と目配せしている。頭の横のところがきゅっと痛くなった。
地元の中学は、同じ小学校の面子がもちあがりで入学する。二年になって、朝陽くんとクラスが同じになったのはうれしかったけれど、関助とも同じクラスになってしまった。関助たちのグループは競うように声変わりし、雑草みたいに背を伸ばし、健康的に筋肉をつけた。まだ声変わり前で、背だけヒョロヒョロと伸び、痩せっぽちのぼくとは大違いだ。小学生のときみたいな派手ないじめはない。その代わり、授業中に発言をクスクスと笑われたり、わざと人前に立つ役をやらされたりと、ちいさな嫌がらせをされた。
「せんせー、永遠がやりたいってー」
関助の大声に、夏川先生が意外そうに聞く。
「永遠、やりたいのか?」
ぼくは必死に首を横に振った。
「やりたくありません」
「でも、いま関助がやりたいって。うそついたのか?」
「ウソついてません。関助が勝手に言っただけです」
「関助が、永遠がやりたいって言ったってウソついたのか?」
夏川先生の問いかけに関助が「それがウソですー」と口をはさむ。混乱する夏川先生に助け船を出すように、後方の席に座る朝陽くんが「せんせー、ぼくやりますよ」と手をあげた。夏川先生が「お、やってくれるか、朝陽!」と満面の笑みを浮かべる。
「はい。ぼく、お笑いすきなので。人前でおもしろいことしてみたかったんです」
朝陽くんはハキハキ答えた。ぼくが振り返ってありがとう、と手を合わせ、前に向きなおると、夏川先生は急にいいことを思いついた、という顔をした。
「じゃあ、ふたりで漫才したらええやん」
「えっ」
困惑の声をあげ、固まるぼくに構わず、夏川先生はノリノリでつづけた。
「永遠と朝陽。ええやん、名前が『永訣の朝』っぽいし。漫才やったらふたりで立つんやから、負担は半分ずつやろ? ええやんええやん、青春やん?」
「意味わからへん……」
「いいと思いまーす! あ、SUSHIビームはなしな!」
すかさず関助が口を挟んで、取り巻きたちと笑う。ぼくは「ちょっと」と抗議したけれど、関助に「なんや、SUSHIビームやりたいんか? 永遠はほんまに父ちゃんが好きやなあ、まだ父ちゃんのお乳吸ってんちゃうか」とからかわれ、もう反論する気も失せてしまった。こいつら、小学生のときからなにも成長してへん、と唇を噛みしめる。
途方にくれて朝陽くんを振り返ると、朝陽くんはぼくを勇気づけるみたいににっこりと笑って、親指をグッと立てた。やる気らしい。げんなりして前に向き直ろうとしたとき、朝陽くんの奥、一番後ろの席に座る真理と目があった。
真理は首を少しかしげて、ぼくを見ていた。唇がうっすら紅を引いたみたいだった。すぐに視線を外されると思ったのに、目は合ったままだ。八秒間、目が合うとそのふたりは恋に落ちる。テレビで聞いた言葉が頭に浮かんだ。一、二、三……と無意識に数えてしまう。真理は目をそらさない。ぼくも、見つめたままだ。……五、六、七……。瞬きもできない。八、と頭の中で数えると同時、真理が突然、目を寄せて、唇をタコの吸盤のように突き出した。思考が止まる。数えていた数字も霧散した。ぼく以外は真理の変顔に気づいていないらしく、平然と夏川先生の言葉を聞いている。
ぼくは真理の渾身の変顔の意味がわからず、さきほどの真理のように首を小さくかしげた。変顔をやめた真理は唇を尖らせてから、口を開いた。げ、ん、き、だ、し、て。唇が、ゆっくりと動く。照れたように笑う真理に、ことん、となにかが落ちる音がした。すぐに教室を揺らす電車の音にかき消される。たぶんそれは、ぼくが恋に落ちる音だった。
(つづく)