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 ぼくが劇場でバイトをはじめたのは、カレーライス師匠に頼まれたからだった。カレーライス師匠は噺家はなし かだけでなくここらの芸人に大層慕われていて、三か月で破門になったお父さんのような弟弟子にも毎年お中元を寄越し「ぼくは、お中元はお世話になった人に渡すもんじゃないと思ってる。アフリカの子供達に送る寄付みたいなもんや。ハムは一か月持ちます」と手紙を添えるような人だった。

 ある日の昼休み、ぼくが弁当に入ったハムをムシャムシャ食べていたら「カレーライス師匠から伝言。『たすけて』やって」と隣のクラスから朝陽くんが顔を出した。「ふぁいいんふふぇっふぇーじ……?」とぼくは口の中のハムを飲み込みながら聞いた。

「ダイイングメッセージちゃうよ。ぼく、春からカレーライス師匠のとこでお手伝いしてんねんけど」

「ふぁふみみ……」

「初耳って、そりゃ言ってへんもん。公演の様子を録画して、軽く編集して配信サイトにアップロードする簡単なお仕事なんやけど、仕事を教えてくれてた兄さんが足の骨折で一か月仕事できへんらしい。永遠くん、ちょっと手伝いに来てや」

「ふぁんふぇぼく……」

「カレーライス師匠のご指名やねん。永遠くんハム好きやろ?」

 朝陽くんはカレーライス師匠から預かったという、お中元でもらったのとまったく同じハムを給料の前金として置いていった。ぼくはカレーライス師匠が配信のために買った最新型スマホの録画ボタンをピコンと押し、ピコンと停止して、テロップをつけ、オンラインでチケット購入ができる動画配信サイトに毎日アップロードする係になった。お母さんは劇場に出入りするようになったぼくを見て「永遠も芸人になる気? 稼げないよー。喫茶店とかオシャレな場所でバイトしたらいいのに」とぶつくさ言っていたけど、前金のハムを差し出すと文句を引っ込めた。ぼくとしては、お父さんの反応が気になるところだった。小学生の頃は執拗に「芸人になれ」と圧をかけていたお父さんのことだ。ぼくが芸人になるつもりだって早合点して漫才コンビを組もうなんて言い出してきたりして……と妄想したりもした。でも、夕食のとき報告すると、お父さんは「ええんちゃう、カレーライス兄さんは無茶振りもせえへんし」と言ったきり、ぼくのバイトより鮭の骨にばかり気を取られていた。

「それだけ?」

 ぼくが聞くと、お父さんはようやく顔を上げて、「永遠、芸人になりたくてバイトはじめんのか?」と逆に聞いた。

「いや、ぼくはカレーライス師匠に頼まれたから……」

「ほんなら、喫茶店でバイトすんのと同じやろ。一門に弟子入りするっていうなら、昔話して脅かしてやらんとあかんけど。おれが弟子入り当時のオムライス師匠はな、怖かったんやで。一切怒らんけど、難題ばっかり出すねん。おれの初舞台のときの演目『居残り佐平次』やったんやから! 二ツ目から上しか演じたらあかん大ネタやで。まだ入ってすぐの前座見習いが演じるなんてありえへん。出来もボロボロで、ほかの師匠方に総スカン食らってな。師匠だけニヒニヒ笑ってんねん。『よーさん間違えたなあ』って」

 お父さんから聞くオムライス師匠の話は、ぼくの知る師匠の印象とちがった。楽屋の茶菓子をくれる師匠の穏やかな笑顔しか、ぼくは覚えていない。

「でも、永遠、ほんまに劇場でええんか?」

「え……?」

 ぼくはお父さんの意味ありげな質問に身構えた。劇場で働くってことは芸事の世界に足を踏み入れるってことや――みたいなことを言われるんじゃないかって、胸がドキドキする。ぼくはほんの少し、それを期待していたんだと思う。けど、お父さんは、

「喫茶店のバイトのほうがモテるで」

 とニヤリと笑って、なあとお母さんに笑いかけた。お母さんも同調する。拍子抜けして、ぼくは「いいよ、ぼく劇場好きだし」とぶすくれて言った。オムライス師匠には可愛がってもらったし、師匠が遺した劇場を守ろうと頑張っているカレーライス師匠のことは尊敬している。いまは、カレーライス師匠の力になりたかった。お中元にハムくれるし。

 お父さんはそれ以上なにも言わなかった。自分が選挙に出ることも、選挙期間中の劇場の出番はぜんぶ断るつもりだってことも、なにも。

 

 劇場の楽屋に顔を出すと、カレーライス師匠が小型のテレビを睨みつけていた。「おはようございます」と声をかけても、返事もしない。「もう夕方やんけ」みたいな、お決まりのツッコミもなしだ。カレーライス師匠の視線の先、テレビ画面には真顔で「劇場が公演をしないというのはたしかに強制されたことではありません。『自粛だから、政府は補填しないんだ』と言われればそれまで。でもね、本当にそれでいいんでしょうか」とコメントするお父さんが映っていた。リモートで出演しているらしく、ズームの背景は見慣れたお父さんの部屋だ。ぼくは近くのスーパー玉出で買ってきた二リットルのコーラをテーブルに置き、楽屋の入り口に座って同じようにテレビを見た。

「自粛っていうのは、自らつつしむと書くんですよ!」

 当たり前のことをそれっぽく叫び、お父さんが「言ってやった顔」をする。パッと画面がスタジオに切り替わった。MCの芸人がコメントをして、またすぐにタレント弁護士に話が振られる。テレビ画面にはオンライン会議アプリ越しに話すタレントとスタジオの光景が二分割で表示されていた。芸人が名前を呼ぶたびに画面に人が映ったり消えたりして、その背景はぼやけていたり宇宙空間だったり生活感たっぷりの部屋だったりと忙しない。お父さんはもう一度話を振られると、また同じような真面目なコメントをして、「失礼、尿意が限界です」と立ち上がった。

「おーいおいおい! 下半身油断しすぎやろ!」

 と、MCからエセ関西弁でツッコミが入る。ブーメランパンツを穿き、カメラに生っ白い尻を向けたお父さんは「え? なんですか?」とトボけ、笑いを誘った。出演者の大半はリモート出演なのに、スタジオでの笑いだけは観覧客がいるみたいに複数入っていた。上半身はきっちりとしたスーツで、下半身はパンツ一丁でトイレに向かうお父さんの後ろ姿が、分割された画面の中で遠ざかっていく。

「イノモトも、すっかり再ブレイクやな。こんな芸とも言えんようなもんで売れて、ほんまにあいつは師匠の顔に泥ばっかり塗りよって」

 カレーライス師匠がコーラをラッパ飲みしてため息をつく。ゲップかもしれない。

「再ブレイクって言っていいんですかね、これ」

 ぼくはテレビの中のお父さんを見つめて、首を捻った。

 たしかにお父さんは最近ワイドショーによく呼ばれている。政治討論とは名ばかりの口先プロレスコーナーとか、不倫した元アイドルの釈明会見をわざわざパネルにしてめくりまで作って情報番組風に伝えるゴシップコーナーとか。はじめに出たネットの討論番組で、お父さんは一見普通のスーツ姿で登場し、真面目なコメントをしたあとに「失礼、尿意が限界です」と立ち上がりブーメランパンツを晒して、共演していた女性弁護士に「公然わいせつで逮捕されますよ!」とドン引きされながら茶番みたいに説教をされた。その切り抜き動画がSNSに無断転載されて、バズった。それからはお家芸のように、同じ流れを繰り返している。

「これ、だれがやっても同じじゃないですか」

「おー、永遠は手厳しいなあ。よく言うた! その通り、あいつはくだらんことを愛しすぎてんねん。間違えることしか能がない。だから成長がないねんな。でもなあ、これはあいつやからおもろいんや。裸芸は人間が情けないやつしかできへん」

「なんでカレーライス師匠があの人を庇うようなこと言うんですか。劇場の出番も断って、討論番組みたいなんで祭り上げられて選挙に出るような、あんなアホ。庇う価値ないです」

「反抗期やなあ!」

 ぼくが押し込めていた気持ちを吐き出すと、カレーライス師匠はケラケラ笑った。だって本当のことでしょ、とぼくはさらに苛つく。選挙に出るなんて聞いていなかった。

 お父さんが立候補を表明したあの日から、ぼくの周りは急に騒がしくなった。たった一か月だ。時流に乗ったお父さんがワイドショーで中身のないコメントばかりして、元政治家のタレント弁護士に「府知事になれるよ」と調子よく言われて、それに乗せられて出馬するまで、たった一か月。高校のクラスメイトは立候補しただけで当選したみたいに「お父さんすごいね」と言ってくるけど、小学校から同じやつらは陰で笑っている。イノモト、芸人として終わったな、って。府知事はもうずっと、西新に しんの会という政党の候補が当選しているから勝ち目がないし、ワイドショーに出演できているのも一過性のもので知名度も微妙だって、素人でもわかる。お父さんもそれをわかっていないわけがないのに、なんで家族への相談もなしに立候補するなんて決めたのか、ぼくには理解できなかった。

「わからへんよ、選挙は水もんや。特に現代はネットでパーッと情報が広がるやろ。ジャイアントキリング、ってこともあるんちゃう」

 カレーライス師匠が心に思ってもないことが一発でわかるニヤケ面で慰めてくる。ぼくは「そんなんあるわけないです」と切り捨てて、カレーライス師匠の手からコーラのペットボトルを取り上げた。糖尿なのに飲み過ぎです、と注意する。師匠は情けない声を出して追い縋ってきた。テレビの画面は二分割のままで、お父さんはもう映っていない。

 

 お父さんの出馬決起集会はあべのハルカスの近く、天王寺駅のロータリーで行われた。選挙の公示日の朝八時。十七日間の選挙活動のはじまりにふさわしい、秋晴れの日だ。ロータリー前の広場に停められた選挙カーには、大きな文字で『イノモト』という名前と顔写真が印刷された看板が取り付けられている。車の上にセッティングされたお立ち台に、お父さんともうひとり、恰幅のいい女性が乗っていた。昼のワイドショーで見かけない日はない、関西のおばちゃんに絶大な人気を誇る大物女芸人K氏だ。通勤途中のサラリーマンがうざったそうに選挙カーに目を向け、驚いて足を止めかけ、人波に流されていく。流されなかった人は、熱っぽい眼差しで選挙カーの上に立つふたりを見つめ、スマホを構えてシャッターを切った。

 ぼくと朝陽くん、真理は午後からはじまる模試までの暇つぶしに、ロータリーに顔を出した。十一月の柔らかな日差しが降り注いで、ブレザーを着ていると少し暑い。お父さんを見上げるたび、光が目を差し、まぶしさが沁みた。

 ジャイアントキリング、あるかもしれへんなあ、と隣で朝陽くんが呟いて、右隣の真理がジャイアントキリングってなに? と聞く。ジャイアントコーンっていうとうもろこしの一種を用いた殺人のことやで、とぼくはホラを吹いた。ぼくも、数日前とは打って変わって、あるかもしれへんなあ、とちょっとだけ思っていた。

 お父さんのシルエットと色とりどりの「SUSHI」という文字がデザインされたビラが空から降ってくるみたいに次々に配られる。お父さんの隣に立つ大物女芸人K氏は、聞き覚えのありすぎる掠れ声で話し出した。

「証紙を貼った政策ビラは三十万枚しか配られへんけど、これはイノモトって書いてへんから、何万枚でも配れるわけですわ。いやあ、先人たちはズル賢いですなあ、ズル賢いやつが勝つ! 大概の選挙ってのはそういうもんです。あたし、選挙のことなにも知りませんけど。芸能の世界でもそうなんですわ。ズル賢いやつが生き残る、弱肉強食の世界です。その点、イノモトはすごい! みなさん、思い出してください。この人の芸はね、『ここでSUSHIビーム! って乳首出す』のと『リモート収録中にブーメランパンツでトイレ行く』のこのふたつだけ! このふたつでこの弱肉強食の世界を生き残っとるわけです。ええ、あたしにもなんでかわかりません」

 ロータリーに集まった人々が沸く。チラシの「大物女芸人K氏も推薦!」という文字を見つめ、「もう漫談独演会やん」と朝陽くんが言う。大物女芸人K氏は政策には一切触れず、イノモトはいい男で、と繰り返した。お父さんがいい男だって言われてるところなんてはじめて見た。ワイドショーの司会者を長年務め、ご意見番として主婦層の人気をガッチリ掴んでいる大物女芸人K氏が推薦するなら、たしかに票が動いても不思議ではない。

 お父さんが大物女芸人K氏からマイクを受け取り、「えー、ただいまご紹介にあずかりましたイノモトです。いま看板で下半身が見えていませんね。みなさん、お察しの通りです。覗き込まんといてくださいよ。選挙期間中は警察のお世話にはなりたくありません」と話しはじめる。ビラを見たところ、お父さんの政策は「劇場やライブハウスなどのエンタメ業界を復興させる」というのが軸らしく、演説でも「これは師匠の祈願でもあります。寄席文化を廃れさせたらあかん」と熱弁を振るっている。

 ぼくと朝陽くんは顔を見合わせて、よく言うよな、とアイコンタクトをした。お父さんは感染症拡大前から劇場にたいして呼ばれていなかったし、くどいようだけど、オムライス師匠に三か月で破門されている。

「イノモト、いま劇場の出番断ってるらしいで」と朝陽くんが囁く。

「えっ、そうなん?」

「カレーライス師匠が言ってたわ。いま、イノモトが配信でてくれたらもっと収益上がって、芸人への給金ももっと払えるんやけどなって。ワイドショーで人気になったら、コロッと態度変えてさ」

「……お父さん、なに考えてるんやろ」

 ぼくは、選挙カーの上で手を振るお父さんに向かってつぶやいた。お父さんがSUSHIビームのポーズをするのに合わせて、イーノモト、イーノモトー、イーノモト! とイノモト三唱が巻き起こる。演説を聞くために足を止めた人たちも、流れに任せて腕を上げている。ぼくの声はイノモト三唱の熱気の中で、だれにも届かないまま消えた。

 

 夕方、模試が終わって家に帰ると、夜勤前のお母さんがリビングのソファで眠っていた。起こさないようにカップ麺でも食べて自室に引っ込もう、とキッチンの戸棚を開けたところで、後ろから「永遠あ」と欠伸まじりの声が降ってくる。振り返ると、お母さんはソファのクッションに顔を押し付けたまま、ボソボソと喋った。「いつもの、新世界のラーメン屋、辛いとこ……お父さん……」と単語だけ伝えて、また脱力する。お父さんの選挙活動がはじまってから、お母さんは看護師の仕事にも選挙ボランティアの対応にも追われ、いつも忙しそうだった。今日もポスター掲示ボランティアに提供する炊き出しで駆り出されていたようだし、家でよくわからない地元のお偉いさんを接待しているときもある。勝手に選挙に出て、勝手にお母さんの負担を増やして。お父さんが身勝手なのはいつものことだけれど、疲れ果ててソファで眠るお母さんのぐったりした様子を見ていると、苛立ちが込み上げてきた。

 腹に渦巻く苛立ちのままに、家を出て、高架下を抜ける。新世界の飲み屋はちらほらと店を開けているけれど、どこもパーテーションが設置されていたり、時短営業の看板が出ていたりする。いつか、お父さんがテレビの収録を台無しにしたラーメン屋は、入るといつも通り「らっしゃい!」と店主の声が飛んだ。仕事帰りのサラリーマンたちがカウンターで競うようにラーメンを食べていた。一番奥の小上がりになっている座敷席に、お父さんはいた。

 お父さん、と声を出しかけて、襖で隠れて見えなかった向かいの人物に気づき、足を止める。お父さんのほうが先に気づいて、手を挙げた。

「おー、永遠」

 ぼくは手を挙げ返すこともせず、靴を脱ぐ素振りで下を向いた。大物女芸人K氏の視線が頭のてっぺんに突き刺さって、暑くもないのに首筋に汗が浮かぶ。

「えー、なんやあ、かいらしい男の子やねえ、イノモト、こんなかいらしい息子がおるなら紹介してよお」

 周囲に気づかれることを少しも気にしていない様子で、K氏が言う。「ぼく、邪魔なら」と後ずさったぼくの腕を、K氏が「あたしの隣においで」と掴んだ。K氏は下膨れの頬を緩ませ、濃い色のアイシャドウをたっぷりと塗った瞼をしきりに瞬かせた。ぼくは仕方なく靴を脱ぎ、水を持ってきた店主に「辛ラーメンキムチ抜き唐辛子抜きで」と注文して、座敷に上がった。水のグラスを掴むと同時に「かんぱーい」とビールのジョッキをぶつけられる。

 なんでK氏がいるんだろうか。関西人なら全員知ってる大御所の女芸人が、こんな場末のラーメン屋で飲んでいるなんて、普段からよくあるもんだろうか。疑問に思うけど、口には出せない。K氏は喉を鳴らしてビールを飲んでから、底の見えない真っ黒な目でぼくの顔を覗き込んだ。魔女、という言葉が浮かぶ。

「いやあ、演説で疲れた体に沁みるわ。ビールも若い男の子も。トワくん? 何歳なん? 制服ってことは高校生? 今日は学校やったの? 彼女おるん?」

「おー、今日もいい調子で口説いてはりますなー」

 K氏の質問攻撃を茶化して、お父さんが口を挟む。ぼくは勢いに押され、「高二です」とだけ答えて、届いたラーメンを啜った。酸味が鼻をつく。唐辛子が少ないぶん、お酢の味がダイレクトに襲ってきた。

「やっぱり演説の上手さと口説きの上手さってのは似通ってるんでしょうな」

「なに、おだててももうお金は出さへんよ。イノモトのために選挙資金を援助したわけちゃうよ、死んだお師匠さんのためよ。次また応援演説頼むなら、若い子紹介してもらわんと割に合わんわ」

「未成年か、妻子持ち五十路の二択ですけど」

「どっちも破滅やないの」

 K氏とお父さんが調子よく話すのを聞いて、K氏の登場で有耶無耶にされかけていたムカつきが再び迫り上がってくる。ラーメンも酸っぱいし。ぼくはレンゲをナプキンの上にガチャンと置くと、お父さんに食ってかかった。

「お父さん、いい加減説明してや」

 お父さんはいつも通り髪にフケをいっぱいつけて、でもワイシャツはしっかりと着た姿で、なんの思い当たる節もないみたいにキョトンとぼくを見た。ラーメンの赤い汁がワイシャツに飛んでいる。

「なんで知事選なんて出てんの。みんな大変な時期に劇場にも出てないくせに『エンタメ業界に補償を』とか、めっちゃなんていうか……空虚やし。空虚な政治家みたいなこと言って、なにが楽しいんか全然わからへん。それならもういつもみたいにふざけたことばっかり言ってたらええやん。なんか、お父さん最近変やで」

「……永遠」

「師匠が亡くなってから、人が変わったみたいにボケへんし。府知事ビームはふざけとったけど……。政策とか政治の話とか、テレビでして恥ずかしくないん。お父さん、芸人やろ。カレーライス師匠も怒ってたやん。師匠を送るときにおもろいことのひとつも言えへんでなにが芸人や、って。お父さんはもともとおもんないし、おもんなくてもええけど、芸人らしくさ、芸人らしくっていうのは、だから……」ぼくは言葉を探して、目を泳がせてから、キッとお父さんを睨みつけた。「いまのイノモトは正解ばっかりでおもんないねん」

 お父さんはなにを考えているのかわからない顔でぼくの目を見つめ返した。なにも言わないお父さんの代わりみたいに、隣からK氏が「あんたねえ」と口を挟む。お昼のワイドショーで百万回聞いた「あんたねえ」とまったく同じトーンだった。

「あんた、ゴチャゴチャ言っとるけど、結局『前のパパのがカッコよかったもん、芸人らしくしてよ』って駄々こねてるだけちゃうの。もう小学生じゃないんやから、そういうのやめなさい。みっともない。芸人やからって、政治の話したらあかんって法律で決まってんのか?」

 口紅がベッタリ塗られた厚ぼったい唇も、テレビで見たまんまだ。圧倒されてもおかしくないのに、ぼくは冷静なまま、K氏からお父さんに視線を移して、

「なんで立候補したのか、聞きたいだけです」

 と低い声で言った。お父さんが突然立候補すると言いだしてから、その理由を一度も聞いていなかった。テレビや演説で「エンタメ業界に支援を」って言うお父さんは、本当のことを言っているとは全然思えなかった。

「三百万……やねんな」

 お父さんが重い口を開く。突然の数字に、ぼくは戸惑って「なに?」と聞き返した。お父さんはなぜか少し照れたように目を逸らして、枝豆を鞘から出したり引っ込めたりしながら、理由を告白しはじめた。

「三百万やねん。ちょうど。ちょうどやったんや。師匠はこのために、遺言に書いてくれてはったんやと、そう思ってな」

「なに? なんの話? 師匠?」

「だから、遺産をな、三百万円もらってん。それが知事選の……」

「三百万っ? なんで?」

 ぼくは思わずお父さんの話を遮って叫んだ。三百万円って、うまい棒が三十万本買える金額だ。いまは物価高で十二円に値上がりしたから二十五万本だけど……。もう弟子でもないお父さんがもらっていい金額じゃない。

 お父さんは一口ひと くちビールを呷り、ぼくの疑問に答えた。

「『まず家族と親族に遺産を分配して、計算していったら一門には三百万円遺せそうや。これを、一番おもんない使い方してほしいねん。イノモト。もう破門されてはいるけど、イノモトがうちの一門じゃ一番大喜利に弱かったな。イノモトなら、一番おもんないボケできるやろ。三百万円の使い道はイノモトに一任する』って、オムライス師匠が病床で言うたらしい。遺言や。三百万円を、世界一おもんなく使ってほしいってのが、師匠の願いやったんや」

 世界一おもんない三百万円の使い方なんて、ほかにいくらでもある。お父さんの顔をオムライス師匠そっくりに整形してまたお父さんの顔に戻すとか、金ピカの墓石を買ってカレーライス師匠の生前葬するとか、新今宮の公園で寝てるおっちゃんに突然渡してみるとか……。ぼくは頭に浮かんだ考えを精査して、いやちょっとおもろいな……と反省した。無駄であることがおもしろくないとは限らない。

「それで、知事選の供託金がピッタリ三百万円やったから」

「なんで選挙?」

「『おもんない』の品詞分解をするとな」

「品詞分解?」

 ぼくは訳がわからず聞き返した。お父さんは平然と頷いた。

「そう。『おもんない』は『おもん―ない』やねん。つまり、ふたつの要素に分けられる。『おもん』はボケや。『ない』はその打ち消し。ボケは間違ってるってことや。常識から外れてる。その上で『ない』わけやから、『間違い』の打ち消しで『正しい』。でも、間違ってるだけ、正しいだけじゃあかん。それじゃボケちゃうもん。つまり、条件としては①師匠がボケとして認識できる、②正しい、のふたつの要素がいんねん。政治で世界を変えようって、めっちゃ正しいやん。正攻法やん。遠回りやけどちゃんと正しい。これはええなと。同時に、芸人が政治家になるのは、間違ってるやん。ヤクザが警察官になろうとするみたいなもんや。水と油。あの青島幸男あお しま ゆき おでさえ都知事になったら非難囂々ひ なん ごう ごうで、その前の数多ある功績も『おもんなかった』みたいになってんねんから」

「青島幸男ってだれ?」

 質問するぼくに、K氏が横から「昭和に活躍した放送作家で、作詞家で、俳優で、小説家で、タレントで、参議院議員だった人。『スーダラ節』とか『意地悪ばあさん』とか知らへん?」と説明してくれるけれど、ぼくは名前も聞いたことがなかった。

「オムライス師匠はずーっと言ってはってん。『都知事になったのも……』」

「『都知事になったのも、青島のボケやないか』」

 お父さんの話を奪って、K氏が言い、高笑いした。記憶にあるオムライス師匠の言い方にそっくりだった。

「ボケかつ、正しい。よって、三百万は、知事選に使った」

 お父さんが真顔で言う。ぼくは言葉を失って、お父さんの食べ残したラーメンを見つめた。切られてもいない赤唐辛子が三本も残されている。結局、選挙資金は三百万円じゃ足りず、オムライス師匠と親交の深かった大物女芸人K氏に供託金以外のお金を工面してもらったのだと、お父さんは説明した。「三百万なんてね、政治の世界じゃ端金よ。焼け石に水。あたしも師匠の遺言がなかったらとっくに手引いてるわ」とK氏が笑う。

 お父さんの三百万円の使い方は、たしかにおもんなかった。一番無意味で、一番おもんない。だって、三百万円あったら、閉めてしまった寄席だって再開できたかもしれないし、経営難の劇場だって配信収益に頼らず、いままで通り営業していればよかったかもしれない。それをどうせ当選しない選挙の供託金に使うって、ほんまに、一ミリも、おもんない。ぼくは顔を上げられなかった。呆れ返って、腹も立たない。ただなぜか、薄い涙の膜で赤い唐辛子が滲んで見えた。

 

(つづく)