恋に落ちても、すぐになにか行動に移せるほど中二男子は単純じゃない。真理の周りには常にだれかがいた。いつもちがう生徒だ。昼休み、給食を食べるときはいくつかの女子グループをその日の気分で巡っているみたいだった。ぼくが密かに視線を送ることしかできずにいるうちに、真理の転入から一週間が経ってしまった。
「永遠くんのご両親は、なにをされてる方なの?」
真理が急に質問してきたのは、そんなときだった。
ぼくは真理の顔をまじまじと見た。うちの中学の制服を着て、通知表を通学かばんに入れる真理は、すっかりうちの生徒って感じだ。放課後の教室は、部活が休みの美術部が残ってしゃべっているくらいで、女子と話してもクラスメイトにからかわれることはなさそうだった。
真理の机の上には、終業式後のホームルームで配られたプリントと全教科の教科書がそろえて置かれていた。普段はみんなロッカーに置きっぱなしにしている副教科の教科書もある。
ぼくは机をチラリと見て、「お母さんは看護師で、お父さんは……人前に出る仕事かな」と言葉をにごした。
「人前に出るって、営業みたいな? それとも講演する人? 学校の先生?」
「いや、そういうのじゃなくて。芸能っていうか」
「芸能って……テレビに出るようなお仕事?」
真理の大きな目が、さらに大きくなる。ぼくは真理にほんとうのことを言うべきか迷った。下唇を口の内側に折り込んで、きゅっとすぼめる。決まった友だちを作らないタイプの真理のことだ。お父さんの職業はまだバレていないんだろう。
「テレビ……にも、出てたことあるけど。まあ、いまは劇場が主戦場って感じ」
「そうなんだ、すごいね」
「いや、すごくない。そんな有名人ちゃうし、昔ちょっと一発当てただけの人で」
だから、全然すごくない。かぶりを振りながら、ぼくは顔が火照るのを感じた。テレビに出てたなんて言って、見栄はって。ウソをついたみたいな罪悪感がある。普段はお父さんを遠ざけようとばかりしているのに、こんなときだけ話のネタにして、ぼくは自分のダサさに頭をかきむしりたくなった。
でも、真理はすっと小さく息を吸うと、
「わたしもね、小さいころからピアノを習ってて、将来はピアニストになりたいの。音楽って不思議でね。わたしのピアノの先生が『ホールに来てくれたお客さんを、入口とはちがう出口から送り出してあげるのが、本当の音楽なんだよ』って言ってて、はじめは意味がわからなかったけど、何回もオケ見てるうちにわかった。気分が沈んで世界を呪いたい日でも、ホールに行って音楽を聴いて、ホールを出たら世界がきれいに見えるようなこと。そういうことができる人は、すごいと思う」
と静かに語った。風のない湖みたいな瞳だった。湖なんて見たことないけど、ぼくはそう思った。
「尊敬する」
真理が唇の端っこを持ちあげて言う。きゅうっと、喉の下のあたりが痛くなった。口が渇く。かばんの中の水筒を取りだそうとして、机からかばんを落としてしまった。ファスナーの開いたかばんから、教科書がぜんぶ飛びだしてしまう。ああー、と情けない声をあげて拾おうとしゃがんだら、真理も手伝ってくれた。「大丈夫?」と屈んだスカートから、丸いひざ小僧が見えて、目をそらす。
「あ、これ」
真理が手を止めて、一冊のノートを指さす。
「わたしも使ってた。なつかしいな」
小学校のときに使っていた道徳の副教材の『心のノート』だった。昨日の授業で、小学校のときどんな将来の夢をもっていたか振り返るために持ってきて、かばんに入れっぱなしにしていたのだ。
真理がぺらっとページをめくる。中は落書きだらけだ。お父さんが一時期、『心のノート』の設問に勝手に回答することにハマって「なぜ人を殺してはいけないのか、その謎を解明するため我々は黒塗りのトラックにはねられ異世界に転生した」とか「蹴りたい背中の反対はキーパー内臓」とか書いては、ぼくのかばんにこっそり入れ直していたから。もちろんぼくは授業でノートを開いてから気づいて、先生に「永遠くん、なにふざけてるの!」と怒られた。
中身を見られないようにと身を乗り出してももう遅い。落書きだらけの『心のノート』に真理が目を通すのを、ぼくは罪状を言い渡される被告人みたいに身をすくめて見つめた。長い数秒のあと、
「ふふ、なにこれ。へんなの」
と、真理は目をきれいな弧にして笑った。あわてて、お父さんがいたずらで書いてん、って言葉を引っこめる。
「こ、今度、朝陽くんと漫才するやろ。その練習やねん」
ぼくが口からでまかせを言うと、真理は無邪気に声を高くした。
「すごい。絶対おもしろくなると思う」
「ほんま? まだぜんぜんネタ書けてないんやけど……」
「絶対おもしろいよ。わたし、楽しみにしてる」
「……水田さん、もしかしてお笑い好き?」
ぼくがあの変顔を思い出して聞いてみると、真理は意外そうに「お笑いがきらいな人なんているの?」と聞き返した。「笑うことがきらいな人なんていないでしょ? 末期がんの人だって、おもしろいことがあったら笑うじゃん。笑った瞬間はちょっと幸せじゃん」
当然のことみたいに言うから、ぼくの中にも言葉がすとんと落ちてきた。一週間前の変顔が頭に浮かぶ。「げんきだして」って口パクの真意がつかめて、胸の奥が甘く疼いた。真理の顔がより一層、きらめいて見える。『心のノート』の下にあるネタ帳を、真理に気づかれないようにかばんの中にしまった。まだネタは一文字も書けていなかった。
ネタ帳は、朝陽くんの持ち物だった。表紙の『さんすう』という文字がマジックででたらめに塗りつぶされている方眼ノートだ。ぼくと朝陽くんは、ネタ帳を挟んで、毎日のように作戦会議をした。ネタ帳には古今東西の漫才の書き起こしや、ドリフのコントのパターン、見様見真似で書いた漫才台本がびっしり書き込まれていた。漫才のネタは朝陽くんが書いたものから選べばいいんだ、と安心するぼくに、朝陽くんは「永遠くんと一から作りたいんだよ」と訴えた。
「永遠くんが考えること、おもろいもん。ふたりで考えたら二倍おもろいよ」
「でもぼく、漫才なんて考えたことないし」
「ぼくだってそうやで。みんな、最初は素人やもん」
朝陽くんは知ったようなことを言って、ネタ帳のまっさらなページに『永遠の朝』とコンビ名を書きいれた。ぼくらはどんな漫才がすきとか、コント漫才は邪道だとか、言葉で語ることはいくらでもできるのに、ノートのマス目を埋めることはできなかった。
これ、というネタができないまま一週間がすぎ、朝陽くんが「永遠くんのお父さんに聞いてみよう」と言い出したとき、ぼくは瞬時に首を横に振った。家のちかくの児童公園の土管の中は狭く、首を横に振るだけで朝陽くんと肩がぶつかった。直径一メートルほどの土管が三つ並び、全体がコンクリートで覆われている遊具だ。ノートのうえに載る砂を指でなぞる。子どもたちが遊んだあとの、土埃で目の表面がざらつく時間帯だった。夕方になって日が落ちかけても、まだ肌には暑さがまとわりついている。
お父さんに頼るなんて、考えてもみなかった。だってぼくは反抗期なのだ。反抗期の中学生はお父さんに「漫才ってどうやってつくるの」なんて聞かないだろう。でも、朝陽くんは「それは因果関係が逆転してるよ」とむずかしい言葉を使ってぼくを説得しにかかった。
「反抗期の中学生はお父さんと会話しないから会話したくない、っていうのはおかしい。だって、永遠くんは反抗期の中学生やからお父さんに反抗しとるんちゃうやろ? お父さんのいつもどおりのイタズラでもムカつくって話を聞いて、ぼくが『永遠くんは反抗期だ』って言ったんやんか。反抗しているから反抗期なんであって、反抗期だから反抗してるわけちゃうやろ」
「……つまり?」
「『反抗期だから』は話を聞きに行かない言い訳にはならない! 永遠くんのお父さんに聞いてみようよ。ネタのつくり方」
ぼくは顔をくしゃくしゃにして、土管から出た。ネタ帳から砂がバラバラと落ちる。本番でやるネタがまったく決まらないまま、夏休みに入ろうとしていた。ぼくは観念して、朝陽くんを家に連れていった。「たぶん、お父さん役に立たないからね」と念押しして、お父さんの部屋の扉をノックする。お父さんは野太い声で、
「いまオナニーしてる!」
と返事をした。ぼくはためらいなく扉を開けた。お父さんは畳に座り、子どもが遊ぶような積み木を頭に五つか六つ載せてバランスをとっていた。
「おう、永遠どうした」
両手を広げてバランスをとりながら、お父さんが聞く。たったいま、オナニーしてるなんてウソをついたくせに平然とした顔をしている。
「漫才のつくりかた教えて」
ぼくは単刀直入に言った。
「まんざーい、まんざーい!」
お父さんがバンザイして言う。一番うえの積み木が畳に落ちてボトッと音を立てた。ぼくと朝陽くんはお父さんの部屋の入り口に立ったまま、もうひとつ積み木が落ちるのを見ていた。
ボト、ゴロゴロ……。三人の視線が集まる。すぐにぼくたちはお父さんの目を見て、お父さんもぼくたちを見た。
「……」
「……」
「……なんで漫才やねん?」
ぼくらの無言に耐えきれなくなったみたいにお父さんが聞く。文化祭で漫才をすることになった経緯を、朝陽くんが説明してくれた。お父さんは三つだけ残った積み木を落とさないように慎重にうなずいて、「ほう」とか「うむ」とか相槌をうった。
舞台衣装である、乳首の位置だけ星型にくり抜いたTシャツを着ていないお父さんは、ごく普通のおじさんだった。背中を丸め、首をすぼめて、鳥の巣頭にフケをたくさんつけている。やっぱり、漫才のアドバイスをもらうなんて無茶だ。ぼくはお父さんを観察し、改めて思った。お父さんが漫才のネタを書いているところなんて見たことがない。一発ギャグ一本槍で生きてきたひとだ。朝陽くんはぼくと対照的に「霜降り明星みたいな漫才がしたい」と前のめりに語っている。数年前、お父さんがテレビで炎上したときはあんなに怒っていたのに、すっかり忘れたみたいだ。
しばらく、お父さんは腕を組んでうなりごえを出して、いかにも考えていますってポーズをとった。ぼくは「こういうときのお父さんはなんにも考えてない」と決めつけてかかって見ていたけど、お父さんはふっと組んでいた腕を外すと、お父さんらしからぬ威厳のある声で、ぼくらに命じた。
「自分がいっちゃんほんとうらしいと思うウソを考えてみなさい」
朝陽くんとぼくは顔を見合わせた。
「おもしろいことじゃなくて?」朝陽くんが意外そうに聞いた。
「漫才ってもっと型があったり、大喜利したりするんじゃないの? ギャグとか」ぼくもたずねる。
「ギャグがやりたいんなら、いくらでもおれのギャグ使ってええよ」
「え、いらない……」
即座に断ったのに、お父さんにはぼくの声が届いていないみたいだった。立ちあがって、積み木を頭から振り落として、大きく開いた股の間から逆さまの顔をのぞかせ、「カチカチカチ……いま何時? パンジー!」と叫ぶ。ふっと表情をゆるめて「パンジーの花言葉は『誠実さ』」とつぶやいた。
ぼくと朝陽くんはもう一度、顔を互いのほうに向けて、同時に首を横に振った。教えを請う人をまちがえた。ぼくが期待していたのは漫才のフォーマットを教えてくれるようなことだった。ぼくが知っている言葉でいうなら「つかみ」とか「まえフリ」とか。M-1で優勝した漫才師が予備校教師みたいにホワイトボードを使って説明する、あるいは『考察本』とうたってM-1前の時期に出版する、ああいう解説。どう考えてもお父さんからそんなものが降ってくるわけがなかった。ぼくはとりあえず、ネタ帳の一ページ目に「ほんとうらしいウソ」と書いて、部屋を出た。ネタ帳の表面はまだ砂でざらざらしていた。
「はいどうもー、永訣の朝です」
「永訣の朝ではないよ。コンビ名間違えないでよ」
「え?」
「え、じゃなくて。永遠の朝、っていう、『永訣の朝』のもじりコンビ名でやるって、学級会で決めたじゃん。夏川先生が」
「センコーの言いなりかよ! ダッサ!」
「ダサくない。朝陽くんも納得してたでしょ」
「『永訣の朝』のほうが、ぼくらのコンビ名のもじりってことはないの?」
「ないよ! 宮沢賢治に謝れ!」
言葉を切ってとなりを見ると、朝陽くんが眉間にシワを寄せてぼくを見た。
「……なんか、ちがうね」
どちらともなく言って、首をひねる。土管の中で表紙の端が折れたネタ帳を開いて、脳内でネタを繰る。しっくりこない。日の落ちた公園はすでに夜の気配を漂わせていた。遠くのほうから太鼓の音が聞こえてくる。下駄を鳴らして走る子どもの足音が遠ざかった。
夏休みも半分終わり、文化祭は来月に迫っていた。ぼくらが出演するのは、一年生の合唱コンクールや三年生のクラス演劇の間にある『昼休みステージ発表』だ。みんな昼食で体育館を離れるから全校生徒に見られるわけじゃないのは救いだった。それでも、昼休み明けに行われる、先生たちによるバンド演奏を目当てに体育館に残る生徒もいるはずだ。
それに、と真理の顔が浮かぶ。真理に見られると思うと、ヘタなネタはできない。コンクリートの壁面に触れているシャツが汗の冷たさを伝えてくるのが不快だった。急に日が落ち、手元のネタ帳の文字が識別できないくらいの暗さになってくる。
もう帰ろうか、と言いかけたとき、背後でパンと音が鳴った。朝陽くんが土管から首を出す。朝陽くんの腕とからだの間に首をつっこむようにして、ぼくも音の鳴った方角を見た。白い煙が空に浮かんでいる。花火の前に打ちあげられる空砲だ。
どちらからともなく土管から這いだし、公園を出て道路を渡る。団地の敷地を横ぎって、高架下を抜けると、広場にずらりと露店がならんでいた。とたんにフランクフルトやたこ焼きの香ばしいにおいが鼻先をかすめる。屋台にぶらさげられた白熱灯が石畳を照らす。
ぼくたちは目をかがやかせ、でもはしゃいでいることを悟られないようにすました顔で「ちょっと見てみようか」なんて言い合った。屋台を出しているのは地元の人ばかりで、歩くたび「永遠くん、永遠くん」とあちこちから声がかかる。
ぼくらはネタのことなんて忘れて、かき氷と焼きそばを両手にもってテントのあるスペースに移動した。テント前には特設ステージが作られ、地域のおばちゃんたちが盆おどりを披露している。子どものころから耳になじんだ音楽に、自然とからだが揺れた。ふたりで焼きそばを競うように食べていると、見知った横顔がステージの前を横切るのが見えた。
黒髪を後ろで結って、桜の髪飾りでとめている。花びらの散る浴衣に、髪の束がさらりと揺れて色っぽい。ぼくはその横顔に見惚れ、息をのんだ。
「あっ、水田さーん! 水田真理さーん!」
朝陽くんが手をブンブン振って叫ぶ。真理がはじかれたように振りかえり、首を振って声の主を探す。目が合った。長いまつげがまつりの光に照らされて、銀色に光る。真理はカラカラと下駄を鳴らしてぼくらに近づいてくると、
「フルネームで呼ばないでって言ったでしょ」
と朝陽くんをにらみつけた。不満そうな顔もかわいい。朝陽くんは「素敵な名前やんか」と悪びれもせず、持っていた箸をひっくり返して「焼きそば食べる?」と誘った。すごい勇気だ。ぼくも負けられないと奮起して、
「あ、かき氷もあるよ」
とカップを差しだした。真理が首を横に振る。
「かき氷、さっき食べたから」
「何個食べてもええやん、もう子どもじゃないんやし」
「中二は子どもでしょ。お腹こわすよー。永遠くん、すぐお腹こわしそうじゃん」
「壊さへんし! 大人やし!」
真理とぼくの言い合いに、朝陽くんが「大人は自分で『ぼくは大人や』って言わへんけどね」とツッコミをいれる。盆踊りの音楽にかき消されないように、互いが大きな声を出して、少し顔を傾けるみたいにしてしゃべるから、必然、距離は近づいた。真理は親ときたけれど、はぐれてしまったらしい。「ステージの近くで待ってたら、そのうちもどってくるよ」とあわてた様子もない。ぼくらは、ブルーハワイ味のかき氷を食べ、だれの舌が一番青いか勝負したり、盆おどりの歌詞を勝手に替え歌して三人で歌ったりした。三人でこうして話すのははじめてなのに、幼なじみみたいに自然に笑いあえた。いままでにない感覚だった。いつもお父さんのことでからかわれて、関助みたいなやつにいじめられてきたから。クラスメイトの女子と親のことを気にせずに話すなんて、はじめてだった。
「あ、いまIKEAのサメ連れてるひといた」朝陽くんが人混みのほうを指して言う。ぼくは朝陽くんが指すほうを見てから、首をかしげて聞いた。
「IKEAのサメって、あのぬいぐるみ?」
「そうそう、ぼくの身長くらいあるやつ。赤い首輪つけてた」
「飼ってるってこと?」
「首輪つけて、ベビーカーに乗せてた」
「どっちかでええやん」
「ペットであり、子どもなんちゃう?」
「IKEAのサメが?」
ぼくと朝陽くんのやりとりに、真理がクスクスと笑った。ほんのりと色づいた頬と目の縁の赤みに、心臓が痛くなる。ぼくはその表情をもっと見たくて「サメって首輪つけるもんなん? ハーネスのほうがええんちゃうの。首輪やったらツルッと抜けだしそうやん」と言葉を重ねた。なにか、なにかが掴めそうな感覚があった。このままつづけていれば、自然とネタができそうな――。
そのとき、ステージで流れていた音楽がやみ、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「では、愛をこめて歌います……。聞いてください。『SUSHIビーム讃歌』」
ムダに息をためて、マイクに吐息を吹きかけるみたいにしてタイトルをささやく、イマイチ決まらない声。
「みんな、いっしょにSUSHIビームコール、してくれてもいいんだぜっ」
猛烈にイヤな予感がする。ゼンマイ仕掛けの人形のようにぎこちない動きになって声のするほうに目を向けると、やはりそこには、エレキギターをもったお父さんがいた。
乳首のところが星型にあいた浴衣をきて、裾をはだけさせ、ステージ前方に置かれていた太鼓に足を乗せている。生白い足がからだの貧相さを際立たせていた。町内会の法被をきたおじさんが「太鼓!? 太鼓に足!?」と叫んでステージにあがろうとして、お父さんに蹴り落とされる。お父さんはもう一度太鼓に足を置くと、ギュイーンとギターをかき鳴らし、歌いだした。
♫地球はまるいー、おっぱいもまるいー、母に抱かれたぼくたちの歌
地球はひとつー、おっぱいはふたつー、母に抱かれたおれたちの歌
ああーここでSUSHIビーム!
ああーここでSUSHIビーム!
ぼくはすべて見なかったことにして、真理に「あ、あっちに金魚すくいあるよ。鯉が泳いでる。鯉もすくえる金魚すくいだってさ。それってもう鯉すくいだよね、アハハ」と笑いかけ、舞台と反対方向に導こうとした。
「え、永遠くんいいの? イノモト……」
朝陽くんが引きとめようとしてくる。ぼくは朝陽くんの口を塞ぎ、目で訴えた。いまだけは黙っていてくれ、と目に力を込める。真理はまだぼくのお父さんが芸人だって知らないはずだ。真理にだけは、アレがお父さんだってバレたくなかった。絶対に。せっかくちょっと仲良くなれたところなのに、いまから恋がはじまるかもしれないのに、それがお父さんのせいで邪魔されるなんて想像もしたくない。それに、あんなのがお父さんだってバレたら恥ずかしくて死にたくなる。
朝陽くんは鬼気迫るぼくの表情で事情を察したのか、うなずいてくれた。ホッと胸をなでおろし、朝陽くんの口から手を外す。それと同時に、
「永遠!」
とマイクで名前を呼ばれた。「ひょうえっ」と自分でも聞いたことのない声が出る。不思議そうにステージのお父さんとぼくを見比べる真理と目があった。ぼくはなにも知らないよ、と首を振り、ごまかそうとしたけど、そんなぼくを嘲るように、お父さんがさらに追いうちをかけてくる。
「永遠、いっしょに歌おう。永遠もお父さんに似ておっぱい好きやろ」
無視だ、と腹に力をいれる。
「ビーチク好きやろ。知ってるか、ビーチクってビーチ・クロッシングの略やねんで」
無視。無視しつづけないと……。
「いい発音で言うとbeach clothingやな。ビーチでのクロッシング、つまり『装い』からビーチク、チークビって変化して、日本ではたまたま乳首と音が同じやから倒語だと思われてんねん。でもほんとはビーチ、あ、beach clothingが語源やねん」
「なわけないやろ!」
思わずツッコんでしまった。しまった、と見るとお父さんは満面の笑みでギターをかき鳴らし、「親子で『SUSHIビーム讃歌』歌います」と宣言して拍手をもらっている。酒でろれつもまわっていない近所の団地のおじさんたちが手を叩き、「永遠くーん、ええぞー」と無責任にはやしたてた。頭をかきむしりたくなる。逃げ場がどんどんなくなっていく。手に持ったかき氷が溶けて、痛いくらいに手が冷えていた。
観念して真理に顔を向けると、真理は困惑した表情でぼくを見ていた。
「あれって……永遠くんのお父さん?」
眉がひそめられて、大きな目が強調される。
「え、いや……」
ぼくはうろたえて、溶けきったブルーハワイ味のかき氷だったものを口に流しこんだ。冷たさにのどが痛む。真理は顔をしかめるぼくに構わず、
「すごい、かっこいいね!」
と胸の前で手を組んだ。
気管にかき氷だったものがはいりこんで、ゲホゲホとむせる。
「へっ?」
「だって、こんなに大勢のお客さんが手拍子してるんだよ」
真理がまっすぐにステージを見る。お父さんはピックをギターにやたらめったら押しつけ、騒音としか言いようがない音を出して「地球はまるいー、おっぱいもまるいー」とまた同じ歌詞をくり返している。腕を回したり、ギターの弦で乳首を弾いたりするパフォーマンスに、ステージ前に張りついている小学生たちが「うおー」と声をあげたり、団地のおじさんたちがやっぱり無責任に「よっ、一発屋!」と手拍子したり。ぼくには「町内の悪ノリ」にしか見えなかったけれど、真理はほんとうにお父さんをかっこいいと思ってくれたらしい。
「わたしも、ああいうお客さんに愛されるピアニストになりたいな」
やっぱり、風のない湖の瞳がそこにあった。愛される、という言葉は全然お父さんにしっくりこない。でも、からだの奥でサイダーがパチパチとはじけるみたいなうれしさがあった。ぼくはお父さんの父親らしくないところがきらいで、顔を見るたびビンタしたくなっちゃうけど、たしかにそれは「イノモト」の美点でもある。
お父さんは弦の一本で皮膚を切ったらしく、乳首から血を流しながら、町内会の法被を着たおじさんに取り押さえられ、ステージから下ろされるところだった。マイクを離そうとしないお父さんの手を、「流血はアウトですって!」とおじさんが必死に引っ張る。……美点か? ぼくはため息をついて笑った。
「うん。アレが、ぼくのお父さんだよ」
(つづく)