第三話 選挙の時間
坊主の読経は広い葬儀場に似合わない小さな声だった。ぼくの座る一番後ろの席からではなにも聞き取れない。規則正しい木魚の鈍い音と、チーン、と気まぐれに鳴るりんの音が、異国のヒーリングミュージック感を醸し出し、眠気を誘う。
榊家オムライス師匠の意志が納められた棺は葬儀場の前方中央に置かれ、生前、オムライス師匠が好きだった百合の花が壁一面に飾られていた。天井からぶら下げられた大型のスクリーンでは、高座で落語を一席披露する師匠のビデオが繰り返し流れている。線香と百合の花のにおいが混じる前方の空気は澱んでいた。
ぼくは一番後ろの席から榊家一門の芸人たちの顔を観察していた。お父さんは三か月で一門を破門になったけど、オムライス師匠もお父さんの兄弟弟子たちも、小さいぼくにはずいぶん親切にしてくれた。見知った顔も多い。師匠の葬儀に参列することにしたのも、お母さんから「小さい頃、よく劇場の楽屋でお菓子もらってたでしょ」と言われたからだった。遠い記憶だけれど、師匠との思い出は温かみをもってぼくの胸に刻まれている。棺の向こうに置かれた渾身の変顔をしている師匠の遺影を見ても、まだ亡くなったことへの実感が湧かなかった。
「えー、では、故人様へのお別れの言葉を」
読経が終わり、スタッフがアナウンスすると、最前列に座っていた一番弟子の榊家カレーライス師匠が進み出た。遺族に一礼、故人に一礼。しっかりとした後ろ姿に、ぼくまで背筋が伸びる。制服のブレザーの襟を整え、姿勢を正した。朝陽くんと真理が受験するから、という人に流されまくりな理由で選んだ高校は制服がおしゃれだと人気で、葬儀の前にもお父さんの元兄弟子から「色気付きよって」と揶揄われた。もう高二、十七歳になったのに、お父さんの周りの芸人はまだぼくを小学生みたいに扱う。
「わたしが榊家に入門してから、いろいろなことがありました。師匠のお付きとして前座見習いをはじめ、二ツ目、真打ちと変わっていく間に、わたしの名前も榊家ライス、榊家ライス・カレー・ライス彦、榊家カレーライスと変わっていきました。師匠、わたしが二ツ目のとき、裏でわたしのことをRKR彦って呼んでいたそうですね。師匠、ひどいじゃありませんか。curryの頭文字はCですよ。わたしに直接言ってくださればよかったんです。『師匠、それを言うならRCR彦ですよ』って言ってあげられたのに。ひどいじゃありませんか、水臭い。師匠、なんで……はやすぎます、師匠」
カレーライス師匠は言葉を詰まらせた。鼻を啜る音がそこかしこで聞こえる。ぼくは通路側に身を乗り出して最前列のお父さんの様子をうかがった。ボサボサの鳥の巣頭がかろうじて見えるくらいで、挙動はよく見えない。
カレーライス師匠の弔辞は「感染症によって、寄席も劇場も閉館が続いています」と今年の前半から世界的に広まった感染症の話に移った。師匠の死因はもともとの持病で、感染症が原因ではなかったけれど、家族は病院での面会を拒否されたり、葬儀場の予約が取れなかったりと大変だったそうだ。今日も葬儀場に集まった弟子たちは一席ずつ間隔をあけて座り、白いマスクをして、むっつりと黙り込んでいる。昨年、感染症が流行する前に行われたダーティー坂本さんの葬儀はこんなんじゃなかった。一発屋芸人たちが一堂に会して、ダーティー坂本さんの唯一のヒットギャグ「遠い雨雲の雨を飲みたい人」を横一列に並んで次々に真似した。顎を突き出してしゃくれさせたまま、どんどん前に歩いて遠い雨雲の雨を食べるマイムをして、目からはダラダラ涙をこぼした。「雨、遠いねん!」ってみんなで口を揃えてキレて、抱き合って別れを惜しんだ。いまはもう、叫ぶことも抱き合うこともできない。
「お別れの言葉をありがとうございました。続きまして、イノモト様」
スタッフの女性の声で顔を上げる。まさか、と首を伸ばしてみると、お父さんが立ち上がり、遺族に礼をしていた。お父さんに弔辞を任せるなんて! と慌て、一席空けて隣に座っていたお母さんに「だれが弔辞なんて頼んだん? カレーライス師匠で十分やろ」と小声で話しかける。お母さんは手首に巻いた数珠をシャラッと鳴らして、ため息をついた。
「お父さんが自分からやりたいって言い出したの」
「え、三か月で破門されたのに?」
「なに考えてるんだろうね。自分からやりたいって言い出したら、遺族は断っちゃいけないらしいよ。『葬儀マナー百選ドットコム』に書いてあった」
「なにそのサイト」
百個もマナーがあるなんて、葬儀って恐ろしい……と震えていると、「師匠、お久しぶりです」とお父さんの声が聞こえてきた。きちんと喪服を着て、細身の黒いネクタイを締めている。小学生の頃の授業参観みたいに、背面だけ裸のびんぼっちゃまくんスタイルをやる気なんじゃないかと目を凝らしてみるが、なんの仕掛けもない喪服のようだった。お父さんが弔辞の巻き紙を開く。
「師匠の御霊前に、謹んでお別れの言葉を捧げます。師匠の突然の訃報に接し、弟子一同、大きな苦しみに襲われました」
ぼくは目を伏せて、お父さんの弔辞を聞いた。上着を脱いだばかりなのに、背中に汗が滲み出てくる。
「今年から拡大した感染症で、芸事をする人間は大いにダメージを受け、その最後の一波が師匠の死であると思えてなりません。そのくらい、師匠は私たちの理想とする人で、目標で、砦でした。私も師匠のような存在になりたいと思っていました」
真面目だ。背後で流れるエンヤが荘厳な雰囲気を醸し出す。ぼくはさらに身を縮こまらせた。
「師匠が生前におっしゃっていた願い、必ず私たちが叶えます。それが残された私たちの使命だと思っています。時間はかかるかもしれませんが、待っていてください。師匠の意思は私たち弟子が引き継ぎます。私たちは師匠の残してくださった教えを胸に、これからも芸事に邁進します」
……真面目すぎる! たった三か月弟子だったやつがなにを弟子代表の面をして語っとるんだと、カレーライス師匠なら顔を真っ赤にして怒りそうだけれど、こちらから表情は見えない。弟子の弔辞としては完璧なんじゃないだろうか。
背を伸ばして前方を見るけれど、お父さんは先ほどと同じ格好で、びんぼっちゃまくんになるわけでも、突然スーツを脱ぎ捨て、乳首の部分だけ星型に穴の空いたTシャツを見せるわけでもなく、淡々と紙に目を落とし、読み上げていた。あの、ぼくの中学受験で「辛いものを食べたあとのうんこは、痛い!」と叫び、ぼくが初恋の女の子と楽しんでいた夏祭りでステージから「永遠も『おっぱい音頭』歌おう」と誘ってきたお父さんがだ。
「一門にいた期間は短かったですが、師匠の教えが私の原点であり、還る場所です。ご冥福をお祈りします」
そんなわけない、と見つめるぼくとは裏腹に、お父さんは生真面目に弔辞の紙をしまうと、師匠に深く一礼した。しまうときにチラリと紙の内側が見える。……白紙? ぼくは目を細めてもう一度見たけれど、遠くてよく見えなかった。お父さんは紙を畳むとすぐに着席し、澄ました顔で前を向いて、とうとう最後まで一度もボケなかった。
通天閣の下を通り、ピンク映画館や射的屋の立ち並ぶ通りを抜け、商店街のアーケードに入る。感染症が流行する前は観光客で賑わい、三歩歩けば知り合いに出くわしたアーケードも、いまは閑散としていた。幼い頃から何度も通った二度漬け禁止の串カツ屋や将棋クラブの表には、どこも時短営業の紙が貼ってあった。今日は朝から薄曇りで、ガラス張りの天井から降り注ぐ光も弱い。ぼくは喫茶店に着くと、はじめてのバイト代で奮発して買ったジャケットの襟を整え、ドアを押し開けた。
薄暗い喫茶店だが、マスターは愛想良く「おー、永遠くん。お連れさん来とるで」と席を指し、パチリとウインクした。ぼくも慣れたもので、恥ずかしいとも思わない。入り口右側の席に向かい、「遅れてごめん」と手を合わせて座る。
「一分十円の罰金だからね。このパフェは永遠くんの奢りってことで」
真理は顎の下にずり下げたマスクをクリームで汚しながら言った。いちごとアイスクリーム、ホイップクリームがグラスから溢れんばかりに盛られたパフェを長いスプーンで突いている。
「百分も遅刻してへんよ」
「十分超えてからは割増料金。一分百円」
「暴利やん」
文句を言いながらも、はじめから財布を出させるつもりはなかった。コーヒーを頼むと、真理がすかさず「わたしもカフェオレ」と手を挙げた。いたずらっぽく笑って顔を覗き込んでくる。高校生になりメイクをするようになって、真理は一層目を惹く外見になった。目元がキラキラしていたり、唇がテラテラしていたりして、色っぽくなった。カールした長いまつ毛が揺れる。
「最近太っ腹じゃない? バイトで稼いでるの?」
コーヒーとカフェオレが届くと、真理は湯気の立つカフェオレを躊躇なく一口飲んで聞いた。ぼくは猫舌なのがバレないように、砂糖も入れていないのにスプーンでコーヒーを混ぜて誤魔化しながら答えた。
「うん。そんなに多いわけちゃうけど。ぼちぼち」
「でた、大阪人の『ぼちぼちでんなー』」
「真理……ちゃんも、もう大阪きて三年経つやん。大阪弁がでてきたりせえへんの」
つい頭の中と同じように真理、と呼び捨てにしかけて、押し留める。焦りは禁物だ。もう真理と出会って三年になるけれど、告白したのは中学二年生の文化祭前に一回きり。付き合えると舞い上がったぼくに、真理は「ふたりならもっとおもしろい漫才できるよ! 人生で一番笑わせてほしかったなあ。まだまだだね」と残酷なコメントをした。ぼくと朝陽くんのコンビは文化祭のために仕方なく組んだものだって、真理もわかってるだろうに。結局、その後ぼくらが漫才を披露する機会はなく、真理からの色よい返事もないままだ。真理がパフェのクリームを唇の端につけて言う。
「家では両親どっちも標準語だから。学校では大阪弁が飛び交ってるけど、ついうつるってことはないなあ。永遠くんはお父さんも、学校も、バイト先も大阪弁? どんどんキツくなっていくんじゃない。そのうち『レイコーひとつ、おおきに、儲かりまっかー』って言い出したりして」
「しないって。バイト先の劇場はたしかにキツい大阪弁の芸人さんも多いけど。あ、この間もカレーライス師匠がさあ」
「なんだっけその人、落語家さん?」
そう、とぼくは頷いた。師匠の葬儀が終わってすぐ、ひょんなことから劇場のバイトをはじめて、もう二か月になる。中学校への通学路にあった、お父さんがよく出ていた劇場だ。もともと漫才やピンネタをやる芸人が出るハコだったが、近くの寄席が休業し、劇場も時短営業になって客足が遠のいたため、元々出演していたオムライス師匠とカレーライス師匠に加えて、他の落語家の師匠方にも出てもらっていた。
「カレーライス師匠がうちのお父さんに『師匠を送るときにおもろいことのひとつも言わへんってどういうことや!』って突っかかって、喧嘩はじめて。最後は大阪弁キツすぎてなに言ってるかわからなかったな」
ぼくは師匠の葬儀後の会食での一幕を話した。お父さんは「兄さん、葬式ってのは……おもろいもんじゃないですから」と飄々と逃げ続け、カレーライス師匠は「正しいこと言うなや! 破門されたおまえに兄さんって呼ばれる筋合いないわ!」とさらに怒鳴って、周りはいつもの調子で囃し立て、最後にはグラスが飛び、座敷はビールでびちょびちょになっていた。ぼくも被害を受けて頭からビールを被りブレザーがびちょびちょになった。
翌週、劇場で会ったカレーライス師匠は「すまんかったな」とコーラを奢ってくれた。ぼくは香盤表をチェックし、その日はお父さんの出演がないことをたしかめてひっそりと胸を撫で下ろした。カレーライス師匠に誘われてぼくがバイトをはじめてから、お父さんの劇場の出番は少しずつ増えていた。もともとの仕事が少なすぎるのもあるけど、ピン芸は漫才のようにパーテーションの準備がいらず、時節柄、使いやすいらしかった。
「カレーライス師匠が正しいですから。ブレザーのクリーニング代は払ってくれると嬉しいですけど」
とぼくは答え、劇場外の壁に出演者の名札を掛けた。夜は営業できず、客席に入れられるのは満席の半分まで。制限があるぶん、出演者も少ない。自分の札を持ったカレーライス師匠は、いつになく憂いのある顔で言葉をこぼした。
「クリーニング代くらいは払うけど、バイト代はたいして払えんで申し訳ないわ」
「いまは、仕方ないですよ」
「なんとかしようと思って若い子の力を借りてるんやけどな、なかなか。イノモトも協力してくれたらええのに」
「……あの人が関わっても、碌なことになりませんよ。クラスターを引き起こして『なにがあかんねん』とか言いそうだし」
「父親のこと、どんなロクデナシやと思ってんねん」
カレーライス師匠は笑って、ひとつ咳をした。目を細めて、「イノモトも、気骨があるやつではあったんやけどな。意味のわからんことで師匠に迷惑かける悪癖さえなければ、オムライス師匠も気に入ってたんや。オムライス師匠はミスしてもまちがえても、次ウケればええねんって人やったし」と昔を回顧する。お父さんとは犬猿の仲だと思っていたカレーライス師匠の言葉が、ぼくには意外だった。師匠はまたゲホゲホと咳き込むと、「感染症が落ち着いたら、バイト代二倍にしよな」と明るい声を出して、劇場に戻っていった。その背中は以前より一回りも二回りも小さく見えた。
すっかり暗い話になってしまった、と焦って「やから、バイト代上がったらいくらでも好きなもんプレゼントしたるよ」と締めると、真理は「いつになるの、それ」と顔を緩めて笑った。真理の頬にできる笑窪に、安心する。ぼくだって、生まれたときから知ってる寄席が休業したり、廃業宣言するお父さんの後輩芸人を見たりしていると、否応なしに気分は落ち込む。高校が休みになったときも、「春休みが延びた!」って素直に喜ぶクラスメイトたちと同じようにはいられなかった。看護師の母と芸人の父。ふたりとも感染症の影響をダイレクトに受ける仕事なのに、ぼくには苦労を見せようとしない。真理は「お父さん、海外のコンサートに出演できないからってうちでコントラバスの練習するんだよー」と愚痴を言って、ぼくと同じテンションでいてくれる。ぬるま湯のような温度感が心地よかった。
このあとどうしようか、と言いながら、テーブルの上に投げ出された真理の手を握ろうとする。「あっ」と真理が言って、手を引っ込めた。避けられた? とショックを受けるぼくを差し置いて、真理は興奮した様子でぼくの後ろを指した。指を追って振り向く。壁にかけられたテレビでは、ローカルニュースが流れていた。我が家でもいつも夕方に流れている番組だ。
「笑いは不要不急なのでしょうか。いま、エンタメ業界に関する支援策を見直さなければ、感染症が落ち着いたとき、業界には草の根一本生えていない、そんな状況になってしまいます。だからこそ、いま立ち上がるんです」
お父さんだった。喪服として着ていたあの黒いスーツを着たお父さんが、ローカル局のスタジオのカラフルなスツールに座って、きれいな標準語でなにかを訴えていた。なにを? わかっているのに、ぼくの頭が理解を拒否している。お父さんはスツールから立ち上がると、素早くジャケットを脱ぎ、乳首部分だけ星型に穴の空いたワイシャツを露出させて、
「ここで、府知事立候補ビーム!」
と乳首からビームを放つ仕草をした。パッとカメラが切り替わり、キャスターが引き攣った笑顔で「次はお天気です」とゆるキャラの名前を呼んだ。
「いまの、永遠くんのお父さんだよね? 府知事選、立候補するの?」
真理の無邪気な声を背中で受け、ぼくはテレビのほうを向いたまま、向き直れなかった。ゆるキャラが、明日の大阪は豪雨になるよー、と呑気な声で予報を伝えた。
(つづく)