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青島幸男は参院選で、選挙公報と政見放送を流す以外の選挙運動を一個もせずに、当選したらしい。ウィキペディアで調べたその情報を見て、ぼくが「選挙って狂ってる」と言うと、真理は「永遠くんのお父さんもタメ張れるよ」と笑った。喫茶店のテレビで見たお父さんの政見放送は、見たことのある右手を硬く握りしめるモーションで「劇場をー、救いまーす!」と宣言する場面からはじまった。最終的には乳首を出そうとしてスタジオから排除されていたけれど、言葉としては「劇場文化を廃れさせてはいけない」とか、至極真っ当なことばかりを言う政見放送だった。その真面目な訴えもお父さんにとってはボケの前フリでしかないんじゃないかという疑念が湧いて、胸にモヤモヤしたものが残った。
その日、劇場仕事が終わると、ぼくはカレーライス師匠に録画データを保存したスマホを渡し、最後のお客さんを見送って表に出た。商店街の店はもう大半が閉まっている。軒先に提げられた紅白の提灯のライトを消し、緞帳の柄に塗られた扉を閉めようとしたところで「永遠くん、今日は開けといて」と止められた。朝陽くんが竹箒を持って立っていた。
「このあと、お弟子さんたち来るんやって。ここに出てる芸人さんも全員」
「え、なんで?」
「知らへんけど。カレーライス師匠が……話があるって」
朝陽くんは竹箒をやたらめったら動かした。表情が暗い。朝陽くんの顔に釣られて、ぼくも喉が渇くような焦りを感じた。嫌な予感が忍び寄ってくる。
「それって……」
「戻ろう。ぼくらが考えてたってしゃあない」
朝陽くんは石畳の通路を掃いてしまうと、竹箒を持ったまま劇場に入っていった。ぼくも建物に入り、階段を上る。入ってすぐの扉を開けると、臙脂色のソファー席が三十席ほど設置された劇場に出る。先ほどの公演で下ろされたはずの緞帳が上がっていた。十メートルほどの舞台の中央に、カレーライス師匠が座っている。カレーライス師匠を中心に、今日出演していた芸人と弟子たちがすでに集められ、車座になって座っていた。ぼくと朝陽くんも車座に座る人々の後ろ、裏方たちが座っているあたりに腰を下ろした。カレーライス師匠の厳しい顔を見ていると、酸素が足りていないみたいに息が苦しくなった。お客さんの座っていない客席は寒々しく、ガランとしている。三十分ほどして、芸人たちが揃うまで、重苦しい雰囲気が続いた。
お父さんは最後に来た。トレードマークの鳥の巣頭を後ろに撫で付けてワックスで固め、黒いスーツを着ていて、一瞬だれかわからなかった。政治家や立候補者というよりは、くたびれたサラリーマンって印象だ。「おい、トレードマークの乳首Tシャツはどうした」と通りすがりに馴染みの芸人が声をかけても、お父さんは無視して輪に入った。なんだよスカして、と小さく文句を言うのが聞こえる。
カレーライス師匠はお父さんが来るのを待っていたみたいに「みんな、今日はありがとう」と言って立ち上がった。舞台の照明は半分落とされていてもまぶしかった。客席から見ているよりもずっと広くて、静かだ。その中心でカレーライス師匠はよく通る声ですっぱりと言った。
「劇場の支配人を含めて運営側と相談したんやけど、この劇場は、今年いっぱいで閉めることになりそうや」
予想していたことなのに、心臓が跳ねて、こめかみから喉にかけて、嫌な感じが広がった。
「このご時世で、配信とかもやってみてんけど、あんまり上手くいかんかった。芸人の高齢化も進んでたし、ここらが潮時かなと、運営側で話し合ってな。もう手立てがない。みんなには、ほんま申し訳ない」
頭を下げたカレーライス師匠の頭頂部は、師匠の葬儀のときよりもずっとハゲが進行している。「師匠の遺産分配のときにも話したことやけど、一時的に金が入ってきたらそれでええってわけでもない。この状況がいつまで続くかわからんけど、お客さんが離れていくのを止められんままやったら、閉業するしかないってことで――」と説明するカレーライス師匠の声も遠く、うまく頭に入ってこない。頭を振って、気持ちをリセットしようとしたとき、すっと立ち上がる影を視界の端で捉えた。足早に舞台脇の階段を降り、客席を通って出口に向かう後ろ姿に、
「おい、ちょっと待てよ」
とカレーライス師匠が声をかけた。ぼくも腰を浮かしかけて、朝陽くんに手で制される。カレーライス師匠の言葉を顧みず、客席を進む背中に、腹の底が熱くなった。
「イノモト!」
鋭く名前を呼ぶカレーライス師匠の声に、お父さんはようやく振り返った。ワックスで固めた髪が似合ってない。スーツも。全然、お父さんらしくない。
「最後まで聞いていけや。おまえもこの劇場で育ってきたんやろ」
「これから『朝まで討論! W不倫は善か悪か』の生放送なんで」
お父さんは素っ気なく答えると、客席を抜け、劇場を出ていってしまった。「なんだよイノモトのやつ」「こんな大事なときに」「だいたいあいつが三百万を」と残った芸人が口々に文句を言う。その通りだ、と思った。お父さんひとりが選挙カーの上で「エンタメ業界に支援を」って正しい言葉を叫んでも、興行が再開できるわけじゃない。
でも、そうやってお父さんに文句を言うぼくらだって、現状を憂えているだけで、なにもしてこなかった。
ぼくは咄嗟に立ち上がって、「あの!」と声を上げた。車座になった芸人たちが一斉にこちらを見る。何十もの瞳に見つめられて怯みながらも、ぼくは拳を握って、「あの」ともう一度言った。
「クラウドファンディング、やりませんか」
ぼくの声が舞台にわんと響いて、静かになる。だれも反応しなかった。周りを見渡すと、みんな訝しげな顔をしていた。カレーライス師匠が首を傾げながら聞き返してくる。
「クラムチャウダーフォンデュ?」
「クラウドファンディングです」
「クライアンドフォーチュン?」
「クラウドファンディング」
「クライオジェニック?」
「なんですかそれ」
「低温保存の、って意味の英語」
「逆になんでそんな単語知ってるんですか。あとさっきからお腹空いてるんですか?」
「ネットでいろんな人から資金調達できるシステムのことだよね」埒の開かない会話をするぼくたちを見かねて、朝陽くんが横から説明してくれる。「最近、弁当の業者が医療従事者に提供する弁当のコストを賄うためにクラファンするってニュース見た。一万円以上寄付で弁当一週間分のリターンがあるやつ。この劇場でもやってみましょうよ」
「寄付って、そんな集まるもんやろか」
「やってみなきゃわかんないです」
思わず、熱く反論していた。カレーライス師匠が目を丸くしてぼくを見る。バイトをはじめてから、こんなふうに声を大きくしたことはなかった。ぼくの気持ちを汲んでか、裏方のメンバーが「そうですよ、チャレンジしましょう」「リターンはドドンと一か月通い放題にしましょう!」と同調してくれる。芸人たちもよくわからんという顔で、「ええやないかー」とノリだけはいい声を上げてくれていた。カレーライス師匠はみんなの勢いに怯んだ様子で、えー、と思案顔になって、「ほんなら……やるか? クラウンバケーション」と提案を呑んでくれた。クラウドファンディングです。
「永遠くんがクラファンなんて言い出すと思ってへんかったわ」
翌週、劇場の楽屋でクラファンのサイトと睨めっこしていると、隣で同じように動画編集ソフトと睨めっこしていた朝陽くんがつぶやいた。公演の様子はオンラインでチケット購入ができるイベント動画サイトに毎日アップロードしているけれど、購入者は一向に増える気配がなかった。クラファンも、立ち上げてみたはいいものの、支援者はこの一週間ゼロのままだ。
「永遠くんにとっては、いまのお父さんのほうがええんちゃうの。政治家目指して毎日演説して、ふざけたことせんと政策を訴えてる。永遠くん言ってたやん。『お父さんみたいになりたない』って。このまま劇場もなくなって、お父さんは芸人辞めて政治家になったほうが、うれしいんちゃう」
朝陽くんに言われて、気づいた。たしかにいまのお父さんのほうが、小学生のころにぼくが理想としていた「ちゃんとしたお父さん」に近い。でも、そうじゃなかった。あのラーメン屋で口にして自覚した。ぼくは、いまの「正解ばっかりでおもんない」お父さんは好きじゃない。
「ついに永遠くんも芸人になる気になったん?」
朝陽くんが身を乗り出して、ニヤついた顔でぼくを見る。中学の文化祭で漫才をしてから、朝陽くんは「将来はコンビ組んでM-1出よな」と小学生のときに言っていたようなことを本気の顔で言うようになった。ぼくはそのたびに「出えへんわ」と断っていた。
「芸人なあ……」と楽屋を見回す。畳もちゃぶ台も、幼い頃のままだ。擦り切れた畳が正座した足に跡を残す。ここでオムライス師匠にお菓子をもらった。高座を袖から見た。トチって落ち込む弟子に師匠が「間違えてもええから、次はウケなさい」と声をかけるのを見た。お父さんが破門になった日、師匠の奥さんの財布から盗んだ金で西成の飲み屋を梯子して潰れたお父さんに、師匠が「嫁の財布から盗むな、次はちゃんと師匠の財布から盗め」って怒るのを聞いた。ぼくはこの場所が好きだった。
ぼくは口を引き結んで、奥歯に力を入れた。口を開いたと同時に、横からカレーライス師匠が「えっ、なんなん、『映画《いつか君の肺が真っ黒になってもこの恋は純白》の製作費百五十万円募集を支援しますか』って出てきたんやけど! おれ絶対支援したくない!」と助けを求めてきて、力が抜ける。「ああ、ブラウザバックすればいいですから」と応じるぼくを、朝陽くんが物言いたげな目で見ているのを視界の端で捉えながら、カレーライス師匠のスマホ画面に触れた。
クラファンの支援者がひとり、またひとりと増えはじめたのは、お父さんの選挙戦も終盤に差し掛かるころだった。急激な冷え込みに、セーターを引っ張り出し、薄手のコートを出し、マフラーを出してきたあたりで、支援者が百人を超えた。支援者が急増した理由がわからず調べてみると、お父さんの選挙活動を手伝っているインフルエンサーが「イノモトさんの古巣が経営難で閉館寸前! レトロ劇場を救え」と拡散してくれたらしかった。その謳い文句の影響か、翌週からは深緑のAラインワンピースに聖子ちゃんカットをした若い女性が劇場の前で写真を撮る光景が度々見られるようになり、彼女たちが昭和のアイドル雑誌『明星』を真似て劇場内で撮影した写真がSNSで拡散されたおかげか、支援者はまた増えた。
お父さんのほうは、ニュースでは泡沫候補扱いで、取り上げられることがあっても「劣勢」「これからの追い上げに期待」とテロップが出るくらいだった。西新の会の候補との差は歴然で、ほかの政党が擁立する候補者にも大きく差をつけられているようだった。結局、ワイドショーでの人気なんて一過性のものに過ぎないってことだ。ぼくたちも直面している悩みは同じだった。聖子ちゃんカットの女の子たちは劇場のファンではないから、翌日にはレトロ喫茶の前で写真を撮っているし、その翌日にはレトロ銭湯の前で風呂桶持ってポーズを決めている。SNSでバズれば支援者は増える。でもそれは、本当に劇場に来てくれるお客さんが増えるってわけではない。一過性のものだ。
投票日の前日に道頓堀に向かったのは、そんな現状がなにか変わるんじゃないかと思ったからだった。去年まではグリコの看板を一目見ようと観光客が大勢集まっていた戎橋の上も、いまは演説用のお立ち台を運び込めるくらいにはすいていた。戎橋の中央に足を進めると、そこにはなぜかお父さんと、西新の会の現職候補が並んで立っていた。街頭演説の時間が被ったらしい。
(つづく)