第一話 道徳の時間
二学期の授業参観日には、その冬はじめての雪が降った。夏の虫が飛びまわるみたいな、さわがしい降雪だった。
近畿地方に歴史的大寒波が到来、例年の十二月と比べものにならない寒さ、と朝のニュースで気象予報士がしきりに言っていたのを、ぼくは思い出していた。窓の外に気をとられる子どもたちに向かって、ニイ森先生が「今日はお父さんお母さんに見てもらえる日だからね。みんな元気に音読しよう! きりーつ!」と指示を出した。四方八方から椅子と机がぶつかる音が聞こえる。道徳の教科書を手にもって、ぼくも立ちあがった。二十人分のけだるさが首の裏のうすい皮ふにあたって、くすぐったい。
「そうして、Bさんは学校に来なくなってしまいました。放課後、わたしが飼育小屋に行こうとすると、Cさんに呼び止められました。『Bさん、いじめがつらいって言ってた。あなたはAさんと仲がよかったのに、どうしてAさんから守ってあげなかったの』わたしは、ハッとしました」
ニイ森先生が道徳の教科書を読みあげて、みんながあとにつづけて音読する。そうしてえ、びぃさんはあ。後方にずらっと児童の親が並んだ教室では、服に声が吸いこまれて、ニイ森先生の通らない声がより通らない。教室の前方の時計から音がしないのは、ニイ森先生の声が小さいからなんじゃないかとぼくは思っていた。我が家のめざまし時計はお父さんがうるさいからうるさい。もともとお父さんの寝室にあったそれは、今年の春、『六年生になったんだから、ひとりで起きられるようにならないと』ってお母さんがぼくの部屋に移動させた。
「Bさんのお母さんの仕事をバカにしていたAさんのこと、なんで注意できなかったんだろう。わたしはとても後悔しました。Bさんはいやがっていたのに、わたしは見て見ぬ振りをする人(ぼう観者)になっていたんだと気づきました」
先生の声につづけて、教科書で顔をかくすみたいにして口を動かす。みてみぬふりをするひとお、かっこお、ぼうかんしゃあ。口だけ動かしながら、ぼくは後ろを見た。親たちの顔を一人ひとり確認していく。窓から扉までずうっと目で追っていくと、見知った顔が目にはいった。心臓がドキンとはねる。
ひょろりと背の高い、痩せた男。頭頂部はうすく、最近国語辞典を読んでいたときに見つけた「みすぼらしい」って言葉を体現したみたいだ。珍しく着ているグレーのスーツには無数のしわがよっている。
その男――ぼくのお父さんは、ぼくが「帰ってよ」と口パクで伝えても、ふるふると頭を振って、鳥の巣頭に大量についたフケを周囲にばら撒くだけだった。妙におとなしい。ふだんのお父さんなら、周囲の親たちなんて気にせず「『帰ってよ』って言われたら帰られへんやないか!」って叫び返すくらいのことはするのに。黒板に向き直りながら、ぼくは急に不安なきもちがたちこめてくるのを感じた。
――お父さん、きっとなにか企んでるんだ。
音読がおわると、ニイ森先生はみんなを着席させ、ノートに書かれている設問を考えさせた。ぼくは体をちいさくちいさくして、『こころのノート』の空白の欄を見つめた。お父さんが後ろにいる。それだけで、筆が進まなかった。
しばらくすると、「Bさんはなんで学校に来られなくなっちゃったのかな。みんな考えた? じゃあ、悠太郎くん。なんて書きましたか?」と、ニイ森先生がクラス委員の悠太郎くんを指名した。悠太郎くんが起立して、ぴしっと背筋を伸ばす。
「はい! BさんはAさんに」
「ああ、悠太郎くん、立たなくていいよ」
勢いこんでハキハキ答える悠太郎くんの言葉を、先生がさえぎった。「あ……」と悠太郎くんは、しずかに座った。
「今日は授業時間短いから、みんなも立たなくていいからね。はい、じゃあ悠太郎くん、つづけて?」
「……コンビニ店員のお母さんの仕事をバカにされたのがいやだったんだと思います」
「そうだね。お母さんの仕事をバカにされて、なんでいやだったんだろう? えーと、それじゃあ、永遠くん」
びく、とからだがふるえる。ニイ森先生はぼくの名前を呼んで、そしてもう一回「永遠くん、立たなくていいからね」と重ねて言った。とたん、体をムズムズするものが駆けめぐった。立たなくていい、って三回も言った、このひと。この一分間に、三回も。先生の言葉を頭の中で繰り返すと、背中がぞわぞわしてくる。お父さんの圧を、勝手に感じる。だって、立たなくていいって言われたら――。
ガタッ! と、ぼくは大きな音を立てて椅子をひき、立ちあがった。ニイ森先生があっけにとられた顔で「永遠くん?」とぼくの名前を呼んだ。ちらっと周囲を見回すと、クラスのみんなも、不思議そうにぼくを見ていた。
「永遠くん、立たなくていいんだよ?」
ニイ森先生がたしなめるみたいに言う。それでもぼくが座らずにいると、先生が「うーん、まあ、立ったらお腹から声が出せるからね。じゃあ、大きな声で発表してみよう!」とフォローをいれてくれた。「はい」とぼくはできるだけ細い声で返事をした。だって先生が大きい声でって言うから。意地悪してるんじゃない、条件反射みたいなものなんだ。ニイ森先生はとまどった顔をしたけれど、聞かなかったことにしたみたいで、同じ質問をくりかえした。
「で、お母さんがコンビニ店員だってことをバカにされて、Bさんはなんでいやだったんだろう? わかるかな?」
「あ、えっと」
優等生な答えを言ったらいい、と頭のなかの冷静なぼくがささやいてくる。『お母さんのことを、誇りに思っていたからだと思いまあす』って答えたらいい。わかる。わかるのに、頭のなかのお父さんが邪魔してくる。優等生な答え以外言っちゃいけないと思えば思うほど――。
「お母さんはただのコンビニ店員じゃなくて……コンビニの、正社員だったから」
「えっ?」
「バイトじゃなくて、正社員だったから」
「いや、永遠くん。雇用形態とかそういうことじゃなくて。Bさんのきもちを考えてみて? ね、ほかにあるでしょう?」
「きもち……。あっ、Bさんの家は代々コンビニのオーナー一族で、プライドが傷ついたから」
「永遠くん? あのね」
「Bさんはコンビニエンスストアのことを、日本が世界に誇る産業であると誇りに思っていたから」
「永遠くん、座ろうか。もう答えなくていいから」
おだやかだったニイ森先生の声がトゲを帯びる。ぼくは焦ってしまった。だって座れと言われたら立っていなきゃいけないし、答えなくていいと言われたら発言しないといけないじゃないか! しどろもどろに口を動かす。頭じゃなくて、口でものを考えてる感覚。
「あの、えっと、BさんはBなんてなんでも代入できる名前じゃなくて、ほんとは真由美さんだったから」
「永遠くん、いい加減にしなさい」
「あ……真由美さんの将来の夢は、コンビニ店員だったんだ……」
「座りなさい、永遠くん!」
ニイ森先生が教卓を叩く。大きな音と怒声に、クラスぜんたいがびく! となって、緊張したのがわかった。ぼくは急に取りかえしのつかないことをしてしまったときの怖さに青ざめて、それでも座れずにいた。「なんで先生の指示が聞けないの?」と先生に詰められる。
ぼくはたまらなくなって、椅子を蹴っとばして逃げた。お父さんのいる教室の後方には行かず、前の扉から教室を飛びだす。「永遠!」というお父さんの声に振り返ったら、お父さんがうしろの扉から廊下に出てくるところだった。
同時に、キャー! と教室から騒ぐ声がした。「イノモトだ!」と男子がはやしたて、廊下にひとがでてくる。「え、芸人の?」って戸惑った声も聞こえる。その中心でお父さんはわざとらしく手をうしろにやって背を丸めていた。ガキ大将みたいな男子がお父さんにドロップキックをくらわせて、お父さんが廊下に倒れこむ。
また甲高い悲鳴があがった。うつぶせに倒れたお父さんのうしろ半身が見える。半裸だった。スーツの背中とスラックスの尻がくりぬかれ、肌が見えている。びんぼっちゃまくんだ! だれかのお父さんらしき人が叫んだ。さわぎを聞きつけて、となりのクラスからもわらわらとひとがでてきた。お父さんは人々の注目をひとりじめにして、尻をさらしていた。お父さんの表情は見えない。見えないけれど、ぼくにはわかった。お父さんはずっとコレを狙ってたんだって。
びんぼっちゃまくんスタイルで教室に来たわけではないだろうし、どうやってバレずに来たのか。疑問に思って目を凝らすと、切り抜いたスーツの布が廊下に落ちていた。引っ張ったら落ちるように、安全ピンかなにかで留めていたんだろう。無駄に準備がいい。
全身の血液が頭にのぼって、顔があつい。お父さんは小学生にやられ放題だ。男子にたかられ、むきだしの背中を踏まれまくっている。ぼくは恥ずかしさに泣きそうになって、身をひるがえした。
大阪メトロが地下を走る大通りから一本路地にはいったところに、ぼくの通う小学校はある。そこから家族三人で住んでいる団地まではぼくの足で歩いて十五分。新今宮の高架下をくぐり、たこやき屋と昼間からあいてる飲み屋ばかりが並ぶ新世界の通りをすぎたさきにある、窓から通天閣が見えることだけが自慢の古ぼけたアパートのD棟が、ぼくのウチだ。
近くの小劇場にでている芸人が集まるアパートで、お父さんもそのクチだった。なんばグランド花月やよしもと漫才劇場みたいな大きいハコには呼ばれない、いわゆる「売れない芸人」ってやつだ。
お父さんは二十歳で落語家に弟子入りして、シャレだといって師匠の金をくすねたり兄弟子を叩いたりしてすぐに破門になり、以来劇場やテレビで一発ギャグ芸人として細々と活躍していた。ぼくが物心つくまえ、一度全国ネットのテレビ番組で「ここでSUSHIビーム!」というギャグを披露して、ブレイクした。乳首の部分だけ星型に切りぬかれたTシャツを着て、乳首をぐりぐりしながら「ここでSUSHIビーム!」って叫ぶだけのギャグだ。でも、一年もたたずにテレビには呼ばれなくなった。そのときの名残で、五十歳を超えたいまでも、お父さんは舞台では乳首だけ星型に切りぬかれたTシャツを着つづけている。いまは劇場とイオンモール、住宅展示場、老人センターの催し物で「ここでSUSHIビーム!」と叫ぶのがお父さんのおもな仕事だった。
ちいさいころのぼくはお父さんにずいぶんあこがれて、「お父さんみたいな芸人になる!」とよく言っていた。「ここでSUSHIビーム!」はぼくとお父さんが一緒に考えたギャグだった。寿司が両乳首の部分にプリントされたTシャツをお父さんが買ってきて、ぼくがそれを気に入ったのだ。「SUSHIビーム!」とお父さんが寿司のプリントをグリグリして、ぼくに向かってビームを打つジェスチャーをした。ぼくが「ちくビーム!」って打ち返したら、お父さんは鼻を鳴らして首をひねった。
「ちゃうねんな。ちくビームはありきたりすぎる。時代はSUSHIビームや。寿司は日本が世界に誇る伝統食や。正確な起源は東南アジアやけど。いくで! ここでSUSHIビーム!」
寿司Tシャツが著作権の問題で使えなくなったお父さんは、乳首部分を星型に切り抜いた。プロデューサーに「星型に切り抜くのはいいけどさあ、乳首見えすぎじゃない? ギリギリ見えないようにできないかな?」と言われてビームを打たなくなった。あまり原型を留めていない「ここでSUSHIビーム!」は、それでも謎に小学生男子にウケた。裸芸人が一世を風靡した時代だった。
テレビにでていたころのお父さんは、輝いて見えた。星型乳首Tシャツで飲み屋に繰りだして暴れ、警察のお世話になるようなアホな親だったけれど、それもぜんぶ、「お父さんは芸人だから」って許せた。いまは……いまは、そうじゃない。
アパートを北にすこし通りすぎたところにあるラーメン屋にはいると、お母さんはもうカウンターに座っていた。外から店内がぜんぶ見通せるガラス張りの店。上限なしの辛さが自慢のラーメン屋で、辛いのが苦手なお父さんがいっしょのときには来られないところだ。お母さんは疲れたようすで「辛いの食べたくなる日、あるよね」とタバコの煙を吐いた。
参観のあと、お母さんは先生に呼びだされて学校で長くコンダンをしていたみたいだったけれど、コンダンでなにを話したのかは教えてくれなかった。中辛ラーメンとチャーハンのセットをたのむ。店内は煙でうっすら白くフィルターがかかったみたいだった。店内喫煙可。どころか、床には吸い殻が大量に散らばっていた。
お母さんの中辛ラーメンをひとくちもらうと、それは予想していたよりずっと辛かった。道路沿いのカウンター席は足元から冷たい空気がはいってきて、髪の毛が逆立つみたいなしんしんとした寒さがある。チャーハンを食べ終えて、お母さんのラーメンの湯気もとだえたころ、帰るのかな、というぼくのそわっとした空気を察したみたいにお母さんが杏仁豆腐をたのんだ。まだ帰りたくないんだ。
「なんで教室でてったの。お父さんが参観きたから?」
お母さんはとうとつに聞いた。
「それもあるけど」ぼくはお母さんの顔を見られずに、運ばれてきた杏仁豆腐のスプーンをカチャカチャ鳴らした。「……また変なこと言っちゃって」
「変なこと? 道徳の授業だったんでしょ? どんな授業だったの?」
「えーと、Bさんっていう、お母さんがコンビニ店員の子がいて、その子がお母さんのことでからかわれて学校に来られなくなる話やったんやけど。なんでお母さんをバカにされていややったんやろって先生に聞かれて」
「ふうん。お母さんバカにされたら理由なんてなくってもイヤだと思うけど」
「うーん、でもたぶん『お母さんがすきだったから』とか『お母さんの仕事を誇りに思ってたから』とかが正解やと思う」
「正解?」
「道徳って正解があるやんか。大人が想定してる正解っていうか……学習しどーよーりょーの正解……」
「永遠、そんなこと考えてるの? 賢しい子だねほんと。で、正解言ったの?」
「言ってない」
「え?」
「お母さんはコンビニバイトじゃなくてコンビニの正社員だったからって言った」
「なんで? 正解わかってたんでしょ?」
「うん。でも、言っちゃった。Bさんの家は代々コンビニのオーナー一族だから、とか、Bさんはほんとうは真由美さんっていうから、とかも言っちゃった」
「なんで? え、先生はなんて言ったの?」
「そういう雇用形態の話はしてないよって」
「そりゃそうだ。あ、みんなを笑わせたかったの? お父さんにいいところみせたかったんだ?」
「ちゃうねん」ぼくは杏仁豆腐のうえにのっていたチェリーの種をペッと吐きだした。「ウケへんってわかってたし。わかってたけど……道徳には正解があるから、正解があったら外さなあかんやん!」
わけがわからない、という顔でお母さんがぼくを見た。
「大喜利したらあかんってこともわかっとるよ。わかっとるけど、したらあかんってことは、せなあかんやんか。笑わせたいとかそんなんじゃないねん。ビョーキやねん。ぼ、ぼくだって、つらいねん! 大喜利したないのに、したくないことは、せなあかんもん!」
一気にまくしたててから、ぼくは我にかえって黙った。ぼくがこんな考え方をするようになってしまったのは、ぜったい、ぼくのせいじゃない。立たなくていいって言われたら立たなきゃいけないって思っちゃうのも、スベるってわかっててボケちゃうのも。ぜんぶ、お父さんのせいだ。店外のスピーカーから割れた音で『夕焼け小焼け』が流れだした。六時だ。近くの工業高校の制服を着た体格のいい男の人たちがぞろぞろと店にはいってくる。お母さんが「わかんないなあ」と言いながらタバコを床に捨てて踏んだ。
(つづく)