劇場に入ったところで、お母さんに会った。夜勤明けによく着ている青いサマーニットが見えて、あれ、と声をかけると、なぜかお母さんのほうが恥ずかしそうに「えーもう、なんでこんなところで会うの」と体を小さくした。デート中に親に見つかった思春期の子どもみたいな態度だ。どちらかというとそれはぼくのほうなのだけど。
お母さんが真理に言及する前に、とぼくが先手を打って「朝陽くんが前説するっていうから。さっきまで朝陽くんも一緒だったから」と説明しても、お母さんは「恥ずかしがらなくていいのよ。あたしもお父さんに内緒で来てるもん」と勘違いした言葉を返してきた。本当にちがう、と言葉を重ねようとするけれど、それよりはやく真理に手を取られた。やわらかな手のひらがぼくの手をぎゅっと握るものだから、一瞬で思考が飛ぶ。
「座ろう、はじまっちゃうよ。お母さんも一緒にどうですか」
「あら、いいの」
ぼくが真理の手の感触に、わわ……となっている間に、お母さんと真理は「いつも息子がお世話になっております」「いえいえ、こちらこそ」と挨拶しあって、すんなりとぼくを間に挟んで席についた。経年劣化で尻の形通りにへこんだソファ席は、しっくりと体に馴染んだ。まだ開演まで時間はある。常連客がビールを持ち込んで、「あ、また持ち込んでますね! ダメですってば!」とスタッフに注意されている。オムライス師匠が生きていた頃から変わらない、町の劇場だ。少し薄暗いような照明も、古びた壁も、端のほつれた緞帳さえ、ぼくの呼吸を楽にした。埃っぽい空気を吸い込むと、空気が肌に浸透するようにしっくりきた。
お手洗いに、と真理が席を立つと、ぼくとお母さんは席にふたり残された。ぼくは気まずさを誤魔化すように咳払いした。
「お母さん、見にきたりするんや」
お母さんは鞄からハンカチを取り出し、両手で握り締めて答えた。
「今日はオムライス師匠の四・五回忌だからね」
「四・五回忌?」
「わからないけど……。普通は一周忌、三回忌、七回忌ってするでしょう? でも『三回忌と七回忌の間が開きすぎてて可哀想じゃないか』ってお父さんが言い出して、普通なら五回忌だけど、オムライス師匠が亡くなったのは午前四時五分だったから四・五回忌にしようってことになったらしくて。カレーライスさんが四・五回忌追悼ライブだってチラシを持ってきてくださったの。いい人よね、お父さんの兄弟子とは思えない」
「ほんまに、あの人は……」
呆れてため息をつく。お父さんのことだから、「四・五回忌」って響きが好きなだけだろう。オムライス師匠が亡くなった時間云々なんて、どうせ後付けだ。発案するだけして、あとはカレーライス師匠がなんとかしたに違いない。お母さんもカレーライス師匠みたいなしっかりした人と一緒になればよかったのに。そう考えていたら、つい、
「お母さんは、なんでお父さんと結婚したん」
とポロッと聞いてしまった。気づいたら本音がこぼれ落ちていて、回収できなくて慌てる。でも、お母さんはぼくが慌てているのなんて視界に入っていない様子で、「お父さんが一番、変だったから」と即答した。
「一番変?」
「まだ研修で大学病院にいた頃、飲み会があったの。お医者さんの先生たちにお酌するような文化も残ってて、もう嫌だなあと思ってふっと見たら、お父さんが耳にお酒入れてて」
「え、待ってなに? なんでお父さんはその飲み会にいたの?」
「同じ卓にいたわけじゃなくて、カウンター席で飲んでたの。半個室だったけど、障子は開けっぱなしの居酒屋さんだったのかな。座敷からカウンターが見えて、ひとりで飲んでるお父さんがいて、耳にお酒入れてたから『あなた、中耳炎になりますよ』って声をかけたら、『これは清酒やから大丈夫やねん』とか意味のわからないことを言って。実際、大丈夫だったのよね。変でしょ。その日、飲み会にいただれより変だった」
それでお父さんとお母さんは知り合ったのだという。劇場やテレビの出番もなく、売れない芸人のお父さんと、昼も夜もなく働く看護師のお母さんは、すぐさま同棲をはじめた。アパートの家賃を滞納して追い出されたお父さんが、お母さんの家に転がり込んだらしい。高校卒業後、看護学校で真面目に勉強し、患者を看護するために働くお母さんにとって、お父さんという存在は衝撃的だった。お父さんは家によく三角コーンを持って帰ってきた。どこかの工事現場から盗んで。お母さんははじめそれを怒っていたけど、お父さんは「しゃーないやん、『盗むな』って立て看板があってん」と悪びれなかった。変な人だ。出会ったことがない人種だった。それを恋のときめきだって勘違いしちゃったのかな、とお母さんは苦笑した。
「お父さん、変わらんなあ」
「で、自分でネット通販でそっくりの三角コーン買って、元のと入れ替えてた」
「変わらんなあ~」
ぼくは呆れて笑った。意味がわからない。意味なんて考えていたら、そんなこと思いつきもしないだろう。お父さんはいつもそうだった。いつもめちゃくちゃで、間違えることが正解で、外れることが生き方みたいな人だ。お母さんは幕の引かれた舞台を見つめながら「あの人、信念はないけど芯はあるから」とぼくと同じように笑みをこぼした。
ぼくは少し躊躇ってから、声をひそめて聞いた。
「お母さんは、ぼくが先生になるほうがうれしい? 芸人になるほうがうれしい?」
劇場後方の照明が消える。もうすぐ舞台がはじまる。薄暗くなった客席でも、お母さんが目を丸くしているのはわかった。
「永遠もそんなこと気にするの?」
「そんなことって……」
勇気出して聞いたのに、とぼくがぶすくれるより先に、お母さんが微笑む。まっすぐに舞台を見上げて言う。
「どっちもうれしいわよ。ただ、元気なら」
ブー、と低い開演ブザーの音が鳴り、照明が絞られる。小走りで真理が戻ってきて、隣に座った。ぼくはまだ、いまのお母さんとの会話を整理しきれていなくて、頭の中がいっぱいだった。ステージの緞帳が上がり、ライトが舞台中央を照らす。光の中に躍り出てきた朝陽くんと先ほど挨拶した相方のツッコミくんが「はいどうもー!」と両手を上げる。朝陽くんが客席を見回し、ハイテンションで言う。
「今日もみなさんお元気そうで。ね、前列のみなさんも素敵なお召し物ですね。左から別嬪さん、別嬪さん、五列飛ばして別嬪さん」
「五列も飛ばすな、ひとりにしとけよ」
「ウソつくのは失礼でしょう」
「おまえが一番失礼や」
ツッコミくんは低めなのにこもらない、舞台向きの声だった。シルバーの眼鏡もいかにも冷静なツッコミといった感じで、舞台映えしている。客席からは温かな笑いが起こった。年配のお客さんが多い。孫を見ているような心境なのだろう。そう分析しながら、ぼくはじっと息を潜めるように舞台を注視し続けた。朝陽くんとツッコミくんの掛け合いの呼吸に、自然と体が反応して、呼吸が乱れる。それは当然なのだけど――なんで朝陽くんの隣に立っているのが自分じゃないのか、それに違和感を覚える自分がいた。
*
教育実習の終わりは呆気なかった。渡された色紙に書かれたメッセージは「三週間ありがとうございました」という定型文ばかりで、放課後にケンジが教えてくれたところによると夏川先生による指導が入ったらしい。ケンジは「『バスケしてくれてありがとう』とか『次会ったらSUSHIビームやってね』とか書くと、特定の生徒と遊ぶのは特別扱いだと思われるとか、親の職業によって人を揶揄うのはダメだとか口出してきてさあ。普段そんな頭固くないのに。絶対学年主任になんか言われたんやと思う、マジムカつく」と不満げに頬を膨らませていた。バスケ部のメンバーたちと寂しそうに「トワセンもう会えねえの」と見上げてきたときは、不覚にもキュンとしてしまった。もともと、子どもは好きだ。好きゲージが「そこそこ好き」から「極めて好き」まで一気に上がった。二次試験に受かり、もし新卒でこの中学校に赴任したら、三年生に上がったケンジたちと一年過ごすこともあるかもしれない。そうも思ったけれど、それは言わないでおいた。
教育実習後は二次試験に向けて、模擬授業を繰り返した。前期終盤には、チョークが手に馴染み、教員に「もっと大きな声で」と注意されることも減った。学校の先生という人格が、ぼくの内側に少しずつ浸透していく感覚があった。
梅雨が明けると、一斉に蝉が鳴き出し、日光が熱をもって肌を焼くようになった。大学の構内を歩くだけで、全身が汗だくになる。模擬授業でスーツ着用が必須の講義の日なんか、何度サボろうと思ったか知れない。体力が削られ、体がだるい日が続いた。
サークルの知り合いを通じて学園祭の実行委員に大学のカフェに呼び出されたのは、そんな時期だった。冷房の効きすぎた大学のカフェは昼食をとる学生たちで溢れかえっていた。実行委員の女子学生はステッカーを何枚も貼ったMacBookをパタンと閉じると、ぼくをまっすぐに見た。アイラインが濃い、面長の子だった。長い髪を後ろでひとつに束ね、高い位置で結んでいる。
「井本くんのお父さんって、芸人さんなんだよね? あの、SUSHIビームの」
学園祭の概要説明に続けて、そう切り出され、喉が締まる感覚がした。言われる前から予想していたことだったのに、汗がドッと出てくる。実行委員の女子学生はこちらの様子など気にも留めず、「今年の文化祭、お笑い芸人さんをいっぱい呼びたいと思ってるの。わたし、お笑い好きで。芸人さんって本当にすごい職業だと思っててリスペクトしてるから、うちの学生にも芸人さんの偉大さをわかってほしいんだよ。イノモトさんって最近よく動画サイトで見るし、ネタ番組にも出てるでしょう? よかったら、お父さんに出演してもらえないかなと思ってるの」と一息に捲し立てた。
事務所に正式に依頼する前に、お父さんに聞いてくれないかと、そういうわけだった。実行委員の手元にあるアイスカフェオレの氷が崩れ、グラスの中でカランと鳴る。ぼくは椅子の背もたれに背中をべったりとつけて、ため息をついた。首の後ろを掻いて、んー、と唸る。上目遣いに実行委員を見た。
「じゃあ、お願いがあるんやけど」
「もちろん、なんでも」
実行委員は力強く頷いて、大きな目をさらに見開いてみせた。
「アールグレイブーケストロベリーフラペチーノ、頼んでええ?」
「え?」
「アールグレイブーケストロベリーフラペチーノ。前から飲みたかったんよ」
「……あ、ああ。もちろん」
「ありがとう。親父に言っとくわ」
「え、いいの?」
「ちょうど、話さんとあかんこともあるし」
実行委員は拍子抜けしたような顔でぼくを見た。実行委員が買ってきてくれたフラペチーノは茶葉の香りがして、甘くて、胃が重たくなった。アールグレイブーケストロベリーフラペチーノなんて、名前さえカフェに来るまで知らなかった。お父さんと話さないといけない、と思っていたことは本当だった。
(つづく)