最終話 選択の時間
七年ぶりに足を踏み入れた中学校の教室は記憶よりも狭く、眩しいほどに明るかった。
午前中の日光が差し込む窓の向こうから、カンカンと踏切の音が響いてくる。教壇に向かう夏川先生が「ホームルームはじめるでー、席つけー」と生徒たちを注意する声を、電車の走行音が掻き消した。南海電鉄の線路が近い教室。ぼくが中二のとき、毎日通っていた教室だった。
黒板の前に立ち、教室を見回す。三十人の瞳が一斉にこちらに向けられた。家の押し入れにしまってあるのと同じ制服を着た生徒たちが「だれ?」「実習生くるってナツセン言ってたやん」「そうやったっけ」と囁き合うざわめきが伝わってくる。梅雨入り前の湿った空気が首筋を撫でる。スーツを着ていると暑いくらいの陽気だった。
「今日から三週間、このクラスで教育実習をする井本先生です。みんな、言うこと聞くように。では、自己紹介を」
永遠、と中学時代と同じように夏川先生に呼ばれ、一歩前に出る。チョークを手に取ると、石灰のにおいがした。黒板に「井本永遠」と名前を書いて、頭を下げた。
「初めまして。国語科の教育実習生としてお世話になります。みなさんと一緒に、たくさん学びたいと思いますので――」
そう自己紹介をする間にも、生徒たちが「えいえんやって」「変な名前ー」と口々に言う。夏川先生が注意するのを聞きながら、もう一度黒板に向き直り、いのもと、と振り仮名を書き添えた。とわ、と書けばいいのに、手が止まる。エイエンでもトワでもないねん、ネオンやねん。「永」カタカナの「ネ」ぽいし、「遠」って「おん」とも読むやろ。イノモトネオン。これが本当のキラキラネームってやつやで。ネオン先生って呼んでな。大丈夫、突然全身を発光させるみたいな超能力は使えへんから――そんな言葉が喉の奥まで迫り上がってきて、必死で止める。とわ、と乱暴にチョークを鳴らして書き、言葉を呑み込んだ。先生の顔を作る。生徒たちの視線を一心に受け止め、スラックスを握り締める。自分に言い聞かせた。ボケたらあかん。それは、正しい「先生」とちゃう。
「井本永遠です。永遠と書いて、とわと読みます。永遠先生、と気軽に呼んでください。三週間、よろしくお願いします」
頭を下げると、夏川先生が「はい、みんな仲良うせなあかんよー」と言いながら手を叩いた。生徒たちもパラパラと拍手してくれる。スラックスの太ももの部分が、チョークの粉で白く汚れているのが見えた。
職員室に戻ると、夏川先生はぼくに出席簿を渡し、「改めて、よろしくお願いしますよ、イノモトセンセイ?」と含み笑いで言った。新学年になって二か月ほどしか経っていないから、出席簿の表紙の厚紙は角が硬いままで、綴紐もほつれていない。ぼくは出席簿を胸の前に抱えて、「やめてくださいよ」と苦笑した。
書類の束とコーヒーのにおいのする職員室は懐かしく、なにも変わっていないように思えた。担任教師と教育実習生が何組かデスクの前で話している。知っている先生は、夏川先生以外では教頭先生くらいのものだった。公立の中学校は毎年異動があるわけだし、同じ中学に勤め続けている夏川先生のほうが珍しいのだろう。夏川先生のデスクで次の授業の説明を受ける。はじめの数日は授業をすることもなく、教室の後方で見ているだけだ。教材研究のコツから生徒との接し方まで、夏川先生は手早く的確に教えてくれた。自分が中学生の頃はなんやこのテキトーな大人、と思っていたのに、実習生の立場になると見える側面も変わるものだ、と思っていたら、
「しかし、永遠が先生になるなんてなあ。文化祭で漫才してた、あの永遠がなあ」
と、ニヤニヤして顔を覗き込まれた。こちらは記憶通りの、夏川先生の顔だ。
「夏川先生がやれって言ったんやないですか」
「そうやったっけ?」
「そうですよ、朝陽くんがせっかく手を上げてくれて、ぼくは免れたと思ってたのに。永遠と朝陽で『永遠の朝』ってコンビ組んだら『永訣の朝』っぽくてええやん、とかよくわからんこと言って」
「よお覚えてるなあ。ええやん、またおまえらの漫才見たいわ」
「もうやりませんよ」
ぼくがすげなく答えると、夏川先生は残念そうな声を上げた。
「コンビ解散したん?」
「そもそも一時結成で、正式に結成したことはありません」
「結成したらええやん。朝陽は芸人になるんやろ」
なんで知っているのか、と先生の顔をまじまじと見て、成人式後に行われた同窓会で朝陽くん本人が「大学卒業したらNSC入んねん」と触れ回っていたことを思い出す。大阪府内の、プロを何組も輩出している有名お笑いサークルがある私立大学に進学した朝陽くんは、一年時から圧倒的な知識量でサークル内でもメキメキと頭角を現し、いまじゃ芸能事務所からも声がかかっているとかいないとか。ぼくの通う大学と朝陽くんの大学は、市こそ一緒だけれど、広い公園を挟んで南北に分たれている。教職課程の授業を詰め込んでいるぼくと、サークルのお笑いライブに精を出す朝陽くんはなかなか休みが合わず、会う頻度もずいぶん下がった。それでも、朝陽くんは時折ぼくと顔を合わせるたびに「永遠くん、コンビ組もうや」と誘ってくる。朝陽くんはお笑いサークルの友人とコンビを組んでいるけど、お笑いサークルでは何組もコンビを兼任するのが普通らしい。
ぼくはいつも曖昧に笑って、「来世でな」とか「うちのお父さんと組んだらええやん、ちょうど独り身やで」とか、誤魔化すような返答をする。教員採用試験落ちたら、なんて現実的な断り文句は決して口にしない。胸に空いた穴からは目を逸らして、朝陽くんに笑いかけると、朝陽くんは「永遠くんのお父さんとコンビかあ……。って、どんな歳の差コンビやねん」とツッコんでくれる。
「コンビは夫婦みたいなものですから。ぼく、亭主関白やから、コンビ組んでもすぐ破局しちゃいますよ」
夏川先生に言うと、先生は「なんやねんそれ。キャラちゃうやろ」と笑って、後ろを向いた。夏川先生の振り返った先に視線をやる。ぎくりと肩が緊張した。
「真理とは? 付き合ってるんやろ?」
夏川先生が真理に目を向けたまま聞く。ぼくと夏川先生に見つめられているとも知らず、真理は担当教師の言葉をメモも取らず聞いて、なにがおかしいのか手を叩いて笑っている。胸の上まで伸ばした髪を耳にかける。リクルートスーツが板についていて、ボルドーの口紅もよく似合っていた。笑い方だけが変わらない。世界ぜんぶを肯定するみたいに、顔をくしゃくしゃにして笑う。何度見ても、そのたびに等しく胸を締め付けられた。
「付き合ってませんよ」
答えた声は、思っているより乾いていて、喉の奥に引っかかりを残していった。
「えーマジかよ」
大声を上げる夏川先生を押し留め、シーッ! と口の前に指を立てる。だいたい、なんでぼくが真理を好きだって知ってるんだ。恋してるのがダダ漏れだったってことか。
騒ぐ声が聞こえたのか、ふいに真理が顔を上げ、こちらに手を振った。ぼくも片手を上げる。夏川先生がニヤニヤしているのがわかったけど、あえてなにも言わなかった。
真理を「人生で一番笑わせる」ことはできないまま、同じ大学に進学してからも友人関係が続いていた。理系に進んだ真理の周りには「オレと部分分数分解……しない?」とか、「可換環のことならオレに聞いてよ、詳しいから……」とか、語呂のいいよくわからない数学用語を駆使して真理に近づこうとする男たちが大勢いて、ぼくは気が気じゃなかった。二年から教職の授業を取りはじめたきっかけは、真理に会えるチャンスを増やしたいと思ったことだった。当の本人は「大学院は音楽学の研究室に入りたいな」と言って、周りの男たちを歯牙にもかけず、授業にも出たり出なかったりしながら他学部の講義に潜り込んでばかりいるけれど。
夏川先生から実習中の注意事項を聞き、職員室を出ると同時に予鈴が鳴った。トイレに寄るという夏川先生を待って廊下に立っていると、生徒たちに「先生、立たされてんのー」「なにしたんー?」と次々声をかけられた。十歳も離れていないのに、若さが眩しくて目が痛い。
「夏川先生待ってるだけやで、一時間目はじまるからはよ教室戻り」
「あ、ナツセン、校舎裏でタバコ吸ってるんでしょー。また教頭に『校内は禁煙』って怒られるよー」
「ええから、戻りなさい。授業はじまるよ」
生徒たちをあしらっていると、「わ、先生っぽい」と声をかけられた。聞き覚えのある声に横を見ると、真理が立っていた。冗談めかした声で「永遠先生、スーツ似合ってますねえ。すっかり先生だ」と言われる。目がきれいに弓形になって、笑窪が浮かぶ。廊下をバタバタと駆けていく生徒たちを見送って、ぼくはヘラッとした顔を真理に向けた。
「真理先生こそ。スーツ似合ってますよ。中学生男子みんな恋してしまうんちゃう?」
「なに、口説いてるの?」
口説いてるよ、と思ったけど、素直に言えず鼻を鳴らす。出席簿を置いてきたんだった、と職員室に引き返すと、真理も追いかけてきて言う。
「ねえ、いまさらだけど、なんで教職取ったの?」
あと数分で一時間目がはじまる。職員室に集まっていた教師と実習生たちも出ていって、室内に残っているのは管理職の先生たちばかりだった。
「永遠くん。先生になるの?」
真理は夏川先生のデスクまでついてきて聞いた。ぼくは置き忘れていた出席簿を掴み、胸の前に引き寄せると、なるよ、と答えた。教職課程で単位を取っても、一般企業に就職する学生も多い。でも、ぼくは教師を目指すつもりだった。今週末に行われる大阪府の教員採用試験の一次試験も受ける。
「真理ちゃんは?」
「あたしは実習に来てみたかったの。一応、採用試験も受けるけど、院進も就職もいいなって思ってるし、選択肢は広い方がいいかなって。どうせなら音楽の先生になりたかったなあ。音大に受かんなくても、教育学部のある大学に行けばよかった、って後悔中。永遠くんは? なんで先生になりたいの」
ぼくは真理から目を逸らして、うーん、と唸った。出席簿の表紙に貼られた紙布がざらりと指先に引っかかる。
「先生じゃなくても、安定した仕事やったらなんでもよかったんよ。学校は倒産せえへんし、リストラもよっぽど問題起こさへん限りされない。公務員、ええやん? 素敵やん? ……それに、先生って一番正しい職業やんか。正しい職業に就きたいなって。正しい大人になって、子どもを導いて……導けるほど偉い人間にはなられへんかもしれんけど、そういうの、すごく真っ当やろ。ぼく、まともな大人になりたいねん」
いっぺんに理由を説明してしまったあと、舌先がジリッと痺れた。本当に、そんなこと思ってるん? 自問が遅れて追いついてきて、無理やり肯定する。小学生の頃、叫んだ言葉を思い出した。
――ぼくはお父さんみたいになりたないねん! サラリーマンになんねん!
一拍、間を置いてから、真理は揶揄うように首を傾げ、
「それは、お父さんへの反抗心?」
と聞いた。ぼくには冗談に聞こえなかった。窓から湿った風が吹き込んできて、真理の髪を揺らす。その髪が光に透けて、金色に瞬いた。出席簿の表紙についていた付箋が剥がれて、ヒラヒラと床に落ちていった。
週末、教員採用試験の一次試験を終えて劇場に顔を出すと、カレーライス師匠に「ちょうどよかった、もぎりやってくれへん?」と声をかけられた。シフトに入っていたバイトの子が体調不良で来られないらしい。お客さんとしてきたんやけど、と苦笑しながら木戸に立つ。湿った空気が劇場の入り口にも充満していた。曇った空から糸のように細い雨が降り続く、天気の悪い休日だった。顔が出せるくらいのサイズの小窓を通して、差し出されるお金を受け取り、チケットを渡す。高校時代にはじめた劇場のバイトは、今年で四年目になる。全世界的に蔓延した感染症によって一時は閉館の危機に追い込まれた劇場は、一時的な休館を経て、復活した。ぼくが提案して立ち上げたクラウドファンディングは目標金額を達成し、劇場の復活に一役買った。バイト代も、ちょっとだけボーナスが出た。
予約のチケットを受け取り、半分にちぎって渡す。顔馴染みの客が来るたびに「おー永遠くん」「ありがとうな、息子くん」と口々に声をかけられる。面映いようなうれしいような気持ちで、頭を下げた。この、地元にずっと愛されている劇場が閉館してしまうかもしれなかった過去を思い出すと、心がすうっと冷えた。
「永遠くん、永遠くん」
お客さんの列も途切れた頃、カレーライス師匠に呼ばれた。楽屋に戻る。裏に足を踏み入れると、空気が変わる。お客さんの熱のある入り口や客席とちがって、楽屋はひやりとしていて、細い緊張の糸が一本、張り詰めていた。カレーライス師匠に「マジシャンが小道具忘れたらしいねん。タイミング見て、ステッキ渡したって」とステッキを渡され、舞台袖に待機する。舞台でスポットライトを浴びるマジシャンは、すでに十分すぎるくらいギミックの仕込まれた衣装を着ていた。タネも仕掛けもあるシルクハット、ジャケット、手袋、踵をガツンと打つたびに鳴る音が変わる仕掛け靴。以前、バイト終わりにひとつずつギミックを説明してくれたことがあった。一番得意なステッキを使ったマジックのタネは、絶対に教えてくれなかったけど。
次々とマジックを披露していくマジシャンのとなりには、なぜかお父さんがいた。いつも通り、乳首の部分が星型にくり抜かれたTシャツを着ている。申し訳程度に、マジシャンとお揃いのシルクハットを被っていた。
マジックショーが一通り終わると、
「では、ここからはピン芸人とマジシャンのコラボショーをお見せします」
とマジシャンが宣言し、お父さんが一歩前に進み出た。ぼくは自分ごとのように緊張しながらお父さんを見つめた。ふたりは音楽に合わせて踊ったり、お父さんがマジックを披露したりと、いつもとちがうステージを繰り広げた。終盤に差し掛かり、お父さんが声を張り上げ、乳首をぐりぐりしながら、
「ここでSUSHIビーム!」
と言うと同時に、マジシャンが腕を伸ばし、両手から紙テープを飛ばす。銀色の紙吹雪が舞う。おおー、と客席から声が上がった。笑いというより感嘆に近い反応だったけれど、それでも心は浮き立った。この歓声や、笑いを一心に受け止めるって、どんな気持ちなんだろう。人生で一度だけ、舞台に立った日のことをぼくはまだ覚えていた。中学の文化祭で、朝陽くんとステージに立った日。前のバンド演奏グループ用に調整されたライトが、故障で七色に光り続けていた。七色の光に照らされながら、朝陽くんの言葉に必死で返していたら、笑いの粒が客席からバラバラと投げられて、舞台を降りたくないくらいだった。ずっと、ここにいられたら。そんな夢想さえした。学校の文化祭でそうなんだから、劇場やテレビでネタを披露することは、本当に人生を懸けてもいいくらいの高揚があるんじゃないだろうか。
ぐっと手を握りしめる。芸人なんてなるもんじゃない、貧乏だし仕事に波があるし売れるかわかんないし貧乏だし貧乏だし……。大学進学を考えはじめた時期、お母さんが愚痴っぽくそう言っていた。お父さんが「あんなひと」なんだ。ぼくだって、それは十分にわかっている。先生になる、という宣言も嘘じゃない。本心だった。ただ、舞台の高揚に反応する体のざわめきだけは、止められなかった。
マジシャンがシルクハットから鳩を出す。鳩は真っ直ぐに天井に羽ばたいていった。先ほどよりも大きな歓声が上がった。ぼくはマジシャンに目で合図し、ステッキを自然に渡せるように、頭をフル回転させた。お父さんが動いたのは、ぼくが小道具に気を取られた、その一瞬のことだ。お父さんがマジシャンの腰のあたりをまさぐって、手のひら大の太い蝋燭を奪う。
「まったく新しいSUSHIビームをお見せしましょう」
マジシャンが「ちょっとなにするんですか」と制止するのも聞かず、お父さんはどこから取り出したのかライターで素早く火をつけると、蝋燭を高らかに掲げた。
「ここで、新・SUSHIビーム!」
次の瞬間には「アチッ!」と胸もとにあてていた蝋燭を放り投げた。火傷したのか、右乳首を押さえている。放り投げられた蝋燭はマジシャンのジャケットを掠め、足元に転がった。マジシャンが慌てて避けるが、足先に蝋燭が当たるのが見えた。「やばい、行って、行って」とカレーライス師匠に後ろから急かされ、ぼくは慌てて舞台に出ていって、蝋燭を回収した。お父さんは右乳首を押さえ、蹲っていた。
終演後、お客さんを見送って楽屋に戻ってくると、カレーライス師匠が正座するお父さんの前に仁王立ちしていた。楽屋の空気は重苦しかった。お父さんは上半身裸で項垂れて座っている。大判の絆創膏が右の乳首に貼られているのが滑稽だったけど、笑える空気じゃなかった。カレーライス師匠の斜め後ろでは、マジシャンが同じように仁王立ちをしていた。ジャケットをバサバサと振って、
「これ特注品なんすよ! 汚れたら舞台で着れないじゃないすか、弁償してください」
と騒ぎ立てる。振るたびに、ジャケットからはカラーボールやバラの花、ホイッスルなどの細々した小道具がポロポロと落ちた。カレーライス師匠が困り果てた顔で補足する。
「ちょっと焦げてる箇所もあるし、弁償してもらえると助かるんやけど……。イノモトが、奥さんには言わんとってほしいって言うねん」
「今度やらかしたら離婚やねん!」
お父さんがカッと目を見開いて叫ぶ。
「この間、カレーライス兄さんの弟子のクラムチャウダー之助の頭を鍋いっぱいの熱々クラムチャウダーに突っ込もうとして、台所で鍋ひっくり返して廊下までクラムチャウダーまみれにしたとき、『次やらかしたら離婚』って最後通牒突きつけられて……」
「らしいねんけど、イノモトに貯金があるわけないやろ? どうしたらええかなと思ってなあ」
「お支払いします」
気遣う様子でぼくを見るカレーライス師匠に申し訳なくなり、ぼくは即答した。
「永遠あ」
感激したようなわざとらしい声を上げるお父さんに、白い目を向ける。お父さんが劇場やテレビのギャラを貯金しているとは思えないから、そちらは当てにしていなかった。幸い、バイトで貯めた金はあるから弁償代は払える。お金はいい。ただ、乳首に絆創膏を貼って息子に弁償代を出させようとしている情けない六十路は、看過できなかった。
マジシャンに「すみませんでした」と頭を下げ、ジャケットと靴を見せてもらうと、一部が焼け爛れていた。特注品の仕掛け靴は五万円もするらしい。ぼくは泣きそうになりながら、後日お金を持ってきます、と返事をした。焼けたのはジャケットと靴だけだったようだが、もし消火が遅れたり、一歩間違えて緞帳に引火していたりしたら、劇場全体に燃え広がっていたかもしれない。それなのに、お父さんはまったく反省する様子もなく「火傷痕残ったら、いっそ刺青入れるのもええなあ。右乳首はケロイドで、左乳首は星型の刺青で……」といつのまにか取り出したマジックペンで左側の乳首を囲うように星を描いている。
「なんでそんなことすんねん」
ぼくは呟くように聞いた。お父さんが「ん?」と顔を上げる。小さな声は、お父さんの耳に届かなかったようだ。ぼくは首を横に振った。わかっていた。お父さんの答えなんて聞かなくても。
カレーライス師匠にも謝ると、カレーライス師匠は銀歯を見せて力なく笑った。
「しゃあないからな、コイツの悪癖は。危ないってわかってても、わかってるからこそ、怪我するほうを選ばなあかん。そういうビョーキや」
「……甘やかしたらダメですよ」
「わかってるって、ちゃんと叱るし。永遠くんにも迷惑かけてすまんなあ」
「師匠が謝ることちゃいます」
カレーライス師匠と目を合わせるのが気まずくて、視線を彷徨わせる。
お父さんは左乳首の周りに描いた星を塗りつぶすのに必死で、ぼくらの会話をまったく聞いていなかった。高校生の頃、道頓堀川に飛び込んでびしょ濡れになったお父さんが言った言葉の真意を、ぼくは聞けないままでいた。永遠、おまえは芸人にならんほうがええ――。お父さんにしては珍しい、重苦しい声がまだ耳にこびりついている。理由を聞いても、お父さんのことだから茶化すだけだろう。それならもう、聞かずにいたほうが楽だった。教職課程を履修しはじめたときも、教育実習がはじまったときも、お父さんはなにも言わなかった。それが答えである気がしていた。カレーライス師匠に指示され、客席の清掃に向かいながら、箒を持つ手が震えていた。
(つづく)