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 お父さんが「東京に行くぞ」と言いだしたのは、その晩のことだった。

 ぼくはわけもわからないまま、心斎橋から出る夜行バスに乗せられた。四列シートの窓際の席だった。となりの席のおじさんが寝こけて寄りかかってくるのに邪魔され、一睡もできなかった。お父さんは前の席でいびきをかいて寝ていた。ボサボサの髪が背もたれの上で揺れているのを見て、ぼくは改めて「なんで東京……?」とつぶやいた。

 東京駅のバスターミナルについたぼくらは、すぐに山手線に乗り、新橋でゆりかもめに乗りかえた。突発旅の目的を聞いても答えは返ってこず、ぼくは行き先も知らないまま電車に揺られつづけた。

 行き先くらい教えてくれてもいいじゃんか、とむくれていても、東京のビル群の間を抜けていくのはきもちがよかったし、お台場海浜公園が近づいて海が見えると興奮した。台場駅で降りたときには、甘い予感さえあった。だってお台場といえば球体展望室が有名なあのテレビ局があるところだ。お父さん、なにかテレビに出る予定があって、それにぼくを連れていく気なんじゃないか、って期待してしまう。

 果たして、お父さんはテレビ局に向かい、道路をはさんで関係者入り口が見える街路樹の下に腰をおろすと「永遠、あんぱんと牛乳買ってこい」とぼくに五百円をもたせた。

「なに、なにをしようとしてるの? 張りこみ? だれの?」

「あんパンと牛乳と、そうやな……大豆バーもたのむ」

「ねえ、いいかげんなにしようとしてるか教えてよ」

「牛乳は低脂肪乳のやつにしてな。鉄分がいっぱいはいってる貧血にいいやつで……」

「お父さん!」

 ぼくは五百円玉をぎゅっと握りしめて怒鳴った。なんてめんどうなんだろう、と目を回しながら、聞き方を変える。

「……教えないで。もう興味ないから」

「弟子入りしたいねん」

 お父さんが素早く答える。本当に、なんてめんどうなひとなんだろう。

「弟子入り? お父さん、落語家のさかき師匠に弟子入りしてすぐ破門されてたやん」

「うん……でも、お笑いの師匠についたことはないやろ。おれも考えてん。永遠たちに教えられることなんてなんもないって。背中で語ることしかできへんねん」

「背中からなにも聞こえてこないから困ってるんだけど。まあええわ、それで? だれに弟子入りすんの」

「うん……小島よしおにな」

「小島よしお? 小島よしおって、あの小島よしお?」

 ぼくは驚いて聞き返した。

「あ、永遠がいまイメージしてんのは前期小島よしおやろ。おれが用あんのは後期小島よしおやで」

「後期……なに?」

「『そんなの関係ねぇ』でブレイクした小島よしおは、おれと同一や。裸芸の一発屋って思われる存在。でも、小島よしおはブレイク後、子どもに向けた活動に舵を切る。イオンモールでやる親子向けのファンミーティングとか、子どもの人生相談とかな。これが後期小島よしおや。おれに足りへんのはここやと思ってん。永遠たちに笑いのなんたるかを教えるためには、おれも後期イノモトにならなあかんねん」

「え、わざわざ東京きて……テレビに出るわけじゃないの」

「出えへんよ、出るなんて一言も言うてないやろ」

「なんだよお……」

 ぼくは急に気がぬけて、街路樹のかげに座りこんだ。なんてバカげた理由なんだろう。テレビに出るわけじゃないと知ると、胃がむかついてきた。反抗期やな、と得意げに言う朝陽くんの顔もセットで浮かぶ。お父さんひとりで行けばいいのに、なんだってぼくを連れてきたんだ。ぼくは無駄口を叩くことをやめて、歩道の端っこにうずくまった。所持金ゼロ円のぼくには帰る手段もないのだ。お父さんはぼくから五百円を奪い返すと、あんパンと鉄分増量低脂肪乳を買ってきて、街路樹のむこうを監視しはじめた。

 お父さんが「あっ」と声をあげたのは、ぼくが座ったままウトウトしていたときだった。肩を揺すられ、顔をあげる。半裸でブーメランパンツの男性がテレビ局にはいっていくのが見えた。「あっ」とぼくも同じように声をあげる。

 カラフルな縦縞のブーメランパンツに、引き締まった肉体。腹筋がシックスパックにきれいに割れているのが遠目からでもうかがえた。レインボーのプロペラ帽子を被っている。小島よしおだ。

 半裸の男性が撮影スタッフも伴わずに街中を歩いている光景は異様で、テレビ局から出てきた警備員が小島よしおに駆け寄っていくのが見えた。

 お父さんは素早く立ちあがると、信号を無視して道路を駆けぬけ、小島よしおに一直線に向かっていった。ぼくも後ろを追いかける。お父さんを避けようと急ブレーキを踏んだ車と後続車がクラクションを鳴らしあい、道路は大混乱になっていた。青信号になるのを待って、車の間をすりぬけるようにして横断歩道を渡る。渡ったさき、関係者出入り口ではお父さんと小島よしおが押し問答をしていた。警備員が戸惑った顔でふたりを見守っている。

「弟子にしてください。なんでもします。ブーメランパンツ、一枚一枚丁寧に洗濯して干します」

「なんなんですか、あなた……」

「年上の弟子なんてイヤかもしれんけど、『芸人』が染みついてることはアドバンテージやと思ってます。お遣い行ってこいって財布渡されたら一、二万抜きます。飲み会で『最近はアルハラって言われるから、無理せんとってな』って言われたらテキーライッキします。そういうとこがあかんのかな、どう思います? よしおさん」

「いや、よしおさんじゃなくて……」

「押すなは押せとか、もう古いんかな。よしおさんはそういうノリとはちがうスタイルですもんね。我が道を行くタイプ。おれもそれになれたらええんかな。我が道を行ってると思われがちやけど、ほんとはぜんぶ反射なんです。染み付いてる反射だけでやってるから、古いって言われるんやけど。古いってなんやろ、ひとが笑うことに古いも新しいもあるんかな。押すなって言われたら、もうからだが押すようにできてるやん。そういうのって、子どもに教えてもハラスメントって言われておしまいなんかな。ねえ、よしおさんは……」

「だからっ!」

 小島よしおが声を荒らげる。ぼくはお父さんの後ろでびくりと肩をふるわせた。声を荒らげる小島よしお、はじめて見た! とちょっと感動する。でも、間近で見る小島よしおはテレビで見るより覇気がなくて、顔もちょっとむくんでいて、ブーメランパンツを穿いていなければ気づかないような……。失礼なことを思うぼくをチラリと見て、小島よしおは被っていたプロペラ帽子をとった。

「ぼく、小島よしおじゃないです」

 プロペラ帽子の下は、見事なまでのバーコードハゲだった。ぼくとお父さんは絶句して、側頭部だけに髪が残った頭を見つめた。

「そっくりさんです」

 小島よしおだと思われていたひとはそう言うと、腹のシールをベリッと剥がした。平坦な、隆起のほとんどない腹があらわれる。腹筋の影が描かれたシールを貼っていたらしい。小島よしおを小島よしおたらしめる要素は縦縞のブーメランパンツだけになった。ただの半裸のおじさんだ。よく見れば『芸人そっくりさん大集合スペシャル特番出演者様』と書かれたネームタグを首から下げている。ネームタグを確認した警備員は「着替えは楽屋でってお願いしてますよね」と小島よしおだと思われていたひとを注意して、去っていった。

 そして、小島よしおだと思われていたひとは、あんぐりと口を開けるぼくたちに「たぶん、小島よしおも普段はジャージとか着てると思いますよ。裸って、目立つんで」と言い、プロペラ帽子を被り直して局にはいっていった。残されたぼくとお父さんは顔を見合わせて「そらそうや……」とハモった。

 

 その夜の夜行バスでぼくたちは大阪にもどった。本物の小島よしおには会えなかった。お父さんはテレビ局の前でしばらく粘っていたけど、ぼくが「もういいやろ」と腕を引くと、素直に電車に乗りこんだ。お父さんがそっくりさんに言っていたことは、ぼくの脳を揺さぶって、へんな刺激を与えた。お父さんも子どもに『押すなは押せ』って教えたらダメかどうかとか、考えるんだ。あんなめちゃくちゃなひとが。それだけで、なんだかぼくは胸がすっとする感覚があった。

 サービスエリアのトイレ休憩でバスを降りると、潮風のにおいがした。バスがどんなルートを走っているか知らないけど、海が近くにあるのかもしれない。風は昼間よりずいぶんと冷たく、二の腕が冷えた。サービスエリアはコンビニだけがピカピカと明るかった。寝不足の目に強い光が染みる。トイレにはいり、小便器の前に立ったとき、後ろの個室のドアが開いてお父さんが出てきた。ぼくを見つけ、「おう」ととなりの小便器に立つ。ズボンのファスナーを下ろす音がするので「いましたんちゃうの」と聞くと、「おれは大便器では大便しか、小便器では小便しかせえへん」となぜか胸をはられる。尿が便器にあたって跳ねる音がふたりぶん、シンクロした。出ていきたいけれど、途中で切りあげるわけにもいかない。ぼくが動けないのを見計らったように、お父さんが口を開いた。

「永遠、やっぱお父さん、押すなは押せってことやと思うわ。押さなあかんってインプットされてんねん。押すやん。押したら相手もうれしいやん。うれしないって言われたら、もう、どうしたらええかわからへん。イヤやって言われたら、オイシイと思ってんねんなって解釈してしまう。そういうもんやん、理屈なんてないやろ。でも、イヤはイヤってことの場合もあるらしいわ。永遠も気をつけなあかんで。ダメやからな、真理ちゃんにいきなりチューとか……」

「しません」

「わからんやんか、パッションが溢れて……」

「溢れません」

 ぼくはファスナーをあげて、トイレを出た。コンビニ前のベンチに座って、お父さんをあごでつかう。大人しくいちご牛乳を買ってきたお父さんは、持っていたカバンから首に巻きつけるCの形の枕を取りだし、カポッと首にはめた。いちご牛乳は思ったよりずっと甘くて、ぼくは眉間にしわをよせて聞いた。

「そのアドバイスは、芸人として言ってるん? オヤジとして?」

「……そうやなあ。榊家師匠は『人間である前に芸人であれ』が口癖のひとやった。三か月で破門されたから口癖なんてわかるわけないと思うやろ。一日に十回は言うねん。ちょっとボケてはったんやろな。たった三か月でも耳にタコができるくらい聞いたわ。赤い頭の大きいタコが耳にこう住み着いて……」

「お父さん」

 小声で呼ぶと、お父さんはバツがわるそうにぼくを見た。枕の間から手をつっこんで、頬をかく。

「おれは人間である前に芸人で、その前に永遠のオヤジやねん」

 珍しく真剣なその言葉に、胸の奥底が熱くなるのを感じた。そうだ、芸人としてのお父さんのことはわかった、でも親としてのお父さんのことがわからない、ってことに、ぼくはイライラして、朝陽くんに「反抗期だね」なんて言われていたんだ。

「やから、永遠の友だちの有望な若者には熱湯風呂くらいの熱さの洗礼をぶっかけてやらんとあかんと思ってな。オヤジとしての役目を果たしたかってん」

「どんなオヤジやねん」

 ぼくは吹きだした。言ってることが支離滅裂だ。息子の友だちに『乳首出せ』って迫ることがオヤジとしての役目なんて、聞いたことがない。お父さんはそれを真剣な顔で言い切って、ぼくを見ている。鼻の穴から毛が出ているのが見えた。どこまでもこの親父は。ぼくの鼻の穴もつられて勝手に広がる。湿った息を鼻から逃した。口角はあげたまま、目の奥がツンとするのを押し殺す。傷つけたらあかんねん、アホ。息子の友だち傷つけた時点で、オヤジ失格や。

「……ほんま、芸人すぎるって」

 その夜、ぼくらはバスの出発時間に席にもどるのを忘れて、サービスエリアで夜を明かした。ふたりとも荷物はもってバスを降りていたから助かった。お母さんに「夜勤が終わったら迎えにきて」と電話をかけると、お母さんは「小島よしおに弟子入りするために東京行った帰りのバスで取り残された? よくわからないけど、遠くにいくときはちゃんと報告・連絡・相談しなさい」と怒りながらも、了承してくれた。

 サービスエリアには何台ものバスが入っては出ていった。トイレに寄る乗客はみんな腫れぼったいまぶたをこすって、疲れた様子だ。テールランプの点滅とバックする車のリバース音が目と耳を刺激する。心地よい風が頬をなでた。お父さんが持っていた枕を奪ったのに、枕からなんでかウンコのにおいがするのに耐えきれず、結局、ぼくはまた一睡もできなかった。

 

 文化祭の朝は起きたときにはもう首のあたりに汗をかいていた。それが緊張のためなのか熱暑でからだの体温調節機能がバグったからなのかはわからなかったけど、とにかく首がかゆくて、通天閣の下で待ち合わせた真理に「どうしたの、首赤いけど」と聞かれるほどだった。

 ぼくは首にできた湿疹と同じくらい、全身を真っ赤にして、勢いよく頭を下げた。

「ぼく、真理さんのことが好きです! つきあってください!」

 差し出した手の指先まで、熱かった。

 通天閣の下は朝でも人通りが多くて、ぼくと真理を避けて通っていく中高生やサラリーマンが好奇の目でぼくらを見ているのを感じた。それでも、ぼくは手を差し出したまま、顔を上げなかった。

「えっと……」

 ためらう声が頭上から降ってきて、固く目をつぶる。

 あの夜、最後まで言えなかった告白。文化祭当日の朝を選んだのは、験担ぎだった。告白がうまくいけば、朝陽くんとの漫才もうまくいく。裏を返せば、告白がうまくいかなければ漫才も……ってことになるけど、それは考えないでおいた。今日告げないと、いつまでも思いを伝えられないままだと思ったから。

 なかなか返ってこない答えに、だめか、と差しだした手を下ろしかけたそのとき、ちょん、と指先に手が触れた。勢いよく顔をあげる。「わっ」と驚いた声がしたけど、構ってられない。真理がぼくの手を握っていた。熱をもった全身が、より一層熱くなる。飛びあがるくらいのよろこびに、真理の手を固くにぎった。真理が「痛いよ」と声をあげる。

「ご、ごめん」ぼくは謝って、熱い頬を手の甲で冷やしながら聞いた。「これって、お、オッケーってこと、だよね」

 真理は目を伏せて恥じらうようにしてうなずいて、上目遣いでぼくを見た。

「条件付きでも、いい?」

「も、もちろん」

「結構キツい条件だよ?」

「大丈夫、言って」

 真理の目が、きらんと光った気がした。ぼくが恋に落ちたときと同じ、照れたような笑みで真理が言う。

「今日、お腹痛くなるくらい、わたしのこと笑わせてみせて」

 そしたら、いいよ。甘い声で告げられた条件に、ぼくは即座にうなずいた。うなずかない選択肢はなかった。真理の手の形をたしかめるように、にぎる。いいよ、という響きが耳の奥で何度も跳ねて転がって、うれしさが消えない。真理を笑わせるためなら、なんでもできると思った。ブーメランパンツ一丁で舞台に立てるし、熱湯風呂にだって飛びこめる。SUSHIビームだってやってやる。それはお父さんの言う「反射」とはちがうのかもしれない。でも、ぼくには芸人の血が流れているって、証拠な気がした。お父さんは案外、背中でいろんなことを語ろうとしていた。

 手を離したくないぼくとは裏腹に、真理はパッとぼくの手を振りほどいて、

「朝陽くん!」

 と高くあげて振った。真理の視線を追うと、朝陽くんが息を切らせて走ってくるのが見えた。夏の朝のまっすぐな光がガラスに反射して目をさす。汗が顎を伝った。まだ真理の体温が残る手を一度グッとにぎって、ぼくも手をあげた。ぼくの、はじめての相方に向かって。

 

 

(第二話 了)