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 現職候補は爽やかな笑顔で「あんまり立ち止まってないふうに立ち止まって聞いてくださいねー、通行妨害で警察のお世話になりたくないのでー。あ、お姉さん、立ち止まってないふうに聞くの上手ですねー」と集まった有権者たちに呼びかけた。

 街頭演説は序盤から、お父さんと現職候補の公開討論会のような様相を呈した。

「西新の会から出馬し、これまで二期、府政をお預かりしてきました。府民のみなさまのご支援を賜り、行財政改革に取り組むことで、大阪を少しでもよくするため、尽力してきたつもりです。世界的なパンデミックや気候変動などの諸問題にも、適切に対処してきました。通天閣には今日も『明けない夜はない』という文字が掲げられています」

 と現職候補がこれまでの実績を主張すれば、

「西成の地に出生し、これまで三十年、ギャグ一本でやってきました。劇場のおっちゃんたちに小突き回され、師匠の嫁さんの財布から金を盗んだりしながら、なにかをよくするなんて信念もなく、生きてきたつもりです。世界的なパンデミックに煽られて、うちの劇場はもうもたないらしいですわ。明けない夜はない、ってのは寒空で夜を明かしたことのないやつだけが言える言葉やないですか。『止まない雨はないって、いま傘が欲しいんじゃボケ!』ってことでね。エンタメ業界に支援を、ってのはそういうことですわ」

 とお父さんは現職候補の言葉をまぜっ返して笑いを誘った。

 ぼくは戎橋の端っこからお父さんの声を聞いていた。お父さんに見つからないように、帽子を目深に被って。コートのボタンを上まで留めていても、首元を冷たい風が撫でて、足が震える。

 選挙がはじまったときはまだ、制服のブレザーだけで暖かかったのに。季節は移ろい、風が冷たくなって、選挙は明日で終わる。お父さんは最後までボケなしで、政策を訴えている。

「どうせ当選するわけないのに」

 隣から、声が耳に飛び込んでくる。自分が言ったのかと思った。ぼくの声じゃない、もっと軽やかでよく通る、女の子の声だ。体を仰け反らせて隣を見ると、真理がニッコリと笑って立っていた。黄色いセーターとミニスカートにロングブーツを合わせていて、おしゃれな大学生みたいだ。ぼくは一瞬、頬を染めて真理を見つめた。

「って、思ってる?」

 と聞かれ、あわてて顔を背ける。

「いや、別に……うん、まあ……思ってる」

「あはは、正直!」

「だれだって思うでしょ」

 真理は「たしかにねー」と笑って、欄干に背を預けた。真理がお父さんに向ける目は、中学のとき、夏祭りでギターを弾くお父さんを見ていたのと変わらない。お父さんは黒いジャケットを羽織って、あのときとはちがうのに。

「当選せえへんかったら、意味ないやろ」

 ぼくは拗ねたときみたいに唇を尖らせて言った。

「意味ないの?」

「だって、『エンタメ業界に支援を』って政策語っても、当選せんかったら実行できへんし。お父さんこそ、ぼくたちの傘になれへんやん」

「ほんとに?」

 挑発するみたいな言葉に促されて、背伸びしてみると、お父さんは群衆に背中を向けていた。ジャケット背面には、大きな白いQRコードがあった。刺繍だろうか。隣で真理がスマホを掲げ、読み取った。橋に集まった人々もみんなスマホを掲げていた。ぼくもスマホを取り出して、カメラアプリを起動する。お父さんの背中に、かざす。現職候補の演説が耳をすり抜けていく。出てきたURLをタップすると、すぐにページが表示された。クラウドファンディングのページだった。劇場の復活を目指してぼくが立ち上げたクラウドファンディング。

「なんで……」

 上に引っ張ってスワイプするたび、画面の右側に表示された「支援者数」が増えて、オレンジ色の支援達成率を表すバーが伸びていった。そのバーの動きに比例するように、ぼくの中でもなにかが膨れ上がって、胸につかえて、言葉が出てこない。

「お父さんからLINEで劇場のこと聞かれて、なんでわたしに聞くんだろって思いながら朝陽くんに聞いたら、永遠くんがクラファンしてるって言ってたから、教えてあげたー」

「真理ちゃん、お父さんとLINEしてんのっ? 犯罪やん。おっさんがJKとLINEするとか、もうその時点で犯罪」

「ただのおっさんじゃないからセーフ! 永遠くんのお父さんだから。お父さんね、永遠くんのことすごい気にかけてて……」

 真理が言いかけたとき、お立ち台を囲む人集ひとだかりからどよめきが伝わってきた。目を向けると、お父さんが戎橋の欄干に立ち、拳を振り上げていた。先ほどまで着ていたジャケットを脱ぎ捨て、乳首の部分が星型に空いた、いつものTシャツを着ている。ジャケットは橋の欄干にかけられていた。ぼくは無意識にすうっと息を吸った。お父さんだ。いつもの。

 人集りから「イノモトー!」「SUSHIビーム!」と声援が飛び、それはすぐにカウントダウンに変わった。五ー、四ー、三ー、と掛け声が大きくなっていく。ぼくはその掛け声で、お父さんはスカすんじゃないか、と瞬間的に思った。押すなよは押せってことだし、押せは押すなよってこと。お父さんにはそれがインプットされてる。

 でも、お父さんは飛んだ。

「笑いは不滅やー!」

 と無駄に熱い台詞とともに、綺麗な姿勢で道頓堀川に飛び込み、真下に落ちていった。

 ぼくは欄干に駆け寄った。水飛沫の音がして、すぐにいくつものシャッター音が響いた。拍手している人だっていた。人にぶつかり、謝って、転び、謝って、欄干まで辿り着く。現職候補は呆気に取られた様子で、下を覗き込んでいた。ぼくも同じようにお父さんが飛び込んだ先を見る。水面には、あぶくひとつ立っていなかった。

 

 戎橋の短い階段を降り、グリコの看板の下にある遊歩道を彷徨う。中学生にしか見えないパンツの見えそうなスカートを穿いた女子が数人、たむろしてスマホをいじっていた。川の反対側を探す真理が、対岸にずらりと並んだ白提灯越しに見えた。水面に目をやっても、それらしき影は見つからない。まさか溺れ死んだんじゃないだろうな、と不吉な予感が胸をよぎったそのとき、ザバッと音がして、ずぶ濡れのお父さんが川から上がってきた。なぜか満面の笑みだ。ズボンが重たいのか、柵を乗り越えられずに足掻いている。

 ぼくは駆け寄って、「なにやってんねん!」とお父さんの手を掴み、引っ張り上げた。ドブのにおいがした。遊歩道に突っ伏したお父さんは全身を痙攣させていて、ぼくは自分のコートを脱ぎ、その背中にかけた。すぐに振り払われる。なにすんねん、と声を荒らげそうになったが、すぐに様子がおかしいことに気づいた。

 お父さんが蹲ったままベルトを外し、ズボンを下げる。パンツの中からなにかが飛び出し、ビチビチと跳ねた。手のひら大の魚。ブルーギルだった。

「はあ、死ぬかと思った。くすぐったくて」

 お父さんはまだ頬を引き攣らせて、項垂れた。そして、ぼくのコートにくるまって、動かなくなった。

 ドブ川のにおいをさせたずぶ濡れのおじさんをタクシーや電車で連れ帰るわけにもいかず、お母さんに連絡を取った。非番のお母さんが迎えにきてくれるまで三十分。ぼくはドンキで買ったカイロをお父さんの体にこれでもかと貼り、どうでもいいことを話しかけ続けた。雪山で遭難したときに意識を保つため話し続けるやつだ。

「さっきのQRコード、いつの間に用意してん。クラファン達成できそうやで。お父さん、ぼくに直接聞いてくれたらよかったのに、なんで真理に……っていうか、なんで真理とLINEしてんねん。いますぐやめて。汚れるから。真理が汚れる。でも、今回のはちょっとありがとうっていうか、いや、ぼくまだ全然『なにが政策じゃ』って思ってるけど、そうやって言葉で訴えるのも必要なんかもしれへんとも思って……」とひとりで喋りはじめてから、相手に返答させないと意味ないのかと気づき、「お父さん? えーと、なんで飛び込んだん」といまさらすぎる問いかけをした。

 お父さんは相変わらず体を大袈裟なくらい震わせていたけれど、突然目を見開くと、「父ちゃんは未来予知ができるようになってん。アヌンナキの精霊の予言を媒介するイタコになってな」と話しはじめた。

「イタコって男もなれるん?」

「二年後にはいま街を歩いてるやつの半分もマスクもしてへんし、飲み会も復活して、劇場も通常営業。むしろオンライン配信が普及して増収してる」

「めっちゃ楽観的な予言やなあ」

「ユーチューブの『officialイノモトチャンネル【公式】』がバズって、おれは女子高生に大人気で学園祭に呼ばれまくってる」

「ただの願望やん」

「『officialイノモトチャンネル【公式】』が登録者三十万人達成して」

「なんでオフィシャルチャンネルであることをめっちゃ強調してくんねん」

「阪神は優勝して」

「阪神が優勝するわけないやろ!」

「優勝すんねん」

 お父さんは静かな目でぼくの目を見据えて言った。震えが止まっていた。その目線が戎橋の欄干に向く。もう現職候補は次の街頭演説に向かって、いつもの平穏な光景に戻っている。

「そんで、おれは道頓堀に飛び込むねん。阪神が優勝したから」

「今日みたいに?」

「今日よりギャラリーは多いで。みんな興奮してな、おれに続いて何人も飛び込むねん。道頓堀のあのきったない川に飛び込んで、そのときにはもう感染症とか、緊急事態宣言とか、そんなんみんな忘れてんねん。ただ阪神優勝を祝って、ウェーイって感じでな」

「お父さん、中日ファンやん」

「阪神ファンに擬態すんねん」

「なんで? 今日も、なんで飛び込んだん? 飛べって言われたら飛ばへんのがイノモトちゃうの」

「そっちのがおもろいやろ」

 おもんないわ、とツッコむ声が、川岸を吹く風にさらわれて消える。対岸の提灯に火が灯って、飲食店のざわめきが大きくなる。夕方と夜の境目。まだ闇というには明るい、明度の下がった街が背後を流れていく。

「せやから、心配すんな。カレーライス師匠はいざとなったらなんとかすんねん。劇場は大丈夫。それに『いますぐはどうにもならんってわかってても政策を提言して未来の世代に託す』のは、師匠の願いやから」

「え?」ぼくは最後の一言が引っかかって、顔を上げた。「師匠の願いって、一番おもんない遺産の使い方してくれ、じゃなかったん?」

「それが一個な。もう一個あんねん」

 お父さんは眉を寄せて、困ったような面白がるような微妙な表情で、ぽつりと言った。

「次の世代が『めいっぱい間違えられる』未来を作ること」

 言葉が耳から脳に届いてから、あ、と思った。お父さんの表情。困っても面白がってもない。懐かしんでいる表情だ。師匠の顔が浮かんだ。幼少期に楽屋で遊んでもらった。独演会をする前は緊張して五分に一回トイレに行っていた。落語は一級品で、でもワザとトチってお客に「ししょーしっかりー」と野次られるのがお決まりだった。弟子を叱るときはいつも、未来の話をした。次はウケろ。師匠の教えはいつもそれだった。

「……なんやそれ、難題すぎちゃう?」

 ぼくが泣きそうで笑いそうで、顔をくしゃくしゃにして言うと、お父さんも、

「あの人は、難題を出すのが趣味みたいな人やねん」

 と笑って、大きなくしゃみをした。鼻水が飛んでくるのを必死に避ける。お父さんはズボンのポケットからぐしゃぐしゃに濡れた紙を出すと、それで洟をかんだ。インクの文字が滲んでいる。『弔辞』と書かれた巻紙は、お父さんの洟をたっぷり吸ったあと、道頓堀川にポイ捨てされた。

 あかんやん、と思わず笑ってお父さんの肩を叩くと、お父さんは本当に不思議そうな顔で「でもあれ、白紙やで」と言い訳をした。だからなんやねん。なんで白紙やねん。ぼくはツッコむのをやめて、口を開けて笑った。うっすらと白い息が上る。ぜんぶボケだった、って知っているのはぼくだけでいい気がした。

 カンカンと階段を駆け降りる音がして、見ると、真理がこちらに駆けてくるところだった。

「もー、見つかったなら連絡してよー」

 と文句を言われ、ごめん、と手を合わせる。

 振り返ったところで、戎橋の欄干から身を乗り出すお母さんも見つけた。「おーい」とお母さんに向かって挙げかけた手を、お父さんにつかまれる。向き直ると、お父さんはじっと、いままでお父さんと過ごしてきた十七年間で一番真剣な顔で、ぼくを見据えていた。ぼくが手を振り解くと、両手を胸の前でグルグルと回してみせた。水晶に手をかざす占い師のパントマイムだ。なんやねん、と半笑いになるぼくと対照的に、お父さんは、これが最後の予言な、と前置きして、

「永遠、おまえは芸人にならんほうがええ」

 と重々しく言った。その予言、ほんまに当たるん? と茶化してもよかったのに、ぼくは口を固く引き結んだままだった。背後で光るグリコの看板が、ぼくらを照らす。冷めた空気が頬をザラザラと素通りしていった。

 

 

(つづく)