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第一話 道徳の時間(承前)

 

 帰宅すると、お母さんはすぐにぼくをお風呂に放りこんだ。脱衣所でもたもたとヒートテックを脱いでいるあいだ、お母さんが「永遠にまたヘンなこと教えたでしょ!」ってお父さんを問い詰める声が聞こえていた。

 急いで体を洗って、湯船でふたつ飛ばしで百数えてお風呂を出ると、お父さんがぺしょっとくたびれてきたソファの上で正座して、同じくらいぺしょっとなっていた。昼間より、一回りくらい小さく見える。ソファの前に立つお母さんは腕組みをして、お父さんに「アルツハイマーは犬種の名前だとか、ぬいぐるみとしゃべるひとはやさしいとか、なんでうそばっかり教えるんですか?」とまだお説教をつづけていた。

 お母さんが敬語のときは、ほんとうに怒っているときだ。ぼくはバスタオルで髪を拭いていて聞こえていませんよのフリでキッチンに逃げた。

 でも、お父さんに目ざとく見つかってしまった。居間のほうから、「永遠ぁー」と呼ばれる。ぼくは冷蔵庫を開けて牛乳を取り出した。飲む。聞こえていませんよのフリ。なのに、お父さんはわざわざ台所まできて、冷蔵庫の扉ごしに顔をのぞかせてぼくに話しかけてきた。

「なんで濡れてへんねん」

 のぞいてくるお父さんの肩を押すけれど、ぜんぜんかなわない。逆に扉を押し返されて冷蔵庫がちょっとずつ閉まる。閉められたらお父さんのペースだと思ってぼくは焦った。こういうとき、お父さんは意味のわからないへりくつでぜんぶをわやにするのだ。そうはさせない、と冷蔵庫と扉のあいだに体を滑りこませて阻止する。「ぼくに絡まんとって」とぼくが尖った声で言ったのと、開けっぱなしの冷蔵庫がピーピーと鳴ったのは同時だった。お父さんが追撃してくる。

「風呂上がりやのになんで濡れてへんの」

「なんでってなに。拭いたからやん」

「拭いたらあかんやん」

「お父さん!」

 うしろからお母さんが怒る声がした。お父さんは振り向かない。

「拭くでしょ、な、なに言ってるん。床びしょびしょになるやんか。お母さん怒るやんか」

「びしょびしょなって怒られなあかんやん」

 お父さんは当然やろ、って感じで言った。冷蔵庫がまたピーピー鳴る。扉の向こうでお母さんが目を吊りあげているのが見えた。

「お父さんなに言ってるの! 永遠、冷蔵庫はやく閉めなさい」

「水鉄砲買ってやろうか。電動のやつがええな、下の階に水漏れで賠償請求されるくらい濡らせるやつ」

「いらん!」

 ぼくは叫んで、牛乳パックをぎゅ! と握った。中身が外に飛び出して、袖口にかかる。あわててお母さんが布巾をとりに居間に行くのが見えた。でもぼくは手が濡れるのも気にならないくらい、必死で抵抗した。お父さんはいつもそうだ。お笑い芸人のさがだかなんだか知らないけれど、ふつうのことや正しいことを前にすると、ボケずにいられない。正解があったら外さなあかん、だ。ちいさいころからちょっとずつ刷りこまれたその考え方は、いやなのにぼくを縛って、大事なところで顔をだしては邪魔をする。

「もうぼくに反対のことばっかり教えるんやめて!」とぼくはわめいた。「お父さんのせいでぼく真面目になられへん。ぼくは……ぼくはフツーに生きたいのに! 芸人になんて絶対ならん。サリラ、サルラ、サ、サ、サラリーマンになるんやもん!」

「永遠、フツーに生きたいん?」

 お父さんは鳩が豆鉄砲を食ったみたいな顔をした。ぼくが必死にうなずくと、「逆の、逆ってことやな」と微笑んでぼくの頭をなでた。フツーに生きたいなんて言ったら反発されるかと思ったのに、予想外の反応に面くらう。頭をなでる手のひらは厚く弾力があって、ぼくは思わず息をついてしまった。幼少期、両親に身を預けていればしあわせだったころの記憶がよみがえりそうになったくらいだ。

 お父さん、わかってくれたんだ、とぼくがその腕に体重を預けそうになった瞬間、「逆の逆やから……。ダイビングのドライスーツ買ったらええんやな」とお父さんはおだやかな笑みのまま言った。「それなら濡れてへんのが当たり前やし……ってことは出てきたら水ダライがないとあかんか……」

 ぶつくさとボケを考えつづけるお父さんに、ぼくは頭から火をだすみたいにして怒った。たしかにダイビングの格好でお父さんが出てきたら体が濡れてないのは当たり前だけど、「なんで風呂上がりなのに濡れてへんの」より先に「なんでダイビングスーツ着てんの」って聞くし、そしたら「風呂上がりなのに濡れてない」の逆の逆じゃなくなるし、水ダライは絶対になくていい! っていうか、ぼくの言いたいこと、なんもわかってへん!

 ぼくはお父さんに牛乳パックを投げつけ、冷蔵庫はピーピーピーとより一層やかましくアラームを鳴らし、戻ってきたお母さんは頭から牛乳をかぶったお父さんに気づいて「なんで濡れてるの!」と叫んだ。

 

 それから一週間、ぼくはお父さんと口をきかなかった。金ロー後「トトロって傘返したんかな」としきりに聞いてくるお父さんも、CMを見て「バブルガムはバブル崩壊を想起させるから不吉だッ!」とクレーム電話をいれるお父さんも、ぜんぶ無視した。

 あの授業参観以来、ぼくは教室でからかわれることが多くなっていた。英語の授業でぼくが発音がいいと褒められたらすかさず「Towa likes SUSHI !」とクラスの男子がヤジを飛ばしてきたりするのだ。からかってくるのはクラスでも目立つかんすけたちのグループだった。

 その日も、関助は給食を食べおわるなりぼくの席にきて「トワトワのお父さん、昨日劇場で師匠の頭ひっぱたいて怒られてたで。ダサ!」と大声で言った。ぼくのあだ名は毎日変わった。その日のいじめっこたちの気分によって、トワトワだったり、イノモト二号だったりした。参観日の直後はエターナルマンだったけれど、それはちょっとカッコよすぎってことですぐ廃止になった。

 ぼくが黙っていると、関助はつまらなそうな顔をして教室のうしろに移動し座りこんだ。ロッカーの前には関助と同じ、校内の少年野球チームに所属している男子が何人かたむろしていて、彼らのあいだでは「ヘイバッタービビってる、ヘイヘイヘイ! バッタービビってる、ヘイヘイヘイ!」と習ったばかりの応援歌をクラス内で叫ぶのが流行っていた。関助がなにかをチームメイトにささやいたかと思うと、「乳首が強いぞイノモト!」という替え歌が聞こえて、お父さんのギャグ『ここでSUSHIビーム!』をこすられているとぼくはすぐに察したけど、給食を食べおわっていないから教室を出ていくこともできず、必死にコッペパンを口に詰めた。まだ半分以上ブロッコリーサラダが残っている。教室の後ろでは勝手に「ちんこも強いぞイノモト!」なんて二番が誕生していて、ぼくはいますぐにでも逃げだしてしまいたかった。

 お盆をひっくり返したフリをして出ていってしまおうか、とぼくが給食トレーのふちに手をかけたそのとき、

「ブロッコリー食べてもええ?」

 と、となりから手が伸びてきて、返事をする間もなく箸がブロッコリーをひとつさらっていった。驚いてとなりを見ると、あさくんが口をもごもごさせていた。やわらかそうな頬がふくらんでいる。彼は目だけでこちらに笑いかけ、口のなかのものを飲みこむと「ブロッコリー、すきやねん」とまたぼくの皿に箸を伸ばした。ニイ森先生にバレないか心配になって教卓を見るけれど、先生はもう職員室に戻っていた。

 朝陽くんはぼくのブロッコリーサラダをたいらげると、「裏庭いこうよ」とぼくのぶんの食器まで片づけながら誘った。朝陽くんの目が野球チームのやつらをするどく射抜いて、ふいと逸らしたのを見て、ぼくはずいぶん勇気づけられた。

 前を行く朝陽くんの背はぼくより拳ひとつぶん低い。男子にしては長めの髪はあごのラインで切りそろえられている。全体的に丸っこい印象の子だった。とんがってどこもかしこも直線みたいなぼくの肉づきとはまったくちがう。丸い肩のラインをうしろから眺めていたら、彼がふいにこちらを向いた。

「永遠くんのお父さんは、おもろいで」

 薄暗い外廊下を通って階段を降りていくと、整備されないままの草木が茂る裏庭に出た。ぼくは顔や指先、ふくらはぎが冷気に包まれていくのを感じながら、土を踏みしめて裏庭の奥に進んでいった。そこにはいまは使われていない古い焼却炉があった。まわりの地面はコンクリートで埋めたてられ、二十センチほどのお立ち台のようになっている。

 朝陽くんはひょいとお立ち台に登った。そして、ぼくのほうに半身を向け、

「永遠くん、ぼくとコンビ組んでM-1出ようや」

 とまっすぐに言った。白い息が風に流されて斜めに流れていった。

 廃炉のそばには切れかけた電球のライトが昼も夜もなくついていた。ぼくはチカチカする視界で、朝陽くんだけを見つめた。「芸人になりたいん?」と聞くと、彼は素直にうなずいた。

「ぼくと漫才しよ。永遠くんは芸人、だれがすきなん」

「……朝陽くんは?」

「ぼく? えー……どりやろ、ぎんシャリ、ダウンタウンはもちろんやけど、コアなとこやとジャルジャルもすき。あ、永遠くんはむかしの芸人のほうがすきやろ?」

「なんでわかるん?」

「なんとなく。ね、ふたりでネタつくるの楽しいと思わへん? ドリフターズっぽいコントとか、エセ新喜劇とか、はじめはマネっこからやって、日本一おもろいネタつくんねん。どう? ふじやまかんみたいな喜劇でもええなあ」

「ほんまにお笑いがすきなんやね」

 ぼくは感心してしまった。ただのミーハーなお笑いファンかと思ったのに、藤山寛美って。朝陽くんはお立ち台の上からぼくに手を伸ばして、「うん、すきや」と大きく口を開けて笑った。彼の手をとってお立ち台の上にのぼる。

「芸人ってカッコええんやもん」

「カッコええ?」

 朝陽くんは図書館のバーコードのついた文庫本をポケットから取り出して、ぼくに見せた。日焼けした文庫本の、端が折れたページを開く。一文に黄色いマーカーが引かれていた。図書館の本なのに、と驚くぼくに、朝陽くんは「このな、『芸人は芸で笑わすんだよ、芸で。客に笑われるな、笑わせろ』って台詞がめっちゃええねん」と目を輝かせて語った。はじめて舞台に立つ芸人が滑稽な化粧をして客から笑いを取ろうとしたことを、師匠が叱っている場面らしい。

「ビートたけしの自伝的小説でな、『浅草キッド』っていうねんけど。図書館でたまたま見つけてん。感動するし、絶対読んで。芸人てかっこいい仕事やって永遠くんにもわかってほしいねん。永遠くんのお父さんもきっと『芸人のてつがく』があってSUSHIビームしてるんやと思う」

「てつがく?」

「うん。『笑われてんじゃねえ、笑わせてんだよ』……みたいな。永遠くんのお父さんにも、SUSHIビームして子どもの笑う顔見るんが人生の喜びとか、なんか『芸人のてつがく』あると思うねん。芸人って、かっこええもん」

 彼がお父さんのことをそう形容してくれたことは、ぼくのきもちを幾分かるくしてくれた。けれど、ぼくにはお父さんに思想があるとは思えなかった。少なくとも、朝陽くんがイメージしているようなかっこいい『芸人のてつがく』は。チャイムが鳴って掃除の時間の音楽が聞こえてくる。焼却炉そばの電球が明滅した。もう戻らないといけない。

「ぼくは、かっこいいとは思えへん」とつぶやくと、口のなかが異様に乾燥していた。「勉強して、まっとうに生きるほうが、かっこええよ。ぼくは絶対、芸人になんてなりたないわ」

 

 ぼくのお母さんは看護師をしていて、休みは不規則だ。たいていは夕方には帰ってくるけれど、どうしても夜勤にでなくちゃいけないときもある。夜勤の日とお父さんの劇場仕事がない日が重なった夜は、家にお父さんとぼくだけになった。

 ぼくはお父さんにちょっかいをかけられるのがイヤで、いつも自分の部屋に引っこんで勉強に精を出していた。英語の先生に発音をほめられて以来、お母さんにねだって英語のテキストを何冊か買ってもらっていたのだ。ニイ森先生もこれからの社会では英語はマストだって言っていたし。

 お母さんが遅番の水曜日。お父さんは「うまいタコ食わしたる」と言ってぼくを連れだした。お父さんが連れていく店は居酒屋だって決まっている。いちど家族でファミレスにいったときなんか、ドリンクバーの存在を知らずに「レイコーひとつ」って注文して、店員さんを戸惑わせていた。

 新今宮からスーパーたまの看板を通りすぎて高架下をくぐると、目的の居酒屋についた。そこは新人から劇場に毎日出ている人気者まで、芸人がよく集まる店らしかった。お父さんは店にはいるなりあちこちのテーブルに呼ばれて「SUSHI食べてんのかー、SUSHI食べてんのかー、ってビール飲んどんのかーい!」という謎のかけ声でビールを一気させられたり、フケだらけの頭に粉チーズをかけられたりしていた。ぼくはお父さんの頼んだ焼き鳥を五本も食べると腹くちくなり、こっそりもってきていた英語のテキストを隅っこのテーブルで開いた。

 ぼくがテキストを読んでいると、もどってきたお父さんは「なに勉強してんねん」とぼくの頭をはたいた。ノートに押しあてていたえん筆の芯が折れる。ぼくは文句を飲みこんで、むすりと答えた。

「……English」

「いんぐりっしゅう? なーにカッコつけてんねん、あかんよ永遠」

 お父さんが粉チーズまみれの髪を振りみだして言う。

「おまえ、そんな勉強ばっかりしてたら立派な大人になってまうやんか。あかんよお。スマートに名刺交換できて毎月税金払う大人になんて、ぜったいなったらあかん。あ、永遠、一発ギャグ! 伝授したろか!」

「いらん。い、意味わからんし」

「クラスの人気者になれるで。ちんこ出すやつと出さへんやつ、どっちがええ?」

 自信たっぷりに言ってぼくのテキストを取りあげようとするお父さんに、ぼくはもう一度「いらん!」と怒鳴った。クラスの人気者だって? ぼくはお父さんのせいでいじめられてるのに。自分の声に感情が引っぱりあげられるみたいにして、頭がふっとうしていくのがわかった。ぼくがもう一度わめこうと口をひらいたとき、うしろの席から「あれっ、イノモトじゃん!」と声が降ってきた。

 振りかえると、顔を赤くした男がふたり立っていた。ずいぶん酔っているようすだ。片方の男が酒じみた息をお父さんに吹きかけると、もう片方が笑った。

「昔テレビでてた一発屋じゃん! まだ生きてたんだ」

「ギャグやってよギャグ!」

 東京弁でしゃべるその人たちは二十代後半くらいで体格がよくて、ぼくは正直ビビった。ビールをあおったほうの男の耳にはシルバーのピアスが三つもついていた。「あれ、なんだっけ、乳首のやつでしょ。ちーくーび! ちーくーび!」とサルみたいに手を叩く彼らに、ぼくはすこし期待してお父さんを見つめた。お父さん、ビシッとかっこいいこと言ってくれるんじゃないかな、って期待だった。朝陽くんが見せてくれた『浅草キッド』の師匠みたいな、「芸人のてつがく」が見える言葉が聞きたかった。おれの芸はそんな安くねえんだよとか――。

「そうそう、SUSHIビームね!」

 それなのに、お父さんは簡単に腰をあげ、乳首をぐりぐりしながらもちネタのギャグをしてみせた。仁王立ちで両手を胸に押し当てて、「ここでSUSHIビーム!」と叫ぶ。今日は衣装じゃないからあんまり映えない。膨らんでいた期待が萎んでいく。

 さらに、「これいま息子に伝授しようとしてたやつね」と立ちあがってボールを投げようとするマイムをはじめ、

「ピッチャー振りかぶってー、帰宅!」

 と声を張りあげた。帰宅、って言葉と同時に床にねそべって空中を見つめるお父さんは、しばらくその体勢を維持していた。曲げたひじに頭を乗せてるから、たぶんこれは家でテレビ見てる。

「……いや、おもしろくねえ!」

「おもしろくなさすぎて逆におもしろいわ。ダッサ!」

 男たちはしらけてしまった場を盛り上げるみたいにして言ったけれど、テレビ見てる(マイムの)お父さんには届かなかったみたいだ。男たちはすぐに興味を失ったようで、今度は近くの女のひとに絡みはじめた。

 お父さんはすっと体勢をもどすと、男たちのほうを一切見ずに枝豆を口にいれて、「『逆におもろい』ならあかんな」とぼくに言った。すべったことなんてぜんぶなかったみたいな顔だ。「やっぱ、ちんこだすほうの一発ギャグ教えたるな。これぜったいスベるしな。あ、永遠がやるときビデオ撮っといたるわ。デジタルタトゥーつくっといたらまともな社会人なんてなれへんくてちょうどええやろ」とタコを口に押しつけてくる。首を横に振って拒否したのに、無理やり押しこまれた。

「いらん、タコいらん……いらんって! タコもギャグもいらん!」

 ぼくはタコをペッと吐きだして叫んだ。急にじぶんの体があつくなって、ボルテージがあがる感覚がする。がまんの限界だった。

「ぼくにとってはあんたがタトゥーじゃボケ! ぼくが真面目に生きようとする邪魔せんとって! ぼくはなあ、ぼくは、“ぐろーばるなじんざい”が社会にもとめられてるから英語やってんねん! お父さんみたいになりたないから、英語やんねん! この、このボケナス!」

 ニイ森先生の受け売りだった。ぐろーばる社会で活躍できるじんざいじゃないとこれからの世の中やっていけませんから。

 お父さんは笑うのと怒るのの中間の、どっちつかずな顔になった。笑い飛ばしてこの空気をわやにしたほうがいいのか、怒鳴ってみせればいいのか迷っているようすで、結局はどっちつかずに、

「お父さんはナスではないなあ」

 とぼくの吐きだしたタコを食べた。「ナスかタコかでいうとナスやけど、ナスか人間かでいうと人間やな」

 ぼくは怒っていたし、かなしかった。くしゃみがでる。お父さんが東京弁のやつらに「おもしろくねえ」とか言われてヘラヘラしているのも、息子にこんなに言われても怒鳴りかえしてくれないのも、「芸人のてつがく」が見えないのも、お父さんのフケが飛んでくしゃみがでることも、ぜんぶ、かなしかった。やっぱりお父さんは、かっこよくない。

「ぼくは、はーっくしゅ、ぼくは堅実に生きる。ぼく、ぐ、ぐろーばるなサラリーマンになんねん」

 ぼくはちらりと手元のテキストを盗み見た。職業の名詞を覚えましょう。Teacher, Doctor, Author,……。

「デ、デ、デベロッパーに、っくしゅ、なんねん」

 宣言したぼくに、お父さんは顔をしかめた。

「なんやそれ」

「土地や建物を開発すんねん。マンション建てたり、貸したり。ほーむこんさるたんと、や」

「不動産屋やないか」

 ちゃうし、とぶつくさ言って、またテキストをチラ見する。

「お、オンライン・トレーダーに」

「それはなんや」

「オンラインで投資すんねん。債券とか株式とかの売買や仲介を……」

「博打うちやな」

「えーとね、えーと……ヘアメイクアップアーティスト」

「散髪屋な」

 お父さんは深くため息をついて、ぼくの頭をなでた。

「博打うちも散髪屋も、ぜんぜんサラリーマンちゃうやん。チャラチャラしてるやつやん。チャランポランとチャラチャラはちゃうねんで。芸人の息子がチャランポランはウケるけど、チャラチャラはウケへんわ。おれ、いま何回チャラっていった? とにかく、将来の職業はしっかり考えなあかんで、永遠」

 ぼくはがまんできずに「あんたにだけは言われたないわ!」とお父さんをグーパンチした。お父さんがにんまりするのを見て、しまったと思う。思う壺だ。そのあとも、お父さんは「一発ギャグってのは」と熱く語りつづけて、ぼくをしきりに勉強させまいとした。ぼくはぜったいにテキストを離さなかった。勉強することが、お父さんへの最大の反抗だったから。

 

(つづく)