ぼくと朝陽くんは方針転換し、真理をネタづくりに巻きこむことにした。
即興で真理の前でしゃべり、真理が笑ったらそれをネタ帳に書きとめる。そのネタの種がたまったら全体の構成を考えて、またしゃべってみる。その繰り返しだ。ぼくらの稽古場はぼくの家や床がいつもヌメっているラーメン屋、近所の公園、お母さんが疲れたときにいく高架下の飲み屋だった。オレンジジュースと焼き鳥で二時間も三時間も粘るぼくらを、飲み屋のおじさんは「しゃあねえなあ。イノモトのとこのボウズだからな」と許してくれた。
真理を笑わせる、というシンプルな目標ができると、日常の景色がガラリと変わった。夏川先生が「水素原子エッチはあ」と言うたびに起こるクスクス笑いとか、学校でウンコをしたらバカにされるからと昼休みに学校を抜けだして近くのコンビニに駆けこむ田中くんの澄ました顔とか。いままで意識していなかった日常の光景からネタが作れないかと、観察する癖がついた。お父さんはそんなぼくを「やらしいとこ見るようになったなあ」と評して、乱暴に頭をなでた。
ネタをまとめて夏川先生に持っていくと、先生はネタ帳をパラパラとめくって、首をかしげた。ぼくと朝陽くん、ついてきた真理は息をのんで先生の言葉を待った。
「この……スナックっていうのはどうなのかな」
「どう……というのは」
ぼくが聞きかえすと、夏川先生はネタ帳の表面を中指の背でコツと叩いた。
「うちの生徒がほんとうにスナックに通っていると思われると困るやろ」
「えっ、でもそれはウソで……」
「だいたい、いまどきミラーボールが光って、カラオケで老人が春日八郎歌ってるスナックがあるかなあ。リアルじゃないよ。この『おまえの顔、ミラーボールにしたろか』っていうのもナシにできる? 暴力的だし、よーわからんし。顔をミラーボールにするって、どういうこと?」
意気消沈して帰宅したぼくらは、室内なのにサングラスを三重にかけて鏡の前でマッチョポーズを決めるお父さんにブーブーと文句を言った。
「お父さんが『ほんとうらしいウソを考えろ』なんて言うからありそうなスナックのネタを考えたのにさあ」
「そんなん言うたっけ?」
お父さんはほんとうに覚えてないみたいだった。四つめのサングラスをかけようと奮闘している。ぼくと朝陽くんはさらにブーイングした。真理だけが部屋の入り口でケラケラ笑っている。
「そんなん知らんよお。漫才なんて『よー素性も知らんけど、めっちゃおもろいふたり組の立ち話』でええんちゃう? そんな本気にならんと。考えんでええねんって」
「考えないとネタ書けないから困ってるんだよ」
「書こうとするからあかんねん」
口を尖らせて言うぼくに、お父さんは例の威厳ある顔をつくって「SUSHIビームのときもそうやったやんか」と語った。腕を組んで。ちょっと口の端にカレーついてるくせに。
「最初からSUSHIビームを思いつこうとしても難しいねん。あのとき、まず寿司が乳首のとこに二個プリントされたTシャツがあったやろ? で、おれが『SUSHIビーム』って言ったら、永遠が『ちくビーム』って乳首からビームを出す真似をした。これが大事やねん。なんも考えてへん脊髄反射の反応があったから、『ちくビームって言いながら同じ動きをするのはありきたりすぎる』っておれもわかってん。で、ふたつのアイデアをうまく組み合わせてギャグが完成したってわけや。一発ギャグなんて、まともな思考から生まれるわけないやんか」
ぱちぱちぱち、と拍手が聞こえて振り向くと、真理が頬をうすく上気させていた。
「すごい、深い」
「ちがう芸人さんも、同じように『コンビの偶然の会話からネタができた』って言ってました!」
朝陽くんもネタ帳に言葉を書き留めながら前のめりになって言う。
ふたりの熱烈な反応に、ぼくとお父さんは同時にため息をついた。
「こんなん、信用したらあかんよ」
と、呆れたように言うのも同時だった。ぼくとお父さんは「ほんまにお父さんはテキトーなことしか言わへん」「永遠、親父への尊敬の念はないんか」と互いに胸ぐらをつかみあった。それを見て、朝陽くんと真理が笑い声をあげる。真理は「でもほんとに深いと思う。先生ですね」と茶化すわけでもなく言った。こんなどうしようもない親父に、女子中学生が尊敬の眼差しを向けて「先生」って呼ぶなんて、もはやそれ自体がボケやん、とぼくは思ったけれど、黙っておいた。お父さんは「ええで、先生って呼んで」と鼻の穴を大きくしていた。ぼくらの友情はそうして少しずつ育まれていった。お父さんをその片隅に置いて。
その日も、ぼくたちは漫才を考えるという名目で家に集まった。お母さんは夜勤で、お父さんは珍しく営業に行っていた。親のいない家にポテチとコーラを持ちこんですることといったら、ゲームしかない。文化祭まではあと二週間ほどになっていたけれど、ぼくと朝陽くんは切羽詰まるわけでもなく、この青春を謳歌していた。
お父さんが帰宅したのは、ぼくらの桃鉄が十五年目に突入したところだった。年甲斐もなくゲームに加わりたがる。営業先のデパートでもらったという大量の廃棄品の唐揚げと卵焼きとトレードする形で、ぼくらはお父さんの参戦を許可した。
真理はしきりに営業仕事の様子を聞きたがり、お父さんは「会場で緊急地震速報が発令されるくらいウケた」とか「デパートの客が何百人も集まってきてうねりを起こして笑い死ぬ客が出た」とか、あきらかなウソをまくし立てた。それじゃ、ただのホラ吹きじゃないか。ぼくはムッツリと黙ってお父さんをにらみつけた。でも、真理は「すごい、あたしもストリートピアノで何百人も集めてみたいな」とうっとりしていた。ちょっとアホなのかもしれない。
夕食を食べ終わると、ぼくと真理はアイスを買いにコンビニに出かけた。朝陽くんがぼくに向けて何度もへたくそなウィンクをしてくる。気を回してくれたらしい。お父さんは桃鉄に夢中で、片時も画面から目を離さなかった。
チョコバー、ストロベリーのカップアイス、バニラのソフトクリーム、抹茶のモナカアイス。四人ぶんのアイスとジュース、スナック菓子を買いこむと、ひと抱えはある量になった。店員から袋を受け取り、ひとりで持とうとするぼくに、真理が「半分持つよ」と手を差しだす。
「え、だいじょうぶだよ、持てる」
「いいから。半分」
「ぼく、こう見えて筋力あるんだよ、力こぶ二個できるし、シックスパックで……」
「いいから!」
真理はぼくの手からビニール袋の持ち手を片方奪って、ズンズン進んだ。ぼくも歩きだす。冷房の効いたコンビニを出ると、急に汗が噴きだしてきた。外の空気は日が落ちても熱気をはらんでいた。住宅街にはいると、カレーのにおいがした。持っているビニール袋越しに、真理の歩く振動が伝わってくる。手をつないでいるみたいだ。胸が高鳴り、雲の上を歩いているように足元がふわふわした。
「今日、たのしかったね」
真理が弾んだ声で言った。
「うん、たのしかった。来てくれてありがとう。お父さんの話にも、つきあってくれて」
「お礼言われることじゃないよ。ほんとに話聞いてて楽しいし、尊敬してるし」
「そんなふうに言ってくれるの、水田さんだけだよ」
「えー、じゃあみんなお父さんの魅力に気づいてないんじゃない? お父さんはね、ほんとうはすっごくやさしいんだと思う。みんなのことを楽しませたいし、驚かせたい。それが原動力なんじゃないかな。劇場でお笑い見たことないけど、お笑いライブ行ってみたくなったもん。だれかのこと笑わせたいと思うって、すごい純粋な愛じゃない?」
首をかしげて微笑む真理と目が合った瞬間、胸が痛いくらい熱くなった。ちょっとだけ、涙腺がゆるむ。街灯に照らされて、真理の頬が青白く光っていた。
「真理さん」
ぼくは名前を呼んで、立ち止まった。真理も止まる。
ぼくと真理の間でビニール袋が揺れた。ガサガサと音を立てる。計算なんてなかった。真理の澄んだ瞳に吸いこまれるように、ぼくは口を開いた。
「ぼく、真理さんのことが――」
ピリリリ、と、その言葉をさえぎるように着信音が鳴った。
「あ、ごめん。わたしだ」
真理がポケットから携帯を取りだし、電話に出る。朝陽くんの声がした。
「水田さん! 永遠くん! 助けて! お父さんが!」
叫ぶ声がとなりにいるぼくにまで聞こえた。助けて、という言葉にドキリとする。
「なに、どうしたの」
「お父さんになんかあったの」
「いま家? お父さんは?」
朝陽くんの返答を待てないくらいにあわてて、ぼくと真理は次々に質問した。真理がぼくにも聞こえるように携帯をぼくの耳に寄せてくれる。ガサゴソ、と電話の向こうでマイクになにかが擦れる音がして、朝陽くんが、
「ちゃうねん、ピンチなのはぼく!」
と叫ぶ。状況が呑みこめず、ぼくと真理は顔を見合わせた。ピンチって? と重ねて聞こうとしたとき、お父さんの声がした。
「朝陽くん、観念して乳首出しーや」
ジャキジャキとなにかの刃が擦れる音も同時に聞こえてくる。ぼくの開襟シャツの乳首の部分を星型に切り抜こうとしていた、あの裁ち鋏が頭に浮かんだ。
「出さへん! 絶対に出さへんから!」
朝陽くんが言い返しながら、ドタドタと歩き回る。ふたりぶんの足音を聞いて、ぼくは状況を察した。お父さんのビョーキが出てしまったらしい。
ぼくたちは朝陽くんを救出するため、走って家にもどった。さきほどまでの緊張した空気は霧散して、残り香さえ消えてしまった。アパートの階段を駆けあがって、中にはいる。ギャイギャイと言い争っている声が聞こえた。リビングのドアを開けると、お父さんが朝陽くんをカーペットに押し倒していた。
「コラー!」
ぼくは大声で威嚇しながらリビングにはいった。
お父さんは意にも介さず、両手にもった大きな裁ち鋏を朝陽くんに向けている。朝陽くんが身をよじる。その顔は真っ赤だった。ぼくは「なにしてんねん!」とお父さんのからだを突き飛ばした。筋肉のついていないお父さんのからだは簡単に吹き飛び、カーペットに転がった。
真理が朝陽くんに「だいじょうぶ?」と声をかけ、助け起こそうとする。朝陽くんは腰が抜けてしまったらしく、ずりずりとお尻を引きずった。ぼくも朝陽くんのもとに駆け寄り、シャツの乳首部分を確認する。無事だった。ほっと息をつく。
なんでそんなことになったのか、朝陽くんに聞くと、朝陽くんは「ぼくが永遠くんのお父さんに『弟子入りしてみたい』って軽い気持ちで言ったら、お父さんが『ほんなら乳首出さなあかんな』って突然……」と弱々しく説明した。
朝陽くんになんてことするんだ、と怒ってお父さんを振り向くと、お父さんはいつの間にか立ちあがっていた。今度はぼくと真理に標的を定め、
「ふたりも、乳首出してもらおか」
と鋏をカニのようにチョキチョキさせた。およそ女子に言う台詞ではない。
「出しません! サイテー!」
真理が吐き捨てて、ソファにあった丸いクッションをお父さんに投げつけた。両手が鋏で塞がったお父さんは受け止めきれず、顔面に食らってよろめいている。真理は一時間前まで尊敬のまなざしを向けていたことなんてウソみたいに、蔑みの目でお父さんを見た。朝陽くんはカーペットにぐったりと倒れこんだままだ。クッションのダメージから復活したお父さんが真理に近づこうとする。ぼくはふたりの間にからだを割りこませた。
「お父さん、それセクハラやで! アウト!」
「ええやん、なんで出さへんねん」
「レッドカードやから! お父さん退場!」
「いま、弟子増量キャンペーン中やから。イノモト門下になるためには乳首を……」
「いいから、もう出てって!」
ぼくは強い口調で言って、お父さんの肩を押した。お父さんは部屋の外に連れだされる間も「なにがあかんねん」と喚きつづけた。「SUSHIビームしたらええやん、おれがギャグ教えたるし。弟子入りしたいんやろ。恥ずかしがらんでええって。真理ちゃんも。SUSHIビームに卑猥さはないねん。アホさだけやねん。芸人に男も女もないねんで」
バン、と扉を閉めると、お父さんの声は聞こえなくなった。
決まりが悪くて、顔をあげられない。居間の気温が一、二度下がったみたいに感じられた。ぼくはうつむいたまま、「ごめん」と声をしぼりだした。
「永遠くんは謝らなくていいよ」
「せやで、ぜんぶお父さんが悪い! ほんま怖かったわあ」
真理と朝陽くんが口々に言う。ぼくはふたりに責められなかったことに安心しながら、でもこのドタバタをおもしろがっている自分にも気づいていた。……だって、息子の友だちに乳首を出せって迫る父親なんて、聞いたことがない。日本中どこを探しても、イノモトしかいない。鋏を向けるなんて傷害事件スレスレだし、ふたりとも乳首出すわけないし、真理なんて迫られた時点でお父さんをビンタして当然だし、お父さんは「もうマジでちょーサイテー懲役行って」だし、ふたりは全力で嫌がって怒って然るべき。だから、それってつまり――最高にオイシイってことだ。
ぼくは呆然と自分の足元を見下ろした。見慣れた居間のフローリング。椅子の脚の間を縫うように、朝陽くんと真理の足がある。ごく近くに立っているのに、ふたりと全然ちがう場所に立っているような気がした。足場がゆらぐ。息子の友だちになにやってんだよ、親として最低だ、って怒っているのも本当なのに、なんで、イノモトを「おもろい」と思ってしまうんだろう。
買ってきたアイスは半分溶けていて、食べると舌にべたっとした感触が残った。ぼくらは無言でそれを胃袋に押しこんだ。窓に雨があたるパラパラとした音がして、真理が「えっ、雨?」と腰をあげる。
雨足が強くなった。テレビで予報を見ると、このあと豪雨になるらしい。ふたりはあわただしく帰り支度をして、傘を一本だけ借りていった。お父さんの大きな黒い傘だ。ぼくの傘も貸すと言ったのに、朝陽くんが「もしものときに傘なかったら困るやろ」と受け取ってくれなかった。ひとつの傘の中にすっぽりと収まるふたりの後ろ姿は、ぼくの孤独さをより一層強くした。胃が重くもたれて、その場を一歩も動けそうになかった。
(つづく)