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「永遠先生、バスケやろー!」
後ろから声がしたと思ったら、ドッ、と背中に衝撃が走った。背中を押さえて後ろを向くと、ケンジが跳ね返ってきたバスケットボールを両手でキャッチするところだった。
「今日、二年が体育館使える日なの。先生って運動神経いい?」
と無邪気に聞く。ぼくは背中をさすって、「こら、いきなり背中にボールぶつけたらあかんやろ……」と注意した。廊下とはいえ校舎内でバスケボールを投げるのは危ない。もっと強く注意すべきだとわかっていても、素直に懐いてくる様子を見ると、弱い口調になってしまう。
ケンジはヘヘッと口元を緩ませて笑った。長めの前髪の下で、細められた目が期待に揺れている。ケンジは、給食のとき「永遠先生、ニンジン好き? おれのあげよっか。遠慮せんでええよ」とニンジンを押しつけてこようとしたり、放課後には「バスケ部の練習見にきてや! おれたち強いから」と体育館に引っ張っていこうとしたりと、とにかく初日からよく話しかけてきた。背が低くて丸顔の、愛嬌のある男子だ。距離を縮めてくれるケンジの存在によってぼくの緊張も緩んだ。一週間も経てば、ケンジに調子乗りなことを言われ、「こら」とたしなめるぼく、という構図がすっかり固まって、ほかの生徒からも同じ調子で話しかけられることが増えた。
ケンジの後ろから同じバスケ部の生徒がやってきて、「トワセンもやんの」「バスケできんの先生~」と口々に言う。怒られへんってわかってるで、と目の奥で笑っているような、甘えた口調だ。ぼくは「時間があったらな、ほら、休み時間なくなるで」とあしらって、その場を離れた。ケンジは不満そうな声を上げながらも、すぐにドリブルしながら廊下を駆けていった。廊下でドリブルしたらあかんやろー、と後ろからかけた注意の声は、きっと聞こえていない。
梅雨に入り、ここ数日は昼も夜もなく雨が降り続けていた。屋外で活動する部活の生徒は陰鬱な顔で、放課後も教室に残ってだらだらと喋っているのを見かけた。教科書とノートを入れたカゴを抱え、階段を降りる。職員室に向かっていると、ふと空き教室の電気がついているのが目についた。生徒数の減少で使われなくなった、一階の端の教室だ。思わず息をひそめ、教室に近づく。窓から教室内を覗き込む。五、六名の男子生徒たちが肩を寄せ合っていた。窓越しに、騒いでいる声がぼんやりと響いてくる。
輪になって見ているのは、スマホのようだ。校則で、学校内にスマホを持ち込むことは禁止されている。面倒な場面に遭遇してしまったなあ、とひとり顔を顰め、見ないふりができないかと一歩後ろに下がる。それと同時に、男子生徒のひとりが立ち上がり、両手を乳首の前に持っていって、叫んだ。
「『ここでSUSHIビーム!』」
キュ、と上履きが雨に濡れた廊下の上で泣き声みたいな音を立てる。その音は、男子生徒たちの爆笑にかき消された。両手で乳首をグリグリしながら、男子生徒がまた「SUSHIビーム!」と叫ぶ。聞き慣れた、人生で何百回と聞いたギャグに、指先が固まる。立ちすくんだ。
――なんで、いまの中学生がお父さんのギャグを知ってんねん?
汗ばんだ手を強引に動かして、ガラッと扉を開ける。生徒たちがハッとこちらを振り向いた。実習生だと気づくと「なんやー、永遠先生かー」と空気が弛緩する。音声が流れっぱなしのスマホを隠そうともしない。顔をよく見ると、夏川先生のクラスの生徒たちだった。一週間と数日接してきて、さすがに顔は覚えている。ぼくは呆れて聞いた。
「なんだちゃうやろ、なに見てんの」
「えー、先生知りたいの。エッチなやつだよ。いいの」
「さっき爆笑してたやないかい」
わざとコテコテの関西弁でツッコむと、男子生徒たちはまた大笑いした。
「永遠先生だけ特別ね」
男子生徒のひとりがニヤッと笑って、スマホの画面をぼくに向けた。スマホ持ち込み禁止だぞ、と注意する気も起きない。盗んだバイクがあれば走り出したいし、ルールがあれば破りたいお年頃だ。
そこには、やっぱりお父さんの姿が映っていた。見慣れた、乳首の部分だけ星型に切り抜かれたTシャツを着て、「ここでSUSHIビーム!」と叫んでいる。スマホ画面に収まったその動画には、ポップな形の字幕とキラキラのエフェクトがつけられていて、劇場で見るお父さんのネタとまったく違うものに見えた。名前だけは聞いたことがあるけれど、中高生向けだろうとスルーしていたショート動画に特化した動画サイトだ。動画のキャプションには「#伝説の芸人」「#逆に新しい」「#SUSHIビーム再評価」と意味のわからないタグが何個もつけられていた。
「なんやこれ……」
思わず呟く。毎日顔を合わせているお父さんと、画面の中でキラキラのエフェクトをつけられているのが同一人物だとは、とても思えなかった。
「えー永遠先生、SUSHIビーム知らねえの? いまバズってんだよ!」
ぼくにスマホを見せてくれた男子生徒はそう言って、スマホ画面をフリックし、ほかの動画も再生してくれた。ぼくと同世代くらいのスカートの短い女の子がお父さんのネタの音源でダンスを踊っている動画だ。SUSHIビームの動きをしているわけじゃない。なんでわざわざこの音源で踊るのかわからないような、普通のダンスだった。
「永遠先生もやってよ」
男子生徒のひとりが言って、周りも「やってやって」と囃し立てる。頭痛がしてきた。ぼくはこめかみを押さえて、緩慢に首を横に振った。頭がついていかない。気を取り直して、先生らしい表情をつくる。
「スマホ没収な。夏川先生に預けるから、放課後取りにくるように」
「えー」と、スマホをぼくに向けていた生徒が声をあげた。スマホを取り上げようとすると、すばしっこく身を躱す。
「ええやん、ちょっとくらい!」
「永遠先生なら見逃してくれると思ったからSUSHIビーム教えてあげたのにー」
非難轟々だ。生徒たちの文句を聞き流し、スマホを取り上げた。教科書の上に重ね、胸に抱き込む。「放課後までの我慢やから、な」と宥めると、生徒たちはムスッとした顔で大人しくなった。ぼくも大概甘いなあと思うけど、あと二週間、わからずやの実習生として嫌われたまま過ごすのは居心地が悪い。スマホがそんなに重いはずないのに、空き教室を出るときのカゴは入るときよりも三キロくらい重く感じた。
職員室に戻らず、トイレの個室に駆け込むと、男子生徒たちが見ていた動画サイトを開いた。検索窓に「SUSHIビーム」と打ち込み、虫眼鏡のマークをタップする。すぐに、ずらっと動画が表示された。いくらスクロールしても途切れない。劇場やテレビ、ショッピングモールの営業で一発ギャグをするイノモトの動画が数え切れないほど上がっていた。それだけじゃない。インフルエンサーらしきイケメンの「SUSHIビーム」モノマネ、海外のリアクション動画、これまでのお父さんの半生を解説する動画……。
カツ、と爪先がスマホの表面に当たり、音を立てる。
「ここで、SUSHIビーム!」
お父さんの、何度も編集を重ねてガビガビになった声が画面から飛び出してくる。ぼくは慌てて音量ボタンを連打した。無音になったスマホ画面の中で、お父さんが両乳首をグリグリしながら大きく口を開けてなにか叫んでいる。キラキラしたエフェクト越しに。ぼくはそれを、呆然と見ていた。
アパートの居間で大の字に寝そべって、霧雨に霞む通天閣を眺めていると、お父さんがドスッとぼくの腹に座ってきた。ぐえ、と呻く。細身とはいえ、成人男性の体重を受け止められる腹筋をぼくは持っていない。「なにすんねん」と文句を言っても、お父さんは意に介さず舟形に切ったスイカをズルズル貪るばかりだ。スイカの汁が落ちてくるからやめてほしい。
「もう、なんなん……」
教育実習がはじまってから、二度目の週末。居間のテレビは日曜お昼に放送されているワイドショー番組を映していた。お父さんが府知事選に出たときに応援してくれた大物女芸人K氏が、舌鋒鋭く政治家を批判している。お父さんはテレビに目を向けたまま、一向に退こうとしない。腹筋がプルプルしてきた。結局、お父さんの予言通りになったんよなあ、とぼくはお父さんに椅子にされながら思った。感染症は有耶無耶になり、劇場は通常営業、阪神は優勝した。ユーチューブの『officialイノモトチャンネル【公式】』は開設されなかったけど、お父さんは若者が多く利用する動画サイトでバズっている。府知事選では箸にも棒にもかからなかったくせに。
「なあ、お父さん……」
ぼくは腹筋に力を込めたまま、お父さんを見上げた。
「うん?」と、返事とともにスイカの汁が降ってくる。Tシャツがびしゃびしゃだ。寝巻きやしええか、と諦め、話を切り出した。
「学校の生徒が動画サイトでお父さんの動画見てたんやけど」
「動画? カレーライス兄さんが配信してるやつか」
「いや、そういうんちゃうくて……」
「おれが九〇年代のテレビ番組の『チキチキ! マネキン制服はや脱がし対決』ってゲームで看護師やキャビンアテンダントの制服着たマネキンをだれが一番はやく全裸にできるか芸人たちと競ってたときの動画か?」
「そんなわけないやろ。テレビ番組の切り抜き動画っていうか、番組の映像を勝手に再編集したやつとか、女子大生が『ここでSUSHIビーム!』の音源で踊ってるやつとか」
「は? 乳首出してか? なんや永遠、そんな特殊性癖AV観てるんか」
「AVちゃうって! 踊りは普通ので、音源だけ。なあ、なんでバズってんの? あれって著作権とか色々あかんやろ、お父さんは知ってんの? 仕事に影響は? インターネットで若者に人気になったらさ、もしかしたらまたテレビのオファーとか……」
質問攻めにするぼくの言葉を遮って、ブッ! と大きな音がした。強烈な悪臭が鼻をつく。腐った卵を鼻の穴に押し込められたみたいな不快感が襲った。抗議の声を上げることもできず、ぼくは悶絶した。息子を椅子にしながら屁をこいたお父さんはスイカを完食し、「永遠、冷蔵庫に半分残ってるで。種飲み込んだら腹からスイカの芽が生えてくるから、飲み込んだらあかんよ」と悪びれもせず立ち上がった。殺意をもってお父さんを睨みつけたけれど、結局、お父さんの「いつも通りさ」に気が抜けてしまった。お父さんはなんにも知らないし、気にしてもいないみたいだった。
教室でお父さんのネタを振られたのは、休み明けの月曜日のことだった。
「永遠せんせー、イノモトの息子なんやろ、『SUSHIビーム』やってよ!」
ケンジの大きな声が、板書しながら授業ノートの文字を読み上げていたぼくの声を遮る。黒板に押しつけていたチョークが折れて、粉受けに落ちた。窓が閉め切られた教室はただでさえ湿気で息苦しいのに、急に気道を塞がれたみたいに息が継げなくなる。埃っぽい雨のにおいだけが、鼻先を掠めた。振り返り、教室を見渡すと、机に突っ伏して寝ていた生徒まで、みんな顔を上げてぼくを見ていた。小学校の頃の記憶が蘇ってきて、教壇についた手が汗でじっとりと湿る。でも、生徒たちは小学生の頃にぼくを揶揄ってきた関助たちとは違う目をしていた。教育実習生が最近バズっている芸人の息子だった、って事実に興奮しているだけ。期待でいっぱいの、無邪気な残酷さを孕んだ視線だ。
夏川先生は、と教室の後方に目を向ける。助けを求められる存在は担任の夏川先生しかいないのに、先生はパイプ椅子に深く背中を預け、首をがっくりと落として居眠りしていた。持っていた授業ノートが手から滑り落ち、教壇にノートの背がぶつかる。コン、と軽い音が鳴った。
「どこで知ったん?」
ぼくが聞くと、ケンジは得意げに胸を張った。
「真理ちゃん先生が教えてくれた! 『永遠先生のお父さんはあのSUSHIビームで一世を風靡した芸人で、わたしが中学生の頃の夏祭りでは笑いを掻っ攫って、町内中の人がステージに詰めかけて大変だった』って」
「半分くらいウソやん……」
真理に悪気はないんだろうけれど、生徒たちに教えるのはやめてほしかった。目を輝かせた生徒たちが「SUSHIビーム! SUSHIビーム!」と手拍子まじりにコールをはじめる。授業中だぞ、と注意しても聞きやしない。教室の後方でむっくりと目を覚ました夏川先生が不思議そうな顔で左右に首を振るのが見えた。手拍子の音が耳の奥で反響する。それは関助たちに揶揄われたときの手拍子にも、中学生のとき文化祭で浴びた拍手にも、あるいはもっと遠い過去の、テレビに出演して全国の視聴者を笑わせていたお父さんに向けられた喝采にも聞こえた。心臓の鼓動が速くなる。
「せえへんって、しない、しーなーい!」
ぼくが両手を大きく振って言っても、コールは止まらなかった。どんどん速く、大きくなっていく。夏川先生が後方から「こら、やめなさい」と注意しても、興奮する生徒たちの手拍子は激しくなるばかりだ。SUSHIビーム! SUSHIビーム! 人生で何百回と聞いた、お父さんのギャグが連呼されるたび、指先が冷たくなる。それはイノモトのギャグだ。お父さんのものだ。ぼくのじゃない。ぼくとお父さんは、違う。
ドン、と拳で黒板を叩くと、チョークの粉が散って、光を受けきらめいた。粉塵がスーツの裾を汚す。
「ぼくは芸人ちゃうねん」
怒鳴るように言う。自分の声が自分のものじゃないみたいだった。教室が凍りつく。息を呑む音さえ聞こえそうな静寂が教室を支配して、生徒たちは一斉に顔を下に向けた。ぼくも一度深く俯いて、息を整え、顔を上げた。夏川先生があんぐりと口を開けて、棒立ちになっているのが見えた。
「SUSHIビームは、しません。……教科書の二十五ページ、開いて」
平静を装って出した指示は掠れて聞き取りにくかったに違いないけれど、みんなすぐにページを捲ってくれた。言い出しっぺのケンジが唇を尖らせて、つまらなそうに頬杖をつく。教室の外では霧雨がまだ静かに降り続いていた。黒板受けに手を伸ばすと、折れたチョークの破片が指先に当たって、鈍く痛んだ。
高校時代によく通った恵比須町の商店街にある喫茶店には、外国人観光客が行列を作っていた。アーケードの屋根越しに、梅雨の晴れ間のきつい日差しが降ってくる。肌に纏わりつくような湿度と高い気温に、息が詰まるようだ。ぼくは行列を無視して喫茶店のドアを押し開けた。カララン、とベルが鳴り、カウンターに立つマスターが「おう、永遠くん」とウインクする。マスターの顔も店内の内装も、高校時代からまったく変わっていなかった。マスターにアイスコーヒーを頼み、店内を見渡す。先に席についていた朝陽くんはオムライスを頬張りながらノートに目を落としていた。小学生が算数の授業で使うような方眼ノートだ。
「まだ、それ使ってたんや」
声をかけ、向かいに座る。フリルのカーテンがかけられた小さな三つの窓から、商店街の光景が見える。
「使い慣れてるからね。ちょっと待ってな、ここまで書いてしまうから」
朝陽くんは顔も上げずに答えた。ノートにシャープペンシルで文字を書き込みながら、何度も首を傾げ、バッテンをつけては新たな文字を書き込む。中学の頃、朝陽くんが使っていた漫才のネタノートと同じノートだった。もう十年近くが経とうとしているのに、朝陽くんがネタを考えるときの仕草は変わらないままだ。ぼくは届いたアイスコーヒーを半分ほど一気に飲んだ。
真理からは「ちょっと遅れる」とメッセージが入っていた。OKマークを掲げる猫のスタンプを送るか、丸まっているクマのイラストに「いいよ」と文字が重なっているスタンプを送るか散々迷っていたら、朝陽くんが「永遠くん……」とシャープペンシルを折れんばかりに握りしめてぼくの名前を呼んだ。ん、と顔を上げた拍子に、虚無の顔のチベットスナギツネのスタンプを送ってしまった。
「『NHKの集金人がきて、本当は家にテレビあるんでしょうと迫られるけど、ウチには本当にテレビがない……どうする?』に対しての回答が思いつかへんねん」
「大喜利やん。ぼくに振らないでよ」
すげなく言い、スタンプを送り直そうと必死なぼくを放って、朝陽くんが続ける。
「こういうのは? 『選択肢一、おれもNHKの集金人なんです』」
「宗教勧誘に対して『おれが神だ』って言ったら黙る、みたいな撃退法やな」
反射的にツッコんでしまった。朝陽くんがニンマリして、ぼくの顔を覗き込む。
「選択肢二は? ね、なにがいいと思う?」
「やっぱり大喜利やん! 答えへんよ。答える義理がないもん」
「ええやん、ちょっとくらい! 未来の相方に協力してくれても」
「未来永劫、相方になることはありません。お引き取りください」
「永遠くんのケチンボ! チンポ!」
「雰囲気のいい喫茶店で卑猥なこと言うんじゃないよ、はしたない」
あはは、と隣から笑う声がして顔を上げると、真理が立っていた。バカな会話を聞かれた、と赤面する。朝陽くんの腕を叩こうと手を振るけど、ひょいと避けられてしまった。
奥に詰めて、隣を空ける。真理が「遅れてごめんね」と顔の前で手を合わせて座った。ふわっと金木犀の香水のにおいがした。メニューを開いて真理に差し出す。メニューを見る真理の頭上でぼくと朝陽くんが「今日はぼくが奢るからなんでも頼んでね」「永遠くん、今日はおれが奢るって言ったやん」「じゃあぼくの分は朝陽くんが奢って。真理ちゃんの分はぼくが」「なんでやねん」と言い合っていると、真理は「ほんと、ふたりは変わんないね」とまた破顔した。
三人で集まるのは一年ぶりくらいだった。ぼくと真理がスイーツをオーダーし、近況を報告し合う。話題は尽きなかった。もうすぐ終わる教育実習のこと、朝陽くんのサークルのこと、それぞれの進路のこと。三人とも民間企業への就職を希望しているわけではないから、切羽詰まってはいない。教員採用試験の二次試験が行われるのが八月中旬で、真理は受かっても大学院への進学を視野に勉強を続けるらしい。進路決定が一番早いのはぼくだった。
真理のいちごパフェとぼくが頼んだプリンアラモードが届くと、写真タイムになった。硬めのクラシックプリンにスプーンを入れ、プリンの側面を揺らして動画を撮る。どんな画角が映えるか真剣に悩むぼくを、朝陽くんが「なんや、永遠くんもユーチューバーになるん?」と揶揄った。
「永遠くん『も』?」
真理が不思議そうに聞き返す。
「知らへんの? 永遠くんのお父さん、最近動画サイトでバズってんねん」
「あれは無断転載のショート動画だから。お父さんがやってるわけじゃ……」
「イノモト、『クセのある一発ギャグ披露百連発特番』にも出てたなあ。再ブレイクやん。一発屋から二発屋、いや府知事選のときワイドショーに呼ばれてたこと考えたら三発屋やな、めでたい!」
「……よく知ってるね」
ぼくは急に冷や水を浴びせられた気持ちになり、低く応じた。たしかにお父さんの仕事は増えた。インターネットで配信される番組に出ていることもあるし、一発ギャグをを披露する芸人が大量に集められた番組で一人だけダダスベりしているときもある。家ではいつもの調子だから、あまり変化がないように思えてしまうけれど、変化は如実だった。中学校でも、今週は他クラスの生徒に「SUSHIビームやって」とねだられることも増えた。思えば、お父さんは売れているときも売れていないときも、徹底的に態度が変わらない人だった。
「その番組、おれもオーディション受けてん。一次で落ちたけど」
「えっ、朝陽くん一発ギャグもするん?」
「なんでもするよ。漫才もコントもピンネタも。永遠くんとするための漫才も考えてんねん。『永遠の朝』復活漫才、カレーライス師匠に頼んだら前説ですぐセッティングしてもらえるで。どう? なんかのオーディション受けてみるのもええなあ」
口の端にケチャップをつけたまま、朝陽くんが迫ってくる。朝陽くんはいまも時々、カレーライス師匠に頼んで前説として劇場に出ていた。
「やらへんって。ピンで立たせてもらったらええやん、SUSHIビームは著作権フリーやで」
ぼくは何度目かになる断り文句を吐いて、アイスコーヒーを飲み干した。朝陽くんは構わず続ける。
「永遠くんもほんとはまた舞台に立ちたいって思ってるやろ?」
「はあ?」
「中学のときの一回やけど、あれが一番気持ちよかった。心臓がばくんばくんして、破裂しそうで、笑いが起きたら緊張のときの何百倍もばくんばくんした。永遠くんもせやろ。勃起してたやろ」
「してへんわアホ! 雰囲気のいい喫茶店で卑猥なこと言うなって、はしたない!」
「永遠くんは逃れられへんで」
朝陽くんはうっそりとした表情で、笑った。
「だって、イノモトの息子なんやもん」
ぼくはギュッと心臓を握られたように身動きがとれなくなった。いつもの軽口だと切り捨てられない。うまく返せなかった。教師になるという選択は、消去法みたいなものだった。芸人か芸人以外か。ぼくにとって職業は生まれたときからその二択で、芸人以外ならなんでも同じだった。その中でも一番安定していて、まともそうな職業が教師だった。二択の前で立ちすくんでいる時点で、ぼくはどちらを選ぼうとしても、お父さんから逃れられていないのかもしれない。
真理はなにか言いたげな顔でぼくを見ていたが、口を開くことはなかった。ぼくも、話したくなくて、チェリーのヘタを口に含んで舌を動かした。べ、と綺麗に結んだヘタを舌にのせて出してみせると、朝陽くんと真理は「なにやってんの」と同時に笑った。
店を出て、朝陽くんがこのあと劇場で前説をするというので真理と観にいくことにした。感染症が流行していた時期は客足の遠のいていた射的屋と駄菓子屋に、中学生から高校生くらいの子どもが群がっている。まだ七月にもなっていないのに、日焼けした脚をショートパンツから覗かせている子もいた。実習先の中学の生徒に見つかると面倒だからと、ぼくと真理は顔を指されないよう、顔を伏せてなるべく道の端を歩いた。劇場の前まで来て、それじゃああとで、と手を振って朝陽くんと別れようとする。朝陽くんが上げかけた手を指差しの形にして、「あっ」と劇場の壁に貼られたチラシを指した。
「イノモト、審査員やるんや」
チラシは派手な黄色が背景色で、『阿倍野お笑い新人コンクール開催!』とポップな黒字が躍っていた。左下の審査員の欄に、イノモトの文字がある。見慣れた、十年前から変わっていないお父さんの宣材写真が白く縁取られている。右下の開催日を見たとき、心臓が変な音を立てた。頭の後ろから首筋にかけて、なにか冷たいものを流し込まれたみたいに固まる。それは教職採用試験の二次試験と同じ日だった。なんやこれ、知らへん。お父さんも偉なったなあ。そう軽く返せばいいのに、言葉が喉の奥に詰まって、声が出てこない。
真理がぼくの後ろからチラシを覗き込んで、「いいじゃん」と声を弾ませる。真理は二次試験の日とかぶっていることに気づいていないようだった。朝陽くんも「ええよな」と笑った。
「永遠くん出ようよ。『永遠の朝』復活!」
「いや……」
この日は、と断ろうとしたとき、背後から「朝陽」と声がかかった。振り向くと、短髪で全身黒の服を着た大学生くらいの男が立っていた。ユニクロのマネキンみたいな、全国平均の男子大学生って感じだ。おー、と手を上げた朝陽くんが「いまの相方」とぼくと真理に男を紹介した。ぼくは「どうも」と頭を下げた。相手も小さく頭を下げ返す。
ふたりはすぐにネタ合わせをはじめ、劇場の入り口に向かった。真理と一緒にふたりを見送って、ぼくはもう一度チラシを見た。派手な黄色が目に染みた。
(つづく)