第一話 道徳の時間(承前)
受験日は二月の頭に予定されていた。ぼくは毎日のように意固地になって勉強していたけれど、頭にはいっているかはあやしかった。受験を翌週にひかえた週末の午後、お母さんが「お昼、ラーメンでもいい? 辛いの食べにいこう」と声をかけてきたときも、英文を目で追いながら、お父さんのことばかり考えていた。
お父さんはなんで、松本人志は二流なんて言ったんだろう。じゃあお父さんにとって一流の芸人って、なんなんだろう。そもそもお父さんの言う『お笑い』って、なに? 答えのない問いに、ぼくはとほうもない宇宙に投げこまれたようなきもちになった。あの日以降、お父さんとの会話はなくなっていた。
お母さんの車はエンジン音が大きい。窓を全開のまま、エアコンを強にすると車内の熱風と外気の冷風の境界ができて、徐々にあいまいになった。「寒いよ」と目にクマをつくったお母さんが言う。
お父さんの仕事が減るのに反比例して、お母さんは夜勤にはいる回数を増やした。ご飯はレトルトカレーとカップ麺ばかりになった。クラスでのからかいもやまない。ぼくは不思議だった。お母さんはなんでお父さんに文句のひとつも言わないんだろう? お父さんのあの発言のせいで、わが家は大打撃を受けているのに。
車がとまったのは、ラーメン屋の駐車場だった。以前にお母さんと行った、辛い店だ。珍しく行列ができている。店の周りを取り囲む人の輪で、店内が見えないくらいだった。よく見るとそれは列というより、ひとだかりだった。なにか催し物が行われていることはわかるが、人垣でよく見えない。お母さんはぼくに「まえ行こう」と耳打ちすると、人波を押しのけ、店のガラスに直進していった。あわてて追いかける。
大人たちが羽織るコートのウール生地が顔にあたってチクチクする。やっとのことで最前列までたどりつくと、ぼくは「あっ」と声をあげた。ガラスを隔てた店内には、テレビカメラがはいっていた。そしてそのカメラレンズの向く先には、お父さんがいた。
なんで? と思ってお母さんを見あげても、お母さんはこっちを向いてくれなかった。じっと、店内のお父さんを見つめている。お母さんは知っていたんだ。
店内では三人の男が並んで、ラーメンを必死ですすっていた。実況役のひとの高らかな声だけがガラス越しに聞こえる。お父さんは、ローカル局で活躍する芸人にはさまれて座っていた。いつも通り、不健康そうな痩せたからだを縮こまらせて、髪にフケをたくさんつけている。
外まで香辛料のにおいがしていた。店名の掛け札を眺めながら、ぼくは「だいじょうぶなのかな」とつぶやいた。お父さんはきゅうりの浅漬けにはいっているちいさな輪切りの唐辛子さえよけて食べるくらい辛いものが苦手なのだ。さあ、とお母さんが首をすくめる。
撮影しているのは早食い対決みたいな番組らしく、お父さんはゲフ、ゲフ、とむせながら口に麺をほうりこみつづけた。器に盛られたラーメンは一キロを超えそうな量で、唐辛子パウダーで真っ赤になっていた。舌先をつけただけで全身がしびれてしまいそうだ。丸めがねロン毛おじさんとピザ柄Tシャツ巨漢おじさんがお父さんを挟んで座っている。ときおり、スタッフの空笑いだけが聞こえた。腹からのどまで一本管になったみたいな、頭を経由しない笑い声だ。
「お父さん、永遠にはひみつって言うのよ」とお母さんが小声で言った。
「……うん」
「久々の仕事でしかもテレビで、張り切ってないわけないのに。お父さんもさすがにテレビで暴れて永遠に迷惑かけたこと、気にしてるのかなって。わたしにまで見にこないでほしいなんて言ったのよ」
「そっか」
「だから、連れてきちゃった」
「フリだと思ったん?」
ぼくはちょっぴり驚いて、笑いながら聞いた。
「だってお父さんだよ?」お母さんも笑いながら答えた。「イノモトだよ?」
そうだね、とぼくは返事をした。冷えきった指先がガラスにあたってじんとしびれた。ピザ柄Tシャツ巨漢おじさんが咳きこんだフリをして、お父さんの顔に激辛スープを吹きかけた。リアクションせず、ナルトを髪にひっつけたまま無言で食べすすめるお父さんに、丸めがねロン毛おじさんがツッコむような動作をする。
ダサい笑い。松本人志のほうが、ぜったいにくればーだ。と、ぼくは思う。けれど、見物客からは笑い声があがった。ガラスごしで声はほとんど届いていないのに。ふと見ると、人垣のなかには関助たちもいた。彼らも、ふだんはむすくれた顔ばかりしているのに、丸めがねロン毛おじさんがお父さんのラーメンに唐辛子パウダーを一本どばっと入れるのを見て笑っていた。
「イノモト負けんなー!」と関助たちが叫ぶ。純粋な声援じゃない。もっと見下した笑いをふくんだ「負けんなー!」だった。早食いはお父さんが一歩リードしていた。
外からの声援が使えると思ったのか、テレビのスタッフが店のガラス扉を開き、店外と店内の境目にひもを渡した。これで店内の声が聞こえる。関助たちはじぶんたちの声が扉を開いたのだと興奮し、「イノモトー!」「負けんなー!」とさらに声を張りあげはじめた。
ぼくがアッと気づいたのは、店員が「唐辛子入れすぎないでくださいね、体質でだめなひとは救急車で運ばれることもあるんですから」とお父さんに注意しているのを聞いたときだった。気づいていなかったけれど、ラーメン屋の店内にはたくさんの注意書きがあった。唐辛子入れすぎ注意。唐辛子パウダー直飲み禁止。食べ残し禁止。
ダメだ、とぼくはつよく思う。負けるなとか、唐辛子いれすぎるなとか、そんなこと、お父さんに言ったら――。
「おおっと、イノモトここで唐辛子を五本も一気に追加したあ! 辛さレベルをあげるとポイントは加算になりますが、食べきれなければ失格になってしまいます!」
実況役が解説をはさむ。お父さんは火の海みたいな色のスープに箸をつっこみ、ごっそりともちあげた麺を、思いっきりすすった。店外はわあっと盛りあがる。が、お父さんはすぐに咳きこんで麺を丼に吐きだしてしまった。顔色は赤いのを通りこして真っ青になり、汗もぴたりと止まっていた。あきらかに限界だ。
それなのに、「止めないと」と店内にはいろうとするお母さんと正反対に、お父さんは「負けるなー」の声援に応えてさらに唐辛子を二本追加した。もう箸は進んでいない。いつの間にか両隣のふたりのほうが完食に近づいていた。せっかくのチャンスだったのに、唐辛子なんて足すから……。
お父さんはもう、ラーメンをすすっても飲みこめず、水すら満足にのどを通っていなかった。麺を口に含んでも、すぐに吐きだしてしまう。さすがに見ていられなくなったのか、観衆からは、「もうやめとけよ」とか「イノモト、もうリタイアしろよ」とかいう声があがった。ぼくは思わずうしろを振り向き、
「やめてって言わないで! やめてって言われたらやめられないでしょ!」
と周囲に叫んだけれど、みんなに意味がわからないという顔をされてしまった。
そして、ぼくが前に向き直ったときにはお父さんはさらにラーメンに唐辛子を足していた。あっ、と思うまもなく、お父さんがそれを口に含む。そして、マーライオンみたいにきれいにゲロを吐いた。もう声援は飛ばなかった。
「あー、止めて。カット!」
とスタッフの声がかかる。小太りのディレクターらしき男の人だった。カンペを床に置き、お父さんのとなりまで行って声をかけている。
「イノモトさん、もうええですよ。ハケてください。吐かれたらこのシーンの映像使えへんし」
「えっ? う、おええ、え? おえ……」
お父さんがラーメンから顔をあげ、またさげる。ディレクターは意にかいさず周囲のスタッフに「一旦撤収で」と指示を出した。丸めがねロン毛おじさんとピザ柄Tシャツ巨漢おじさんにも「おふたりで撮りなおしでええですか? 三十分後、再開で。オープニングのイノモトさんのコメントは編集で切りますんで、最初からおらん感じで。はい、オナシャス!」と説明している。
その指示ひとつでスタッフの陣形はがらりと崩れ、芸人も店外に連れだされていった。ぼくもお母さんも、ただその現場が崩れさっていくのを見ていることしかできなかった。お父さんはまだ真っ青な顔で「ちょっ、うおえ、まだ食え、うええ」と丼に顔を埋めつづけていた。
撮影は夕方、オレンジ色の太陽がラーメン屋の駐車場裏のクリークに落ちるまでつづいた。ぼくはスタッフが撤収するのをお母さんの車のなかで待っていた。結局、お父さんのシーンは一切使われないことが決まったらしい。せっかく取ってきた仕事を台無しにして、とお父さんは事務所のマネージャーにひどく叱責されていた。このあと、事務所に戻ってさらに偉い人に謝らなきゃいけないらしい。往生際の悪いお父さんは、ラーメン屋のすみでロケを見学させてもらうという口実で事務所に戻るのをさきのばしにしていた。すっかり日が落ちきったころ、お母さんに「お父さん呼んできて」と言われ、ぼくはひとりでラーメン屋にはいった。
お父さんは撮影のときの席から移動し、店の端っこのテーブル席でひとりうなだれていた。通常営業にもどった店内では、工業高校の制服をきた男子集団が大盛りラーメンを食べている。胃袋の容量がちがうって感じだ。ぼくは声もかけず、お父さんの向かいに座った。店内にいるだけで香辛料のにおいがつよくて、目がシパシパする。「永遠?」とお父さんがおどろいた表情でぼくを呼ぶ。
ぼくは言いたいことが一気に頭のなかをセンキョして、胸がつまった。言いたいことも聞きたいことも、いくらでもあった。なんでせっかくの仕事を棒にふるようなことするの。なんで後先考えないで松本人志批判したりすんの。なんでぼくが真面目に生きようとしたら邪魔してくんの。ほんとうにいくらでも、疑問は湧いてくる。
でも、ぼくにはもう、その答えはわかっていた。だから、言う。
「ぼくも同じの食べたい」
「えっ……辛いぞ?」
お父さんは顔をしかめた。お父さんのくちびるは赤く腫れあがっていて、声もしゃがれている。ほんとうに辛かったんだな、というのがわかった。ぼくも辛いものは苦手だ。とても食べられそうにない。ぼくはじっとお父さんを見つめて、挑むように言った。
「じゃあ、辛くないのにして」
「永遠」お父さんはぼくをじっと見つめながら、ひどく深刻な声で返事をした。「……わかったよ」
うん、とうなずいて、水を飲む。それでのどが渇いていたんだと自覚した。お父さんはもう一度、ぼくを見てから、店員に「注文いい?」と声をかけた。キャップをかぶった店員がおっくうそうに歩いてくる。お父さんはそれを待ちきれないと焦るみたいに、
「激辛ひとつ!」
と高らかに叫んだ。ばちっ、とお父さんと目があう。お父さんの目は、めずらしくちょっと自信なさげに揺れていた。髪に唐辛子パウダーの赤い粉が散っている。ぼくはお父さんの目にうなずきかえして、「辛くないのにしてって言ったのに」と笑ってあげた。
激辛ラーメンはにおいだけでむせてしまって、ぜんぜん食べられなかった。とにかくのどを通そうと、ろくに咀嚼もせずに飲みこんでみると、胃に火がついたように全身があつくなった。食べ物とは思えない。お父さんが加勢してくれる。ぼくとお父さんはひとつの丼に交互に箸をつっこむようにして食べた。汗と涙がふきだしてくる。
「なんで」と声をだしてみたら、舌たらずになった。辛さで舌がしびれて、うまくしゃべることもできない。「なんで、唐辛子追加したりしたの」
あのままいったら勝ってたのに。そう付け加えると、お父さんは困った顔をして、テーブルに置かれた唐辛子パウダーの容器をテーブルの中央に引きよせた。大きな赤文字で『唐辛子入れすぎ注意!』と書かれている。
「そこに唐辛子があるからだ」
と答えて、お父さんは唐辛子パウダーを一振り、丼にいれた。なんだよそれ、と文句を言いながら、ぼくはなんだかうれしくなっていた。それが不正解だから。不正解を選ぶことは、ただしい。ぼくは急に鼻の奥がつんとして、目頭を押さえた。きっと唐辛子パウダーのせいだ。
いつからだろう。お父さんの常識は非常識だって気づいたのは。押すなは押せってことだし、立つなは立てってことだし、唐辛子入れるなは唐辛子入れろってこと。生きづらいよ、と思う。そんな非常識、生きづらい。だれも笑わない。でも、お父さんがそうとしか生きられないことをぼくは否定したくなかった。お父さんの、一生逃れられないそのビョーキに、ぼくもとっくの昔に感染しているんだから。同じだった。ぼくもやっぱり、芸人イノモトと同じだ。
高校生たちが親子で泣きながら激辛ラーメンを食べるぼくらを指さして、遠くの席から笑っていた。ぼくは汗と涙でぐちゃぐちゃになった顔を拭うこともせず、
「お父さん、ナルトついてるよ」
とへにゃへにゃの声で言った。発声するのもつらい。お父さんの髪からナルトをとって、肩についたフケも払ってあげる。ナルトはちょっと固くなっていた。お父さんはぼくがつまんだナルトを手のひらに載せると、じっと見つめ、自分の髪に絡むように慎重に載せなおした。ぼくはキョトンとお父さんを見つめた。そして、「うん。お父さんは、そっちのほうがかっこええ」と、笑った。
受験は中学校で、一日がかりでおこなわれた。午前中の筆記試験がおわり、午後から親子面接だった。通されたのは校舎のはしの教室で、面接官は三人だった。
「いままでで、一番感動したことはなんですか?」
面接官のひとりがそう言って、ぼくを指した。ぼくは「はい!」と背筋を伸ばした。左どなりに座るお父さんは足を揺すっているし、右どなりのお母さんは心配そうにぼくをチラチラ見てせわしない。
「ぼくのお父さんは芸人をしていて、このまえ、ラーメンの早食い対決ロケをしていたんです」
ゆっくりと話しだすと、三人の面接官が一斉にうなずいた。カウンセラーみたいだ、と頭のはしっこで思う。あんなに気負っていた中学受験の当日なのに、不思議と肩のちからがぬけていた。前日に「頼むから『明日に備えてはやく寝てね』とか『朝、遅刻しないようにね』とか言わないでくれ」ってお母さんに必死でお願いしていたお父さんのほうが、ずっときんちょうしている。
「ぼくはずっと、お父さんのことをかっこわるいと思っていました。お父さんは芸人なのにテレビでてないし、芸人なのにおもんないし、芸人なのに松本さんのこと松本人志って呼ぶし……。おもろくない芸人なんてかっこわるいと、思ってました。でも、そうじゃないって、気づいたんです。芸人って生き方なんじゃないかなって。それがまちがいだってわかってても、むしろまちがいだってわかってるからこそ、つき進んでしまう。おもろいとかおもろくないとかじゃなくて……正しく生きない、生き方。そういうところにこそ『芸人』はあって、それが……かっこいいのかもしれないって思いました。お父さんは、お父さんとしてはかっこわるいです。今日も親として面接を受けるお父さんは信用ならないなって思ってます。でも……芸人の『イノモト』のことは、信じてあげてもいい。そう思って。あっ、それで、感動したのはそのあとで」
ぼくはきゅっと息を吸いこんだ。となりに座るお父さんの体温が、左側だけほんのすこし感じられる。
「ラーメン屋のトイレに行ったら店員さんが先に入っていて入れなくて、おしっこが漏れそうになりました。そのとき、『火垂るの墓』を思い出したんです。ぼくより大変な人はいるんだって思って我慢しました」
面接官ももうひと組の親子も、けげんな顔でこちらを見ていた。ぼくはそのリアクションにおおいに勇気づけられ、「『火垂るの墓』はぼくに勇気と希望を与えてくれました。耐えて耐えて、やっとおしっこできたときにはすごく達成感がありました。だからつまり、ぼくがいままでで一番感動したのは、『火垂るの墓』を思い出してトイレを我慢し、漏らさずにおしっこできたときです!」まったく感動的じゃないまちがった話を最後まで言い切った。
ふっと、両膝においていた拳から、ちからがぬける。となりに向かってにんまりと笑った。お父さんは今日もスーツの肩に大量のフケをつけていて、くちびるはまだ腫れていた。ぼくには、それは勲章のように見えた。
目が合ったお父さんは同じようににんまりして、面接官に「ええと、ではつづいてお父さま。人生で一番感動したこと、おねがいします」と指名されると、大きな声で、「辛いものを食べたあとのうんこは、痛い! と、発見したときです!」と言い放った。
面接官たちは、だれも笑わなかった。
(つづく)