最初から読む

 

 あれは、七月の梅雨が明ける前だった。登校中、武蔵がスカートでゆっくりと自転車をこいでいると、出勤途中であろう二十代らしき女性とすれ違ったことがあった。

 女性は武蔵を目にしたとたん、キャッと短い悲鳴をあげ、慌ててあとずさった。その瞬間、足をもつれさせ、その場に尻もちをついた。スカートがめくれてストッキングをはいた脚があらわになった。

「大丈夫ですか?」

 と、武蔵が自転車を停めて手を伸ばしたら、女性はまた悲鳴をあげた。

「あっ、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったんです。なんかびっくりしてしまって……。失礼しました」

 拝むように手を合わせて立ち上がり、女性は逃げるように去っていった。

 ショックだった。自分が女性を怖がらせてしまったことがショックだった。男の顔と身体を持つ自分がスカートをはいただけで、なんの罪もない女性を恐怖に陥れたのだった。悲鳴をあげさせ、尻もちをつかせ、スカートまでめくらせてしまった。あの女性はきっと、武蔵になにかされると勘違いしたのだ。

 申し訳なく、情けなく、身体に力が入らなくなった。武蔵は、近くにあったドラッグストアに自転車を停めてうなだれた。自分の容姿を笑われるのは仕方ないとして、自分の容姿が誰かに恐怖を与えるなんて、考えもしなかったのだ。

 落ち込んでいたところに、智親が現れた。こっちの気も知らないで、「大丈夫か?」なんて聞く智親が憎たらしかった。もし、智親がスカートをはいたとしたら、あの女性はあんなにも驚かなかっただろうと思った。おしゃれ男子高生が、ファッションでスカートをはいている程度に受け取ったかもしれない。

 人と比べることが、この世で最も意味のない不毛なことだとわかっていたはずなのに、あの朝、智親に当たってしまった。努力しないでも、スカートをはいて問題なさそうな智親の容姿をうらやましく思い、なんの悩みもなさそうな智親を妬んでしまった。

 身体はただの容れもので、粒子が集まっただけのものなんだから、見た目や外見なんて関係ないと考えていた武蔵だったが、この日を境に、外見を整えようと、改めて決意を新たにしたのだった。もう誰も怖がらせたくなかったし、誰にも尻もちをつかせたくなかったし、誰かをうらやむことも、もう二度としたくなかった。

 教室に戻り、今月の予定のプリントを配られたところで、今日は下校となった。

「ランチどこ行く?」

 昨日、桜田とSとのグループLINEに今日の昼食のことが書いてあって、武蔵はOKしていた。

「焼肉行こうよ。ちょい高だけど、めちゃうまだから」

 桜田の提案で、ジュジュ苑へ行くことになった。三人とも千三百八十円のカルビ定食を頼んだ。

「新学期にカンパーイ」

 無料のジャスミンティーのグラスを合わせて乾杯をする。

「なあ、どこでバイトする?」

 Sが身を乗り出したところで、「あっ」と声がした。鈴川とかみみずの三人だった。

「高永と高江州と桜田って、めっちゃ仲いいよねえ」

 鈴川が、武蔵たちのテーブルの前で立ち止まって言う。

「個性的な三人って感じでいいよね。将来有望って感じ。サインでももらっておこうかな」

 とここで、先に席に案内されていた三上と水田が鈴川を呼び、鈴川はじゃあね、と手を振って去っていった。

「だるっ」

 と、Sと桜田の声がそろう。

「ここだけの話、鈴川って要注意人物だと思わない?」

 桜田が声を落として言うと、かもな、とSも同調した。

「微妙に意地悪なんだよねえ。うまく隠してるけど、あたしにはわかる。女子でやられた子、何人か見たから。水田なんて一時期ハブられたのによく一緒にいるよ」

 と、桜田がため息を吐く。

「高永がスカートはくようになってから、ちょくちょく声かけてくるようになったよね」

「おれも、そう思ってた。なにか企んでるのかね」

「高永の変化に便乗したいだけだろうね。一緒にいれば目立つじゃん。あたしたち三人の手柄を横取りしようとしてるんだと思う」

「なんだよ、手柄って。なんの手柄も立ててないじゃん」

 と、Sが笑う。

「手柄っていうか、有望株ってこと。自分も高永と仲良しですよって、アピールしたいんだよ。とにかく高永、気を付けてよ」

 鈴川とは、これまでまともにしゃべったことがないから、よくわからない。

 バイトと脱毛とメイクの話を行ったり来たりした。Sは最初から部活に入っていないから、いつでもバイトを始められると言った。これまでやらなかったのは、親が反対していたかららしい。あんたはおっちょこちょいだから、知らずに闇バイトに巻き込まれそう、だと。

「高江州って、ぼんやりなところあるから、親が心配するのわかる」

「時給がいいと気付かれるからって、今はわざと時給を低く設定してるらしいからさ」

「時給安くて闇だったら、マジ地獄じゃん」

 そう言って笑う桜田は、ロボット部に在籍している。週四で部活動があり、ロボット作りに情熱を燃やしているとのことで、当面アルバイトをする予定はないそうだ。

 カルビ定食はおいしかった。小鉢のカクテキとキムチとナムルが気に入った。ご飯のおかわりは自由だったけれど、武蔵は一杯でやめておいた。Sは、「おれって、肉一枚でどんぶり一杯食えるんだよねー。食うわりに、身長は伸び悩みだけどさ」と、三杯の大盛飯を食べた。

 そろそろ解散しようかというときに、鈴川たちがやって来た。

「まだいたんだ。ずいぶんゆっくりじゃん。三人でいっぱい話すことあるんだね。いいなあ」

 鈴川が言い、なにもおかしくないのに三上と水田が笑った。

「お先にー」

「バーイ」

「またね」

 と三人三様に声を残して、レジに向かった。水田はプラスして、コツコツとテーブルを爪で叩いていった。

「ダルいわー」

 桜田が目頭を揉み、Sは大げさに鼻の穴を広げた。

 会計のあと、店で別れて帰宅した。武蔵は、以前駐車場で休ませてもらったドラッグストアに寄った。フロスがなくなったので欲しかった。レジで会計をしていると、アルバイト募集の貼り紙が目に入った。

 ――レジ、品出しなどの店内業務。時給一一七〇円

 そのあとに、時間帯がいくつか記載されていた。十六時から二十一時が、ちょうどよさそうだった。思い立ったが吉日だ。店員さんに声をかけようかと思ったところで、「武蔵」と名前を呼ばれた。

「あ、智親」

「学校帰り? 買い物?」

「うん。アルバイトしようかなって」

 智親がアルバイト募集の貼り紙に目をやる。

「おれがやってたファミレスはどう? 募集してるよ。時給もここよりいいし」

 智親は昨日でバイトを辞めたそうだ。九月からは、受験勉強にシフトチェンジするらしい。

「ありがと。ここで聞いてみて、ダメだったらそっちに行ってみる」

 オッケー、と言って、智親は帰って行った。

 店の人に声をかけると、すぐに店長を呼んでくれた。店長は、何度か見かけたことのある人だった。

「アルバイトしたいんですけど」

「あ、ああ、すみません。ちょうど決まってしまったところで、申し訳ないです。貼り紙外しておきます」

 と、頭を下げられた。武蔵はわかりましたと言って、店をあとにした。自転車をこいでいると、のろのろと歩いている智親に追いついた。

「お、武蔵。バイトどうだった?」

「募集してなかったみたい。智親のところでお願いしてもいいかな」

「もちろん。このあと行こうよ」

 いったん家に帰って、着替えてから行くことになった。その間に、これから面接に行くと智親が話をつけておいてくれた。

「智親は、大学どのあたりを狙ってるの?」

「はは、狙うもなにも。受かるところを確実に」

「学部は?」

「世のなかの役に立たない学部がいいなあ」

 空を見ながら智親が答える。いいね、と武蔵は肯定の相槌を打った。

 ファミレスでは、店長が待機していてくれてすぐに面接がはじまった。

「智親さんから聞いてます。キッチン担当ですけど、どうですか?」

「はい、ぜひお願いしたいです」

 武蔵は真摯に受け答えした。

「家で料理とかします?」

「ほとんどしないです」

「そうですか。まあ、簡単な調理ですので、やっていけば慣れると思います。包丁も使いますので、家で少し練習してもらうといいかもしれません。あとは、皿洗いと掃除です」

「はい」

 不器用を自覚しているから、家の台所にはなるべく近づかないようにしていたけど、玲子ちゃんに包丁づかいを教えてもらおうと心づもりする。

 その後、時間や時給についての話があり、面接は終わった。せっかくだから、なにか食べていこうと智親に誘われ、カルビ定食がまだ効いていたけれど、グリーンサラダとドリンクバーを頼んだ。智親は、ミニエビグラタンとドリンクバーだ。

「武蔵と二人でこういうところに来るの、はじめてかもね」

「そうだね」

 特にしゃべることもなかったので、武蔵は今後のためにメニューを眺めて頭に入れることに専念した。智親はスマホでゲームをやっているようだった。なんてことのない、いい時間だった。

「うそっ!」

 と大きな声がして、見ればママが立っていた。

「智親あー、武蔵いー」

 と名前を呼んで、智親の隣に座った。智親があからさまに顔をしかめる。

「なんでママがいるのよ? ちなみにおれ、昨日でバイト辞めたから」

「えっ、そうなの? 教えてくれてもいいじゃん。ケチ」

 ママは不満げな顔だ。

「あれええ?」

 頭の上から頓狂な声がした。

「お、お母さん!?」

 思わず智親と声がそろう。どういうことだろうと考える間もなく、お母さんに続いて玲子ちゃんまでやって来た。

「やだよう、あんたたち、なにしてるのさ」

 お母さんがびっくりした様子で目を丸くしている。

「あら、智親と武蔵じゃない。どうしたの? 智親はもうバイトやめたのよね?」

 玲子ちゃんが首を傾げる。

「今度から武蔵がここでバイトするんだ。面接終わって、お茶飲んでたところ」

 と、智親が答えた。

「玲子ちゃんはどうして? てか、お母さんも。……あ? まさかママも一緒? じゃないよな……」

 智親の声がだんだん小さくなる。

「大当たり! 智親、冴えてるじゃん」

 ママが、智親を肘で突く。

「ちょっと、もっと詰めてよ」

 と言いながら、お母さんがママの隣に座り、一方の玲子ちゃんは武蔵の隣に座った。

「狭いよ。押すなっての。近い」

 ママはわざと、智親のほうにぐいぐいと身体を寄せている。二人掛けの席に三人。確かに狭そうだ。

「あはは、仲いいわね」

 玲子ちゃんが、ママと智親の掛け合いに笑う。

「ていうか、なんで? どういう集まり?」

 智親がたずねる。武蔵も、おもしろい三人組だなあと思った。母親が、三人勢ぞろいだ。

「たまーに、こうして三人で会ってるのよ。場所はいろいろだけど」

「そうなの? 初耳」

「子どもたちの近況を知りたいからさー」

 と、ママが首をすくめる。

「三人って、仲良しなの?」

 武蔵がたずねると、お母さんと玲子ちゃんとママはそれぞれに顔を見合わせて、まあねえ、そうねえ、なんだかねえ、などとあやふやに答えた。

「しいて言うなら、ママ友みたいな感じよ」

 ママ友の概念をくつがえすような玲子ちゃんの発言に、なにそれ? と智親が呆れたように苦笑し、武蔵もつられて笑ってしまった。

「あ、パパは知らないからね。内緒にしといて」

 玲子ちゃんがそう続けて、わかった、と智親と二人でうなずいた。

「智親が辞めちゃってつまらないけど、今度は武蔵に会えるね」

「武蔵は、キッチンだから会えないよ」

 ママの言葉に、智親が牽制するように伝えた。

「そうなんだ、ホールじゃないんだね。ところで、キッチンって制服あるの?」

「うん、あるよ」

 武蔵が答えると、じゃあ、いいわね、と返ってきた。その瞬間、智親がテーブルに勢いよく手を突いた。

「おれたち帰るから。どいて」

「もう? さみしいじゃない」

 ママの言葉を無視して、智親が席を立つ。武蔵もあとに続いた。

「夕飯までには戻るからねー」

 お母さんが手をひらひらと振り、玲子ちゃんはピースサインをくれた。

「じゃあね、ママ」

 胸元で武蔵が手を振ると、ママも、またねと手を振った。

「ママって変わらないね」

 店を出たところで、智親に声をかけた。ママとは一月に会ったきりだった。そのときも変わらないなと思ったけど、今日もまた思った。

「外見のこと? 性格のこと?」

 智親に聞かれ、両方、と答えた。ママは比較的若い見た目だと思うし、あけすけなところも昔から変わらない。

「それにしても、三人が密会してるなんてなあ」

「うん、びっくりだったね」

「まさかまさか、だったよ」

 そう言う智親の表情は、どこかうれしそうだ。

「あっ」

 と、ここで思い当たった。さっきなんでママが、キッチン担当は制服があるのかと聞いたのか。武蔵の今日の恰好は、丸襟の薄桃色のブラウスに膝丈デニム地のキュロットスカートだ。正直なママのことだから、この恰好だとなにか問題が起きると思って、制服の有無を聞いたのだろう。そして智親は、それを敏感に察知して、ママにそれ以上余計なことを言わせないよう席を立ったのだ。

 それと、もうひとつ。ドラッグストアでバイトを断られた理由が、今はっきりとわかった。武蔵の外見から、お客さんの前に立つレジ業務はむずかしいと店長は判断したに違いなかった。制服のズボンをはいてはいたが、髪を編み込みにしているのもあやしかっただろうし、これまで何度もスカート姿で買い物をしたことがあった。

 男の顔に女の恰好をしている人間が直接お客さんと関わると、いろいろと面倒なことがあるのだろう。智親は最初からそれがわかっていて、ドラッグストアじゃなくて、ファミレスを勧めたのだと腑に落ちた。

 きっとファミレスの店長に、自分の恰好のことも事前に知らせておいてくれたのだろう。ホール担当ではなく、キッチン担当というのもうなずける。

 それにしても、と武蔵はママのことを思った。自分が産んだ三男坊が女の子になりたがっていることはわかっているだろうけど、それを気に病んだり、気に留めたりする様子はまったくない。バイト先の制服はあるのか? という、あくまでも現実的なことだけに目がいくようで、なんだかおかしくなる。

 健やかな人だと、改めて思う。女の子に産んであげられなくてごめんね、なんて謝られたら、それこそいたたまれなくなっていたことだろう。ママはママでいい。

「ねえ、智親」

「ん?」

「前にさ、ぼくがさっきのドラッグストアの駐車場で、座り込んでいたときがあったでしょ。朝、学校に行くとき」

「ああ、うん」

「あのとき、ひどい態度とってごめんね」

「えっ! なによ、いいよ、そんなの! 謝ることないから」

 あせったように手と首を振る。

「バイトのこともありがとう」

「えっ、なによなによ、武蔵、どうかした? 熱でもあるんじゃないのか」

 慌てた様子の智親を見て、ぼくは恵まれてるなあと武蔵は思った。家族のなかで自分だけが面倒な人間だと思って自分自身を持て余していたけれど、智親や桜田やS、民やお父さんや玲子ちゃん、いろんな人に支えられている。

 今日から蛹に変態したから、違う角度から物事を考えられるようになったのかもしれない。意識を変えると、世界の見方は違ってくる。

「智親は、すごく小さなことまで気が付くから大変だよね。そんな役割、いつでも投げ捨てちゃっていいんだから、無理しないでね」

 武蔵が言うと、智親は一瞬絶句して、それから「なんだよう」と涙を拭う振りをして、泣けるぜ、と続けた。

「九月一日って、一年のなかでいちばん落ちる日だと思ってたけど、今の武蔵の言葉で最高の日になったわ」

 そう言って智親は、泣き笑いみたいな笑顔を見せた。幼いときから、誰よりも先に自分を守ってくれたのは智親だったなあと、古いアルバムを見るように武蔵は思い、春の陽だまりで寝転んでいるような穏やかな気持ちになった。

 

 帰宅して、バイトが決まったことをSと桜田のグループLINEに送ると、Sからすぐに、おれもそこでやる! と返事が来た。Sの家からだと遠いことを伝えると、べつにかまわないということだった。

 智親にSのバイトのことをたずねると、すぐに店長に連絡を入れてくれて、今日にでも面接できるという。どうやら人手不足らしかった。Sからは、すぐに行く! という返事がきた。現在の時刻は十六時十分。

 なんだか今日はめまぐるしい日だ。どういうめぐり合わせか、同じようなことが重なる日がたまにある。「電話がよく鳴る日」や「欲しいものが売り切れの日」や「渡ろうとした瞬間に信号が赤に変わってしまう日」など。今日は「人と会って関わる日」みたいだ。

「むさ兄。編み物やる? 朝、教えてほしいって言ってたじゃん」

 民が毛糸と編み棒をかかげる。武蔵はお願いしますと言って、スタンバイした。Sが来るまでの間、教えてもらうことにする。

「わたしはマフラーと帽子しか作ったことないんだけど、むさ兄はなにを作りたいの?」

「ぼくは、耳あてのある帽子を作りたいんだ。赤ちゃんみたいなやつ。ボンネットっていうのかな」

「あー、レース編みっぽいやつね」

 今度新しい毛糸を買ってくることにして、とりあえず民が持っていた残りの毛糸で基本の編み方を教えてもらうことにする。

「最初は作り目をするの。まずは棒針にこうして引っかけて。そうそう」

 民は教え方がうまい。

「できた」

「うん、いい感じ。作り目を作ったら、ゴム編みしていくの。表編みと裏編みを交互にやっていくのがゴム編みね。ひさしぶりの編み物おもしろいなあ。小学生以来だ。わたしもなんか作ろうかなあ」

 表編みと裏編みのやり方を教えてもらう。単純作業がおもしろく、手が進んだ。

「そういえば、民。インスタ消えてよかったね」

 武蔵は民に声をかけた。

「むさ兄、知ってたの?」

 民が顔色を変える。控えめにうなずくと、大きく息を吐き出してから、むさ兄にはバレてたか、と舌を出した。

「少し前に気付いて、声かけようと思っているうちに消えてたから。大丈夫だった? 今さらなんだけど」

 民は、「世界が百八十度変わったー」と天井を仰いで言った。

「今まで信じてたものが、全部反転したよ。すごい体験しちゃった」

 冗談めかした口調だったけれど、民にとってすさまじい経験だったことはわかった。けれど今の民は、どこか晴れ晴れとした顔をしている。

「そういうときってさ、風に吹かれて翻弄される落ち葉みたいに、自分の意思に関係なく、あっちに行ったりこっちに来たりどこかにふいに飛ばされたりして、自分ってものがわからなくなっちゃうでしょ」

「うん」

「ぼくもそういうときがあったんだけど、自分に意識を戻せば、大丈夫だなあって思った」

「どういうこと?」

「深呼吸して目をつぶって、感覚で自分の体の輪郭をなぞってみるんだよ。頭のてっぺんから肩、腕、脇腹、腰、脚、反対側の脚まで順番に。もしくは、自分の体の真ん中に一本の軸が通ってるイメージを持つのもいいし、自分の身体をスキャンするような感じでもいい」

 武蔵がジェスチャーを交えて説明すると、やってみる、と言って、民が目を閉じた。

「あー、なんかいいかも。どっしりするみたいな? 地に足が着くみたいな? 自分に、自分が戻って来るみたいな? そんな感じ」

「うん。流されそうなときは、ちょくちょくそうやって、自分を取り戻すことにしている」

「わたしも、これからやってみようっと」

 と、民がまた目を閉じたところで、Sから連絡が入った。最寄り駅に着いたという。二十分ちょいくらいでファミレスに行けるというので、武蔵も行くと伝えた。

 

 

(つづく)