なにがなんだかわからぬまま、文字通り右往左往した。善羽は三年生を受け持っていないので、竹下真麻と直接関わったことはなく、真麻の顔もわからない状態だったが、現実の出来事としてまったく頭に入ってこない。この学校の生徒が自死したという事実が信じられなかった。
しばらくして、校長と須賀さんが戻ってきた。校長は顔が真っ赤で、須賀さんは顔面蒼白だった。須賀さんの姿に、善羽の胸は押しつぶされそうだった。
須賀さんは三年一組の担任だ。亡くなった竹下真麻を受け持っている。四十代の須賀圭一教諭は、善羽と同じ社会科の教科担当で、善羽は日頃から大変お世話になっている。同じ教科ということもあり、校内でいちばん多く話すのも須賀さんだ。
穏やかな人柄で、常に落ち着いた声で話し、なによりも善羽の話に真剣に耳を傾けてくれる。すぐにあせったり慌てたりして感情的になってしまう善羽にとっては、菩薩のような人だ。誰よりも信用しているし、誰よりも頼りにしている。生徒からの信頼も厚く、クラス指導には定評がある。
その須賀さんのクラスの生徒が自死?
「わたしたちは、今から竹下さんのお宅に伺ってきます。みなさん、とても動揺していることと思いますが、今、誰よりも辛いのはご家族だと思いますので、気持ちをしっかりと持って、真摯に今回の出来事に対応していきましょう」
校長が頭を下げてみんなに告げる。
「平井教頭、あとはよろしくお願いします」
教頭が小さくうなずき、須賀さんは深々と頭を下げ、校長とともに足早に学校をあとにした。
自分が担任している生徒が自死を選ぶなんて、クラス担任としてどれほど辛いことだろうか。善羽のクラスの生徒が自死したとしたら、自分がどうなってしまうのか、想像すらできない。
張り詰めた緊張感と悲しみが混じり合って、職員室は異様な空気だった。残りの夏休みのすべての部活動は中止となった。生徒を学校に入れないよう、指示が出た。
招集した職員全員がそろい、緊急会議が行われた。
「お知らせした通り、三年一組の竹下真麻さんが昨夜亡くなりました。自死とのことです。保護者の了承を得たのでお伝えしますが、自室でイシュしたそうです。他言無用で願います」
教頭がひと息に告げる。低いどよめきがさざ波のように駆け抜けた。善羽は、「イシュ」という言葉がわからなかった。しばらく考えて、ようやく「縊首」という漢字のぼんやりしたイメージだけを思い出した。スマホで調べると、「首を縊る」で「縊首」。くびる、とあった。思わず、口に出し、その言葉の恐ろしさと生々しさに身震いする。二十三年間生きてきて、はじめて口にする言葉だった。
「これは生徒が自死した際の文部科学省の資料と県と市のマニュアル、こっちは南松中学校の緊急対応マニュアルです。各自、ひと通り目を通して下さい」
教頭が苛立たしげに書類を置く。
「真麻さんの自死の理由にもよりますが、今後の対応として、おおよその流れとおおまかな役割分担を決めていきたいと思います。はあっ」
いかにも大変だと言わんばかりのため息をつき、不穏な空気が流れる。
この五十代の女性教頭は、なによりも体面を重んじる。世間体がいちばんというタイプだ。日頃から、新しい提案に関してはまず受け付けない。たとえそれが、たった一節の文言を付け足すだけのお知らせであっても、前のほうがいいわよ、のひとことで却下する。なにがなんでも面倒を避け、自分の手を汚すことを嫌う。過去を踏襲することだけに命をかけている人で、はっきり言って評判は悪い。
善羽も多くの教員と同じく、教頭のことは苦手だが、呼ばれると、ついヘラヘラと愛想笑いをしてしまい、そのたびに軽い自己嫌悪に陥る。智親や武蔵や民だったら、絶対に愛想笑いなんてしないだろうなと思うと、兄貴ながらに情けない。
「教員の皆さんもショックを受けていることと思いますが、早急に取り組まなければならないことが山ほどあります。しっかりとよろしくお願いします」
最後にまた、はあっ、と短く息を吐き出した。
中心になって動いていくのは三年生のクラスを持っている教員たちだが、検討すべき内容はいくらでもあった。状況の把握、教育委員会及び教育事務所との連携、遺族への対応、生徒たちへの対応、保護者たちへの対応、マスコミ対応……。そこから、また枝分かれにやるべきことは半永久的に続いていく。
善羽は遺族への対応チームに振り分けられ、一年生の担当教諭たちとともに、きょうだいへのサポート班となった。
ここで善羽は、男子バレー部の竹下祐介が真麻の弟だと知ったのだった。それは善羽にとって大きな衝撃だった。校内の生徒の血縁関係を、教員がすべて把握しているわけではない。生徒自身から、または教員同士の会話で知ることが多い。
善羽は呆然としていた。祐介の姉が自死したという事実を、どう捉えればいいのか見当がつかない。祐介、祐介……、祐介よ。
今日の部活動で、祐介は休みだった。家の用事で休むと部長の琢磨が言っていた。まさか、祐介自身が休みの連絡を琢磨にしたのだろうか。こんなときでも、律儀に欠席の連絡を入れたのだろうか。もしそうだとしたら、どんな気持ちだったのか……。
目立つ生徒ではないが、真面目で、誰も見ていなくても決められたアップはきちんと最後までやるし、掃除に関しても、手を抜かず決してサボったりしない子だ。先輩や友人からの信頼も厚い。
昨日の部活動で、祐介はまったくいつも通りの様子だった。ランニングをしてストレッチをして、部員たちとともにボールをレシーブしてトスして打った。みんなとたのしげに話し、祐介はそのつど控えめに笑い、さわやかに挨拶をして帰っていった。
その祐介の姉が自死した? うそだろ?
真麻は、誕生日前の十四歳と九ヶ月ということだった。十四歳の子どもが自死するということが善羽には理解できなかった。弟への影響も計り知れない。
校長と須賀さんが戻ってきた。二人とも汗だくだった。
「皆さん、お疲れさまです」
校長が頭を下げ、その横で須賀さんが深々と頭を垂れる。
「竹下さんのご自宅へご挨拶に伺ってきましたが、お父さんだけがおられました。真麻さんはまだご自宅には戻られていません。明日、帰宅するとのことですので、いろいろな確認は明日以降になります。弟の祐介くんは、現在、母方の祖父母の家に行っているとのことです」
自死の場合、警察の検視や、必要に応じて司法解剖があるため、すぐには自宅に戻って来られないらしい。何人かの職員が、うっ、と声を押し殺して泣き出した。
「自死の理由はあきらかではありません。これから情報の整理をしていきます」
三年生担当教諭と真麻が所属していた美術部の顧問、各学年主任、スクールカウンセラー、養護教諭が集まった。
善羽は、祐介のサポート班の職員たちと、今後の流れを話し合った。
時間が経つのが早いのか遅いのかわからないまま、時計の針は二十二時を過ぎていた。
「ハイ、皆さん」
教頭が手を打つ。
「今日は解散ということでお願いします。明日またお願いします」
イライラしているのが伝わってきて、決して気持ちのいい挨拶ではなかったが、確かにもう帰ったほうがいいだろうと、善羽も思った。疲労が充満している。
「遅くまでご苦労さまでした」
校長が疲れきった顔で頭を下げた。
帰り際、善羽は迷った末に須賀さんに声をかけた。少しでも励ませたらいいと思って声をかけたのに、須賀さんの顔を見た瞬間に喉が詰まって、なにも言えなくなった。
須賀さんは、善羽の背中をぽんぽんと叩いて下駄箱へ向かった。今日だけで十も年を取ったように見えた。
「おれ、なんでもします! なんでもしますから言ってください!」
須賀さんの背中に向かって声を張ると、須賀さんはほんの小さく頭を揺らした。
食欲はなかったが、鍋にハヤシライスがあったので温めた。らっきょうを大量投下して、なんとか食べきる。
「よし兄、遅かったね。お疲れさま」
智親の顔を見てビクッとした。フェイスシートマスクをつけていたのだ。
「男のくせにそんなもん付けんなよ」
「は?」
智親がシートマスクの目の穴からこっちをにらむ。
「男のくせに、って言った? どういう意味?」
「言葉の通りだ」
イライラしていた。智親に当たっていることはわかっていたが、止められない。
「そんなんでよく教師が務まるよな」
智親がつぶやく。カチンときた。今いちばん聞きたくない言葉だ。
「もう一度言ってみろ」
言いながら立ち上がった。無性に誰かとケンカをしたかった。
智親のTシャツの襟元をつかもうと手を伸ばしたところで、
「なにしてるの?」
と声がした。
「もしかしてケンカ?」
民だった。
「いや、してない」
善羽は手を下ろして、座り直した。
「どうせ、よし兄がちか兄にケンカ売ったんでしょ。ちか兄、大丈夫?」
「ふんっ、こいつがお化けみたいな白い顔してるからだ」
善羽の言葉に、智親が顔に貼り付けたシートマスクをはぎ取った。
「はーっ、よし兄ってひどいね」
民が呆れたように言い、「いいよ、べつに」と智親が答えた。いつでも穏やかな上の弟がうらやましくもあり、憎たらしくもある。
「なあ、民」
「なに」
「死んだりするなよ」
自分でもまったく思いがけず、言葉が勝手に口をついて出た。
「いいかげんにしろよ」
智親が声をあげる。
「なんでいつもそうなんだよ、もっとよく考えてから口に出してくれよ」
なぜ智親が怒っているのかわからない。
「平気だよ、ちか兄。わたし、死んだりしないから」
おれが民に言ったのに、どうして智親に答えるんだ? と善羽はムッとした。
「ちか兄、心配かけたよね。でも、もう大丈夫になったから。ひとまず問題は解決した」
「そうなの? それならよかったけど……」
智親がほっとした顔をする。
「なになに、民、なんかあったのか? おれになんでも相談してくれよ」
善羽が口を挟むと、民と智親が顔を見合わせて、かすかに口元をゆるめた。おもしろくない。
竹下真麻のことを二人に伝えようかと迷ったが、伝えたところでひとつもいいことはないと思い、口をつぐんだ。特に民は、同じ中学生で年齢も近い。こういうケースの場合、連鎖反応的にあと追いをする若者も多いと聞く。
民が死んだら、おれはどうする? 妹が死んだら? かわいい妹の民が死ん……。
「うわあああ」
頭を抱えた。
「大丈夫? よし兄。疲れすぎでしょ」
民が同情の視線をよこす。智親のほうはしらけた顔だ。
「……お前ら、まじで死ぬなよ」
「なあ、よし兄。なにがあったか知らないけど、いいかげんにしてくれよ。脈略がなさすぎんだよ」
智親が大きなため息をつく。
「お前、って言わないでって、何度も言ってるよね? 次言ったら、よし兄とは口利かないから」
民が本気で嫌そうな顔をした。
「……民」
無性に妹を抱きしめたくなり、手を取ろうとすると、民はうしろに飛びのき、
「キモッ!」
と、智親と同時に声を出した。
「マジキモ。民、変態に近づかないようにな。気を付けろよ」
「ほんと、マジキモ。よし兄、筋トレ足りないんじゃない? 欲求不満じゃん」
智親と民はそれぞれそう言い残して、二階へあがっていった。
「変態とか欲求不満とか失礼すぎるだろ……」
筋トレはしたいが、体育センターにはしばらく行けないだろう。体育センターの建物を思い浮かべたとき、善羽のなかでなにかがつながった。昨日の体育センターの帰り、救急車とパトカーのサイレンが鳴っていた。九時すぎのことだ。
「……まさか」
いやいや、違う違う、と頭を振って、その考えを払拭する。
ベッドに入ってもまったく寝付けなかった。サイレンの音が頭のなかで鳴り響き、そのくせ、体育センターで一人きりになったときの怖いくらいの静けさが胸のうちにあった。
身体は疲れているのに目が冴えて、さまざまな思いや映像が次から次へと浮かんできた。
――六年生のとき、地域のレクリエーションで、バレーボールをする機会がありました。大学生のお兄さんたちが教えてくれて、何度も練習したらサーブが一回決まりました。それがとてもうれしくて、中学に入ったらバレーボール部に入ろうと決めてました。よろしくお願いします。
春の新入生入部説明会で、小さな声だけどしっかりと自己紹介をした祐介。恥ずかしそうにちょっと下を向きながら、でも最後のところはしっかりと顔を上げ、善羽の目を見て挨拶した。
現在、祐介は祖父母の家にいると言っていた。今、どんな気持ちでいるのだろうか。もう寝ただろうか。姉が死んだという重すぎる現実を、どうやって受け止めているのだろうか。
昨日の部活動のあと、祐介が帰宅したとき、家には誰かがいたのだろうか。母親? 平日だったから、父親は仕事で不在だっただろうか。真麻は夜に亡くなったということだから、そのときはまだ生きていて、もしかしたら「おかえり」と言ってくれたかもしれない。なんにせよ、祐介にとっては当たり前の日常だったはずだ。お昼ご飯も家で食べただろう。
祐介は姉の死をいつ知ったのだろうか。どういう経緯で知ったのだろうか。誰が最初に真麻の異変に気付いたのだろうか。祐介じゃないよな? 祐介なわけないよな? そうじゃないことを、善羽は祈った。もう過ぎてしまったことだけれど、どうかどうかと祈った。祐介のはにかんだ笑顔が頭にこびりついて離れない。
目が覚めて時計を見ると、五時だった。目覚めたということは、少しは眠れたのだろう。善羽はまだ誰もいないリビングで、腕立て伏せを五十回やった。上腕二頭筋と上腕三頭筋の筋が千切れそうになった。汗だくになって大の字になり、窓から外を見た。今日も暑くなりそうな青空が広がっていた。
八月二十七日水曜日。善羽は朝の七時に学校に着いたが、すでに多くの職員が登校していた。須賀さんの目の下にはくまができていた。一睡もできなかったのかもしれない。
朝から、教育委員会や教育事務所から派遣されてきた人や、緊急時カウンセラーなど、多くの人の出入りがあった。
内容の共有が必要ということで、善羽は、三年生の担当チームの話し合いにも参加することになった。校長、教頭、祐介のクラス担任、カウンセラー、養護教諭も一緒だ。外部からは教育委員会、教育事務所の担当者も同席した。
「いじめがあったという事実はありますか?」
教頭が単刀直入に口火を切る。真麻の自殺の原因がイジメなのか、そうではないのかが、重要なポイントとなるらしい。
「……そういうことはなかったと認識しています。友人関係も良好でしたし、成績も上位のほうです。夏休み前の三者面談では、学校生活も部活動もたのしいと言っていました……」
須賀さんが、ときおり声をかすれさせながら答えた。
「庄司先生」
教頭が美術部顧問の庄司さんに話を振る。庄司さんは三十代の女性教諭で、美術科の担当だ。
「……美術部でもなにも問題はありませんでした。課題をたのしそうに描いていましたし、夏休みも休むことなく、活動に参加していました」
「真麻さんはいつまで来てましたか?」
「二十二日まで来ていました。その日が、夏休み最後の美術部の部活動でした。元気でした。真麻さんと仲の良い部員が二人いて、いつも三人一緒でした。油絵の静物画を描いていましたが、もうすぐ完成する予定だと、うれしそうに話してくれました……。十月の学習発表会に展示するのがたのしみだと……。だから、こんなこと、とても信じられません……」
庄司さんの声が詰まり、職員それぞれが嘆息し、善羽も大きく息を吐き出した。運動部の多くは夏休み前で引退するが、文化部は十月の学習発表会での引退となるため、三年生もまだ部活動に参加している。
「須賀先生、真麻さんの家庭環境はどうですか? 虐待の有無など」
「……父親は会社員で、母親はパート勤務です。一戸建てで、家庭訪問の際のおうちの印象は明るかったです。保護者からの虐待など、そういうことはなかったと思います。夏休み前の三者面談にはお母さんが来ました。公立の幸村高校を受験したいと言っていました。真麻さんの成績だと充分に合格圏内です。もう一つ上の山野高校も射程圏内と伝えましたが、幸村高校のほうが家から近いので、幸村がいいと真麻さんが……。お母さんも、真麻の好きなようにと、納得のご様子でした……」
幸村高校というのはこのあたりの中堅校で、山野高校はいわゆる難関校だ。
「そうですか。三年学年主任の松坂先生、お願いします」
「はい、今の三年生は、比較的穏やかな学年で、男女わけへだてなく仲がいいという印象です。こちらが把握している限り、取り立てて悪目立ちする生徒や、問題のある生徒はいません。いわゆるクラスカーストのようなものもない雰囲気です。家庭環境についても同様で、申し送り等は特にありません。二年時に不登校だった男子生徒が一人いますが、三年になってからは登校できています。おととし、昨年と、生徒たちへのアンケート調査でも、いじめについての記載はありませんでした」
善羽から見た三年生も、似たような印象だった。わきあいあいとみんなで仲良くたのしく、という感じだ。
南松中学校は各学年三クラスずつだが、学年によってそれぞれの特色がある。騒がしいのは二年生で、不登校児が四人いて、そのうちの二人が友人とのトラブルで来なくなったと聞いている。各クラスにいわゆるカーストのようなものがあり、目立つ生徒のひと声で、その日の授業のやりやすさも変わってくるという。
善羽が担当する一年生は、ひと言でいうなら、優秀という印象だ。真面目で勉強熱心な生徒が多く、平均して学力も高い。朝読の時間の集中力には驚かされるほどだ。
「真麻さんのお父さんは、いじめを疑っているご様子でした」
校長が言い、須賀さんが肩を落とした。
「いじめについては早急に調査が必要です。でもその前に生徒たちに真麻さんのことを告げないと。保護者にも伝えなくちゃいけないから保護者を集める日程も早く決めないといけない。悠長に新学期を待ってていいんですかね。早くしないと噂はどんどん広がりますよね、もう知ってる人もいるようですし。一体どうしたらいいんですか。やることが山積みですよ。マスコミにだって……」
「平井教頭、落ち着いてください」
校長がさえぎる。
「すべては、真麻さんのお父さんとお母さんのご意向を伺い、了承を得てからになります。生徒集会、保護者集会は必須ですが、ショックを受ける生徒も多いと思います。生徒の心のケアが肝要です。我々も辛いですが、気をしっかりと持って、生徒たちに寄り添っていくしかないです。専門家チームも派遣されますので、なにもかもを教員が背負うことはないですからね。教員の心のケアも大事になってきます。お互いいたわり合って、ひとつずつ丁寧に、対応していきましょう」
校長の言葉に深くうなずく。まともな校長でよかったと、今にもわめき出しそうな教頭をちらりと見ながら、ひそかに思った。
その後、真麻さんの父親から連絡が入り、校長と須賀さんと庄司さんが、改めて竹下さん宅に出向いた。三人が戻って来るのを待って、今日中にいくつかの重要事項を決めることになる。
善羽は、きょうだいへのサポート班のメンバーとともに、派遣されてきたカウンセラーから話を聞いた。祐介へのこれからの対応については、善羽も不安だらけだ。
昼になり、善羽は近くのコンビニでサンドイッチとコーヒーと水を買った。食欲はまるでなかったが、食べないことには体がもたない。近くに小さな公園があり、ベンチに座って昼食を食べた。
八月も終わりだが、まだまだ太陽の威力は真夏そのもので、日陰のない公園には誰もいなかった。ベンチに座っているだけで汗が吹き出してくる。善羽は玉子サンドをなんとか喉に押し込み、コーヒーで流し込んだ。
青い空に、太陽の光がちりばめられている。西のほうには厚い雲がある。善羽は、手のひらを太陽にかざしてみた。歌のように透けはしなかったが、太陽の光が手のひらの輪郭をかたどり、自分のものではないような感じがした。善羽はしばらくそうしていた。
指って五本あるんだなあと、改めて思う。ゆっくりと一本ずつ動かしてみる。当たり前だけど自分の思い通りに動いた。
次に善羽は、足を投げ出してみた。スニーカーのかかとで土を蹴ったり、掘ったりしてみる。自分が動かしているのに、妙な感覚があった。善羽は思い立って、スニーカーを脱ぎ、靴下も脱いでみた。
今度は足の指を動かしてみる。手の指のように一本ずつとはいかないが、親指を動かしたり、足の甲をそらせたり、全部の指を丸めたりしてみた。両足で試してみる。素足が土につくのが嫌で、足を持ち上げながら動かす。
自分のもののようであって、自分のものではないような気がした。誰がこの足の指を動かしているのだろうか。おれに決まってる。おれに決まってるけど、なんだかひどく不思議だった。
善羽は足の指をくねくねと動かし続けた。これは本当に自分が動かしているのだろうか。なにか、他の力が働いているような感覚があった。奇妙だった。肉体と精神が、まったくのべつなものの気がしたのだ。
肉体と精神がべつだとしたら、肉体がほろびても精神は存在し続けるのだろうか。だとしたら、死んでしまった真麻の精神は、今もどこかにあるのだろうか。真麻はどこにいるのだろうか。魂などという、うさんくさいものが、本当に存在するのだろうか。
「だめよ! そっち行っちゃ!」
鋭い声がして顔を上げた。小学一年生くらいの男の子に、母親らしき人が声をかけていた。なにかあったのかと思い、善羽は辺りを見渡したが、自分とその親子以外誰もいなかった。
「ほら、こっち来て」
善羽の近くにいる男の子に、母親が手招きする。
え? うそだろ、おれのことか? 母親は子どもの手を引っ張るようにして、公園を出て行った。
「不審者扱いかよ。なんでおれが」
ムッとして思わずつぶやくも、夏の公園で靴下を脱いで、足の指を動かして思慮にふけっている男はヤバいだろうと納得する。
「あれ?」
よく見たら、足の親指に毛が生えていた。オジサンだなあと、おかしくなる。
善羽は靴下をはき、さっきと同じように指を動かしてみた。なんてことはない、ふつうの動作だった。自分の足の指を、自分で動かしているだけだ。
こんな当たり前のことなのに、なんでさっき、あんなふうに感じたんだろう。もしかして弱ってる? おれは弱っているのか? と自問する。
善羽はぎらつく太陽をねめつけながら、冗談じゃないと思った。さっき、おそらく自分は、「死」にやられていたのだ。うかつにぼんやりと、「死」の気配に支配されたのだ。
「冗談じゃねえぞ! クソ死神め! あっちへ行きやがれ!」
善羽はベンチから立ち上がって、空にパンチを繰り出した。回し蹴りもお見舞いする。これをさっきの親子が見ていたら、警察に通報されてるかもしれないなと思いながら、エイッ! ヤーッ! このヤロウ! あっちへ行け! と叫んだ。気合を入れて、自分にまとわりついていた死の気配を追いやった。
息が切れたところで、公園の隅にある小さな鉄棒三台が目に入った。低すぎてぶら下がることはできなかったが、鉄棒をつかんで肘を曲げ伸ばし、懸垂をした。十回を三セットやってやった。広背筋が喜んでいるのがわかる。
死の気配は、はるか彼方へ消えていった。やっぱりフィジカルは大事だと、善羽は改めて思った。
(つづく)