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「今日は餃子だから、武蔵と民、手伝ってね」

 食材がはみ出た買い物バッグをテーブルにドサッと置いて、玲子ちゃんが言う。なにか飲もうと冷蔵庫を開けた民は、うんと答え、ぼんやりと配信映画をリビングのテレビ画面で見ていたむさ兄も、ああ、うん、と返事をした。

「民はキャベツをみじん切りにしてくれる? 武蔵はニラね」

 むさ兄と二人で野菜を刻む。むさ兄はこういう作業が苦手なので、超スローリーだ。

「ねえ、玲子ちゃん、みじん切りチョッパーでやったほうがよくない?」

「量が多いからチョッパーだとかえって面倒じゃないかな。民だったら、手作業のほうが早いって」

 大きなボウル三個に大量のひき肉を入れ、味つけをしている玲子ちゃんが答える。

 玲子ちゃんがこの家に来てからは、家事を手伝うことが多くなった。玲子ちゃんが、なんでも自分でどんどんやること、というスタンスを子どもたちに求めたからだ。

 ママがいなくなってからはお母さんが家事を一手に引き受けてくれたから、子どもたちは当たり前にお母さんの働きに甘んじていた。今思うと、もっとちゃんとお母さんを手伝うべきだったと民は思う。

 最近のお母さんは、すっかりおばあちゃんになってしまった。民たちの祖母だから、当然なんだけれど、なんだか急に年老いてしまった気がして、やさしくしてあげたいなあとつくづく思ったりする。

「ただいまあ。外はまだまだ暑いよう」

 お母さんが帰ってきた。

「あら、お手伝いかい。武蔵も民もえらいねえ。アイス買ってきたから、あとで食べてね」

「うん、ありがと。お母さん」

 ありがとう、とむさ兄も続く。

「最近、膝が痛くていけないねえ。ほら、駅前にジムができたでしょ。友達が行きはじめたんだけど、あたしも行ってみようかしら」

「うん、いいんじゃないですか」

 玲子ちゃんがうなずき、民も、行きなよ行きなよ、と勧めた。

「そうだねえ。ムキムキマッチョを目指そうかー」

 そう言って、お母さんがガッツポーズをした。小さな力こぶができているのが、おもしろかった。

「できた」

 むさ兄がニラを切り終わったようだ。民のキャベツはとっくに切り終わっている。

「ボウルに入れて混ぜて」

 玲子ちゃんの指示に従って、手でこねる。

「はい、じゃあ包むよ。たくさんあるからねー」

 餃子の皮でタネを包んでいく。

「玲子ちゃん、上手。早い」

 ほんの二手でキュキュッと包んでいく。民はひだを五カ所につけて、地道に包んだ。むさ兄は、タネがはみ出てしまったり、皮が破れたりして、なかなかうまくいかないようだ。

「ねえ、民。最近バスケ部行ってないよね? 辞めたの?」

 玲子ちゃんに聞かれる。

「体育館が暑すぎて、サボってる」

「そうなの?」

 と、聞いてきたのは玲子ちゃんじゃなく、むさ兄だった。

「むさ兄こそ、バスケ部辞めたんでしょ? どうして?」

 それ以上聞かれるのが嫌だったから、民はかぶせるように聞き返した。

「いや、ぼくは、アルバイトでもしようかなと思って……」

「バイトしてないじゃん」

 むさ兄はなにも答えなかった。

 シャワーを浴びたお母さんが戻ってきたところで、ちか兄も帰ってきた。今日のシフトは早い時間帯だったようだ。

「腹減ったー」

 餃子だよ、と民が言うと、うれしそうに、やったねと身体をくねらせた。

 そのあとすぐに、よし兄も帰ってきた。

「日が暮れてもこの暑さだよ。温暖化えげつねえな」

 そう言って、首に巻いた手ぬぐいを額に巻き直す。よし兄は、旅行に行くたびにご当地の手ぬぐいを買って集めている。

「手ぬぐいをおれのトレードマークにするんだ。手ぬぐい先生って呼ばれたい!」

 と今年の春、新任教師として赴任する際にはりきって宣言していた。聞いてはいないけれど、手ぬぐい先生と呼ばれてはいないだろうと予想する。

「お前たち学生は、夏休みでいいなあ。教師はやることが山積みで大変だよ」

「お前たち、って言い方、やめてほしいんだけど」

 民が即座に反応すると、よし兄はおどけた顔をして、へえ、わかった、と答えた。

 これまで何度も伝えているけれど、よし兄は「お前」「お前たち」という言い方を頻繁にする。民が注意しても、毎回同じようにとぼけた反応が返ってくるだけだ。もしかしたら、学校でも生徒たちにも使っているのではないかと怪訝に思う。そんな先生、絶対にいやだ。

 そのうちにお父さんも帰ってきた。これで家族全員勢ぞろいだ。お父さんは、樹脂製品を製造する会社に勤めている。

「いっただーきまーす」

 それぞれに声を出して、大皿に箸が伸びる。餃子はめっちゃおいしかった。やっぱり冷凍食品よりも手作りのほうが断然おいしい。手伝ったから、なおさらかもしれない。

「野菜たっぷりだからいくつでも食べられるな。ビールと一緒だとヤバい。餃子もビールもすすむ、すすむ」

 よし兄が手ぬぐいで額の汗を拭いながら、歌うように言う。大人たちはみんなビールを飲んでいる。お父さん、玲子ちゃん、お母さん、よし兄。

「ねえ、なんで大人はビール飲むの? 酔いたいから?」

 思わず聞いてしまう。

「いや、今の場合は喉が渇いてるから、だな」

 よし兄が答えると、お父さんと玲子ちゃんもうなずいた。お母さんは、グラス半分のビールを飲んで、わたしはもうけっこう、とグラスに手でふたをした。

「喉が渇いてるとき、アルコールはダメだよ。もっと喉が渇いちゃうから。水分補給は水とか麦茶とか、カフェインが入ってない飲み物がいいんだ」

 むさ兄が口を挟むと、「あはは、そうだよなあ」と、よし兄がわざとらしい笑い声をあげた。よし兄は昔から、むさ兄に対しては気を遣っているけれど、最近は特に腫れ物に触るかのように接している。

「智親は、いつも水か麦茶だな」

 よし兄が、相手にしやすいちか兄に振る。

「いや、これはルイボスティー」

「なんだそれ。ずいぶん女子っぽい飲み物だな」

 とよし兄が返したところで、食卓がピキンとなった。

「手ぬぐい先生、差別的な発言には気を付けてよ。女子っぽいとか男子っぽいとか、完全にアウトだよ」

 民が注意すると、

「ルイボスティーは誰が飲んでもおいしいよ」

 と、ちか兄が続けた。ちか兄の発言で、ほうっ、と小さな吐息が食卓に溶け込んで、平穏なざわめきが戻った。

 みんな、むさ兄のことを気にしているのだった。今日のむさ兄は髪を編み込みして、袖にフリンジのついたカットソーを着て、デニム地のキュロットをはいている。ファッションは本人の自由だから、誰もなにも言わないけれど、よし兄だけはいつもなにか言いたげに、横目でむさ兄を見ている。すぐに顔に出るから、わかる。

「餃子ってほんとにうまいよなあ。餃子を苦手な人って、見たことないもんなあ。今日は、お父さんの大好物を作ってくれてありがとう」

 お父さんはいつも穏やかだ。ママが出て行ったときも、案外冷静だったと記憶している。去る者追わず、と教科書を読むみたいに言っていた。

 玲子ちゃんと再婚して、お父さんは幸せそうだ。玲子ちゃんのことが大好きで仕方ないみたいだ。

 謎なのは、どうしてママと結婚したのかってこと。お父さんとママって、娘の自分が言うのもなんだけど、ぜんぜん似合わないと民は思う。あらゆることが違いすぎる。ポテトチップスと図書館ぐらい違う。材質も性質も用途も種類も大きさも、なにもかもが違う。

「ねえ、お父さんはどうしてママと結婚したの? 最初から玲子ちゃんと結婚すればよかったのに」

 あっ、と思ったときには声に出ていた。

「民、それはないぞ」

 と、最初に声に出したのは、よし兄だった。

「あら、わたしのことは気にしないで。どうぞ続けて」

 玲子ちゃんが、にっこりとみんなを見渡す。玲子ちゃんみたいな人が、先生だといいのになあと場違いに思う。よし兄より、ぜんぜん合っている。

「民、ママがいなかったら、ぼくたちは存在してないよ」

 むさ兄がしずかに言った。

「民」

 今度はお父さんだ。

「お父さんはこれまでのこと、なにひとつ後悔していないよ。子どもたち四人と、お母さんと玲子ちゃん。みんなで一緒にいられて幸せだよ。ママはママで、自分の幸せを見つけてほしいと心から願ってるよ」

 諭すように言われ、民は消え入りたくなる。

 口にしていいことと悪いことがある。そんなことは充分承知しているし、ちゃんと実践しているつもりだ。それなのにどうして、余計なことを言っちゃったんだろう。お父さんにも玲子ちゃんにもママにも、ひどい。よし兄にもちか兄にもむさ兄にも悪い。

 バスケ部と萌香のことが要因だろうと、自己分析する。自分のイラつきを、お父さんに当てただけだ。

 食欲はすっかりなくなった。とはいえ、十三個も食べたからもう充分。

「ごちそうさま」

「まだまだあるわよ」

 玲子ちゃんが笑顔をよこした。

「もうお腹いっぱい」

 自分の部屋に戻ってベッドに横になる。スマホをチェックしたけれど、誰からも連絡は来ていなかった。

 

 民の大好きな八月。部活に行かなくなって、萌香とも気まずくなって、民はダラダラと過ごしていた。

 そんなとき、「どこかに行かない?」と、ミロクから連絡があった。民はミロクのことを急に思い出した。忘れていたわけではないけれど、ミロクの存在は、バスケ部や萌香とのあれこれに比べると、あまりに薄ぼんやりとしていた。

 けれど、こうして連絡をもらうと、ミロクは救世主としか思えない。

 ──ミロクは、ひと筋の光明!

 民はそう返した。すぐに既読になったけれど、返事が来たのは二十分後だった。

 ──光明って誰? おれの名前、友也だけど。

 民は頭を傾げ、これはどういう意味かと考えをめぐらそうとしたところでわかった。「光明」というのを、誰かべつの男子の名前と勘違いしたのだ。光明と書いて、みつあき、とか。

 ──ミロクってば最高! どこに行く? どこでもOK。

 民は喜んで返信した。ミロクとの二度目のデートだ。

 翌日。民はミロクと海にいた。ミロクが海水浴に行きたいと言ったのだ。付き合いの浅いミロクに水着姿を見せるのはどうかと思ったけれど、民は学校で使っている膝丈の競泳用水着しか持っていないから、この上にラッシュガードを羽織って、短パンをはけばいいだろうと考え、OKした。

「海だあ!」

 民は浜辺をかけて、海へと向かった。ビーチサンダルに侵入してくる砂の感触。潮の香り。日焼け止めクリームと、かき氷のシロップが混ざったような甘い匂い。夏の海。

 自然と気分があがる。

「うおーっ、気持ちいいー」

 ミロクが両手を広げて、空を仰ぐ。

 地元の地味な海水浴場だけど、浜辺には大勢の人がいた。適当な場所にシートを敷く。

「高永、泳ぐ? 泳ごうよ」

 Tシャツを脱いで、海パン一枚になったミロクが誘う。サッカー部の細マッチョ。青空と海をバックに浜辺で見るミロクは、かっこよかった。

「海効果、絶大」

「は? なに、なんか言った? おれ、うきわの空気入れてくるわ」

 このあいだ映画を観に行ったときとは別人みたいに、今日のミロクにはリーダーシップがある。ミロクは、先週も友達とここに来たそうだ。どうりで、ずいぶん焼けていると思った。一回来ているから様子がわかっていて、そういうあれこれが今日の自信につながっているのかもしれない。

「なかなかよいではないですかー」

 と、民は声に出して言ってみた。こうして恋に発展していくのだと、自分を鼓舞してみる。ミロクのことをめっちゃ好きになって、一日中ミロクのことだけを考えていられたらいい。そうしたら、部活のことも萌香とのことも忘れられるはず。

 大きなうきわを脇に抱えて、ミロクが戻ってきた。

「行こう」

 貴重品入れもちゃんと用意して、太陽をバックに笑顔を見せるミロクはますますかっこよく見えた。

 日焼け止めを顔に塗りたくって、民はミロクと一緒に海に入った。うきわに入った民を、ミロクが引っぱって泳いでくれた。

「小学生の頃、ずっとスイミング習ってたから、泳ぐのは得意なんだ」

 そう言って、ミロクはバタフライを披露してくれた。

「上手ー」

 バタフライを泳げるだけで尊敬だ。

「ありゃ? ぜんぜん進んでねえじゃーん!」

 と、民の目の前で叫ぶミロクもおもしろくてよかった。

 こんなに暑いのに、海のなかはつめたかった。ときおり、足に海藻らしきものが触れて、そのつど民は声をあげ、ミロクはからかった。波に揺られて、真夏の太陽を浴びて笑い合う。いい時間だ。

 海からあがって、海の家で焼きそばとかき氷を食べた。ミロクはサッカー部の顧問のことや、いとこのお兄さんのことをおもしろおかしく話してくれた。

 本格的な恋の予感があった。青い空と、群青の海。太陽の光線が、あらゆるものをキラキラさせていた。

 灼熱の夏にふさわしい、最高のデートだった。

 

 ──無断で部活を休んでるけど、続けるのか、退部するのか教えてくれる?

 部長のミチャポンからLINEが届いた。バスケ部のグループLINEではなく、個人的にだ。民はミチャポンの心遣いを感じた。

 ──連絡くれてどうもありがとう。バスケは好きだから続けたいけど、一年生に嫌われちゃったから、どうしようかなって思ってる。ミチャポン、どう思う? どうしたらいいかな?

 民は速攻で返信をした。しばらくしてから既読になったが、ミチャポンからの返事はなかった。

 民は反省した。まずは、ミチャポンを泣かせてしまったことを謝るべきだった。

 ──こないだはごめんね

 と追加したが、返信はこなかった。

 丸々一日経ってから、

 ──続けるのか、退部するのかだけ教えてください

 と来て、民は落ち込んだ。つい、また仲良くなれるんだと勘違いしてしまった。

 ──九月一日に退部届出すね

 既読にはなったが、ミチャポンからの返事はなかった。なにか言葉をかけてくれるかなと少しだけ期待していたけど、そんなことはなかった。やりとりは、これでおしまい。

 誰かに言いたかったけれど、萌香とはあれ以来連絡を取っていなかったし、他にバスケ部をやめることを伝えたい友達は思い浮かばない。

 ──バスケ部辞めることにしたんだ

 民はミロクに連絡をした。

 ──マジで? なんで?

 ──ちょっとみんなとうまくいかなくて

 しばらくしてミロクから、腕を組んで「うんうん」とうなずいているハシビロコウのスタンプが届いた。こんなとき、気の利いたセリフを言える男子中学生はいないだろうから、スタンプの返事で正解だ。今の民にとっては、ミロクだけが頼みの綱だった。

 宿題を片付けながら、マンガを読んだり配信の映画やドラマを観て、だらけた夏休みを過ごした。一日が三十二時間くらいあるように感じられた。ついこないだまでは、一日が十六時間くらいの感覚だったから、よけいに長くなった気がする。

「バスケ部辞めるのかー」

 言葉に出してみたら、お腹のあたりがズンとした。

 むさ兄が地域のバスケットボールクラブに入っていたことがきっかけで、民も小学四年生のときに同じクラブに入会した。

 民はフェイントが得意で、まったく逆方向を向きながら、確実に味方にパスをすることができたし、ドリブルで相手をかわすのもうまかった。勝てればうれしかったけれど、勝敗よりも、楽しさのほうが重要だった。チームの全員がバスケを楽しんでくれることが、民はなによりもうれしかった。ボールに触っていない子がいたら、率先してボールを回し、大きな声で名前を呼んだ。

 小学生の頃、自分は人気者だったと民は思う。明るくて天真爛漫で素直で、誰に対しても同じ笑顔で接することができた。正義感にあふれ、間違ったと思うことには、相手が誰であれ意見した。

 いじめの芽に気付いたら大きくならないうちに摘みに走り、実際にいじめがあったときは被害者をさりげなく守り、加害者には断固として立ち向かった。

 内緒ね、と言われたことは絶対にしゃべらなかったし、誰かの不利益になるようなことは決してしなかったから、友人たちからの信頼も厚かったと思う。

 優等生というわけではなかったけれど、民に任せておけば大丈夫という雰囲気は、友達にも先生の間にも広がっていた。

 民は、これでいいんだと思っていた。これが、人としての正解だと。民は自分のことを信じていた。

 中学に入って、同級生の人数は四倍になった。民も友人たちも思春期といわれる時期に入り、正直、小学生の頃のように「天真爛漫のいい子」だけではいられないと感じた。

 民はそこに、もう少しエッセンスを加えたいと思った。言いたいことはきちんと伝えるけど、ちょっとだけエッジを効かせて、シニカルな笑いを含めることにした。そういうのがクールだと思ったし、みんなも喜んでくれると思った。

 おもしろくて、ちょっと変わった視点を持っていて、誰にでも公平に接する高永民。自分の意見をきちんと言えて、ちょっとつかみにくいけど、正義感にあふれている高永民。

 その方向性は大成功だった。民の発言にみんなが笑ったし、信用されてると感じた。万事うまくいった。民には万能感すらあった。

 でも。萌香が自分以外の人と接するときに、話し方を変えていることは知らなかった。まったく気付いていなかった。

「……どこで間違えたんだろう」

 思わずつぶやく。自分は一体、どの時点で道を間違えたんだろうと。

 

 お父さんの会社がお盆休みに入って、お父さんは、予定していた玲子ちゃんとの旅行に出かけていった。二人を見送ったあと、

「ひさしぶりにあたしの出番だね」

 と、しばらく食事作りから遠ざかっていたお母さんがピースサインをした。

 スマホが鳴って見てみると、ひさしぶりの萌香からの連絡だった。めちゃくちゃうれしくて、飛び跳ねたくなった。

 ──インスタ見た? 大変なことになってるよ

 なんのことだろうと思ったけれど、なにより萌香から連絡が来たことがうれしくて、すぐさま返事をした。

 ──インスタ見てみるよ! ありがと!

 さっそくインスタを開く。

「えっ……?」

 驚きすぎて、思考が停止する。

「……なんで……どうして……」

 こないだミロクと一緒に海に行ったときの画像と動画を、同級生があげている。

「なにこれ」

 民の胸や足、お尻やわきの下のアップ画像、大きな口で焼きそばを食べる画像や動画。歯に青のりがくっついている。

「……なにこれ? うそ……」

 頭が真っ白になる。

 ミロクに電話をかけたが、つながらない。

 ──インスタどういうこと? わたしの画像が出回ってる! 説明して!

 と、感情のまま送った。あの日、ミロクが撮った写真だ。ミロクが誰かに送ったとしか考えられない。

 砂浜で体育座りをしてかき氷を食べる画像は、ミロクの友達が投稿していた。仲いいね? と書いてある。返信欄には、部活休んで彼氏と海水浴ですか? とバスケ部の理央がコメントしていた。

 バスケ部一年生は、「いいかげんすぎます」「呆れました」「信じられない」「上級生とは思えない」などとコメントしている。バスケ部を卒業した三年生たちからも「サボり?」「県大会目指すんじゃなかったの?」「高永、たるんでる」「十年早い」等、続々とコメントが入る。退部すると伝えてあるのに、伝わっていないのだろうか。

 TikTokでも、民の動画を見つけた。ほとんどが悪意のある編集だった。身体の各パーツの拡大画像の動画や、目にモザイクがかかっているアップの顔。

 けれど、誰かの裸を合成しているようなコラものやAI加工はなかった。いじめにならないように、罪にならないように、ギリギリのところで作っているのかもしれない。

 民は、心臓が破れるんじゃないかと思うほどの鼓動を感じた。Tシャツの胸元をつかんで息を吸って吐き出すことを繰り返す。

「どうしてっ!?」

 破裂音みたいな声が出た。

「なんで、こうなるのよっ!」

 と枕を叩きつけた。

「ムカつく、ムカつく、ムカつく!」

 叫んだら、ぽろりと涙がこぼれた。ひとつこぼれたら、あとはじゃんじゃん、じゃんじゃん流れてきた。民は、ひーっ、ひーっ、と突っ伏して泣いた。

 わたし、そんなに悪いことした? インスタで水着の画像を流されるようなことをした? どうしてこんなことになってるの? わたしの知らないところで、なにが起きてるの? 海水浴はたのしかったのに、なんでミロクが? 彼氏ってなに? 友達ってなに? 学校ってなに? 自分らしく生きてるだけなのに、どうしてみんなが敵になっちゃうの? こんなのおかしくない? なんで、こんな目に遭わなければならないの?

 そんな疑問をぐるぐると考えながら、民は少しの間、泣き疲れて眠った。時計を見ると、さっきから三十分だけ進んでいた。目が腫れぼったく、引きつるような感覚があった。

 民は無意識にスマホを手に取った。なにかが変わっているかもしれない。さっきのことはなにかの間違いかもしれないと、かすかな希望にすがりつく。

 けれど、現実はなにも変わっていなかった。むしろ、民の画像や動画やコメントは増えていた。そればかりか、海水浴での画像だけでなく、友人たちが昔撮った、民が中一のときの画像や小学校の文集の写真まで出回っていた。かわいいネ? とコメントしてあっても、あきらかに悪意だった。

 ──ヤバいね

 と、萌香からLINEが届いたけれど、民は怖くて返信できなかった。

 夜になっても民への攻撃はおさまらず、新しい画像が次から次へと出てきた。みんなブスな顔だった。鼻の穴のアップ画像もあった。わたしってこんなにブスだったんだと、民は思い知った。

「どうしたの、民。体調悪いのかい?」

 民の大好きな、お母さんのハンバーグだったけれど、ひと口も食べられない。

「ちょっとお腹が痛くて……」

「薬あるよ。ほら、そこの引き出し」

「ありがと、だいじょうぶ」

 お母さんのひさしぶりの料理を食べられなくて、お母さんにもハンバーグにも申し訳なくて、また涙が出た。

 

 翌日、ミロクから連絡が来た。

 ──ごめん

 とだけ書いてあった。民はベッドに腰かけたまま、すぐに電話をかけた。ミロクにめちゃくちゃ怒りたかったけれど、なによりミロクとしゃべりたかった。いろんなことを話したかった。ミロクのことは好きになりかけたけれど、今回のことでやっぱり信用できなくなって、そして今は、ただ頼りたかった。今の民にはミロクしかいない。とにかく、話を聞いてもらいたかった。

 十四コール待ってから、ようやくミロクが出た。

「もしもし、ミロク?」

「あ、ああ、うん」

「インスタとか見た?」

「あ、うん」

「ミロクが拡散したわけじゃないよね?」

「拡散してない。しように見せたら、いつの間にか広まってて……」

 翔真は、ミチャポンの親友のつむぎと付き合ってる。きっとそこが発端だろうと思った。

「わかった。いいよ。ミロクのせいじゃないし」

 ミロクが悪いわけじゃない。ありきたりなスナップ写真を悪用したのは、その先の人たちだ。

「高永」

 声を上ずらせて、ミロクが民の名前を呼んだ。

「た、高永さ、もしかして、みんなに嫌われてるの?」

 民は喉が詰まって、すぐには声が出せなかった。唾を呑み込む、ごきゅっ、という音だけがやけに大きく鳴った。

 本当はすぐに、「なんでそんなこと聞くの?」「嫌われてるわけないじゃん!」と返したかったけれど、民の口から出てきた言葉は、

「……わかんない」

 という気弱な言葉だった。

「バスケ部でなんかやらかした?」

 やらかしたのかもしれないけれど、民には、こうなった具体的なきっかけが、本当にわからなかった。

「ヤバいって言うんだ。みんなが」

「えっ、なに、どうい……」

「高永と付き合うなって」

「なんで」

「バスケ部のこととか、性格とか、いろいろさ……」

 手足が一気につめたくなる。

「いろいろって?」

 なんでもないふうを装って聞いてみた。めっちゃ高い声が出た。

「いろいろはいろいろだよ」

 ミロクが不機嫌に返してくる。

「なんでミロクが怒るの?」

「怒ってないけど」

「怒ってるじゃん!」

「怒ってねえし。そういうのウザいし、めんどくせえし」

 ミロクの口調に民は驚いた。映画に行ったときとも、海水浴に行ったときとも違った、はじめて知るミロクだった。

「もう別れよ」

「えっ?」

 びっくりして思わず立ち上がった。

「まだ付き合ったばっかだし、チャラな。なんか、おれもヤバいしさ。そうしよ。なっ」

 民がなにも言わないでいると、じゃ、と言って通話は切られた。

 民は呆然と立ち尽くした。自分を取り巻くあらゆることが、ものすごいスピードでやって来て民を追い越し、民はたった一人で孤島に取り残された気分だった。

「ええっと」

 しばらく立ち尽くしたあと、突然大きな声が出た。

「あの話。そうそう、『蜘蛛の糸』。あれって誰が書いたんだっけ。芥川龍之介だっけ?」

 すうっと息を吸う。

「ヤバいわー。頼みの綱の、蜘蛛の糸が切れたっぽい。ふはは。ってか、ミロクってサイテー! 史上最悪の最低男じゃん! 自分の立場があやうくなったから別れるって、どういうこと? どんな人間性? こういうときに力になってくれるのが恋人じゃないの? 好きだから付き合ってくださいって言ってきたの、そっちだろっての! あー、ムカつく!」

 ひと息に声を出したら、涙が出た。目を乱暴に拭いながら、ああ、全部なくなっちゃったんだなと思った。友達も部活も彼氏もみんな消えてしまった。

 いや、違う。そうじゃない。みんなが消えたんじゃなくて、わたしのほうが消えたのかもしれない。

 民は、真理にたどり着いたようなその答えにはっとした。わたしが消えた。わたしがみんなの前から、いらないものとして消された。

 身体に力が入らなかった。へなへなとへたりこみ、ベッドに横になった。天井を見上げる気力もなかった。胎児のように身体を丸めて、どうしよう、どうしよう、とつぶやいた。

 どうしていいかわからない。それでも民は、どうしよう、どうしよう、とつぶやき続けた。ミロクと海に行ったのが、たった十日前のことだとは到底思えなかった。

 

 

(つづく)