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「玲子ちゃん、ありがと」

 玲子ちゃんから弁当を受け取って、武蔵と順に礼を言う。玲子ちゃんが毎朝、智親と武蔵の弁当を作ってくれる。去年までは、智親の弁当はお母さんが作ってくれていたけれど、近頃は早起きするのが辛くなってきたらしく、玲子ちゃんにバトンタッチした。以前は目覚ましをかけないでも五時にはパッと目が覚めたけど、今は身体が疲れてしかたないとお母さんは言う。

 七十五歳なんだから、そりゃあ疲れるだろうと思う。これまでずっと孫たちのために、家事をやってくれて、智親は心から感謝している。

「玲子ちゃんがいてくれて、本当に助かるわ。ありがとうねえ」

 すっかり朝のあれこれが整ったあとに起き出してきたお母さんが、台所に立つ玲子ちゃんの腕をさわさわとなでる。

「いいえー。ユア ウェルカムです」

 玲子ちゃんは常にフラットだ。一定状態で機嫌がいい。感情的になったところを、これまで見たことがない。大声を出すのを聞いたこともないし、なんなら小走りしている姿すら見たことがない。のんびりしてるように見えるけど、仕事は早い。ママとは正反対のタイプだ。

「ほら、あんたたち遅刻するよ」

 と急かすのは、声だけは元気なお母さんで、玲子ちゃんはいつのまにかリビングのパソコンの前に座って、配信映画を観ている。九時には家を出てスーパーのレジ打ちの仕事に行くというのに、精神的にも肉体的にもずいぶんと余裕がある。玲子ちゃんは、いつでも時間を味方につけていてかっこいい。なにより、中三のときに日サロに連れて行ってくれたことに、智親は心から感謝している。大げさじゃなく、命の恩人だ。

 武蔵が出て行って、智親が靴ベラ片手に、学校指定のローファーを履いていると、民が「邪魔!」と言って、尻で智親の頭を押してきた。

「ちょっと……」

「朝練忘れてたの! ちか兄、邪魔! どいて」

 智親は腰をずらして、民に場所をゆずった。民がスニーカーをつっかけながら、体当たりするように玄関を突破していく。この家は広いほうだと思うけれど、どういうわけか玄関は狭い。室内の下駄箱にはとても全員分の履き物を納められないから、外に大きなシューズボックスを置いている。けれどそれでも間に合わず、各自、お気に入りのシューズは部屋に置くようになっている。

 結局、家を出たのは智親がいちばん遅かった。お父さんとよし兄は、一時間前に出て行った。

 曇天。低く重たいねずみ色の雲が垂れこめている。天気予報は、午後から雨だと言っていた。蒸し暑く、湿度がハンパない。駅までは歩いて十四分の距離だ。

 今朝、スキンケアのあとにパウダーをはたいてきた。てかりやべたつきをブロックして、紫外線もカットするという優秀なパウダーだ。悩んでいたニキビは、食生活を見直したり、かの子にいいスキンケアを教えてもらったりして、今ではもう気にならなくなった。

 肌がきれいだと気分があがる。自分に自信が持てるようになって、人に見られても顔をそむけずに済むし、きちんと相手の目を見て話せるようになる。

 今、智親の髪形はマッシュで、前髪をおろしているので、汗や髪の脂でニキビができやすい状態だ。ばっさり切ろうかなと考える。でも短髪は似合わないんだよなあとも思う。

 駅に向かって歩いていると、途中にあるドラッグストアのところで誰かがしゃがみ込んでいるのが見えた。熱中症だろうか。大丈夫ですかと声をかけようとして、驚いた。

「はっ? 武蔵!?」

 しゃがみ込んでいたのは、弟の武蔵だった。自転車だから、ふつうだったらもうとっくに学校近辺まで行っているはずだ。

「大丈夫か? どうした? 転んだ?」

 武蔵が、膝の間にうずめた頭を小さく振る。

「具合悪い?」

 また小さく頭を振る。ボサボサと長い武蔵の髪が顔にかかって、その表情はわからない。とりあえず智親は、武蔵の倒れた自転車を立て直して、自販機で武蔵の好きなつぶつぶオレンジを買った。武蔵の首元にペットボトルをつけると、びくっと顔が動いた。

「家に帰る?」

 武蔵はなにも答えない。智親はスタンドを立てた武蔵の自転車にまたがって、ペダルをこいだ。イヤホンで音楽を聴きながら、こういう日の紫外線量ってえげつないんだよなあと、ぼんやり思う。紫外線っていうのは、目に見えないからタチが悪い。やっぱり日傘を買おうと、思い立つ。でも手に持つのが面倒なんだよなあ。両手は常に空けておきたい。

 こうしている間にも、紫外線に攻撃されていると思うと、いてもたってもいられない。歩いているとあまり気にならないのに、同じところに留まっていると、その分多くの紫外線を吸収してしまう気がする。

 ニキビと肌荒れが治って、ニキビ痕もようやくきれいになった。シミで悩まされるのはごめんだった。智親はカバンからフェイスタオルを取り出して、顔が隠れるように頭からかぶった。暑いけれど仕方ない。

「なにしてんの」

 Vaundyを三曲聞いたところで、タオルをはぎ取られた。いつの間にか、武蔵が横に立っていた。

「なにやってるの。なにこれ」

 そう言って、武蔵が手に取ったタオルを振り回す。

「今日、体育があるから」

 智親はフェイスタオルを持っていた理由を弟に伝えた。納得していないようだったので、

「紫外線防止だよ」

 と、かぶっていた理由も答えた。

「武蔵、一体どうし……」

「ほんと、智親っていいよね」

 吐き捨てるように言われる。意味がわからない。

「人の自転車にまたがって、タオルを頭からかぶってさ。なんなの一体。どういうつもり?」

 ますます意味がわからない。武蔵がハンドルを乱暴に揺すった。ぐらぐらと自転車が倒れそうになったので、智親は自転車から降りた。

「大丈夫なのか?」

 と、智親は武蔵にたずねた。通学途中に自転車を放っぽって、地べたに座ってるなんて、ふつうじゃない。

「大丈夫じゃない。大丈夫じゃないんだよっ」

 めずらしく声を荒らげてタオルを放り、武蔵が自転車にまたがった。

「体調悪いなら、学校休めよ」

 自転車をこぎ出した武蔵に声をかけると、うるさい、と返ってきた。

「あっ、つぶつぶオレンジ忘れてるぞ」

 汗をかいたペットボトルのつぶつぶオレンジを手に大きな声で言ってみたけれど、武蔵は自転車を立ちこぎして行ってしまった。スカートのひだが、車輪に巻き込まれないか心配になる。

「なんなんだ。なんだったんだ」

 ひとりごちて、歩き出す。遅刻確定だ。急いでもしょうがないので、智親はいつもよりゆっくりと駅まで歩いた。

 時間がズレたせいか、電車内は空いていて座ることができた。

 ──無理するなよ

 武蔵に送ろうと入力したが、兄貴ヅラするのはらしくないと思って削除した。

 武蔵とは決して仲のいい兄弟ではないと、智親は思う。智親がそう思ってるんだから、武蔵も同じように感じていることだろう。

「母親」が三人いる、ちょっと複雑な家庭環境だからといって、とりわけ兄弟妹間の仲がいいとか、特別な絆があるというわけではない。

 正義感の強い兄と、頭がよくて風変わりな弟と、如才ない妹。自分以外の兄弟妹が、わかりやすい特性を前面に押し出していてくれるから、智親は何者でもなくいられる。

 祖母である、肝が据わったお母さんと、かっこつけで穏やかなお父さんと、フレンドリーで深入りしない玲子ちゃん、そしてたまに顔を見せる、自分勝手なママ。世の中にはいろいろな人間がいるのだということを、智親は、幼い頃から当たり前に知ることができた。

 武蔵は、県内でもトップクラスの公立高校に通っている。兄の善羽は努力で勉強をがんばるタイプだが、弟の武蔵はがりがり勉強しなくても、当たり前にできてしまう。地頭がいいのだろう。

 智親が小三の頃、算数の宿題のひっ算を両手の指を使って計算していたら、武蔵がやって来て魔法のように解いたことがあった。説明してくれたけど、智親にはさっぱりわからず、ただすごいすごいと興奮した。その後も、そういうことが何度かあった。そのたび、宿題は武蔵に任せた。智親は解き方を知りたいとは思わなかった。魔法使いじゃん! と我が弟を誇らしく思っただけだ。

 武蔵は子どもの頃から、多くの一般的な人とは、リアクションというか行動パターンが違っていた。お笑いを見ていても、笑うタイミングが一人ズレるし(芸人の登場シーンでいちばん笑う)、家族旅行に行くときも、武蔵だけ持ち物がトリッキー(着替えではなく、収集していたペットボトルのフタを大量に持ってきた)だった。

 そういうあれこれは、天才にありがちなものだと智親は納得していて、我が道をいく弟をかっこいいと思っている。

 でも、さっきの武蔵はいつもと違ったなと、思い返す。さっきの武蔵は、思春期ぶっちぎりのごくふつうの、どこにでもいるような高校一年生だった。あんな顔の武蔵をはじめて見た。ちょっと心配だ。

 遅刻確定なので、午前中はサボることに決める。三十分の遅刻も四時間の遅刻も、遅刻には変わりない。休んでもよかったが、午後は美術の授業がある。うまえもんのスマホスタンド作りは、なんとしても死守したい。

 学校の最寄り駅を通り過ぎて、ひとつ先の駅で降りた。歩いて十分ぐらいのところに、大きな公園がある。そこで心を休めて精神統一でもしようと考える。

 紫外線がエグい。やっぱり日傘を買うべきだと思いつつ、タオルを頭からかぶる。このスタイルのどこが、武蔵の逆鱗に触れたのかはわからないけれど。

 タオルをかぶりながら歩いていると、

「智親?」

 と、声をかけられた。声のほうを振り向くと、制服姿のかの子が立っていた。

「学校は?」

 聞いてみると、そっちこそ、とあごをしゃくられた。

「おれは四時間目が終わった頃に行く予定」

 かの子は、ふーん、と鼻を鳴らして、それきり黙った。しばらく待っていたけど、ローファーのつま先をじっと見ているだけなので、智親は、じゃ、と言って歩き出した。

「待ってよ!」

 ちょっと引くくらいの、大きな声にビクッとする。近くにいた人も、何事かとこっちを見る。

「ちょっとちょっと。なによ、急に大きな声出してさ」

 かの子に近寄って、注意を与える。

「学校なんて行きたくないっ! 学校なんて大っ嫌い!」

 と、声を張る。

「智親も行かないでよっ」

 智親は、大きく息を吸って吐き出した。今のかの子に付き合える気分じゃなかった。誰からも命令なんてされたくない。

 智親は歩き出した。たまたま会っただけだというのに、あの態度はないだろう。不機嫌な人間には関わりたくない。

 智親には去年、付き合っている彼女がいたが、三ヶ月で別れた。バイト先で知り合った同い年の子だった。てきぱきと仕事ができて、いさぎよくて、さっぱりしていて、頼りになる人だったが、いざ付き合ってみると、想像していたのとはぜんぜん違った。二人きりになるとベタベタと甘えてきて、あれしてこれしてと、どうでもいいことをせがんできた。

 最初の頃は彼女の言う通りにしていたけれど、そのうちにいいかげん嫌になった。靴の紐を結んでとか、前髪上げてたほうがかっこいいから髪形変えてとか、元カレにメッセージ送ってみてとか、そんなことだ。

 断ると、わたしのことが好きじゃないの? と上目遣いで泣いて、頬をふくらませて怒った。智親はうんざりだった。そういう仕草がかわいいとは、とても思えなかった。

 今のかの子の態度は、元カノを彷彿とさせた。大きな声で、不機嫌な様子で、今にも泣き出しそうな顔で言えば、相手が自分の希望通りに動くと思っている、自分だけは許されると思ってる。その傲慢さ。まったく受け入れられない。

「待ってよっ!」

 無視して歩く。

「智親! 待ってよ! ずるい!」

 ふざけんな、とつぶやいて、智親は足を早めた。

「どうして智親だけ、うまくいってるのよ!」

 走ってきたかの子に、制服のシャツを後ろから引っぱられた。

「やめろ」

 振り切って手を離させた。

「なんなの。おれ、こういうの嫌いなの。おれたち友達同士だよね? あきらかに友達の範囲超えてない? パワーバランスおかしくない? はっきり言ってウザいよ」

 かの子の顔は、涙と鼻水でぐじゃぐじゃだった。ひーっく、としゃくり上げる。

「なあ、悪いけど、おれに話があるなら、まず泣き止んでくれる? マジで無理。困る」

 かの子は小さくうなずいて、ひいーっ、と、錆びたてつを開けるような音で息を吸った。

「公園に行くから、それまでにまともな状態になってくれ」

 智親はそう告げて、先に歩き出した。

 木陰のベンチが空いていたので、ひとまず座る。蒸し蒸しと暑くて、海にでも飛び込みたくなる。しばらく待って、かの子はようやく泣き止んだ。智親は水筒の麦茶を飲んだ。玲子ちゃんが用意してくれた麦茶だ。

「……ごめん」

 盛大に鼻をかんだあとでかの子がつぶやき、水買ってくる、と自販機へと歩いて行った。

 ふぁー。智親は大きく伸びをして、足を伸ばした。ミリミリッと身体の隅々まで酸素が行き渡る感覚があった。

 水を手にしたかの子が戻ってきて、隣に座る。

「智親、ごめん」

 なんに対してのごめんなのかはわからなかったが、智親はうん、と答えた。いつまでも怒っていては大人げないと思った。十八歳。正真正銘の大人だ。

「ところで、おれのなにがずるいわけ? うまくいってるってどういうこと?」

「……ごめん。なんにもずるくないし、智親がうまくいってるかどうかなんて知らない。でもさ、たのしく学校行けてるじゃん。うらやましかった」

「ふうん、そうなんだ」

「ねえ、わたしって、どうしてこんなにブスなんだろ。目なんて、ただの切り込みじゃん。なんでこんな顔に生まれたんだろ」

 智親たちが通っている高校は、校則が厳しくて、メイクは禁止だ。休みの日のかの子の盛りメイクは、一発でアウトだろう。

「一年のときにさ」

 かの子が話しはじめる。

「クラスメイトと没交渉になったわたしに、なんで? って理由を聞いてきた女子がいたわけ。顔のことを言われたから、って答えたら、そんなことでぇ!? って、本気でびっくりされたの。たったそれだけのことで、誰ともしゃべらないの? ってさ。こっちのほうがびっくりだったよ。わたしの気持ちなんて、誰もわからないんだなって、つくづく思った」

 智親はしずかにうなずいた。かの子の気持ちはよくわかる。マスクを外せなかったときは地獄だった。家族に、「そんなことで給食を食べなかったの?」と呆れられた。大したことじゃない、気にし過ぎだ、と。

 くっきりとついたマスク焼けの恥ずかしさと苦痛は、誰にもわかってもらえなかった。世界に一人だけ取り残されたみたいに孤独だった。

 ニキビや肌荒れのことは話せても、智親はこれまでマスク焼けのことを誰にも言ったことはない。あのときの閉塞感を理解してもらえるとは思えないし、自分以外の人にとってはただの笑い話だろう。

「ルッキズムはダメとか言うけどさ、誰だって外見がいいほうがいいんだよ。性格も運動神経も頭の良さも、見た目が第一なんだよ。インスタの女の子たち、みんなかわいいよね。どれだけかわいく見せるかが勝負なんだよ。フィルターかけてでもかわいく見せたいんだよ。現実はルッキズムがはびこってるんだよ。その世界でわたしたちは生きてるんだよ」

 確かに、ルッキズムはよくないという世の風潮と、SNSで自分の画像や動画をあげて、いいね! をもらうことは、相反することのようにも思える。

「この世は承認世界なんだよ。承認されなきゃ、生きてる価値がないの。クラスのみんなもふつうにかわいい。ナチュラルメイクでカバーできないのはわたしだけ。承認されないのはわたしだけ。わたしだけがブサイク。ブサイクだと、話も聞いてもらえないんだよ。ブスの意見は最初からナシ」

「それは被害妄想じゃない?」

「実際そうなんだよ。女子のなかにいても、ブスの役割しなきゃいけないんだよ。でもわたし、そこまで開き直れない。そんなことしたくない。だからずっと一人でいることに決めたんだ。一年から今まで。すごくない?」

 すごいと思う。すごく強い意志があると思う。智親だったら、とっくに学校を辞めている。

「なあ、休み時間とかさ、おれとしゃべればいいじゃん。クラス違うけど、いいじゃん」

「はあ? 智親はお気楽だね。ブスは男子としゃべれないんだよ。でもいいんだ。学校では幽霊になるって決めてるから」

 キッ、と空を見て言うかの子は、ぜんぜんブスじゃなかったし、むしろイカしてた。でも、自分で思い込んでるときは、誰がなにを言っても仕方ないことも智親は知っている。

「かの子は、今日は学校行かないの? 電車乗り遅れた?」

 智親が聞くと、かの子はしばらく黙ってから口をひらいた。

「……今日、はじめて半袖にしたんだ」

 かの子は制服の半袖シャツを着ている。智親はひと月前から、とっくに半袖シャツだ。

「べつに学校にいる人間なんて、どうでもいいんだ。どう思われてもいいし、なんて言われてもいいんだ。そう思ってたのに、やっぱり怖くなって行けなかった……」

 智親は意味がわからず、かの子を見た。

「これ」

 と言って、かの子は左腕を伸ばした。

「ああ、リスカの痕?」

「うん」

「それを見られたくないから、学校に行けなかったってこと?」

「わかんない。暑いから半袖シャツにしただけ。べつに誰もわたしのことなんて見てないからいいんだ。でも、これを見た奴らはきっと噂するよね。これみよがしにリスカ痕見せてるとか、かまってちゃんとか、キモいとかいろいろ。そんなのへっちゃらだって思ってたのに、人の目とか気にしないって決めてたのに、想像したらやっぱり行けなかった。自分の弱さを見せつけられた。まだまだダメだって思い知らされた」

 一気に言う。

「だったら、長袖シャツでいいじゃん」

「それじゃダメなんだよ」

 智親はため息をついた。

「そもそも、どうしてリスカするの? 死にたいの?」

 智親は根本的な質問をした。かの子はしばらく黙ってから、

「複雑だけど単純」

 と、答えた。

「リスカ痕を見せつけたい気持ちも確かにある。この傷痕が勲章みたいに思えて誇らしい気分にもなる。あと、カッターを当てたときのピリッとした痛みで、今まさに生きてるんだって思える。血が出ると達成感もある。ブスでもできるんだって思える。でも、本気で死のうとは思ってない」

「うん」

「親に知られたくないってのもある。ODだと親にバレるでしょ。リスカなら傷を見られなければいいだけだし」

 なんとなくうなずいておく。

「でもさ、結局は、つまらない自己顕示欲と承認欲求だと思う」

 かの子のリスカは、死なないための手段のようにも思えた。生きるためのリスカ。生きていくためのリスカ。

「それなのに、やっぱり半袖で行くのは無理だった。それが情けない。お前はなにをしたいんだ、って自分にツッコみたい。彼氏にも、もうリスカはやめろって言われてる。一緒にいるときは隠せって」

「うん」

「智親だけだよ、なにも言わないの。ていうか、なんでこれまで聞かなかったの? いや、べつに、聞いて欲しかったわけじゃなくて。純粋に知りたい」

 かの子のリスカ痕は、これまでもずっと目にしてきた。左腕の内側にきれいな斜線が並んでいて、アートっぽかった。智親はあまり気にならなかったし、かの子が自分から言い出すまでは聞くつもりはなかった。そもそも、人の趣向についてどうこう言いたくない。

「堂々としてればいいじゃん」

 なにを言ってもうまく伝わらないとわかっていたけれど、智親はそう返した。

「だから、そんなふうに簡単にできないんだってば」

 結局かの子は、答えは求めてないんだなと思う。

 ──ヒマなんだよ。ヒマだと人間はろくなことしない。

 よし兄がよく言う言葉だ。兄の言うことは共感できないことが多いけど、これだけは真理だと思った。でもまあ、よし兄が言うヒマっていうのは、あくまでもフィジカル面でのことで、身体を動かしていれば余計なことを考えるヒマなんてないってことだ。

 世間ではよく、人生には余白の時間が大切だというけれど、思考する時間が大事だというけれど、智親はそんなものは欲しくない。余計なことを考えずに済むように、目の前のことだけをやっていたい。

「腹減った」

 まだ十一時だけど、弁当を食べることにした。玲子ちゃんは料理がうまい。今日は卵焼きと豚の生姜焼きが入ってる。無理に野菜を入れないところがいい。学校に持って行く弁当が野菜不足だからといって、ビタミンが足りなくなるなんてことないだろう。

「おいしい?」

「うん、うまい」

 かの子は、智親が食べるところをじっと見つめている。

「かの子も弁当持ってるでしょ。お腹空いてるなら食えばいいじゃん」

 と智親は言った。

「ほんっと」

「ん?」

「ほんっと、智親っていいよね。うらやましい」

「なにが」

「やっぱ、なんかずるいもん」

 ずるいことをした覚えはなかった。智親は空になった弁当箱を、元通りに巾着袋に入れてバッグにしまった。

「おれの弟、高一なんだけど、スカートはいて学校行ってるよ」

 今朝も武蔵は、スカートをはいたまま地面に座り込んでいた。

「そうなの? なんでスカート?」

 なんで、ってどういうことだろうか。智親がなにも答えないでいると、

「女子が、制服のスラックスを選択できるってやつの逆バージョンってこと?」

 と、さらに聞かれた。

「理由は知らないけど」

 と、智親は首をかしげた。

「お兄ちゃんなのに、ドライだね」

 軽く笑いながら、肘でつつかれた。さっき泣いていたのにもう笑えるんだ、と不思議に思う。武蔵のスカートのおかげで、かの子が元気になったみたいだ。

 そういえば、武蔵は小さい頃から智親のことを、ずっと「智親」と呼んでいるなと、ふいに思う。お兄ちゃんと呼ばれたことは一度もないけど、呼び捨てのほうがうれしかったりする。

「おれ、そろそろ学校行くわ」

「うん、わたしはやっぱりやめておく」

 かの子とは公園で別れて、智親は学校へ向かった。

 学校に着いたのは、ちょうど昼休みだった。おにぎりを食べている康太に、寝坊したんだろ? と聞かれて、図書館で勉強してたよと答えた。

 学校の自販機で買ったドールのアップルジュースを一気に吸い込む。学校にいるのは、やっぱり好きだと智親は思う。

 午後からは、たのしみにしていた美術の時間だ。スマホスタンド制作の続き。今日は、このあいだ書いたイラストをもとに、紙粘土で形を作っていく。

「うおお、この感触う!」

 美術の時間。康太がうれしそうに雄叫びをあげる。智親も「おおっ」と、思わず声が出る。紙粘土の手触りが懐かしい。小学生の頃の教室の風景が、ふぁーっと目の前に広がる。

 自分の小学生時代って、まるで「むかしむかしあるところに」からはじまる昔話みたいだ。これからもっと歳をとっていくと、小学生時代がもっともっと昔になる。そう考えると、少しこわいような気もした。

 紙粘土での制作は、めっちゃ楽しかった。二時間たっぷり集中できた。

 

 

(つづく)