第一章 智親

 待ち合わせ場所にかのを見つけた。手を振ろうとしたところで目が合った。かの子が、ハンディファンをマイク代わりにして歌いはじめる。智親ともちかは、スマホで聴いていた曲を口ずさんだまま、イヤホンを外した。

「夏が始まった合図がしたー」

 かの子の声と智親の歌声がそろった。

「まじか! ぴったり」

 ミセスの『夏と青』。智親の大好きな曲だ。大好きすぎて涙が出そうになる歌だ。

「めっちゃ気が合うやん」

 かの子がその場でぴょんとはねる。

 朝から降っていた雨が止んで、雲間からはきれいな水色が見える。梅雨の空は、灰色、白、ベージュ、水色と、いろいろな色が混ざっている。

 映画じゃない 主役は誰だ♪

 映画じゃない 僕らの番だ♪

 思いがけず大きな声になって、本気で歌ってしまう。

「やだー、智親ってば。おもしろいんだからー」

 かの子が智親の腕を叩く。今日のかの子のファッションは、切り刻んだダメージジーンズにフリルがたくさんついたノースリーブ。左腕の内側には、新しい傷が増えている。ジーンズはデニムの繊維しか残っていない状態だから、足はほとんど丸出しだ。

「智親のTシャツいいね」

 古着屋さんで買ったAKIRAのTシャツ。値は張ったが智親のお気に入りだ。

 今日は土曜。かの子と一緒に新大久保で化粧品の開拓に乗り出す予定だ。

「智親さ、めっちゃ肌きれいになったよね」

「そう?」

「肌荒れもなくなって、ぴかぴかじゃん」

 かの子が智親の頬を指さす。

「かの子のおかげだよん」

「まーねー」

 そう言って、かの子は歌の続きを歌いはじめた。

「なんかこの歌、めっちゃ元気出んねん」

 おれも、と智親もうなずいた。彼氏が大阪出身らしく、かの子はたまに妙な関西弁を使う。

 かの子に案内されて、化粧品店に入った。

「おお、かの子。まーた来たの」

 店主らしき韓国人のおばちゃんがかの子を見つけて、呆れたようなしなを作る。

「客なんだからありがたく思いなさいよ」

「誰? 新しい恋人か」

 おばちゃんが智親を見る。

「ちゃうちゃう。学校の友達。となクラ」

高永たかえいです」

 と、智親はおばちゃんに自己紹介した。

「いい男。下の名前は?」

「智親です」

 と答え、いい男ではないけれど、ありがとうございます、と礼を言った。

「これがおススメ。ビタミンC配合の美白美容液ね」

 おばちゃんが商品を差し出し、どれどれ、とかの子が手に取る。

「えー、こんな小さいのに九千八百円もするのお? 高校生には高すぎだよ」

「かの子と智親には安くしとくよ。シートマスクもおまけするよ。これさ、いちご鼻も一発よ」

 いちご鼻。智親が今いちばん気になっているところだ。中学生の頃、鼻の頭のぶつぶつが気になって、指で皮脂を押し出していたことが悔やまれる。このところの湿気のせいで、さらに鼻の頭が黒ずんできたような気がしている。

「本当にきれいになります?」

「どれ、ちょっと見せてごらん」

 おばちゃんは智親のあごを持って自分のほうに向かせて、ぐっと顔を近づけた。

「ああ、毛穴が開いてるね。そこに座りな」

 パイプ椅子を出され腰かけた。かの子は店内を物色しに行った。

「まずは専用ジェルで毛穴の汚れをクルクルとね。専用ブラシもセットだから」

 手慣れた様子で智親の鼻を手入れして、ジェルを拭き取った。

「ほら、見て。黒いボツボツがなくなったでしょ」

「ほんとだ」

 鏡で鼻の頭を見ると、見事に毛穴の汚れが取れていた。これまでも智親は、いちご鼻にいいといわれる、あらゆる毛穴の汚れ取りを試したが、これぞというものはまだ見つかっていなかった。

「このあとにさっきの美白美容液を二、三滴塗り込むのさ。これで毛穴が引き締まるから。ほら、見てみな。キュッとしたろ、キュッと」

「ほんとだ」

 毛穴が目立たなくなっている。

「ジェルと美容液で、一万二千円でいいよ。ほら、シートマスクも五枚つけてあげるから。お買い得だよ」

「買います」

 智親はさっきおろしたバイト代で支払った。

「なによ、智親。もう買っちゃったの? 他の店も見ないでさ」

 かの子がやってきて唇をとがらせる。

「だって見てよ、この鼻。めっちゃキレイくない?」

「あー、んー」

 かの子の相槌の仕方で、買わなければよかったかな、と智親は少し不安になる。

「かの子、営業妨害しないでよ」

 おばちゃんが二人の会話に割り込んできた。智親はますます不安になる。おれ、もしかして間違えた?

「智親ちゃん、かの子、また来てねー」

 おばちゃんに手を振られながら二人は店を出た。

「なんで智親だけ、ちゃん付け?」

「買わない方がよかったかな」

「智親がいいと思ったならいいじゃん。毛穴キュッとしてたよ」

「だよね」

 安心したら強気な声が出た。

「まだまだ回るよ。付き合ってくれるよね」

 もちろん、と智親はうなずいた。

 結局、智親が買ったのは、最初の店でおばちゃんに勧められたジェルと美容液だけだった。かの子は、そのあとに入ったいくつかの店でプチプラコスメを買った。

 智親は、とにかく美肌に憧れている。俗にいう美容男子だが、メイクに興味はない。肌荒れとニキビ痕を、とにかくきれいにしたい一心で基礎化粧品に興味を持ちはじめた。

 ひと通りの買い物が終わったところで、遅めのランチをとることにした。かの子の推しがいるという韓国料理店だ。

「はーっ、涼し」

 冷房が効いた店内。案内された席に座って、顔にハンディファンを当てながら、かの子が言う。

「いらっしゃいませ」

「シウ!」

 おしぼりと水を持ってきてくれたのが、かの子推しのシウくんらしい。

「シウ、待ってたよ、会いたかったー」

「こちらの方、コイビトですか?」

「これは智親。学校の友達」

「そうですか。トモチカさん、よろしくお願いします」

「シウさん、よろしくお願いします」

 互いに微笑み合う。

「今日、いっぱい買い物してきたんだ」

「よかったですね」

「あー、韓国行きたい。あたし、高校卒業したら絶対に韓国行くんだ」

「ぜひ、いらしてください」

 シウの日本語すごいなと、智親はひそかに思う。いらしてください、なんて自分でもすぐには出ない。

「ねえ、シウ。韓国で評判のいい美容整形知ってる? どこか教えてよ」

「かの子さん、整形するんですか? なんでですか? 今、かわいいです、とっても」

 シウが目を丸くして言う。

「だって、これメイクだよ! すっぴん見たら別人だよ、きゃはは」

 手を叩いて、かの子が笑う。かの子のメイクはすごい。特にアイメイクはプロ並みだ。目の大きさもさることながら、瞳の輝きまで変わるのだ。メイクをしているときのかの子の瞳は、キラキラと輝いている。

「まずは目をふたにするんだ。埋没法と目頭切開と目尻切開。そのあとは鼻。この団子っ鼻がいやなんだよね。鼻先を小さくして、ツンと尖らせるんだ。ね、いいでしょう?」

 かの子に振られ、シウくんは、うーん、と首を傾げて明言を避けた。

「うちの親、意外と理解あって、整形してもいいって言うし」

「そうですかー。うーん」

 と難色を示すシウを、智親はまじまじと眺めた。

「シウさんって、メイクしてます?」

「いいえ、してません」

 シウの肌は、それこそ陶器のように美しかった。毛穴なんて最初から存在しないみたいだ。

「ほんっときれいだよね、シウって。やさしいし。大好きー」

「ぼくも、かの子さん大好きー」

 指でハートを作り合っている。

 智親はカルビをもりもり食べた。サンチュもバリバリ食べた。焼肉はおいしかった。とってもおいしかった。

「なあ、かの子は大学行くの?」

「うん、行くつもり。指定校推薦を受ける予定」

「そっか、かの子は成績いいもんな」

「早めに決めて、整形の準備に入るんだ。そのために勉強してきたんだから」

「めっちゃ考えてるじゃん。すごいなあ」

 計画を持って先のことを考えている友人を、智親は心から尊敬する。

「んじゃ、おれ、バイトだから」

「わたしは彼氏と遊ぶ」

 彼氏には、絶対にすっぴんを見せないそうだ。

「また学校でな」

「うん、月曜日ね」

 駅で手を振り合って、同じタイミングで「夏が始まった合図がしたー」と歌声がそろった。

 

 智親のバイト先は、家からほど近いファミレスだ。智親はホールを担当している。高一のときから働いているので、入れ替わりの激しいバイトのなかではすでに古株といっていい。

 部活に入らなかったから、その時間をアルバイトに充てることにしたのだ。身体も動かせて、社会性も身について、お金も稼げる。部活よりも合理的で建設的だと思ってる。

 高三の今、友人たちの部活動は次々と終わりを迎えている。そろそろバイトを辞めて、受験勉強に本腰を入れないと、とは思っているが、なかなかシフトチェンジできない智親である。

 大学には行きたいと思ってる。でもやりたいことはわからない。ただ、漠然と大学というものに行ってみようかなと考えている。理系よりはまだ成績がマシというだけで、二年時に文系クラスを取った。自分では理系のほうが合っているというか、好きな気がするけれど、もう過ぎたことだし、考えないようにしている。

「高永くんは、どんなことに興味がある? そういうところから学部を考えてみたらどうかな」

 先週の三者面談で担任の先生に言われた。今、興味があるのは美肌だけど、それはあくまでも趣味で、美肌や美容について勉強したいわけではないし、化粧品の開発とかそういうことにも興味はない。

「大学に行くのはいいけど、浪人と、留年と、退学だけはダメだって。お父さんからの伝言ね」

 帰り道、三者面談に来てくれたれいちゃんに言われた。

「うん、わかってる」

 と、智親は答えた。

 みんなどうやって、自分がやりたいことを見つけているんだろうと思う。もちろん、やりたいことを見つけられていない友達だっていて、そういう奴らは、なんとかなるよ、とか、大学に入ってから見つければいいじゃん、とか言う。確かにそれも一理あると思う。でも、やりたいことが見つかっても見つからなくても、大きな問題じゃないんじゃね? と智親は思っている。その日その日をたのしんで生きればよくね? と。

「いらっしゃいませ。何名様ですか。はい、三名様ですね。ご案内致します」

 接客業は好きだ。日々たくさんのお客さんが店に訪れる。頻繁に訪れてくれる人も、一回きりの人もいるけれど、その人の人生のほんの一瞬に立ち会えるのがいい。いろんな人の人生にちょっとだけ顔を出せて得してる気分になるし、この世には、自分の知らない大勢の人が生きているんだなあと思うと、安心できる。

「はい、いかがされましたか?」

 呼ばれたテーブルに行くと、おばあさんが「なんだよ、これ」と、タッチパネルを指先ではじいた。

「こんなのできるわけないだろ。年寄りをばかにしやがって」

 ハスキーを通り越したガラガラ声。向かいに座っているのは、この人の夫だろうか。半開きにした口で、ぽかんとおばあさんのことを見つめている。歳をとると、おばあさんはおじいさんに、おじいさんはおばあさんになるようだ。

「ご注文でしょうか」

「そうだよっ」

「では、わたしのほうで注文を入れますので、頼みたいメニューをおっしゃっていただけますか」

 フンッ、とおばあさんは鼻を鳴らしてメニューを広げ、これとこれとこれ、と指さした。

「一体いつからこんな機械にしたんだよ。前は注文取りに来てくれただろ」

「申し訳ございません」

 智親は頭を下げた。お年寄りにタッチパネルの操作はむずかしい。たぶん、うちのお母さんもできないだろうし、もしかしたらお父さんでも厳しいかもしれない。年寄りにやさしくない世の中だ。

「まあいいや。あたしたちはこれからもピンポンして、あんたに注文取ってもらうからさ」

 性別を超越するのは、何歳くらいからだろう。自分もいつか、おばあさんになるのだろうかと、ぼんやりと思う。

 智親は二十二時まで働いて帰宅した。道路工事をやっていて、誘導員さんの指示に従って迂回して通った。誘導員さんの年齢は、七十をゆうに超えているように見えた。年寄りにやさしくない世の中だと、つくづく思った。

 

 帰宅すると、リビングに家族みんながそろっていた。

「ただいま。なに、なんかあるの?」

 と智親はたずねた。夕食は終わっただろうに、全員がリビングにそろっているのがめずらしかった。

「なーんにもないよ。たまたま全員集合しただけ。8時だヨ、全員集合!」

 台所にいたお母さんがそう言って手を掲げる。七十五歳のお母さん。そろそろ性別を超越して、おじいさんに変化してもおかしくない年齢だ。

「智親、おかえり」

 ソファに腰かけていた玲子ちゃんが、百均のフェイスローラーをあごに当てながら振り返る。

「ドリフターズだな」

 玲子ちゃんの隣でビールを飲んでいたお父さんが、ワンテンポずれて、律儀にお母さんに返す。

「ちかにい、おかえり。わたし、もう寝る」

 みんは飲んでいたコップを流しに置いて、二階へ上がっていった。妹の民は中学二年生。

「おれ、風呂入るから」

 飲んでいたペットボトルの炭酸水を置いて、弟のさしが風呂場へ向かう。武蔵は高校一年生。智親とは違う高校に通っている。

「バイトか。精が出るな」

 ダイニングテーブルに座ってノーパソを動かしながら、よし兄が梅酒ロックの入ったグラスを、乾杯するみたいに智親に向けて掲げた。兄のよしは、この春から中学校の教師になった。

「智親はご飯食べたの?」

 お母さんに聞かれる。

「うん、食べた」

「じゃあ、あたしも先に寝させてもらうよ」

 すでにパジャマ姿のお母さんが寝室へ向かう。その後ろ姿を見て、お母さん、小さくなったなと思う。背が縮んでやせたみたいだ。

 智親は、カルピスをオーツミルクで割って氷をいれたものを作った。

「あー、疲れた」

 よし兄の前に座って、頭を後ろに倒して息を吐き出す。

「智親、お前、勉強してんの? 大学行くんだろ? 予備校とか行ったほうがいいんじゃないのか」

 よし兄がノーパソから目を離して、智親を見る。

「あー、ねー」

「なんだその返事は。まあ、自分の人生なんだから、自分でよく考えろよ。おれは知らないからな」

 よし兄は、いつでもちょっとウザい。

 玲子ちゃんが、これすごくおいしいよ、と言って、金色の包装紙に包まれたチョコレートをひと粒くれた。口のなかに苦さと甘さが広がる。高級な味だ。

 カラスのぎょうずいの武蔵が、もう風呂から出てきた。フラミンゴ色のロンTを着ている。膝くらいまで丈があるやつだ。下はパンツだけのようだ。がっちり体型の武蔵が、ロンTなのがおもしろくてかわいい。

「寝る」

 武蔵が伸ばしっぱなしの髪を丁寧に拭きながら、智親に告げる。

「おやすみ」

 智親はカルピスのオーツミルク割りを飲み干した。高級チョコレートとは合わなかった。

「風呂、おれが最後?」

「いや、おれがまだ」

 よし兄が答え、智親はやった、とつぶやいた。風呂はいちばん最後の人が洗うことになっている。

 

(つづく)