生徒への説明会は、体育館を使う都合で、二年生が午前九時から、一年生が十時から、三年生が十一時から、と時間差で行われる。
善羽の担当する一年生全体の説明会は、校長と学年主任の主導で行われた。三クラスある一年生のうち、欠席したのは六人だった。そのなかには、祐介も含まれている。
学年主任がたんたんと事実を公表すると、しずかなざわめきが起こった。びっくりしている子、無表情なままの子、友達と笑い合ってる子、うつむいている子、涙を拭っている子、とさまざまな反応だった。
その後、各教室に移動した。善羽が担任する一年二組の生徒は、二人が体調不良で休みということで、残り三十四人がそろった。
善羽は今日、箱根湯本温泉で買った、勝負手ぬぐいだ。教員採用試験のときにポケットにしのばせていった、ゲンのいい手ぬぐいだ。
「みんなひさしぶりだな。夏休み期間中、元気だったかあ?」
しんみりしすぎるのもよくないし、笑顔もNGだ。それを頭に入れながら挨拶したが、元気だったかあ? は失敗だった。口にしてすぐに、しまったと思ったが、出してしまった言葉は戻らない。
「新学期まであと三日ですが、今日、こうしてみんなの顔を見られて、手ぬぐい先生はとてもうれしいです」
冗談で言ったわけではなかったが、善羽の挨拶に数人の子どもが苦笑する。
「体育館での校長先生からの話の通り、本校の三年生の生徒が二十五日に亡くなりました。きっとみんなはものすごくびっくりしていてショックも大きくて、気持ちが追い付いていない状態だと思います。これまで感じたことのない、はじめての気持ちが、心のなかにたくさん湧いていることと思います」
一人の女子が泣き出すと、連鎖反応のように数人の生徒がハンカチで顔を覆った。
「自分の気持ちを自分で抱えきれなくなったり、体調が悪くなったり、いつもとは違うな、って少しでも感じたら、すぐに先生に言ってください。どんなに些細なことでもかまいません。なんでもいいから……すぐに言うんだぞ。絶対に我慢するなよ。いいな、わかったな」
三十四人、一人一人を見渡す。ひと月会わなかっただけで、ずいぶんと大人びた。男子は背が伸びた子が多く、その変化に驚くばかりだ。
「先生」
昂輝が手を挙げた。
「自殺したって本当ですか?」
善羽はしずかに息を吐き出した。そういう質問は必ず来るだろうと予想して、職員同士で話し合っていた。
「ご家族の気持ちで、死因は言わないでほしいということなんだ。先生が勝手に言っていいことじゃないんだ。ごめんな。わかってもらえるとうれしい」
わかりました、と昂輝がうなずいた。みんな、自殺だとわかっているのだろう。それでも、こちらから「自殺」や「自死」などの言葉は使わないようにしようと職員同士で決めた。
「先生、死んだらどうなるんですか?」
日向が聞く。子どもたちの顔が一斉に自分に向く。
「わからない」
と、善羽は正直に答えた。
「死んだらどうなるかは、誰にもわからない。死んで帰ってきた人はいないから。でも、人はいつか必ず死ぬ。地球には八十一億人以上の人間がいるけど、一人残らず死ぬんだ」
「怖いよ!」
莉真が悲鳴のような声を出した。
「死ぬの、怖い……」
莉真の涙声につられてか、数人の生徒が口々に怖いと言い出す。
「わかるよ、知らないことは怖いよな。先生も怖い。死んだらどうなるか、わからないからな。でもさ、みんなはどうやって生まれてきた? お母さんから生まれてきたのは、そりゃそうだな。でもその前のことはどうだ? 覚えてる人いるか? いないだろ? おれたちは、そのときの記憶を忘れちゃったけど、生まれてくる前だって、きっとおれはおれだった気がするんだ。莉真は莉真、昂輝は昂輝、日向は日向だってことだ」
考えてきた話ではなかった。善羽は今、頭に浮かんだことを子どもたちに伝えていた。しゃべりながら、ふと、自分たちを置いて出て行ったママのことが頭をよぎる。ママのことは好きではないが、ママのおかげで自分はこの世に生まれてきたのだった。
「きっと、死ぬことも、生まれてくることと同じじゃないかと思うんだ。だから怖がる必要はないんじゃないかな。自然の摂理のまま、生きていけばいいと、おれは思う。それに抗っちゃいけない。自分で自分の命の期限を決める必要はないんだ」
子どもたちは、なんともいえない顔をしていた。わからない、でも、そうかもしれないという、あやふやな顔。それでも、今の話をいつか理解できるかもしれないという、未来へと向かう顔。
その後、質問はなかった。
「どんな小さなことでも、なんでも言ってほしい。九月一日の朝、みんなに会えることをたのしみにしています」
声を震わせながら、善羽は締めた。
お通夜には全職員が参列した。真麻のクラスの生徒は、ほぼ全員が訪れた。須賀さんは、この数日間で五キロは痩せたように見えた。
祭壇にかざられた、真麻のはにかんだような笑顔の写真が多くの人の涙を誘った。中学生の写真がこんなところにあっていいわけがなかった。
焼香の列が進んでいき、ご両親の憔悴しきった姿が見えた。父親は、ごく普通の会社員という感じで、どことなく善羽の父に似ていた。母親も、どこにでもいそうなやさしい雰囲気の人だった。その隣に座っているのは、祐介だった。祐介はぼんやりとうつむいていた。善羽は祐介から目が離せなかった。祐介、祐介、と心のなかで名前を呼ぶ。
善羽の焼香の番が近づいてきたとき、ふいに祐介が顔をあげ、目が合った。善羽が口を真一文字に結んでほんの小さくうなずくと、祐介はかすかな笑顔を見せて会釈した。喉から音が漏れ、こらえきれずに善羽は泣いた。こんな時にでも、日頃のならいで笑顔を向けてくれる祐介が悲しく切なく、胸がいっぱいになった。
泣いていることを祐介に知られたくなくて、善羽はびしゃびしゃと流れる涙と鼻水をそのままに焼香をした。涙を拭ったら悟られると思った。善羽はくずおれそうになる足をなんとか動かして、出口にはけた。
そのまま帰るのは忍びなく、しばらく建物のそばで立っていたが、いちいち生徒や教員に会釈されたり、控えめに声をかけられたりするので、車に戻った。参列者の列は長く、帰る人の流れはいつまでも続いた。夏の終わりの夜の色は妙に明るく、葬儀場の上には藍色の空が広がっていた。
真麻の写真と祐介の顔が頭から離れない。二人の顔はよく似ていた。丸顔で、三日月眉で、くるっと丸い目。なによりも、あごを引いて照れたように微笑む表情が似ていた。きょうだいというのは不思議なものだ。真麻のことは知らないけれど、きっとちょっとした仕草や表情が祐介と似ていたんだろうなと思う。
善羽は、武蔵と歩き方がそっくりだとよく言われるし、食べ方は智親に似てるらしい。笑いはじめの、ハッと発するときの息の吐き方は民と同じだと指摘される。
祐介は自分のなかに姉の真麻を見るだろうし、親御さんは祐介のなかに真麻の姿を見つけるだろう。残された家族の今後の人生を思うと、喉が詰まって息ができないような感覚になる。
車のハンドルに突っ伏して、どのくらいそうしていただろう。外にはすっかり人けがなくなっていた。善羽は車を降り、建物に向かった。親類の人なのか、ロビーにいた何人かの人が出て行ったのを確認して、善羽はなかに入った。
通夜が行われていた部屋をのぞくと、真麻のお母さんが棺のそばに立っていた。善羽は気付かれないようにしずかに離れた。もし祐介がいるのなら会いたかった。
「先生」
声をかけられて振り向くと、祐介が立っていた。トイレから出てきたところだったらしい。
「祐介……」
名前をつぶやくと、祐介は焼香のときと同じように、かすかな笑顔を見せた。
「大変だったな。まだしばらくは休まらないと思うけど、いつでもバレー部に顔見せてな」
当たりさわりのないどうでもいいことを言ってしまう。でも他になにを話したらいいのかわからなかった。
「なんでも、どんなことでも頼ってほしい。給料が安いからお金は貸せないけど」
祐介は、ハイと言って、ありがとうございます、と続けた。
こんなときに、つまらない冗談を言って、礼を言わせてしまう己を呪いながら、自分の存在の小ささを思い知る。こんなふうに声をかけて、祐介にとっては迷惑なだけに違いない。
「おい、祐介」
祐介の父親が険しい顔でこっちに歩いてきた。
「あなた、どちらさまですか」
「すみません、南松中学校一年二組担任の高永と申します。祐介くんのバレー部の顧問をしております」
父親はにらむように善羽を見て、なんの用ですか? と聞いた。
「すみません、祐介くんと少し話をしたくて……」
「祐介、大丈夫か」
父親が祐介の肩を抱いてたずねると、祐介は小さくうなずいた。
「失礼しました。では、わたしはこれで……」
深々と頭を下げると、先生、と祐介が口を開いた。
「お……おれ、お姉ちゃんと仲良かったです。お姉ちゃん、やさしかったです」
善羽は不意をつかれて、思わず祐介の腕を取った。
「そうか、うん。そうか、そうだったんだな」
善羽は何度も何度もうなずき、祐介だってめっちゃやさしいよなあ、と心のなかで叫ぶように思った。
「……先生」
父親の呼びかけに姿勢を正す。
「はい」
「真麻はなんで死んだんでしょうか? どうして、こんな……」
と、声を詰まらせた。
「学校にはたのしく行っていたんですよね? いじめもないと聞きました。本当ですか? 教えてくださいよ。だっておかしいでしょ? なんで真麻が……」
父親に腕をつかまれる。すみません、と条件反射的に口から出て、体重をかけてきた父親を支える。
「……あの」
真麻の母親だった。騒がしくしているから様子を見に来たのだろう。
「バレー部の高永先生だよ」
祐介が善羽を紹介してくれる。母親が会釈をし、善羽も頭を下げた。
「お父さん、学校でのことは、これからきちんと調査することになっています」
善羽は誠意を持って答えた。お父さん、ではなく、竹下さんと言うべきだったと思いながら。
「……一週間ほど前に、真麻に注意したことがありました。眉毛が細くなっていたんで、それはやりすぎじゃないかと言ってしまいました……。もしかして、真麻はそれを気にしたんでしょうか? 年頃の娘に、容姿のことを言うべきではありませんでした。もしかして、真麻はそのことを気に病んであんなことを……」
父親が口元に手をやって、涙を落とした。そんなことないです、と善羽は繰り返した。
「違うんです! 亡くなる二日前にわたしと言い争いしたんです。高校のこと、もう一度考えてみたら? って。そしたら、もう決めてるからいいって。余計なこと言わないでって。口出ししないでって……」
母親がそう言って泣きくずれる。
「……だから、わたしがいけなかったんです。きっと、わたしがそんなこと言ったから、真麻は……」
「おれだってケンカしたよ。おれのシャーペンをお姉ちゃんが勝手に使ったから……。おれが怒ったら、ケチって言われて……それで、それで、おれがお姉ちゃんの新しい消しゴムをわざと使ったら、めっちゃ怒られて、シャーペンを投げてきて、おれもムカついたからお姉ちゃんの消しゴムをゴミ箱に捨てて……」
祐介が一生懸命に言葉をつなぐ。善羽は涙をこらえて、何度も首を振った。そんなことない、そんなことないんだ。
親から叱られることや姉弟ゲンカなんて、どこの家庭にだってあることだ。しかも、そんな些細なこと……。善羽が中学生の頃なんて、ママのこともあって、父としょっちゅう言い争いをしていた。一度など、互いにつかみ合うまでのケンカになって、民が泣いて止めに入ったところでお開きとなった。
「誰のせいでもないと思います」
「じゃあ、どうして! どうして真麻は死んじゃったの……」
母親のつぶやきに、善羽は唇をきつくかんだ。理由なんてわからない。もしかしたら、友達関係や学業のこと、部活動や家族のこと。それぞれの、ほんの小さなことの積み重ねかもしれないし、ただ魔が差しただけなのかもしれない。
中学生というのは、なんと繊細な生き物なのだろうと愕然とする。笑顔の裏に、一体どんな思いが押し込められているのか。
本当の理由は、真麻にしかわからない。いや、もしかしたら、真麻にもわからないかもしれない。そもそも、理由なんてないのかもしれない。
「……理由がわからないと納得できないんですよ。理由が知りたいんですよ、なぜ真麻が死ななくちゃいけなかったのか……」
自殺の理由の六割は不明らしいと、今朝、智親から聞いた。寝坊の智親が、それを善羽に伝えるためだけに早起きして教えてくれた。日本の小中高生は一週間でおよそ十人が自殺しているということも。
理由の多くは不明なことを両親に伝えようかと一瞬迷ったが、ますます混乱させてしまうだけだと、思いとどまる。
「……夏休みの宿題、お姉ちゃんが手伝ってくれました。自由研究の考察のところは、ぜんぶお姉ちゃんが書いてくれた。交通安全のポスターもお姉ちゃんが色塗るのやってくれました」
うんうん、そうかそうか、と善羽は祐介の背中に手を当てた。
「……もう、お姉ちゃんに会えないのいやだ。お姉ちゃんがいないの、やだ」
そう言って、突然祐介が泣き出した。がむしゃらに涙を拭って、ひっくひっくとしゃくり上げる。善羽は祐介を引き寄せて抱きしめた。それから父親が祐介を抱きしめ、母親も一緒に抱きしめた。もう泣くことしかできず、ただただ悲しく、苦しく、やるせなかった。
(つづく)