夜になっても、外はまだ暑かった。武蔵は無性にソフトクリームが食べたくなって、コンビニに入った。
レジで注文したあと、ふいに後ろを振り返ったとき、すかさず顔をそらして姿を隠した女性がいた。武蔵に気付かれたくないような動きだった。誰だろうと思って、受け取ったソフトクリームを手に店内を歩くと、その人は武蔵から逃れるように移動していった。狭い店内を足早に歩くと、すぐに誰かが判明した。鈴川だった。鈴川はあくまでも気付かないふりをしている。
「鈴川」
と、武蔵は声をかけた。
「あれ、高永じゃん! びっくりした。どうしたの、こんなところで」
一気に言う。
「鈴川がぼくを避けてるから」
武蔵が答えると、鈴川は、ふうっ、とため息をついて、レジにカゴを持っていった。
武蔵はひと足先に外に出た。ソフトクリームをなめると、ひんやりとしたつめたさが舌に伝わって、暑さが少し和らいだ。
鈴川が出てきた。気が付かなかったが、連れが一人いるようだった。艶のある長い髪に、ミニスカートから出ている細くて長い脚。小さな顔に大きな瞳。とてもきれいな子だった。鈴川とよく似ている。
「妹さん?」
とたずねると、鈴川は首を左右に振った。
鈴川は武蔵と同じ方角らしく、一緒に歩き出した。聞けば、武蔵が卒業した中学の隣の中学校の出身だった。鈴川の連れは、武蔵たちから五メートルほど後ろをついてくる。
「今日、会うの二度目だね」
と武蔵は言った。鈴川とはランチの焼肉店でも会った。つくづく今日は、「人と会って関わる日」だと思う。
「学校でも会ってるから、三度目でしょ」
「そうだね」
「高永、そのメイクいいじゃん」
「桜田が教えてくれた」
へえー、と少しびっくりしたように鈴川が声を出し、桜田には、メイクのイメージがなかったと言った。
「高永って、普段着はそういう恰好なんだ、かわいいね」
そういう鈴川は、ハーフパンツにTシャツだ。鈴川はレジ袋から、「午後の紅茶」を取り出して喉を鳴らして飲んだ。
「ねえ、せっかくの機会だから思い切って聞いちゃうけど、高永って、女の子になりたいの?」
鈴川が武蔵の顔を見る。
「女の子になってみようと思ってるところ。恰好は、女の子のほうが好き。服とか髪形とか」
武蔵は正直に答えた。
「恋愛対象は男?」
と、これまで誰にも聞かれなかったことを聞かれた。
「そこは自分でもまだわからない」
鈴川は、ふうん、と下唇を突き出すようにうなずいて、
「あれ、弟なんだ」
と、後ろを振り向いて立ち止まった。
「鈴川に似てると思った」
「中三。女装が趣味。っていうか、女の子になりたいんだって。恋愛対象は男。性転換手術希望中」
「そうなんだ」
中三で、自分のことがちゃんとわかっていて、すごいと思った。尊敬してしまう。
「高永はそのへんどうなの?」
「ぼくはぼくのままでいい」
手術なんて、考えたことはなかった。きっとこの身体に生まれたことにも、なにかしらの意味はあると思う。とはいえ、脱毛したりダイエットしたりする自分は、矛盾してるのだろうかと思ったりもする。
「一緒にコンビニに買い物に行くなんて、仲いいんだね」
「うん。弟のことは好きだよ。だってあんなきれいな子いないでしょ」
と、自分にそっくりな弟を見て鈴川は言った。武蔵はソフトクリームのコーンを口に入れて食べ終えた。
「え、なに。立ち話?」
弟が武蔵たちに追い付いて、怪訝な声を出す。
「こちらは同クラの高永」
鈴川が武蔵を指さして、簡単な紹介をする。「こんばんは」と弟が言い、武蔵もこんばんは、と返した。
「親は理解力ゼロで、絶対に認めない。この子、モデルとかもやってるの。メンズとレディスの両方。高校には行かないで、芸能で生きていきたいんだって。親はもう大反対で、毎日大変。ねっ」
「まあね」
と軽く返事をする鈴川の弟は、すでに成虫に変態したみたいに、どこか達観した美しさとすごみがあった。
「ずっと高永と話したいって思ってたけど、いつも桜田と高江州ががっちりガードしてるからさ。偶然会えてよかったよ」
コンビニで見つからないように隠れていたくせに、そんなことを言う。
「じゃあね、また明日、学校で」
「うん、また明日」
「あっ、ついでに聞いちゃうけど、わたしって桜田と高江州に嫌われてるよね?」
「どうかな」
と、武蔵は首を傾げた。
「まっ、仕方ないか。わたしって昔から嫌われるタイプなんだよね。いろんな意味で目立つから」
そう言って、あははと笑った。鈴川が手を振り、弟は軽く会釈して、武蔵とは別の方向へ歩いていった。鈴川って、桜田やSが言うほど悪い人じゃない、むしろ気持ちのいい人間かもしれない。
「おう、武蔵」
肩を叩かれた。仕事帰りのお父さんだった。今日は本当におもしろい日だと思い、思わず笑ってしまう。なんて日だろうか。
「なんだ? なにかおかしいか」
武蔵は首を振って、お父さんの仕事帰りに会うのはじめてだね、と答えた。
「そうだな。ずいぶんとのんびり歩いている人がいるなあと思ったら、武蔵だったよ」
お父さんは歩くのが速い。玲子ちゃんに早く会いたいのだろうと勝手に推測するが、武蔵の歩調に合わせて歩いてくれた。今はなぜか、無性にゆっくりと歩きたい気分だった。
「ねえ、お父さん。五十三歳ってどう? どんな感じ? どんな景色が広がってる?」
武蔵は聞いてみた。武蔵が五十三歳になるのは、三十七年後だ。先のこと過ぎて想像できない。
「それがさ、驚くかもしれないけど、十六の頃からたいして変わらない」
「そんなことはないでしょ」
「いや、もちろん社会性は身についたよ。責任も増えたし、贅肉も増えた。おっと、これは冗談な」
「うん」
「なんていうのかな、おれは、ずっとおれを生きてきたんだよな。若い頃は悪いこともして、今となっては顔から火が出るほど恥ずかしくて反省することも多いけど、それも自分なんだよなあって思う」
「たとえば、どんなことしたの?」
興味があったので武蔵がたずねると、お父さんはふっ、と鼻から息を吐いたあと、話してくれた。
「小学校四年生のときにクラスの女子と取っ組み合いのケンカになって、鼻を殴ったら鼻血でその子のブラウスが真っ赤になって、お母さんと一緒に謝りに行ったり、中学生のときはテストでカンニングして、全教科〇点になったり。高校生のときはタバコを吸ってるのがバレて謹慎処分になったし、大学のときは友達の彼女を横取りしちゃったり。その友達がさ、泣きながら、彼女を幸せにしてくれ、っておれにすがりついてきてさ。その当時は、うるせえなあって思ってたけど、今思うとひどい話だよな」
なかなかだと思いながら、「その友達には謝ったの?」と聞いた。
「卒業するときに謝ったよ。その頃はお互いに別の彼女がいたから、問題なかったんだけど、そいつに『ああいうことは、もう二度とするなよ。道徳心は大事だぞ』って上から言われて、またムカついた」
どっちもどっちな気がするが、どのエピソードも武蔵の知っているお父さんからはイメージしづらかった。むしろまったく違う人の話みたいだ。
「今と昔では考え方や行動が変わったけど、でもやっぱり、あの頃からずっとつながって今の自分がいるんだよなあ。昭和、平成、令和と、我ながらいろんな時代をよく生きたよ。武蔵たちを見ていると、未来そのものみたいでまぶしく感じるけど、おれもそういう時代を経て、今の自分にたどり着いたんだなって、ちょっと誇りに思うよ」
いいね、と武蔵は応えた。本当に、とてもいいと思ったのだ。みんな、それぞれの正解がある。
ほら、あそこの青い瓦屋根の家、おれの同級生の家なんだ。あいつ、中学のとき悪くて、何度も補導されたりしてさ。それが今や、町のパン屋さんだよ」
「そうなの?」
「三丁目の公園前のベーカリー。知ってるだろ」
何度か行ったことがある。店主のおじさんは丸顔でほっぺたが赤くて、まるでアンパンマンみたいな人だ。やんちゃしてたなんて、にわかには信じられない。
「たまに会うと、お互いに老けたなあって話すけど、子どもの頃のあいつも、今のあいつのなかに確かにいるんだよ。それがおもしろい」
と、お父さんが目を細める。
「でもさ、今の話と矛盾しているように聞こえるかもしれないけど、人はいつだって変われる、ってことも学んだよ。今この瞬間からだって、変わることができる。昨日の自分とは違う人間になれる。それが成長ってやつだ」
「うん」
どんな瞬間からでも人は変わることができると、武蔵も思っている。今日から蛹に変わったのも、自分でそう決めて実行したからだ。それは、確かに成長かもしれなかった。
「それでも、自分は自分なんだよな。意味わかる?」
「わかるよ」
武蔵はうなずいた。
「ところで、今日の夕飯はなんだった?」
「中華丼。うずらが最高だったよ」
うまそうだな、とお父さんが腹をさする。
「今日ね、友達が言ってたんだけど、小さい頃は誰とでも仲良くなれたって。約束しないでも、そこにいたら遊ぶって感じで、はじめて会う子とでも全力で遊べてたのしかったって。今は手順を踏まなくちゃいけないから、面倒になったって嘆いてた」
武蔵は、Sが言っていたことが頭に残っていた。行儀や礼儀や社会性を身につけたために、逆に不自由になってやしないかと、少しつまらなく感じていたのだ。
「心配ないよ」
と、お父さんがやけにきっぱりと答える。
「歳をとっていくと、またそうなっていくから」
「え?」
「約束しないでも誰とでも仲良くしゃべれて、たのしい時間を過ごせるようになるし、嫌になったらすぐにやめられる。それが年寄りの特権だ。だって、お母さんを見てみなよ。こないだミュージカルに行った友達って、スーパーのレジで後ろに並んでた人だってよ。会計で小銭が二円足りなくて、往生際悪くお札を出すのを渋ってたら、さっと二円出してくれたんだって。それで意気投合して、その一週間後にはミュージカルだよ。聞いてびっくりした」
そう言って笑う。
「とにかくさ、人生ってあっという間だよ。そんなこと言われても、武蔵たちにはまだわからないかもしれないけど、本当に短いよ。やりたいことをやりなさい。先延ばしにしたらいけないよ」
うん、と武蔵はゆっくりとうなずいた。
家に帰ると、リビングには玲子ちゃんしかいなかった。智親からLINEが来たから、民のことでなにか話したいのかなと思ったけれど、ただ誰かに言いたかっただけなのかもしれない。
と、ここで、智親は今日から受験勉強にシフトすると言っていたことを思い出した。肝心な初日から、バイトの面接に付き添ってもらったり、桜田と高江州と一緒に過ごしてもらったりと、申し訳なく感じた。きっと今頃は、部屋で勉強をしていることだろう。
善羽はまだ帰宅しておらず、お父さん以外はもうみんな風呂に入ったというので、武蔵は風呂場に向かった。ボディソープの横に、いつもは置いてないクレンジングオイルがあった。玲子ちゃんが気を利かせてくれたのだろう。
湯船に浸かって身体を伸ばしていると、水滴が天井から額に落ちた。つめたっ、と思わず声に出る。湯船から出ている肩に湯をかけて、そのまま腕をなでてみる。
自分の手足が動く不思議。水があることの不思議。石鹸があることの不思議。自分が自分であることの不思議。やっぱりこの世は、すべてまやかしかもしれないなあと思う。
武蔵はものごころついた頃から、この世界が不思議でたまらなかった。目に見えるすべてが、在ることが不思議だった。
だって、この世が偽物じゃないって、なんで言える?
時間が、過去から未来に流れてるって、どうしてわかる?
武蔵はこうしている今も、バーチャル世界に放り込まれて、心地よく生きるための攻略ゲームをしているだけなのかもしれないと思ったりする。
だったら、いろいろなアイテムを手に入れて、憂うことなく前に進みたい。たくさんのトラップがあるかもしれないけど、途中で電源を落とすなんてありえない。最高の結末でゴールしたい。
目下の武蔵のアイテムは、脱毛、メイク、アルバイト、編み物、あたりだろうか。もしかしたら、そのアイテムこそが、お父さんが言っていた「やりたいこと」や「先延ばしにしてはいけないこと」なのかもしれない。
風呂からあがると、待ち構えていたようにお父さんが風呂場に直行した。お父さんはカラスの行水だから、先に入ってもらえばよかった。
「あ、よし兄」
武蔵が風呂に入っている間に帰ってきたらしかった。中華丼をかきこむように食べている。
「遅かったね、お疲れさま。どうだった、学校」
武蔵は聞いてみた。大変な新学期だっただろうと想像する。
「うん、ひっちゃかめっちゃかって感じだけど、おれのクラスの生徒は、全員登校してくれた。それだけで感謝だよ。生きててくれてすごくうれしかった」
殊勝なよし兄の言葉を、武蔵は少し意外に感じた。
「よし兄、なんだか変わったね」
「そうか? まあ、人はいつでも変われるからな」
今度こそ武蔵は、目をみはってよし兄を見た。お父さんと同じことを言っている。武蔵も常々思っていることだ。
「なあ、武蔵。おれさ、この前、ものすごく妙な感覚になったんだ。自分の手足が動くことがやけに不思議でさ。当たり前のことなのに、当たり前じゃなく感じたんだよな。生徒が亡くなったって知らされたすぐあとだったこともあると思うんだけど、あれって死神だよな。弱ってるおれを死神が見つけて、おかしな感覚にしたんだよな、きっと」
「……死神?」
とつぶやいて、こらえきれなくなって吹いてしまった。よし兄はマッチョで根性論が好きなわりに、昔から幽霊とかお化けが苦手なのだ。
「な、なんだよ、武蔵。笑うなよ」
「ごめんごめん。だって、死神とか言うから」
「いや、ほんとだって! あのとき、おれ、ちょっとおかしかったからさ。ずっとあのまま考えていったら、精神的にヤバくなってかもしれない」
「ずっと考えていくのが、哲学だよ」
「はっ? 哲学!? あの、民から借りた本のことか? あのインチキの?」
「インチキじゃないよ」
「はぐらかして、ごまかして、結局答えを出さないやつだろ?」
「答えが出るまで考え続けるってことだと思うけど」
へえー、と茶化すような口調で返ってくる。
「ぼくもさっきお風呂で、手足が動く不思議を感じたよ」
「ええっ!? 武蔵もか? 大丈夫か? 死神が来たら追い払うんだぞ。パンチを繰り出して、蹴りを入れるんだ」
「あはは」
よし兄ってかわいいなあと思う。「マッチョ」と「かわいい」って、案外相性がいいのかもしれない。
「てかさ、今回のことで思い知ったけど、中学生ってものすごく繊細なんだよな。根性と筋肉だけじゃ、到底太刀打ちできないわ」
よし兄の言葉に、当たり前だよ、と心の中で返す。
「武蔵、その服かわいいじゃん」
風呂上がりの武蔵の恰好は、ちいかわのTシャツに七分丈で裾がレースになっているスパッツだ。Tシャツは智親が買ってくれたものだ。
「どうしたの、急に」
こういう恰好をよし兄が嫌っていることは、知っていた。中学時代、バスケ部で活躍していたおれの弟はどこに行ったんだよ! と、何度も言われたことがある。
「武蔵が元気で生きていてくれるだけで、御の字だなあと思ってさ。なーんて」
と、よし兄がやさしい笑顔を見せた。
「この夏。ぼくたち四人とも、蛹になった気がするよ」
「蛹? なんだそれ。それも哲学か?」
よし兄が怪訝な顔をする。人はいつでも変われる。
武蔵の部屋の九月のカレンダーは、お気に入りのパンダのキャラクターが餅つきをしているイラストで、背景は大きなまん丸のお月さまだ。
武蔵はベランダに出て、深呼吸をした。空を見上げると雲が流れたのか、星空がきれいに見えた。
ひときわ輝いているあの星は、こと座のベガだろうか。とすると、その下にあるのがデネブとアルタイルで、夏の大三角形となる。その下に見えるのは、秋の大四辺形かもしれない。
武蔵はスマホで星までの距離を調べてみた。ベガは約二十五光年。デネブはなんと約二千六百十六光年。アルタイルは約十六光年。
「……十六光年。ぼくが生まれたときの光を、今のぼくが見てるんだ……」
なんとも不思議な気持ちだった。ぼくが生まれた頃の光が、今こうして地球に届いて、それを今ここにいるぼくが見ている。そして、アルタイルが今放った光は、三十二歳のぼくが見ることになるのだ。
宇宙の広さは莫大だ。こうして夜空を見上げて、星を見ている自分とは一体なんなんだろうと、ますます不思議な気分になる。
――宇宙・ラニアケア超銀河団・おとめ座超銀河団・おとめ座銀河団・局部銀河群・天の川銀河・オリオン腕・太陽系・惑星地球
これが、宇宙から自分に手紙を出すときの住所だそうだ。この先に日本と書いて、都道府県、市町村、番地を記載して、高永武蔵宛とする。ああ、なんという果てしなさだろうかと、胸がいっぱいになる。
こんなに広大でどこまでも広がる宇宙に、ぼくはぼくとして存在している、その奇跡といったら!
宇宙から見れば、自分の存在は呆れるくらいにちっぽけだけど、だからといって、ムダ毛の悩みや、性に違和感がある気持ちがちっぽけなことだとは思わない。
気に入らない靴下を履いただけでテンションが下がるし、お弁当にからあげが入っているだけで気分が上向く。そんな単純さと一方で繊細さを持てるのは、人間ならではの特権だ。ぼくにはぼくの宇宙があって、悩んだり怒ったり悲しんだり、たのしんだりおもしろがったりワクワクしたりして、毎日を生きている。
自分が死ぬのは八十六歳だと仮定すると、あと七十年。夜空を見ていたら、それはとても短いような気がした。お父さんが言ったように、人生なんてあっという間なのかもしれない。たのしまなきゃ損だ。おもしろがらなきゃ損だ。ワクワクしなきゃ損だ。
日付は九月二日になった。「今この瞬間」の連続を、ぼくはずっと生きていきたいと、蛹になった武蔵は思った。
(了)