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 お父さんと玲子ちゃんは、元気よく旅行から帰ってきた。ちょっと外を歩いただけなんだけどなと日焼けした顔をさすり、玲子ちゃんはシミが増えたと嘆いた。

 二人の旅行中、民はお母さんが作った食事をほとんど食べられなかった。お腹を壊したと伝えたけれど、お母さんはどこかさみしそうに見えて、そうさせてしまった自分が人でなしに思えた。

「バイト代が入ったから、なんでも買ってやるよ。買い物行こうぜ、民」

 麦茶を飲みに下に降りていったら、待ち構えていたように、ちか兄に声をかけられた。

「おいしいもの食べよう。なんでも好きなもの食べればいいし。高くてもぜんぜんいいし」

 普段よりも、ずいぶんとはすっぱな口調だ。

「ありがと」

「ほら、着替えてこいよ」

 民は、襟元が伸びたTシャツと毛羽だったスウエット地のハーフパンツだった。

「今日はやめとく。ごめん」

 ちか兄は、ここではじめて不安そうな顔をした。

「うん、そうか、わかった。民が謝る必要ない。気が向いたときにまた行こう。いつでもいいから」

「うん」

 うなずくと、頭をぽんぽんされた。民はびっくりしてちか兄を見た。そんなことをちか兄にされたのは、はじめてのことだった。幼い頃から、ちか兄は兄妹だからってむやみに触ったりしなかった。ましてや頭ぽんぽんなんて、ちか兄がいちばん嫌いな仕草だろう。

「民、大丈夫か?」

「うん、大丈夫だよ」

 ちか兄が少し考えるような顔をしたあとで、

「大丈夫? って聞いたら、大丈夫だよ、って答えるしかないよな。ごめん」

 と謝った。民は首を振った。

「大丈夫じゃない、って返せるのは武蔵ぐらいか……」

 と、ちか兄はつぶやき、ぎこちない笑顔を見せる。

「なにか気になることあったら、なんでも相談に乗るから」

 もしかしたら、ちか兄もどこかで民の画像を見たのかもしれないと思った。

「ありがと。ちか兄」

 民が部屋に戻ろうとしたところで、むさ兄が降りてきた。本の束を抱えている。

「それ、処分するの?」

「うん。明日、古紙回収の日だから」

「あっ」

 束のなかに、三者面談の日に図書室で読んだ哲学の本を見つけた。

「これ、むさ兄も持ってたんだ。読みたい。もらっていい?」

 指し示すと、むさ兄はひもをほどいて民に渡してくれた。

「ありがとう」

「民って、もしかしてダイエットとかしてるの? 顔がシュッとしてきた。マッサージ? 教えて」

 いじめダイエット、と思わず口から出そうになる。

「暑いから食欲がないだけ」

「ふうん、そう」

 むさ兄は、目下ダイエットにいそしんでいるらしい。置き換えダイエットとか、炭水化物抜きダイエットとか、十八時間ダイエットとか。だから、玲子ちゃんが旅行に行っている間、むさ兄もお母さんの料理をあまり食べられず、よし兄とちか兄がせっせと食べていた。

 食欲はまったくわかなかった。食べようとすると、喉が閉まって押し戻される感じで、受け付けないのだった。

 民は、さっそく本を読むことにした。それしかやることがなかった。

 

 民の画像が出回ってから、一週間が過ぎた。

 起きている間中、自分はみんなに嫌われているのだとそればかりを思った。一番つらいのは、朝、起きる瞬間だった。嫌われている現実のなかに、またこの身を置かなければいけないと思うと、目覚めることが恐ろしかった。

 SNSでの民の画像や動画の拡散、それに対するコメントは、まるで伝染病みたいに増えていた。ここぞとばかりに多くの人が便乗している。

 最初は、なんで、どうして、と怒りが湧いていたけど、今はもう、すっかり弱気になっている。みんな前々から民のことが嫌いで、画像が出回ったのは、いいチャンスだと思ったのかもしれない。ざまあみろと思っているのかもしれない。

 民が通っている中学校の二年生は、おそらく全員がこれらの投稿を目にしていることだろうし、バスケ部の一年生が拡散して、バスケ部以外の一年生にも知れ渡っていることだろう。先輩からのコメントもあったから、多くの三年生も投稿を目にしているはずだ。学校中のほとんどの人に、民が嫌われているということを知られてしまった。

 これまで民は、自分が嫌われるなんて思いもしなかった。いじめの被害者になるなんて、一ミリだって考えたことはなかった。だけど現実問題、今、民は嫌われて、いじめられている。生まれてはじめて、いじめられる側になったのだった。

 なにをしていても、していなくても、自分が嫌われているということが、頭のなかをぐるぐる回る。そんな自分が恥ずかしくて情けなかったし、この状況がとてつもなく苦しかった。

 ベッドサイドに置いてある、むさ兄からもらった哲学の本をぺらぺらとめくってみる。もうすでに読み終わった。よく理解できない文章が多く、何度も戻りながら読んだ。でも、それでも理解できないことが多かった。だってそこには、今、民が思っていることと真逆のことが書かれていたからだ。

 ――嫌だと思う気持ちは、自分にとっても嫌なものだ。自分にとって、嫌なことをしないのが自分を愛するということだ。自分を愛するからこそ、他人を嫌うことをしないのだ。もちろん大変なことだ。でも、それが自分を愛するということなんだ。

 なにこれ? と思った。民はもちろん自分を大事に思っている。自分を好きだからこそ、他人に悪意を向けられていることが悲しいし、許せなく感じている。それなのに、他人を嫌うことをしないって、なに? そんなことできるわけない。自分を愛してるからこそできないのに、どういうこと?

 民は本をベッドサイドに戻して、ベッドの上で目をつぶった。ふいに、三者面談で担任のゆう子ちゃんが言った言葉がよみがえる。

 ――なにか気になることや困ったことがあったら、いつでも声かけてね。どんなに些細なことでもいいから。

 人間の脳って不思議だ。忘れていたと思っていた言葉でも、自分に必要なときにポッと浮かんでくる。民は、ゆう子ちゃんに相談してみようか、と一縷の望みのように思った。

 いや、でも、ゆう子ちゃんに相談したところで、なにか変わるだろうか。

「高永さんをいじめるのはやめましょう」

 ゆう子ちゃんがそう口に出したとたん、民はいじめの対象者のレッテルを貼られて、それは消えないシミみたいに一生残ることになる。

 ――高永さんはいつも明るくて、クラスの人気者です。

 と、三者面談のときゆう子ちゃんは言ったけど、そんなのはごくありきたりで定型的な、誰にでも通用するほめ言葉だったと今になって思う。そんなことよりも、民がいつでもクラスの机をきれいに並べ直していることや、ゴミが落ちていたらすぐに拾ってゴミ箱に捨てることなんかを言ってほしかった。

 ゆう子ちゃんに相談しても、意味がない気がした。ゆう子ちゃんが注意して、みんなが「はい、気を付けます」と返事をして終わるだけだ。民が嫌われ続けることに変わりはない。

 世界はたった一日で変わる。いや、一時間で変わる。三十分……、いや、たった一分でだって変わるのだ。でも、そのたった一分前にはもう戻れない。取り返しがつかない。世界は元に戻らない。民が民らしく生きていた頃には、もう戻れない。

 

「友達と日帰りバスツアーに行く予定だったんだけど、その人が急に行けなくなっちゃったの。民、付き合ってくれる?」

 夏休みも残すところ、あと十日ほどの蒸し暑い日、民は玲子ちゃんに声をかけられた。

「遠慮しとくー」

 明るく返した。

「部活はないんでしょ?」

「うん、まあ」

「それに民。あなた最近、外にまったく出てないわよね」

「こんなに暑いのに出たくないよー」

 汗を拭うジェスチャーを交えて言った。

「ツアー会社には、もうあなたの名前で出しちゃったから、よろしくね」

 民は答えなかったけれど、玲子ちゃんのお願いには断れない圧がある。バスツアーには付き合うしかないようだった。

 ミステリーツアーだから、行き先はわからないの、と玲子ちゃんは言っていたが、着いた場所は山梨だった。最初に寄ったところが果樹園で、そこの看板に地名が書いてあった。

 ブドウ狩りをしてブドウを食べた。みずみずしくて甘くて弾けそうで、普段食べているのとは、ぜんぜん違った。ひと房ずつお土産に持たせてくれた。ふた房じゃ、家族全員分にとても足りないということで、玲子ちゃんは奮発して高級ブドウを買い足した。

 八月ももう終わりだというのに、強烈な陽射しが照り付ける。民は手をかざして太陽を仰ぎ、その明るさにくらくらした。

 ひさしぶりの外出が、学校やコンビニじゃなくて、玲子ちゃんとの山梨旅行になるなんて思いもしなかった。ずっと家にいたせいか足は重かったけれど、外を歩くことは気持ちよかった。汗をかいてベタベタになるのも、むしろ清々しく感じた。

 ブドウ狩りのあとは、近くでバーベキューの昼食だった。

「わたし、バーベキューって苦手なんだよね」

 肉をひっくり返しながら玲子ちゃんが言う。屋外にある、屋根のついた大きなテントみたいなところだ。たくさんの扇風機と冷風機ががんばっているおかげで、なんとか暑さはしのげている。

「なんで苦手なの?」

「おいしくないから」

 玲子ちゃんは意外と毒舌だ。

「家のキッチンで焼いたほうが、肉も野菜もおいしいじゃない。わざわざ暑いなかで、油まみれの肉や野菜を食べたくないわ。まあ、たまにはいいけど」

 言いながら、タレにつけた肉をほおばる。

「あっ、キャベツはおいしい。焦げが香ばしくていいわ」

 と、しゃくしゃくと咀嚼する。民もキャベツをかじった。玲子ちゃんの言う通り、焦げたところがおいしかった。場所が変わったせいか、家にいるときよりは食べられた。

「玲子ちゃんって、はっきりものを言うよね」

「あら、そう? いやだ?」

 ううん、と民は首を振った。玲子ちゃんがなんでも正直に言ってくれるから、民たち兄妹は、新しくやって来た玲子ちゃんのことを信用できたのだ。

 民もはっきりとものを言う。だけど、民のもの言いは、みんなをイラつかせていたらしい。

 ――巧妙な天然ぶり。みんなより自分のほうが上だと思ってる。

 萌香が言った言葉がよみがえる。

「もう食べないの?」

 考えていたら、また食欲がなくなってきた。

「わたし一人じゃ無理よ。協力して。ハイ、お肉」

 玲子ちゃんが民の皿に取ってくれる。玲子ちゃんは、職場にいるおもしろい同僚のことを話してくれた。その人はトイレで大をするときに、洋服を全部脱がないと用を足せないらしく、公衆トイレなど冬は寒くて大変だそうだ。

「なんかね、職場がたのしいんだよね。この年齢になっても新しい出会いや、仲良くなれる人がいて、そういうことに自分自身びっくりしてるの」

「へえ、そうなんだ。いいね」

「うん。いいのよ」

 玲子ちゃんと話しながら、民はゆっくりと少しずつ肉や野菜を食べた。デザートはかき氷だった。ブルーハワイの青が夏そのものみたいで、今が夏だというのに、子どもの頃の夏を思い出して懐かしい気持ちになったりした。

 昼食のあとはワイナリーに行った。玲子ちゃんはワインを試飲し、民はぶどうジュースを飲んだ。濃厚で、ぶどうのいい成分が身体のすみずみに行きわたる気がした。おかわりをすると、玲子ちゃんが「家でも飲みなね」と、民に大瓶入りのぶどうジュースを買ってくれた。

 SNSや学校のことは、落ちない焦げみたいにずっと頭にこびりついていたけれど、忘れられる瞬間もたくさんあった。身体を動かしたり、なにかに気持ちを集中させたりしているときは大丈夫みたいだと民は学習した。同じ場所でじっとり過ごしていると、そのことしか考えられなくなって、底なし沼みたいに、ずんずんずんずん沈んでいってしまう。

 バスの車窓から、夏の陽射しが降り注ぐ。車内は冷房が効いていて快適だ。民ははじめて目にする知らない町を、窓からぼんやりと眺めていた。たくさんの家やお店、病院、市役所、幼稚園、神社、果樹園……。どこの町でも人の生活があるんだなあと思い、ふいにこの土地に住むのはどうだろうと考える。

 引っ越してここに住めば、全部チャラになるかもしれない。自分のことを誰も知らない場所に行けば、これまでのことを上書きできる。そうだ、引っ越ししないまでも、転校するっていうのはどうだろう。民の存在を知らない人たちが通う、遠くの中学校に転校するのだ。

 それはとてもいいアイデアに思えた。SNS騒動があって以来、民の心をはじめて前向きな気持ちにさせてくれた。

 バスはどこかの施設に停まり、そこではニジマスのつかみどりがあった。家族連れで参加している子どもたちは、喜んで水に入り、ニジマスを追いかけていた。民たちはつかみどりはパスして、焼いたニジマスだけを食べた。富士山が特大サイズで見えて、こんなに大きい山が日本に存在することに感動した。

 その後、土産店に寄った。玲子ちゃんはご当地の調味料やお菓子を、厳選してカゴに入れていた。その間、民は外のベンチに座ってソフトクリームを食べた。

 空はまだ青かった。民はいつまでも陽が暮れない、一日が長い夏が好きだったけれど、今では長すぎるかもと思う。

 ソフトクリームを食べ終わって、周辺を少し歩いてみた。人通りは少なかったけれど、車の往来は多かった。はじめて歩く道なのに、いつかどこかで歩いたような気持ちになる。

 喪服を着た人たちが、こちらに向かって長い参道を歩いてくる。民は思わず足を止めた。お寺のようだった。法事でもあったのか、談笑している人もいるし、神妙な顔をしている人もいる。

 民は、おじいちゃんのお葬式を思い出した。お母さんの夫である、父方のおじいちゃん。そのとき、民はまだ保育園の年中だった。大人たちが慌ただしく立ち働いていたことと、棺桶に入ったおじいちゃんがひどく薄っぺらかったことを覚えている。あのときも夏だった。ドライアイスをお腹の上に置いていると聞いて、おじいちゃん、つめたくてかわいそうだと思った。

 土産店に戻ると、買い物を終えた玲子ちゃんがベンチに座ってソフトクリームを食べていた。

「わたしもさっき食べたよ」

 と民が言うと、「知ってる、見てた」と返ってきた。

 バスに乗って帰路についた。車窓からは、オレンジ色の夕焼けが見えた。

 どうってことのない、たのしい一日だった気がした。

 

 夏休みも残り一週間となった。SNSは少し落ち着いてきた。民についての新しい投稿はなかった。コメント欄もしずかだった。わたしのことを嫌いな人は、もうぜんぶ書き尽くしたんだろうと民は思う。けれど、投稿は残っているし、民に関する投稿を目にした生徒はたくさんいるだろうし、こうしている今も、見ている人はいるだろう。そう思うと、気持ちはどこまでも落ちていく。

 バス旅行で考えた転校するという案は、家に帰ってきた瞬間にしゅうっとしぼんでいった。まったく現実的じゃないし、たとえ転校したとしてもどうせまた嫌われるだろうと思った。

 そもそも今、民の身に起こっていることが、いじめなのかどうかすらわからない。暴力を振るわれたわけでも、持ち物を隠されたり壊されたり、お金を要求されたり、全員に無視されたりしているわけでもない。SNSだって、冗談の範囲で済まされる。

 それに、すべては夏休み中に起こったことだ。バスケ部のみんなは知ってるけど、民から伝えたのは萌香とミロクぐらいだ。家族だって知らない。民の元気がないことに気付いてはいるだろうけれど、理由は知るはずもない。知られたくない。だから、転校なんてありえないのだ。

 人生って、ほんの数分で変わってしまうのだと改めて思う。一体どこが分岐点だったんだろう。どこが間違っていたんだろう。どこで失敗したのだろう。そんなことを、つい何度も考えてしまう。みんなにウザがられていることにも気付かずに、一人で道化をしていた自分。

 民はのろのろと風呂から出て、ベッドに横になった。ハンガーラックにかかっている制服のズボンが目に入る。みんながスカートをはいている中、一人、ズボンで登校した。むさ兄がスカートをはいてるからって、民が真似する必要はなかったのだ。

 民はただ、ズボンにすればむさ兄が喜んでくれるかなと思ったし、学年で最初のズボン女子にもなりたかったし、少数派の味方でいたかった。それを軽やかにやってのけたかった。ばかみたい。わたしってばかみたいだと、つくづく思う。

 もうすぐ新学期がはじまってしまう。カレンダーを見るのが怖かった。八月のカレンダーをめくるのが恐怖だった。学校になんて、行きたくない。

 学校で、これから自分がどうふるまえばいいのかわからない。きっと誰からも声をかけられないだろう。万が一、かけられたとしても、どういう態度で接すればいいのだろう。どうしよう、どうしたらいい?

 ズボンは処分してスカートで登校する。バスケ部のみんなに素直に謝って、けじめとして退部届はきちんと出す。生理のことを「子宮の日」とか「地球の日」とか、そういう自分の世界に浸ってるみたいなことは二度と口にしない。

 SNSのことは静観して、誰かになにか言われたら、わたしが悪いんだよ、と答える。これまでわたしってすごく嫌な奴だったよね。ごめんね。これからは、みんなが気に入らないことは絶対に言わないし、しない。人の話をちゃんと聞いて、自分の気持ちを堂々としゃべったりしない。正論ぶらない。正義の味方ぶらない。知っていることでも知らないふりをして、ちゃんと話を合わせる。

 そうすれば、きっと大丈夫なんだと自分を鼓舞してみる。うまくいくような気がする。必ずうまくいく。と、希望が頭をもたげた次の瞬間、でもやっぱり無理だと思い知る。そんなふうにうまくいくはずはないし、そんな自分を演じられるのかどうかもわからない。

 民は手を伸ばして哲学の本を取る。確か、学校について書かれた章があった。民はページをめくった。

 そこには、学校なんて存在しない、と書いてあった。「学校」なんてものを、目で見たことがある人はいない。目で見えるのは学校の校舎であって「学校」ではない。学校にいる先生や生徒などのたくさんの人を思い浮かべるかもしれないが、それは人々であって「学校」ではない。授業や規則だって、「学校」そのものではない。それなのに、「学校」があたかも、自分より先に、元からあるみたいに存在していると思うのはおかしい、と。

 呆れて、ふっと鼻から息がもれる。だったら、どうだっていうのだ。実際、民は学校に行きたくなくて悩んでいるのに、こんな禅問答みたいなことを言われたって、なにも解決しない。そもそも、学校が存在しなかったら嫌われることだってなかった。

 民は大きく息を吐き出した。学校が爆発しない限り、問題は解決しないと思った。誰かお願いだから、なんでもするから、学校に爆弾を仕掛けてほしい。それが無理だったら、もう自分が死んだ方がいいのかもしれない。そうしたら、学校に行かなくて済む。なにも考えなくて済む。

 九月一日が、どんどん近づいてくる。心臓がおかしなくらい波打つ。行きたくない。学校になんて行きたくない。九月一日に登校できなかったら、次の日も、その次の日も行けないだろう。最初が肝心なのはわかってる。一日に行けなかったら、きっとそのまま不登校になるだろう。不登校のレッテルを貼られて、この先の人生を生きていくのだ。

 それに、不登校になれば、みんなは好き勝手な噂をするだろうし、家族にも心配をかける。いつも穏やかなお父さんでも、学校に文句を言いに行くだろう。いやだ、冗談じゃない。そんなことになるくらいなら、死んだ方がマシだ。

 ふいに、山梨で見た喪服の人たちを思い出す。人が死ぬとお葬式があるのだとぼんやりと考え、自分のお葬式には学校の人たちに来てほしくないと思う。たかがこんなことで死ぬんだと思われたくない。

 本には「死」なんてものもないと書いてあった。死体から「死」を取り出して見ることはできないと。バカバカしい。まったく意味がわからない。

 スマホが鳴った。ビクッと肩が持ち上がる。萌香からだった。うれしいというより、怖さが先に立つ。おそるおそるLINEをひらいてみる。

 ――ねえ、自由研究どうするの? やらないの?

「自由研究……」

 十円玉をきれいにするという実験。萌香とケンカしたのが、ずいぶん昔のことのような気がする。民は、自由研究はもうあきらめていた。提出しないつもりだった。

 なんて返事をしようかと考えていると、次のメッセージが届いた。

 ――インスタ落ち着いてきてよかったじゃん。ミロクってサイテーだったね

 とあった。視界が一瞬ひらけた。萌香はもう怒ってないのかもしれない。萌香はインスタやTikTokには関わっていないし、前のことは、友達同士のちょっとしたケンカだったのかもしれない。

 ――どうもありがとう。自由研究よろしくお願いします

 さんざん考えた末に、そう返した。それ以外になにも思いつかなかった。

 民は急に空腹を感じた。ひさしぶりの感覚だった。お餅が食べたかった。香ばしく焼いた餅にしょうゆをつけて、ぱりぱりの海苔を巻いて食べたい。

 時刻は夜の十一時半になるところだった。お正月にたくさん食べたお餅が、まだ余っているはずだ。民は下に降りて、台所の戸棚をさがした。未開封のものが一袋と、輪ゴムで留めてある開封済みのものがあった。

 民は二つの餅をオーブントースターで焼きはじめた。

「なんか作るの?」

 よし兄だ。ダイニングテーブルにノートパソコンを出して、仕事をしていたようだ。

「お餅焼いてる。よし兄も食べる?」

「食べる」

 お餅がふくれたところでしょうゆをつけて、海苔を巻いた。一つをよし兄にあげて、一つを民が食べた。餅が焦げて穴が開いたところに醤油がしみて、おいしかった。ゆっくり噛んで飲み込んだ。一つでお腹いっぱいになった。

「民、悪いけどもう一つ焼いてくれる?」

 よし兄に頼まれたところで、むさ兄が二階から降りてきた。鼻をぴくぴくさせている。

「いい匂いがする」

「お餅焼いてるけど、むさ兄も食べる?」

「食べない」

 そういえばダイエット中だったなと思い出す。

「むさ兄からもらった哲学の本、ぜんぜん意味わかんない。まったく中学生向きじゃないよね」

 水を飲んでいるむさ兄に伝えると、あー、あれね、とつぶやき、

「哲学も精神も宗教も科学も、最終的にはスピリチュアルに行きついちゃうんだよね」

 と、つまらなそうに言った。

「スピリチュアル?」

「この世の成り立ちや現象は、どうしたって説明しきれないってこと。ぼくたちが生きて生活していること自体、映画みたいっていうか、誰かのお芝居みたいっていうか」

 むさ兄の言ってることのほうが、もっとわからない。

「なになに? なんの本?」

 よし兄が、ここぞとばかりに話に入ってくる。今度貸してあげるよ、と民が言うと、

「おう、読む読む」

 と、調子よく手を上げた。よし兄にもう一つ磯部巻きを作ってあげて、民は二階へ引き上げた。本をめくって、ちょうど開いたページを読んでみる。

 ――時間は過去から未来へ流れるのではなく、「今」があるだけだ。なぜなら、過去のことを嘆いたり、未来のことを憂いたりしているのは、「今」の自分に他ならないからだ。

 やっぱり、わけがわからない。「過去」も「未来」も「学校」も「死」も、すべて意味がないというのだろうか。悩みがあること自体、おかしなことなのだろうか。民は本を放って、腕枕をして天井を見上げた。

 明日、萌香の家で自由研究をやることになった。自分は、萌香とふつうに話せるだろうか。万事うまくやれるだろうか。

 九月一日の朝。クラスメイトに、おはようと挨拶できるだろうか。友人たちに、どういう態度で接したらいいだろうか。なにをすれば正解なのだろうか……。

 今、民にわかっていることは、ひとつだけだった。夏休み前までの自分はもういないということだ。過去の自分は消滅してしまった。これからは、民の顔をした、民ではない人として、新しくやっていくのだ。これが大人になることなのかもしれないと、ぼんやりと思う。

 民は本を拾い上げた。なにか、見落としている重要なヒントがあるような気がしてならなかった。よし兄に貸す前に、もう一度最初から読んでみようとページをめくった。

 

 

(つづく)