「高永! こっち!」
ファミレスに着くと、テーブル席から桜田が手を振っている。
「あれ、なんでいるの?」
「高江州だけ、ズルいじゃん。もちろんあたしも付き添うに決まってる」
「Sは?」
「もう面接してるよ」
と、奥の席を差す。さっき武蔵が面接をした席だった。桜田がデラックスプリンパフェを注文したので、武蔵はまたドリンクバーを頼んだ。
「高永の私服、はじめて見た。かわいいブラウスだね。ちょっと興奮するわ」
と、黒豆茶をカップに入れて席に戻ってきた武蔵を、桜田が写真に収める。
「待ち受けにしようかな」
「それはやめて」
「わかった。ひそかな楽しみにする。あ、そうだ。脱毛だけど、今月中に申し込むと、学割で安くなるんだって。あたしからの紹介割引きもあるから、かなりお得になるよ」
好機逸すべからず、と桜田が言うので、その場でカウンセリングの予約を入れた。
「お待たせ」
Sが戻ってきた。
「おれ、ホール担当になったわ」
Sの言葉に、武蔵はいろいろと納得する。
「Sは本当にここでよかったの? 家から遠くない?」
武蔵がたずねると、家から一時間もかからないよ、とSは答えた。
「あたし、二人がバイトしてるとき、食べにこようっと」
「キッチンとホールだから、一緒にいるわけじゃないよ」
「いいの、いいの。同じ店に二人がいるってのが萌えポイントだから。高永が作った料理を、高江州が運ぶっていう共同作業がいいよね」
「不純だなあ」
Sが牧歌的に返すと、「純粋だよ!」と桜田が前のめりで反論した。
「そうだ。あたし、メイク道具持ってきたんだ。試してみる?」
さっそく試したかったが、まさか店ではできないので、家に寄らないかと二人を誘った。駅までの途中に、武蔵の家がある。
「うそっ!? マジ? 行く!」
一言一句違わず二人の声がそろった。
Sと桜田を家に連れていくと、入れ違いで帰宅していたらしいお母さんと玲子ちゃんが大喜びした。そのうちに智親と民も二階から降りてきて、やっぱり喜んだ。
「祖母のお母さんです」
「継母の玲子です」
と、お母さんと玲子ちゃんが当たり前のように自己紹介するので、武蔵は高永家のちょっとした事情を二人に話した。かっけー、とSが目を見開き、イカしてる、と桜田が親指を掲げて、ハハが三人もいて最高だね、と二人で言い合った。
ぼくの部屋に行く? と武蔵はたずねたが、二人ともここのほうがいいと言うので、リビングで過ごすことにした。どうやら、武蔵の家族と一緒にいたいらしい。
「夕飯食べていってねー」
玲子ちゃんが声をかけると、二人とも、はい、ありがとうございます! と、ここでも声がそろった。
「桜田ひな子のメイク教室しまーす」
桜田が言うと、民がわたしも参加したい! と手を上げた。おれもいい? と智親まで手を上げる。桜田は、大きな四角いメイクバッグを持ってきていた。
「すごーい、プロのメイクさんみたい」
民が歓声をあげる。
「ほんと、めっちゃ道具がそろってる。桜田って、メイクに興味あったんだな。知らんかった」
Sが言い、武蔵もうなずいた。学校では軽いメイクまではOKだが、桜田はいつもすっぴんだ。
「学校ではサラの自分でいるって決めてる。メイクすると、めっちゃきれいになっちゃうからさ。そうすると、いらん奴にモテちゃうし、鈴川とかもすぐに近寄ってきそうじゃん?」
ふうん、とどうでもいいようにSが返す。
「高永はどんなメイクしたいの?」
「カワイイ系がいいけど、まずは基本メイクを知りたい。顔色良くしたり眉を整えたり小顔に見せたり、そういうの」
「いいね。あたしがやってあげてもいいけど、それだと覚えられないと思うから、一緒にやっていこう。あたしと同じようにやっていって」
「わたしも一緒にいいですか?」
「もちろんいいに決まってるよ、民ちん」
「おれもお願いします」
「もちろんです、智親さん」
「お、おれもやってみようかな」
Sまでが言い、結局全員でメイクをすることになった。
「まずあたしのおススメはこの下地ね。SPF30でよく伸びるし、しっかりUVケアもできて、肌のきめも整うし、なによりお手頃価格。ハイ、これをパール粒大、手に取ってしっかりくるくるしてなじませる。それをこの、ビューティースポットにのせる。ビューティースポットっていうのは、目の下の頬の三角形の部分ね。ここから外側に向かってトントンとタッピングしていく。そうそう、いい感じ」
桜田の言う通り、四人で真似していく。
「高江州! 誰が、勝手におでこやっていいって言った? 順番あるんだから、ちゃんと聞いとけ」
すみません、とSが謝る。
「首のほうまで徐々にタッピング。そうそう。そしたら、おでこにちょんとつけて、外側に向かってフェイドアウト」
「おお、なんだかきれいになった」
智親が角度を変えながら鏡を見て言う。
「毛穴レスった!」
「民ちんは、最初から毛穴ないじゃん」
「ぼくもきれいになったみたい」
「うん。高永、いいよ」
下地だけでかなり盛り上がった。そこからリキッドファンデを薄く伸ばしていく作業をした。
「高江州、今度はちゃんと言うことを聞いてて偉いぞ」
「ありがとうございます、師匠」
「民ちん、めっちゃ上手。智親さんは、手慣れてる感じですね」
いやいや、メイクははじめてでして、と智親が恐縮する。その後、パウダーを薄く叩いて、シェーディングとハイライトへ移った。そのあとは、ほんのりとチークをのせた。
眉毛は、桜田が説明しながら、一人一人に手を加えていった。アイメイクまでやったのは、武蔵と民で、武蔵はこれがいちばんむずかしかった。特にアイラインを入れるときは手が震え、太くなりすぎた。
「高永はくっきり二重で眉も濃いし、まつ毛もびっしり生えてて長いから、アイラインはいらないかも。マスカラは、やるとしたら黒じゃなくて茶系がいいかもね」
武蔵も、アイラインはしないほうがいいかもと思った。濃い顔がさらに濃くなってしまう。武蔵の理想は、はかなげな顔である。
ライトブラウンのマスカラを塗ると、目元が軽やかに明るくなった。アイシャドウは、ホール全体に薄くラメの入ったカラーベースをのせるだけにした。武蔵は、桜田の意外な才能に感謝した。
「口元で印象めっちゃ変わるからさ。メンズは色付きリップ程度がいいね。試しにあたしは真っ赤にしてみる。民ちんはピンク系が似合うからこれね。グロスも重ねるといいよん」
みんなで真剣にリップを塗り、一応の完成となった。
「桜田、別人じゃん!」
Sが声をあげる。メイクを施した桜田は、透明度と艶が増してとてもきれいだった。さっき言ってたことは、あながち嘘じゃないらしい。民もさらにかわいくなったし、智親は韓流アイドルみたいになった。
「高江州は日焼けしてるから、ファンデの色が合わなかったね」
高江州の顔は白浮きしていた。高江州だけがメイクを落とした。
「あたしのママ、美容部員なんだよね。小さい頃からメイク遊びしてたから、こう見えて案外得意。家にメイク道具たくさんあるし」
桜田は、武蔵に下地クリームとライトブラウンのマスカラと、色付きリップとパウダーブラシをくれた。民には眉ペンシルをあげていた。
「むさ兄の高校、めっちゃたのしそう。いいなあ」
「民ちんはたのしくないの?」
「うーん、微妙です。友達ってなんなのか、よくわからなくって」
民が唇をきゅっと結んで顔を傾げると、友達かあ、と桜田が遠い目をしてつぶやいた。
「あたしは高永と高江州にロックオンだからなあ。女子のほうは、いろんなとこにちょこちょこ顔を出してる感じ。うちのクラスは、そういうのが許される雰囲気あるから、助かってる」
いいなあ、と民がまた言う。
「でも、中学のときはちょっと大変だったな。面倒なグループがいたから、刺激しないように気を遣ってた。ものすごく疲れたよ」
「桜田センパイでも、そんなことがあったんですね」
いつの間にか、桜田センパイになっている。
「どうやって今の境地になったんですか?」
境地って、と桜田が鼻の頭をぽりぽりとかく。
「自分の好きなことだけをするようになったら、気にならなくなったんだよね。今はロボット作りと、高永&高江州に夢中」
むさ兄、愛されてるねえ、と民が感嘆の声をあげる。
「おれは、Aと桜田の二人しか友達いないかも」
と、たった今気付いたみたいにSが言う。
「でもさ、小学校低学年くらいまでは、誰とでも仲良くなれたじゃん? 約束しないでも遊びに行ったり、それで留守でも気にしなかったし、はじめて会うぜんぜん知らない子とでも盛り上がったりさ。ああいうの、よかったよね。全力で遊んで、めっちゃたのしかったもん。日が暮れるのがもったいなくて、夕方になるのが悲しくなるくらいだったよ。いつから、面倒な手順踏むようになったんだろうなあ」
Sがめずらしく、しみじみとした口調で言った。
「なんか、小さい頃のことを思い出して、キュンとした」
智親が、これまたしみじみと返す。
「子どもの頃のほうが、『今、この瞬間』を生きていたから、本当はそっちが正解なんだよね」
「おっ、さすがA。含蓄があること言うなあ」
今を生きることは、むずかしい。つい、起こってしまったことを嘆いたり、嫌なことをされた過去を思い出して怒ったり、まだ起こってもいない先のことを心配したり、未来を憂いたりしてしまう。
今していることだけに意識を向けて生きていれば、この世から悩みなんてものはなくなる。わかっているけれど、武蔵にもなかなかできない。
「ご飯できたわよ。今日は中華丼。わたしとお母さんは和室で食べるから、みんなはここで召し上がれ」
と、玲子ちゃんが五人分の中華丼と卵スープを運んでくれた。
「若い人たちはいいねえ。見てるだけで元気をもらえる」
お母さんがそう言って、妙な具合に身体をくねらせたので、みんなが笑った。
メイクをしたまま、大勢で食べる中華丼は格別だった。うずら卵がたくさん入っていて、きっとお母さんが買ってきてくれたんだろうと思った。武蔵はうずら卵が大好きだ。
「Aって、もう一人お兄さんがいるんだよね?」
「うん。よし兄は中学校の教員。たぶん帰りはすごく遅いと思う」
生徒が亡くなったばかりの新学期だ。やることは山積みだろう。
「市内の中学生が自殺したって耳にしたけど、まさかですよねー」
と、Sが言った。Sはこういうことがよくある。なにかを直感的に察知する特技。
「高江州くん、するどいね。その通り。よし兄の学校の生徒が亡くなったんだ」
智親が、わざとなんでもないふうに答えると、Sと桜田はびっくりしたように目を合わせた。
「今朝の新聞に出てましたけど、九月一日って、十八歳以下の自殺者が最も多い日らしいですよ」
Sが言い、それってまさに今日じゃん、と桜田が返した。一瞬の沈黙があった。
「桜田センパイと高江州さんは、死にたいと思ったことありますか?」
民だった。高江州はセンパイではなく、さん付けだ。
「あたしはあるよ。べつにいじめられてたわけじゃないんだけど、あたしが死んだら、クラスメイトたちがお葬式に来るのかなあと思ったりしてね。祭壇にはあたしの写真が飾られてて、棺桶には死んだあたしが横たわってて、みんながお焼香していくの。それをぷかぷか浮いているあたしが見てる。そんな場面をなぜか繰り返し思い浮かべて、死んでみるのはどうだろうって思ったりしたんだよね。まあ、もちろん実行しなかったけど」
なんかわかるかも、と民がつぶやく。
「おれはないな。でももし死ぬとしたら、おれの死と対等なものと引き替えにしたい。例えば、おぼれた子どもを助けるとか、燃えている家のなかからおじいさんを救出するとか」
「それは、ちょっと意味合いが違うでしょ」
桜田が速攻で返す。
「そっか、そうだよね。とにかくさ、みんなで長生きしようよ。そのほうが絶対いいって! 年とっても、こうして中華丼を食べましょうよ」
Sの言葉に、智親が大きくうなずいた。
「民ちん。さっきの話だけど、友達って絶対に必要なわけじゃないよ。なによりもまず、民ちんのことを少しでも傷つける人は友達じゃないからね。これは真実だから覚えておいて」
民は口を真一文字に結んで、ほんのかすかにうなずいた。泣きたいのを我慢しているように見えたし、実際そうなんだろうと武蔵は思った。
「民、もしぼくのせいで誰かになにか言われたとしたら、ごめんね。ぼくは、ぼくを変えられないから、ぼくが兄だということは言わないで隠してほしい」
武蔵は、そう伝えた。ちらりと目にした民関連のSNSは、ひどかった。決定的な悪口というものではなく、「いやな感じ」だけを垂れ流して拡散するという意地悪さがあった。武蔵のことには言及していなかったけれど、いつそうなってもおかしくない。
「えっ、むさ兄のこと、ぜんぜん関係ないよ! なんで、そんなこと言……」
そこまで言って、民は突然泣き出した。エッ、エッ、とこらえきれないように嗚咽をもらす。
「民ちん!」
桜田がすぐさま、民を抱きしめて背中をさすった。武蔵は、智親と顔を見合わせた。桜田がいてよかったと思ったのだ。妹の背中をさすったり、抱きしめたり、そういうスキンシップができる兄たちではなかった。
「よくわかんないけど、きっとなにかあったんだね。高永はさ、民ちんのことを思って言っただけだよ。民ちんが高永のことを誇りに思ってることは、みんなちゃんとわかってるからね。この短い時間だけで、あたしにも充分に伝わってきたもん」
「民、ごめん」
武蔵は謝った。先のことを不安に思って、口に出してしまった。やはり「今」だけに集中しなければと思う。
「……エッ、むさ兄のせいじゃないよ。こっち……こそ、ヒッ、エッ、エッ、泣いたりして……ごめんね」
民は少しの間泣いて、そのあと涙をぬぐい、
「せっかくのメイクが台無しじゃん!」
と大きな声で言った。
「わたし、わかった。決めた。とりあえず、中学時代はテキトーにやり過ごす。きっと、今が人生でいちばんキツくてしょぼい時期だと思うから。それにさ、人間は絶対に、全員もれなく死ぬんだから、いちばん最悪なときに死ぬなんてありえない選択だよね。これから上がるしかないのにさ。どうせ死ぬなら、わたしは人生最高潮のときに死にたい。てか、他の人のことなんてどうでもいいや。わたしは自分を生きることにする。バカか、アホが! だるっ、うざっ!」
「ひゃっほー、いいね、民ちん」
桜田がはやし立て、かっこいい! とSが続けた。
「よっしゃあ」
民が冗談みたいにこぶしを掲げると、「おれもがんばろうっと」とSが言い、なぜか智親も、おれも、と小さくガッツポーズをとった。
そろそろ帰るという二人は、最後に武蔵の部屋を見て喜んだ。中学生の頃までは黒で統一していたけれど、今は白とピンクがメインになりつつある。
武蔵は二人を、駅まで送って行った。
「上のお兄ちゃんにも会ってみたかったな」
「よし兄はマッチョだよ。外見的にも精神的にも」
「Aと真逆じゃん」
「うん」
よし兄と自分は合わないけれど、嫌いなわけではない。民や智親と同じように、武蔵にとって大事な存在だ。
「民ちんはかわいかったし、智親さんは素敵だったなあ。ねえ、また遊びに行ってもいい?」
「うん、いいよ」
「おれもおれも」
「うん」
武蔵とSは、さっそく今週からファミレスでのアルバイトがはじまる。新しいことをする前は、わくわくする。世界にはまだまだ自分の知らないことがあふれている。それを知れることがうれしい。
人間の持つ能力をサッカーコートぐらいの大きさにたとえると、たいていの人間は五百円玉程度しか使わずに一生を終えるらしいと、そんな話を聞いたことがある。冗談じゃない! と武蔵は思う。
サッカーコートとはいかないまでも、バスケットコートぐらいは使って死にたい。死ぬことは保証されている。ならば決められた寿命がくるまで、自分のぜんぶを使いきって死にたい。たった数十年の人生だ。思い切りたのしみたいと武蔵は切実に思う。
「A、また明日な」
「じゃあね。ごちそうさまでした。みなさんによろしくね」
「うん」
Sと桜田は改札を抜けても、後ろ歩きでいつまでも手を振っていた。武蔵は、二人の姿がすっかり見えなくなるのを見届けてから、駅をあとにした。
のんびり歩きながら空を見上げる。藍色の夜。月明かりに雲が映る。薄ぼんやりとした星が一つだけ見えた。あれはなんの星かなあと思っていると、スマホが鳴った。
――桜田さんと高江州くんは、電車に乗れた?
智親からの連絡だった。めずらしいと思っていると、続けて入った。
――さっきの民にはびっくりした。死にたいくらい悩んでたんだな。生きててくれてよかったよ
そのあとに、滂沱の涙を流しているウサギのスタンプが届いた。
――うん、よかった
と、武蔵は返した。民は幼虫の時期を、懸命にがんばったのだと思った。
(つづく)