月曜日、下駄箱でかの子を見つけた。学校では長い前髪をぜんぶおろしていて、新大久保のときとはまったくの別人に見える。かの子を見ていると、化粧ひとつで外見ってどうにでもなるんだなと思う。それによって、周りの人間の態度や行動が変わるなんて、本当にばからしい。
智親は、おはよ、と声をかけた。かの子はあたりを見回して、
「学校では話しかけないでって言ってるじゃん」
と、早口で言った。
「誰もいないのを確認して、声をかけたんだよ」
「どこで誰が見てるかわからないじゃない」
くぐもるような声でぴしゃりと制して、かの子はそそくさと自分のクラスへと移動していった。学校と学校以外で、かの子は違う世界を生きている。
かの子とは一年のときクラスが一緒だったが、ろくに話したこともなく、ただのクラスメイトという間柄だった。
ある日、智親のバイト先のファミレスに、恋人らしい男と一緒に現れた。まだタッチパネルは導入されておらず、智親が注文を取りにいった。
智親は、かの子だということに気付かなかった。
「智親じゃん」
と、声をかけられてビクッとした。誰だろう、自分の知っている人だろうかと懸命に記憶をさぐっていると、
「わたし、わからない? 同クラのかの子だよ、かの子」
すぐには声が出ないほど、驚いた。
「西野? 西野かの子?」
「うん、そうだよ。別人でびっくりしたでしょ」
顔がまったく違う。頭から足先まで、クラスでの面影はひとつもなかった。
「智親のポカンとした顔、笑える」
智親、と呼ばれたことにもびっくりした。かの子から下の名前を呼ばれたことは、これまでなかった。高永くん、と苗字で呼ばれたことは一度くらいあったかもしれないが、下の名前でしかも呼び捨てだった。顔が違うことにも驚いたけど、その言い方にもたいそう驚いた。
智親は、とりあえず笑顔で頭を下げた。かの子と同じように、親しげな態度を取ることはしなかった。仲のいい友達だけど、自分は店員で君はお客さんだから、ちゃんとするよ、というテイの笑顔を作ることにした。それが互いにとっていちばんいいと、瞬時に判断した。
注文を受けて去ろうとしたとき、
「智親って肌が荒れてるよね。マスクしてると、もっとひどくなるよ」
と、いきなり言われた。智親は会釈してその場を去った。
智親は普段からあまり怒らない人間だが、このときばかりは「なんだ、あいつ」と思った。友達ヅラをしたかと思ったら、いきなり人の顔について意見するなんてどうかしてる。彼氏の前で虚勢を張りたいのはわかるけれど、人の欠点をあげつらって優位に立とうとするのは卑怯なやり方だ。
当時、智親の顔はひどい肌荒れだった。急にできはじめたニキビに悩んでいた中学生の頃、コロナ禍となりマスク着用を強いられ、肌の弱い智親の顔はさらに荒れた。
肌荒れを見られたくなくて、熱中症の心配がある真夏でもマスクを手放せなくなっていた。マスクを外したほうがいいと推奨された体育の授業や、サッカー部の活動中も、智親は一人だけマスクをしていた。肌荒れはますますひどくなった。
そうこうしているうちに、いつの間にかくっきりとしたマスク焼けができてしまった。元々色白だった智親の顔は、まるでマスク形のシールでも貼ったかのようになった。
そうなったら今度は、肌荒れよりもマスク焼けのほうが気になり出した。智親はマスク焼けを、絶対に誰にも見られたくなかった。からかわれるに決まっていたし、笑い者にされるに決まっていた。
マスクを外さないと給食を食べられないから、給食は食べないことにした。クラスメイトにマスク焼けを見られるくらいなら、食べない方がマシだった。給食を食べないまま部活動まで参加し、ヘロヘロになって帰宅した。かなり痩せた。
中三のとき、担任の先生からの連絡で、給食を食べていないことが家族にバレた。お父さんと玲子ちゃんに理由を聞かれ、給食がおいしくないからと嘘をついたが、
「ちか兄、マスク焼けを見られたくないんじゃない?」
と民にズバリ指摘され、しぶしぶ認めるしかなかった。
家のなかではマスクをしていなかったから、家族は智親のマスク焼けのことを知っていた。マスクを取らない限り、マスク焼けは一生解消されない、ますますひどくなるばかりだと、さんざん言われた。もちろん、そんなことは自分でも充分わかっていた。でも、できなかった。
マスクの種類を他のものにしてマスクの形を変えれば、少しずつ解消できるとも言われたが、ほんの少しのマスク焼けさえ見られたくなかった。智親は同じメーカーの同じ型番のマスクを着け続けた。
お母さんと玲子ちゃんには心配され、お父さんと民にはいろいろなアドバイスをされ、武蔵には興味深げに見られ、よし兄には会うたびに笑われた。よし兄の態度にはムカついたけれど、身内だから放っておいた。智親はマスクを外した生の顔を、家族以外の誰にも見られたくなかった。
マスク焼けを解消すべく、休みの日にベランダでサンオイルを顔に塗って日焼けを試みたが、その程度ではまったく追いつかなかった。二色の絵の具で色分けしたみたいな顔を見られるくらいなら、死ぬまで一生マスクで過ごせばいいと本気で思っていたが、智親は少しずつ疲弊していった。むしばまれていったと言っていい。二十四時間、マスク焼けのことしか考えられなくなっていた。
そんなとき、
「日サロに行こう」
と、家族にも内緒で日焼けサロンに連れて行ってくれたのは玲子ちゃんだった。十回コースで一回サービスの十一回、料金は消費税を入れて五万五千円だった。さすがプロのサロンだけあって、智親のマスク焼けは、十一回の施術でほぼ目立たなくなった。
智親はついにマスクを外すことができた。肌荒れは依然として残っていたけれど、とりあえずは人並みの日常生活が送れるようになったのだった。
高校生になってバイトをはじめて、玲子ちゃんにお金を返した。改めてお礼を伝えると、食べ盛りの中学生が給食を食べないことに危機感を感じたと言った。
ニキビを伴う肌荒れは、皮膚科に通って、少しずつ少しずつ薄紙をはぐようによくなっていった。
そんなときに、かの子がバイト先に現れ、
「智親って肌が荒れてるよね。マスクしてると、もっとひどくなるよ」
と、したり顔で言ったのだ。高校ではしていなかったが、バイト先の飲食店では、マスク着用は必須だった。
かの子が注文した料理は、あえて運ばなかった。同僚に頼んで、なるべくかの子の席には近づかないようにした。こちらの事情も知らないで、堂々と人の傷をえぐるような奴とはしゃべりたくなかった。
「あのさ」
配膳の準備をしていると、背中を叩かれた。かの子だった。トイレから戻ってきたところだったらしい。
「わたしも一時期ニキビがすごかったんだ。そのぐらいだったらすぐに治るから、やり方教えてあげるよ」
怒っていることを伝えるべきか、無視するか、一瞬迷った。
「……おれたち、友達?」
けれど結局、智親の口からはそんな言葉が出てきた。
「友達だよ」
と、かの子は当たり前みたいに言った。それならまあいいか、と智親は思った。友達だったら、まあいいか、と。
その日から、智親はかの子になつかれるようになったが、それは、学校以外の場所限定だった。
学校でのかの子は、存在感を消していた。ほとんど誰とも話さずに、というか、誰からも話しかけられたくないように見えた。身を隠すように学校に来ていた。智親が理由を聞いてみると、「ブスだから」と返ってきた。入学早々、目立つタイプの男子数人と女子数人から、容姿のことをいじられたらしい。
「まあ、本気じゃないと思うけど」
そいつらの名前を聞いた智親はそう答えた。おふざけが得意で、ちょっとしたダークな発言もあるけれど、基本いい奴らだ。
「はあ? なに言ってんの? あいつらがどうのじゃないんだよ。わたしが傷ついたことがいちばんの問題でしょ。そもそも人を傷つけた奴らが、いい奴なわけないだろが」
と、智親はかの子にキレられた。言われてみれば、その通りだった。
高三の七月。朝のHRの時間まで、朝自習をする人たちはべつの教室で勉強しているため、クラス内に人はまばらだ。朝自習は自由参加で、智親はこれまで参加したことはなかった。
おれのやる気スイッチはどこだろうか、智親は額を人差し指で押してみる。脳天、耳、肩、胸、肘、手のひらと、次々押してみたけど、どれも違うみたいだ。
「なにそれ、なにかのツボ?」
友達の康太が、おもしろそうに寄ってくる。
「便秘のツボ」
「お前、便秘なのかよ。おれはだいたいいつもピーピー」
「エグイな」
だらだらとしょうもない会話を続けて、たいしておかしくもないけど笑ってみる。康太も智親と同じく、見通しを立てられない組だ。朝自習をしている人たちをえらいと思いながら、自分は行動できないでいる。
「智親、昨日のサッカー見た?」
康太は陸上部だけど、中学のときはサッカー部だったと聞いた。
「見た見た。ギリ勝ったな」
「北朝鮮ってどうなってんだろ」
北朝鮮と日本の親善試合の中継だった。
「サッカー意外と強いじゃん? でも飯とか食えない子どももいるじゃん?」
「あー」
と、智親は声を出した。まあね、という意味だ。
「サッカーやってる奴らは、上流階級なのかね。だって、めっちゃ貧乏だったらサッカーなんてできないじゃん。サッカーボールもスパイクも買えないし。やっぱ一芸持ってる人間は優遇されんのかね」
康太はなにも書かれていない黒板を見つめながら、最初のほうは智親に向かって、最後のところは自分に言い聞かせるようにつぶやいた。
「康太の一芸は、シャーペン回しだろ」
「ばかにしてんな」
言いながらも、シャーペンをくるくると回してくれる。
「康太は、めっちゃ手先が器用だよ。シャーペン回し、おれ、一回しかできないもん。康太は連続でできるし、鉛筆削りを使わなくても、カッターでめっちゃきれいに鉛筆削れるじゃん。おれの赤エンピツ、康太のおかげでピカピカだよ。ほら」
智親は、ペンケースから赤鉛筆を取り出して見せた。前に康太がカッターで丁寧に削ってくれたものだ。
「おまっ、なんも使ってないじゃん」
芯はきりりと尖ったままだ。
「なんか、使うのもったいなくてさ」
「勉強しなかっただけだろ」
バレたか、と答えて、智親は尖った赤鉛筆にキャップをつけてペンケースにしまった。この赤鉛筆用に買ったキャップだ。
「なあ、でもさ。家が貧乏でサッカーをやったことのない子のなかにさ、ものすごい才能を持ってる子がいたらもったいないよな」
北朝鮮の話に戻った。
「でも、そんなこと言ったら、なんだってそうか。埋もれた才能なんて、きっと二千万個ぐらいあるよな。そもそも埋もれた時点で才能ないってことだもんな。一芸持って表に出られる奴は、あらゆる運を味方につけられる奴のことだよな」
智親は少し考えてから、そうかもね、と答え、
「ところで、二千万個の根拠は?」
と、康太に聞いた。
「知らね。二千万あったらいいよなあ」
と、遠い目をして言うので笑ってしまう。
おれが会社の社長だったら康太をドラフト一位で獲得するね、ときれいに刈り上がった康太の耳の上のサリサリを見ながら、智親は思った。
そのうちに朝自習を終えたクラスメイトが、次々と教室に戻ってきた。
「おはよう、智親」
と、仲が良かったり、席が近かったりするクラスメイトに声をかけられる。
学校にいるって楽だ。智親は学校が好きなわけではないけれど、学校にいるとやることがあるのがいい。やることがなくてもいい。高校生という、自分の役割りが好きだ。集団のなかに身を置いていることに安堵する。
今日の美術は、紙粘土でスマホスタンドを作るという課題だ。どんなモチーフにしようかなと考えていると、隣の席の長野がどんどんイラストを描きはじめた。智親は長野とも仲がいい。クラスではたいてい、康太と長野とつるんでいる。
「かっけー」
KISSのロゴに、ギターが刺さっているイラストだ。KISSの名前は知っているけど、曲を聞いたことはなかった。確かよし兄が、KISSのTシャツを持っていた。智親は兄の善羽の影響で古着に興味を持ったけれど、教師になったよし兄はダサ服路線にチェンジした。近いうちに自分にTシャツが回ってくるのではないかと、ひそかに期待している。
「好きなの? KISS」
長野にたずねると、いいや、と返ってきた。
「かっこいいバンドで検索したら出てきた」
モチーフをスマホで検索していいことになっている。
「おれ、なににしようかな」
とつぶやいたとき、昨日食べたうまい棒が頭に浮かんだ。小学生の頃は、主食のように毎日食べていたけれど、ひさしぶりに食べたら一本で胸やけしそうになった。友達からもらったけど、太るからいらないと言って民がくれたのだった。いちばん好きなめんたい味だった。
調べてみると、うまい棒のキャラクターは「うまえもん」という名前らしい。妹の「うまみちゃん」というキャラもいて、「うまえもん」とはまったく似ていないのが、笑える。
そういえば昔、ママがうまい棒スライサーを買ってきたことがあった。うまい棒が六本にスライスされて、スティック状になるというものだ。うまくキマらないと、うまい棒が割れてしまったり粉々になったりする。最初はおもしろくて何度も試したけれど、やっぱりうまい棒はそのまま口に押し込むからこそ、うまいのだった。さがせば家にあるだろうか。もう処分してしまっただろうか。
智親は画用紙に、「うまえもん」のイラストを描いた。「うまえもん」が両手を伸ばして、スマホを抱えているデザインに決めた。今日はここまでで、次回は紙粘土で形作り。その次は色をつけて、最後にニスを塗って夏休み前に出来上がりの予定だ。
三年時だけある美術の授業。受験勉強の息抜きという意味合いなのかもしれないけれど、いまだ勉強に腰を据えられない智親は、申し訳ないような気持ちになる。絵を描いたりものを作ったりするのは好きだから、なおさらだ。
土砂降りの日、バイト先にママがやって来た。
「いらっしゃいませ。二名様ですか?」
あくまでもホール担当として、接客する。
「うん、そうだよ。見ればわかるじゃん」
あごを突き出すようにして答える。同じくらいの年恰好の女性と一緒だ。
「智親、ひさしぶりだよね。元気?」
「こちらへどうぞ」
「この子が二番目の息子さん?」
女性がママにたずねて、ママがそうそう、と返事をする。
「お水とおしぼりはセルフサービスになっております。ご注文はタブレットでお願いします」
「ハイハイ」
言いながら、手でシッシとやる。店員に向かってシッシとやるなんて非常識だし、息子だからってシッシとやるのも間違っている。シッシとやっていいのは、むしろ智親のほうだ。
土砂降りのせいか、お客さんは少ない。ホールは、ほとんど智親が一人で担当する流れになり、ママのところに料理を運ばざるを得ない。
「和風ハンバーグとエビフライセットのお客様」
わたし、とママが言う。
「ライスになります」
「ハイハイ、そこに置いて」
智親の顔を見もせずにあごで示す。マサカリがどうのこうの、という話をしていてぎょっとする。マサカリなんて、「マサカリかついで金太郎」の歌詞でしか耳にしたことのないワードだ。
キッチンに戻ると、ママの連れの分もあがっていたので持っていく。
「ハンバーグチーズドリアになります」
「はい、ありがとう。ボリューム感ハンパないね」
と、連れの女性が笑う。
「こちら、同じ職場の臼井さん」
「はじめまして、臼井です」
ハンバーグチーズドリアの皿を手前に引きながら、臼井さんが会釈する。
高永智親です、と智親も自己紹介した。
「智親、何時に終わるの?」
「十時」
ママに聞かれ、条件反射的に答えてしまった。
「じゃあ、待ってる。車だから送ってあげる」
いや、いらない、と断りたかったけれど、臼井さんがニコニコと二人の会話を聞いているので、とりあえずこの場ではあやふやにうなずいておいた。
九時四十分を過ぎたところで、臼井さんが帰っていった。ママはドリンクバーでコーヒーをおかわりして、スマホをいじっている。
「待ってなくていいから」
皿を片付けながら、ママに伝える。
「わたしが待ってたいんだから、待ってる。決定権はわたしにある」
「おれになんか用事あんの?」
智親が聞いても、それきり答えない。智親はため息をつきながら、十時にタイムカードを押した。ママは会計を済ませて、外で待っていた。
「お疲れさま。送ってくよ」
「家、すぐそこ」
雨もだいぶ小降りになってきた。
「ひさしぶりだから、お邪魔しちゃおっかなー」
「はあ!? 迷惑だし、こんな時間に非常識」
「つれないのね。わたしってかわいそう。悲しいなあ。泣けてきちゃう」
そんなふうに言って、顔を覆って泣くふりをする。
「そういうの、もう通用しないから。そうやって、子どもに罪悪感を植え付けるの、やめたほうがいいよ。毒親の典型」
「ひっどーい」
結局ママは一人で帰っていった。顔が見れてよかったわ、と言って。
傘をさしながら、家に向かう。なんだかすごく嫌な気分だった。ママと会ったあとはいつだって、もやもやしたものが胸に残る。
「わっ」
うわの空だったのか、右足を思いっきり水たまりに突っ込んでしまった。あちゃー、やっちまった。雨だから底が厚めのスニーカーをはいてきたけれど、それでは間に合わず、靴下にまで水が浸入してきた。近道をしようと、舗装していない道を通ったのが失敗だった。
「ツイてない」
言わずにはいられない。智親は傘をたたんで手に持った。霧雨状の雨に変わっている。あたりまえだけど、星は一つも見えない。智親は自ら水たまりを蹴った。しぶきが飛んで、ジーンズを濡らす。今度は水たまりにジャンプ。スニーカーもジーンズも、洗えばいいだけの話だ。
ママに会うと、智親は自分がみじめに思える。ママは智親が十歳のときに出て行った。武蔵が八歳、民が六歳。よし兄は中三だった。
「ふざけんじゃねえよっ!」
と、よし兄がママへの怒りでパンチをした廊下の壁は、いまだ補修されないまま、ぽっかりと穴が開いている。
ママは、智親たちの産みの親である。お母さんと呼んでいるのは父方の祖母で、玲子ちゃんというのは、四年前に父と再婚した継母だ。
ママがいなくなって、四人の子どもたちの面倒を一人で見られなくなったお父さんは、一人で暮らしていたおばあちゃんを呼び寄せた。
おばあちゃんのことを「お母さん」と呼ぶことに決めたのはよし兄で、智親たちはなにも考えずに、いいよ、とうなずいた。それからは、おばあちゃんが名実ともにお母さんになった。
ママが出て行ったことをちゃんと覚えていて、ちゃんと悲しくて、ちゃんと怒っていたのは、おそらくよし兄とおれだけだったろうと、智親は思っている。幼かった武蔵と民は、わけがわからないまま、この成り行きを自然に受け入れた気がする。自然と、というよりは、受け入れるしかなかったわけなのだが。
出て行ってから、ママは半年に一回のペースで家に顔を出した。そういう取り決めだったのかどうかは知らないけれど、お父さんもお母さんも歓迎とはいわないまでも迎え入れていたし、玲子ちゃんが家に来てからもそれは変わらなかった。
最初の頃は、ママに会えるのがうれしかった。智親は、ママに捨てられたと思っていたから、ママが来てくれればそのことが帳消しになるような気がして、ママのご機嫌をとってママの愛情を確かめた。
よし兄は直截的な人だから、筋を通して正しくママに怒っていたし、武蔵と民は、土産を持ってたまに訪れ、たのしく遊んで機嫌よく帰っていく人というだけの認識だったと思う。智親だけが、複雑な思いのままここまで来てしまった。
大人の仲間に入れるのはよし兄だけで、智親は、武蔵と民のいる子どもチームに勝手に組み入れられていたから、ママについて意見することもできなかったし、屈託なくママと遊ぶこともできなかった。
べつにママなんていらない、と本気で思えるようになったのは、高校生になってからだ。つまり、とても最近のことだ。近年のママの訪問は一年に一度程度になっていたし、玲子ちゃんが来てくれたことも大きかった。家事や子どもたちのことを考える大人が一人増えたことで、家族みんなに余裕が生まれて気持ち的に楽になった。
ママが家に来ても、今ではお相手をするのは玲子ちゃんぐらいで、当然だけどみんな自分の用事を優先している。玲子ちゃんだけが律儀に、自分の夫の元妻にお茶を出してくれている。
だから、こんなふうに自分のバイト先に突然来られても困るのだ。一緒にいた臼井さんの前ではわざと横柄な態度をとって、智親と二人きりになると、今度は悲劇のヒロインっぽい振る舞いをする。
そんなママに、小中学生の頃の智親はさんざん振り回されてきた。おろおろと右往左往して、ママに対して申し訳なく思ったり、かわいそうに思ったりした。
でも智親はもう十八歳で、成人だ。もう子どもじゃないんだから、ママの巧妙な揺さぶりには屈しないぞと鼻の穴を広げてみせる。水たまりを蹴って、大きく腕を振って、意気揚々と夜の路上を闊歩する。
それなのに、この胸のもやもやはなんだろう。自分が人でなしになったような気がしてしまう。ママに会ったあとはいつもそうだ。まんまと罪悪感を植え付けられて、ジ・エンド。
他の兄弟妹たちにも、こんなふうに会っているのかはわからないけれど、早くおれのことを忘れてほしいと、智親は願う。煩わされるのはごめんだし、ママに未練があることを思い知らされるのも、もう勘弁してほしいのだ。
(つづく)