第四章 武蔵
九月一日の朝。武蔵は、アラームが鳴る五分前に目が覚めた。カーテンを開けると、青空のなかで白い雲が太陽の光を浴びてまぶしく輝いている。
武蔵は、自分が新しく生まれ変わったと感じていた。大げさに言うと、皮膚の内側で細胞分裂が盛んに行われているのがわかるくらいだ。新学期がはじまる今日、九月一日の朝に生まれ変わると決めていた。
武蔵は机の上に置いてある鏡を見ながら髪をとかし、編み込みをはじめた。夏休み中、毎日練習をしていたので、失敗することなくスムーズにできた。
ハンガーにかかっている制服を見て、スカートにするかズボンにするかしばし迷い、今日はズボンで行こうと決める。
下に降りて行くと、お父さんと玲子ちゃんとお母さんが朝食をとっていた。
「善羽はもう出て行ったよー」
玲子ちゃんが言う。
「善羽も大変だな」
と、お父さんがほうっと息を吐き出し、それを受けて、
「ほんとだよねえ。中学生が自殺するなんてさ。つまらない世の中になったもんだよ。一体なにが不満なんだか」
と、お母さんが死者に遠慮なく声を張った。
「武蔵は大丈夫か?」
「なにが」
「いや、ほら、そういう事件があると、気持ちが不安定になるだろ」
「連鎖反応とかのこと? ぼくは安定しているし、そんな心配はないよ」
そうか、それならいいけど、とお父さんは朗らかに言い、この話を締めた。
武蔵は炊飯器からご飯をよそって、みそ汁をあたため、納豆をかきまぜた。納豆に卵を割り入れて梅干しを入れるのが、最近のお気に入りだ。
お父さんが家を出る頃に、智親と民が降りてきた。民は制服のズボンではなく、スカートをはいている。
「新学期だね。今日から九月かあ。一年ってほんとあっという間だわ」
玲子ちゃんが小さなため息をつく。
「本当にねえ。年々一年が早くなって困っちゃうよ。こないだお正月だったっていうのにさあ。だって、もう秋でしょ。すぐに冬が来て、またお正月が来るよ。そうこうしているうちに、あたしにもお迎えが来るわ。人生って短いね。はあーっ」
お母さんのほうは、本気のため息だ。
「やだ、お母さん。そんなこと言わないで長生きしてよ」
民が眉根を寄せる。
「お母さんは百歳まで大丈夫だよ」
智親がグーマークを作った。
「お母さん、死んだら次の扉を開けるだけだよ。次元が変わるだけ」
武蔵が言うと、全員がぎょっとした顔で武蔵を見た。
「生と死は対義じゃないよ。生のなかに死は内包されてるから。あ、ちがうな。死のなかに、生が内包されているのかもしれない」
食卓がしんとした。
「まーた、武蔵はむずかしいことばっかり言うんだからさあ」
お母さんが笑って静寂を破り、興味深いわね、と玲子ちゃんがうなずいた。
「たいていの人は、明るく聡明な世界に行くから心配ないよ」
「たいていの人以外ってのは?」
と、智親が聞いた。「闇落ちする人かな」と武蔵が答えると、
「……それって自殺のことだよね? やっぱ自殺って大損じゃん。生きてても死んでも苦しむって、救いがないじゃん」
と、民がぼやいた。
「新学期の朝からヘビーな話題だなあ」
智親がため息をつく。
「むさ兄、ちょっと痩せた? ダイエット成功?」
民の言葉に武蔵はうなずいた。目標体重には届かなかったけれど、夏休みの間に四キロ落とすことができた。バスケをやっているときは、いつでも腹が減ってしかたなかったけど、バスケ部をやめたら自然と食べる量も減っていった。
この夏、武蔵は、よし兄に教えてもらった筋トレを封印してヨガをはじめた。YouTubeでお気に入りのインストラクターを見つけ、休み中に集中して身体を動かしたおかげで、多少むずかしいポーズもとれるようになった。筋トレや、バスケ部のトレーニングでは使わなかった筋が伸びて、気持ちよかった。
智親と民が席を立ち、ゆっくりと咀嚼して食べていた武蔵もようやく食べ終わった。
「むさ兄、編み込みバッチリじゃん」
そう言う民は、昨日髪をばっさりと切って、今はもう結べない長さになっている。
「ねえ民、今度、編み物を教えてほしいんだけど」
「アハ、編み込みの次は編み物か。むさ兄、なにか作りたいの? って、やだ、遅刻しちゃう! また帰ってきたらね」
「うん」
智親と民が慌ただしく家を出て行き、武蔵もあとに続いた。自転車はズボンのほうが断然乗りやすい。先を歩いていた智親に追いつき、お先に、と声をかけ、武蔵はぐんぐんとペダルをこいだ。
「おー、A、おはよう。一ヶ月以上会えなくてさみしかったぞ」
下駄箱で会ったSが、武蔵を見つけて笑顔を見せる。
「髪、かわいいじゃん」
「うん、編み込みできるようになったんだ」
武蔵はSと話しながら、一緒に三階のクラスへ向かった。
「高永、高江州、おはよう! 推しの二人にまた会えてうれしい~」
桜田が歌うように挨拶をして、両手を広げて近づいてきた。武蔵はとっさにうしろに飛びのき、桜田のハグを回避した。まんまと捕まったSが、ハグされながら「ガッデム!」と叫ぶ。
Sこと、高江州太郎は、入学後の出席番号が武蔵のうしろだったことがきっかけで話すようになり、一学期中はほぼ一緒だった。つるんでいたというより、一方的に高江州に気に入られた。
「おれ、高江州。きみ、高永。高江州のSと高永のA。SとAだね。高永くんのこと、Aって呼んでいい? おれのことはSって呼んでほしい。どう? よくない?」
いいよ、と武蔵は答えた。どんな呼び方でも呼ばれ方でもかまわなかった。以降、学校で武蔵のことをAと呼ぶのは高江州だけだし、高江州のことをSと呼ぶのも武蔵だけだが、それはそれでいい。
そして、そんな二人の間に入ってきたのが、桜田ひな子だ。
「高江州って高永のことを好きじゃん? わたしはその二人を見てるのが好きなのだ」
「おれ、Aのことは好きだけど、恋愛じゃないよ。わかってる?」
Sが言うと、「そんなことはどっちでもいい」と桜田は答えた。
Sも桜田も明るい。武蔵は二人に付きまとわれるように、もしくは守られるようにして、高校生活を送っている。
武蔵がスカート登校をはじめたのは、五月の半ば。ズボンをはいている女子を見て、だったら自分は、スカートをはいてみようと思い立った。
武蔵が通う公立芳根高校は、県内でも一、二を争う偏差値の高校で、個性的な生徒も多いが、男子のスカート登校は芳根高校創立以来、武蔵がはじめてだった。生徒よりも教師がざわついた。
芳根高校では、校内でなにか問題が起こった場合は、基本、生徒内で解決する仕組みになっており、すぐさま生徒会主導の全校集会が開かれ、男子のスカート選択についての話し合いが設けられた。
女子だけがスカートとズボンの選択ができるのは不公平。LGBTQ+の生徒に配慮。という二つの大きな論拠により、あっさりと男子にも制服選択の自由が与えられた。反対した人は、全校生徒のうち二十八人だった。その二十八人も、男子のスカートに反対というよりは、多少の論争は必要だろうということで意見しただけで、反対意見を長く引きずることはなかった。
そんなわけで、男子もズボンとスカートの選択ができるようになったが、どちらにせよスカート登校する男子生徒は、武蔵一人のままだ。
中学三年のとき、LGBTQ+についての学習があった。レズビアン、ゲイ、バイセクシャル、トランスジェンダー、クイア、クエスチョニング、+はそれらに当てはまらない多様な性だ。
十人に一人は該当するという統計もある。そう考えると、スカート登校をする男子生徒がもっといてもおかしくないと思うけれど、それぞれの考え方や事情があるのだろう。
武蔵は、いわゆる恋愛と呼ばれるような「好き」を経験したことはなく、男も女も関係なく人として接してきただけだったから、恋愛対象として自分が女を好きなのか、男を好きなのか、どちらも好きなのか、どちらも苦手なのか、恋愛できない体質なのかは、まだわからなかった。だからひとまず、恋愛や性的なことは置いといた。
問題は、性別そのものがわからなくなったことだった。武蔵は男として生まれて、当たり前に男の子として育てられ、自分もそういうものだと疑わずにやってきた。
でも、それって正解なのか? 男として育てられたから、男になったのか? まわりが自分のことを男と認識しているから、その環境が自分を男にしたのか? じゃあ、女として育てられていたら、女になっていたのか? 自分はどうして、男として存在しているのか? 女じゃいけないのか? と、ぐるぐる考えるうちに、わからなくなったのだった。
武蔵はその疑問を抱えたまま、高校生になった。部活は、中学と同じくバスケ部に入った。新しい仲間もできたし、たのしく部活動に参加できていたが、徐々にユニフォームに対する嫌悪感が湧いてきた。
薄い生地のノースリーブにゆるい短パン。肌の露出が多すぎた。中学生のときは気にならなかったのに、一度そう思ったら、もうユニフォームを着るのが苦痛でしかなくなった。
武蔵は体毛が濃いこともあり、脇の下や腕や脚の毛が気になった。毛を他人に見られることが耐えられなかった。首より下にある毛は、ものすごく個人的なものだと気が付いた。
シュートを打つときやガードで手をあげるとき、脇の下があらわになるのが恥ずかしく、脇を締めて動いた。なにをやってるんだとコーチに叱られ、武蔵は学校の体操着(半袖とジャージのズボン)を着用して部活動に参加したが、他校との試合のときは許されなかった。毛を処理すれば、気持ちが変わるだろうかと思い、脇や脚や腕の毛を剃ってみた。多少はマシになったが、恥ずかしさや苦痛は残った。
試しに武蔵は、ゴールデンウィークに一人で海に行き、浜辺で海パン姿になってみた。天気の良い暑い日だったので、浜辺にはバーベキューをしたり日光浴をしたり、散歩をしたりと、少なくない人出があり、海パン姿の男性も何人かいた。
武蔵はビニールシートの上で体育座りをして、自分の気持ちを検分してみた。脇の下にも腕にも脚にも毛は生えていたけれど、このときは、毛についての恥ずかしさはなかった。それよりも武蔵は、公衆の面前で堂々と乳首を出していることに、とてつもない羞恥を感じた。
浜辺では毛は許容範囲だが、乳首はNG。バスケをするときの毛はNG。よって、乳首はどんな状況でもNGとなる(全裸になる温泉や共同風呂は、子どもの頃から苦手なので、はなから無理)。
わかったことはそれだけだったが、恥ずかしい感覚は人それぞれだし、シチュエーションにもよるのだなと思った。バスケ部はやめることにした。
ゴールデンウィークが明けて、次に武蔵が試そうと思ったのがスカートだった。制服のリサイクルショップに出向いたら、芳根高校のスカートがあり、その中でたまたまウエストサイズが合うものを見つけることができた。
膝丈だったので、最初はハイソックスで登校したが、スカートをはくなら脱毛をするべきだと思った。武蔵は、生えている毛を人に見られることが嫌なだけで、自分の毛に対する嫌悪感はなかったから、その根拠はなんだろう? と自問したが、そのときはまだ明確な答えは出なかった。自分の気持ちではなく、目にする人たちに配慮したいという、社会通念上の意識からかもしれなかった。
とりあえずスカートをはいて、女の子になってみようと武蔵は決めた。おちんちんはついているけれど、女の子として育てられたら、女の子になっていたかもしれないのだから、それを実践してみたかった。
武蔵は、この世のすべては「意識」だと思っている。自分のことを女の子だと意識すれば、女の子になっていくのかもしれないと本気で思ったのだった。
いざスカートをはいてみると、意識しなくとも、やけにしっくりきた。スカートをはいている自分をとても好きだと思った。自分の身体の凹凸にぴったり合う、心地よいソファを見つけたみたいな気持ちだった。
自分は男より、女のほうが合っていると思った。男性用の服より女性用のほうが好みだったし、ずっと短髪だった髪も長いほうが落ち着いた。ムダ毛も、ないほうがきれいだと思うようになった。一般的に女性をターゲットにしている、かわいいぬいぐるみやマスコットやキャラクターも、男性ターゲットとされるプラモデルやフィギュアよりも断然好みだった。
武蔵は、自分をカブトムシにたとえてみる。自分が生まれてから小学生の期間は、卵の時期。産み落とされたときから、倍くらいの大きさになる。
中学生のときは幼虫期間。一センチほどだった幼虫が二度の脱皮をして、土のなかで越冬し、最終的にはおよそ十倍の大きさになる。その後、三度目の脱皮をして蛹になるのだ。
三度目の脱皮をするまでが、高校に入ってから、昨日の八月三十一日までだったと武蔵は思っている。幼虫から蛹になる時期はとても繊細で、失敗すると蛹化不全や羽化不全になり、成虫になれない。だから夏休み中は、武蔵にとって大事な時期だった。武蔵は、自分によくよく注意を払って過ごしてきた。
そして九月一日の今日。武蔵はついに蛹になった。生まれ変わったといっていい。とはいえ、蛹はとてもデリケートだ。せっかく蛹になったのに、ここで死んでしまうケースも多い。まだまだ細心の注意が必要だ。
「高永、痩せたよね」
「あ、おれも思った。かなり絞ったなあって」
二人に気付いてもらえて、うれしかった。もう少し体重を落としたい。
「ねえ、高永はメイクには興味ないの?」
武蔵の机の前の席に横向きに座って、桜田が聞いた。
「今度試してみようかなと思ってる」
素直に答えた。
「あたしが教えてあげる!」
「おい、ずるいぞ、桜田。抜けがけすんな」
Sが割り込んでくる。
「だって、高江州はメイクなんてわかんないでしょ」
「フンッ、母ちゃんに聞くわい」
「アホか」
なぜ二人が自分を好いていてくれるのか、武蔵には皆目わからない。Sも桜田もいい友達だが、自分には、二人が武蔵を思うほどの好意はないと感じている。
「おれはAの応援団だからな」
とSは言い、
「あたしは、いつでも高永のいちばんの味方」
と桜田が言う。
「脱毛しようと思うんだ」
武蔵がつぶやくと、あたしが行ってるところを紹介するよ! 永久脱毛でしょ! と、かぶせるように桜田に言われた。
「あたしは脇と膝下をやってるんだけど、高永はどこをやりたいの?」
「ぼくは、ぜんぶやりたい。顔と身体」
まずはヒゲをなんとかしたかった。脚の毛も、抜きすぎて肌が荒れてしまっている。
「オッケー。全身だね。全身のほうが割安になるし、紹介割引きもあるからね」
「おれもやろうかなあ。なんか、おれさ、なぜか肩に毛が生えてるんだよね。肩だよ、肩。どう思う? キモいでしょ」
キモくないよ、と武蔵は答え、ノーコメントで、と桜田は答えた。Sと桜田が脱毛について話していると、
「高永、その頭いいじゃん。編み込み? アハッ」
と鈴川が、武蔵の横を通り過ぎていった。鈴川は、このクラスの統治女王だ。スクールカーストのトップで、学年で十位以内に入る偏差値の持ち主でもあり、ついでに顔もスタイルもいい。共感を得られない漫画の主人公みたいに、出来すぎている。
Sと桜田が顔を見合わせて、わざと白目をむく。二人とも、鈴川とは仲良くしたくないらしい。
「脱毛、いくらくらいかかるかな」
「あー、けっこうかかるかもね」
「バイトしようかな」
「いいね。おれもそろそろはじめようかと思ってたとこ。A、一緒にやらない?」
「は? 抜けがけじゃん」
「お互いさま」
と、ここでクラス担任がやって来た。三十代の男性で現国の担当。夏休み前に子どもが生まれたそうだ。好きでも嫌いでもないけれど、ビジネスライクなところが気に入っている。武蔵にとって、害にならない人物だ。
担任の挨拶のあと、始業式のために体育館へ移動した。途中、三年生とすれ違ったとき、ピューッと耳元で口笛を吹かれた。速攻で、うるせえバーカ、と桜田が大きな声で返し、クソがっ、とSが小さな声で毒づいた。
一学年およそ三百二十人。各学年八クラスある。進学率は百パーセントで、国公立大学への進学がいちばん多い。東大、京大には毎年三十五人ほどが合格する。
基礎学力が高いということは知識を多く持っているということで、世界情勢から量子もつれまで幅広く興味を持つ生徒が多いけれど、だからといって、全員が武蔵のような指向を持った人間に理解があるとは限らない。
スカート登校をしたことで、武蔵の名前は学校中に知れ渡った。男子のスカート登校自体は認めるけど、高永武蔵は認めない的な空気はあって、ひやかしで口笛を吹かれたり、すれ違いざまに嫌な言葉を吐かれたりすることもよくある。それは仕方ないことだと、武蔵は思っている。自分と違うものは脅威だ。いつの時代もそれは変わらない。
始業式。体育館に、全校生徒が各学年、クラスごとに整列する。教室にいるときにはわからない、人間の匂いが充満している。香料と汗と頭皮と雄と雌が入り交じった匂い。武蔵は顔を天井に向けて、水中から顔を出すように呼吸をして、つかの間、目を閉じて心を落ち着かせる。
全校生徒、およそ千人。それだけの人間が、今ここにいる偶然と必然を思う。当たり前だけど、一人一人に違う身体と気持ちがあるのだと思うと、そらおそろしくもあり、神秘的にも感じる。
ふいに、自分の意識が自分の身体から抜け出して、頭の上、三十センチくらいに浮遊している図を想像する。頭の先から細いコードのようなものが出て、身体と意識をつなげているみたいな。ここにいるみんなの頭からもコードが出ていて、吹き出しみたいに意識がぷかぷかと浮いているみたいな。架空ながら圧巻の光景に、ふうっと肩の力が抜ける。
こんなところにすし詰めにされて、おかしくならないほうがどうかしている。きっと多くの人もそう思いながら、おかしくならないギリギリのところで、ぼうっと立っているのだろう。
「……ということで、今学期も芳根高校の生徒という意識をしっかり持って、勉学や運動に励んでください」
校長の挨拶が終わり、最後に養護教諭から感染症について話があり、始業式は終了した。
一年生からの退場で、一組から順番に体育館を出て行った。
「ビジュ悪いのに、メンタル強すぎ。きゃはは」
と、二年生の列の横を通ったとき、二年女子が武蔵に聞こえるように言った。
「うっせ、ブス!」
と返したのは、武蔵に張り付いていた桜田だった。
「はあ? なにこの一年! 生意気!」
二年女子がヒートアップしたところで、桜田は武蔵の手を引っ張って走った。
「おい、ちょっと待ってよ。置いていくなよう。なに、なんかあった?」
Sが追いかけてくる。
「二年のクソブスが、高永をひやかしてきやがった」
桜田が憎々しげに吐き出す。
「マジかー。おれの身長があと五センチ高かったらなあ」
武蔵の身長は百七十四センチ、Sの身長は百六十五センチだ。始業式は身長順に並んでいたから、武蔵とSは少し離れていた。一方の桜田は、女子の列で武蔵に近いところにいた。
「むかつく、あのクソブスがっ!」
「言葉遣いエグいぞ」
「高永をおとしめる奴は、あたしが許さん」
「ぼくは気にしてないよ」
と武蔵は言った。イタい奴を見る目で、みんなが自分を見ているのは知っている。よし兄だって、同じような目で武蔵を見る。だから、それはいい。それは気にしない。
武蔵が苦痛に思うのは、自分の容姿が誰かを怖がらせてしまうかもしれないことだ。
(つづく)