「教師って仕事はブラックだぞ、智親。おススメできない職業だ」
おススメもなにも、教師なんて智親がいちばんなりたくない職業だ。
智親は、バイトから帰ってきたところだった。この時間、よし兄は、たいていリビングでノートパソコンをいじってる。
「学校で残業してもぜんぜん終わらないから、こうして家で残りの仕事をやっつけてる。どうだ、エグいだろ? あーっはっは」
「大丈夫? 疲れすぎて頭がおかしくなったんじゃないよね?」
「なに言ってんだよ。鍛えてるから、おれは大丈夫だ」
よし兄の趣味は筋トレだ。
「去年の新任もおととしの新任も、ゴールデンウィーク明けに心を病んで休職したから、おれは偉いってさ」
「どんな職場だよ」
よくやってるよ、と、いつでも顔色のいい兄を見て思う。
「まあ、ちょっと座れよ。智親」
「なに」
お父さんと玲子ちゃんは、近所の居酒屋に飲みに行っていて、お母さんはもう寝ていて、武蔵と民は風呂を済ませて部屋にいるらしい。
智親はカルピスのオーツミルク割りを作って、よし兄の前に座った。八人がけの大きなダイニングテーブル。席は特に決まっておらず、そのときそのときで好きなところに座る。早い者勝ちということでもある。
「よし兄、先にちょっといい?」
「おう、なんだ」
「最近ママに会ってる?」
「ん? 前にママが来たのっていつだっけ? 一月? 正月過ぎた頃だったよな。おれは留守にしてたから会わなかったけど。智親は会ったのか?」
自分の質問がそっくりそのまま返ってきた。
「ううん、おれも留守にしてた。お年玉だけ置いてあった」
と智親は答えて、ママはよし兄には会ってないんだなと思う。ママのことを嫌っているよし兄には、わざわざ会いにいかないのかもしれない。
「で、よし兄の話ってなに?」
智親がたずねると、よし兄は誰もいないのを確認するように周りを見渡してから、
「……武蔵のことだけどさ」
と、口に手を当てて内緒話をするみたいに言った。
「武蔵がどうかした?」
先週の朝のことは、誰にもしゃべってない。帰宅後は普段通りの武蔵だったし、智親の部屋にジンジャーエール辛口のペットボトルが一本置いてあった。智親の好きなやつだ。武蔵なりの気遣いだろう。
「……あいつ、もしかしてLGBTQ+かな」
智親は驚いてよし兄を見た。
「やっぱりそう思うよな?」
と、よし兄がぐいっと顔を突き出す。
「違う違う、おれがびっくりしたのは、よし兄の口からLGBTQ+なんていう言葉が出たことに対してだよ」
よし兄は、そういうことと正反対の側にいる人間だ。いつでも大多数のほうにいる。昔からそうだ。
「おいおい、ばかにするなよ。そういうことを生徒に教えるのがおれの仕事なんだから」
ひゅうう、と智親は思わず口笛を鳴らした。
「該当するような子がいるの?」
「いや、それはわからん。いるかもしれない、ってか、いるんだろうけど、おれにはわからん」
まあ、確かにと思う。自分が性的少数派だったとしても、よし兄には気付かれない自信があるし、よし兄にはまず相談しないだろうと智親は思う。
「生徒じゃなくて、武蔵だよ」
と声をひそめる。
「は? スカートはいてるから? 髪を伸ばしてるから?」
智親はそう聞いてから、自分の声の調子で、自分がイラついていることに気が付いた。
「うん、まあ、そういうあれこれを含めて」
「だったらどうなの?」
「うーん、知ったところでどうもできないけど、こっちの心構えが変わってくるだろ」
自分の心構えのためだけに知りたいってことか、と胸の内で舌打ちしたくなる。
「家族だからって、踏み入っていい領域じゃないと思うけど」
智親が言うと、よし兄は、
「おまえはつめたいなあ。長男として、おれは悲しいよ」
と、涙を拭うふりをする。つめたい? どうしてそうなるのかわからない。そういえば、かの子にもドライだと言われたっけ。
「家族だから、あるがままの武蔵を受け入れたいってことだよ。武蔵に任せたいってこと」
ちょっとだけムキになって、智親は言った。
「あいつは、なにを考えてるかわからないからなあ」
智親の言葉はスルーして、芝居がかった感じでよし兄がつぶやく。
「誰も、自分以外の人がなにを考えてるかなんてわからないと思うけど」
智親が返すと、心無いなあ、と返って来る。
兄弟妹間のなかで、仲がいいのは武蔵と民だ。民は、よし兄とも智親とも仲がいいけど、特に武蔵とは気が合うらしい。
よし兄は、武蔵のことだけは少し遠巻きにしていると智親は感じている。なんでもあけすけなよし兄だけど、武蔵には気を遣っているのがわかる。とびぬけて頭がよくて、ちょっと変わり者の武蔵を、どう扱っていいのかわからないのかもしれない。
逆に、自分に対しては、なんでもありだと思っているふしがある。なにを言ってもいいし、なにを言わなくてもいい的な存在。よし兄にとって、自分はそういう立ち位置にいると智親は感じている。
「なあ、智親からさりげなく聞いてくれよ」
「やだよ」
即座に返す。
「なんだよ。智親はほんっと薄情だよなあ」
智親は、弟の武蔵のことをかわいく誇らしく思ってるし、ものすごく信用している。信用してるんだから、武蔵がなにをしようと自由だ。
「はあーっ、心配じゃないのかよ。思いやりがない男だねえ」
よし兄がため息をつきながら、そんなふうに言う。
よし兄から見ると、上の弟である自分は、つめたくて心無くて薄情で思いやりがない奴らしい。
いらっしゃいませ、と店の入り口に出向いたところで固まった。
「二人ね」
と言ってピースサインを出したのは、ママだった。
「なっ、なん……」
なんで、と言おうとしたところで、ちか兄、と声をかけられた。
「民!?」
遅れて入ってきたのは、妹の民だった。
「どうし……」
「今日は智親に会いにきたわけじゃないから。民に会いたくてさ。ここがいちばん家から近いファミレスだからね」
民に聞こうとしたのに、ママが勝手に答える。智親は小さくため息をついて、二人を席へ案内した。途中、目が合った民が舌を出してきて、智親はまたため息をついた。
「カットステーキセットのお客様」
「わたしー。わあ、おいしそう」
民がうれしそうに言う。
「シーフードドリアになります。お皿がお熱くなっているのでお気を付けください」
そう言ってママの前に皿を置くと、シッシッ、とまたやられた。前はムカついたけど、今日はなぜか少し傷つき、泣くのを我慢していた子ども時代を思い出す。
よし兄は会っていないようだけど、民とママはたまにこうして会っているのかもしれない。武蔵はどうだろう。ママに誘われたら、なにも考えずにいいよ、と言いそうだけど、最近の武蔵はちょっと気むずかしい気配を出しているから、ママどころではないかもしれない。
ママと民はたのしそうに会話を続けている。二人が座っているテーブルを通るたびに笑い声が聞こえる。なにをそんなに話すことがあるんだろうかと智親は思う。同性同士ということをうらやましく感じ、なぜ自分がそんな気持ちにならなければいけないのだと、情けなくなる。
智親は粛々と自分の仕事をこなしていたが、どうやらママは、智親が近くを通るときにわざと大きな声をあげて笑っているようだった。智親に、民との仲のいい様子を見せびらかしたいらしい。
「わたし先に帰るから、あんた、民と一緒に帰ってやってね」
レジで会計をするとき、ママに言われた。
「わかった」
「またね」
渡したレシートをひらひらさせて、ママは店を出て行った。
定時にあがって民に声をかけた。ゲームがいいところだからちょっと待ってて、とスマホに目を向けたまま言われ、つかの間、ママが腰かけていた座席に座る。
「終わったー、お待たせ、ちか兄。帰ろ」
「おう」
店から家までは歩いて十分ほどだ。
「見て。一個だけ星が見える」
民が夜空を見上げる。ちょうど雲間になっているのか、確かに一つだけ星が見える。
「ママに会うこと、お父さんに言ってきた?」
智親がたずねると、民が首を振った。
「めんどくさいから、玲子ちゃんだけに伝えてきた。きっと玲子ちゃんがお父さんにうまく言ってくれると思う。友達の家でご飯食べてくるとかなんとか」
「だな」
ママと会うことをお父さんは反対しないけど、ちょっと無理しているのもわかるから、伝えないほうがいいだろう。玲子ちゃんは本当によくできた人だ。
「民はママとよく会ってるの?」
「ううん、めっちゃひさしぶり。昨日、突然連絡が来たんだ。今日は部活もないし、ヒマだったから」
「そっか」
「ママってさ、勝手な人だけど、結局さみしがりやなんだよね。付き合ってた人と別れたらしいよ」
「そうなんだ」
ママは、しあわせだったら罪悪感で会いに来るし、しあわせじゃなかったらさみしくて会いに来る。
「ママって、ちか兄のことがいちばん好きだよね」
「なにそれ」
「だってママって、わたしと会うとめっちゃ気を遣うもん。わざと明るい口調で話して、大きな声で笑ってさ。無理してるのがわかる」
「そう?」
「ママはさ、よし兄のことは苦手でしょ。っていうか、よし兄に嫌われてるのを知ってるから避けてるじゃん。むさ兄とはもう話すことないと思うし」
「武蔵と話すことないって、どういう意味?」
「むさ兄、高校生じゃん? もうママとは話合わないよ。中学生の頃までは、天真爛漫っていうか天然なところあったけど、今は深刻フェーズに入ってるから、ママなんてどーでもいいはずだよ」
ほうっ、と思わず声が出る。民は本当によく見てる。どれも核心を衝いている。
「その点、ちか兄は正直だもん。だからママも、気負わないで素のままでいられるんだよ」
「そうかあ? 軽く見られてるだけかもな」
「そんなことないって」
でもさ、と民が続ける。
「ちか兄って、ちょっと損してるよね」
「損?」
「人のことに無関心、って感じに見えちゃうんだよね。思いやりがないみたいなさ。本当はいちばんそういうことに敏感なのにね。でも大丈夫。わたしはちゃんとわかってるから」
智親は笑って、妹にサンキューと言った。
梅雨が明けた。例年より少し早い梅雨明けだ。見事な青空から、強烈な日差しが降りそそぐ。今こそ、夏がはじまった合図だと思い、ミセスの『夏と青』をイヤホンで聴く。
智親は髪をばっさりと切った。髪が短くなって日焼けの心配が増したので、智親は満を持して日傘を買った。
「マジか」
朝の通学路、日傘をさして歩いていると、クラスメイトの森下に声をかけられた。
「やっぱ、智親ってすげえよな」
「なにが?」
「坊主頭に日傘」
坊主頭ではないけれど、面倒だからそのままにしておいた。
「日焼けしたくないんだよ」
「うへえ、美肌男子か」
「うん、そう」
智親はとにかく、もう二度と肌荒れで悩みたくなかった。鏡を見るたびに落ち込んだり、手で顔を触るたびに凹凸にがっかりしてテンションが下がったりするのは、もう二度とごめんなのだった。それが原因でマスク焼け地獄に陥って、水すら飲めなかったあの頃には絶対に戻りたくない。
「おれは、逆にめっちゃ日焼けしたい派よ」
森下が堂々と顔を太陽に向けてみせる。
「いいね」
と智親が返すと、森下はハッ、とひと言発したあと、智親を見て「イラつくな」と言った。
「ほんとにそう思ってんのかよ」
と、続ける。
「え、どうい……」
「先に行くわ」
森下はそう言って、智親を追い越して行った。
美術の時間。スマホスタンド制作。今日はいよいよ大詰めの色付けだ。智親はこういう作業が得意で、細かく丁寧に色を塗っていった。ほとんど完璧な仕上がりで、智親自身、大満足だった。絵の具が乾いてからニスを塗って完成となる。
「智親って、なんかずるいよな」
長野が、智親のうまえもんスマホスタンドを見て言う。
「ずるい?」
聞き返すと、ずるいよ、と康太までもが口をそろえる。
「だってなによ、このクオリティ」
色付けした、智親のスマホスタンドをためつすがめつ眺める。
「パッと見、ドラえもんかと思いきや、うまい棒のうまえもんだもんな」
「ほんと、智親っていいよなあ」
長野と康太が交互に顔を見合わせる。
「康太のKISSもめちゃくちゃかっこいいじゃん。長野の般若面もマジ、リアルだし」
心からそう思って、智親は言った。
「いや、そういうんじゃないんだよな。なっ、康太」
「そうそう、わかるわかる。そういうんじゃないんだよ」
「どういうこと?」
智親は純粋な気持ちでたずねた。
「いきなり、坊主頭にしてくるしさ」
「いや、これ、フェードカット」
口を挟んだが、あっさりスルーされた。
「その頭で、堂々と日傘差してるし」
「緊張とかしないし」
「マイペースだし」
「近寄りがたい雰囲気出してるわりに、フランクだし」
「適当なのに、確固たるなにかを持ってる人に見えるし」
「得だよな」
と、康太と長野に交互に言われた。もしかして、おれ、ディスられてる? と心臓がドキドキする。今朝の森下は、あきらかに悪意があった。
「ひょうひょうとしてるんだよな」
長野が言う。
「なんでも許されるみたいなさ」
康太が続ける。
「とにかくずるいんだよ」
と、声をそろえる。
智親は、なんて返せばいいのかわからなかった。声が出ない。
「ん? どうした、智親」
「なんだよ、急に暗いじゃん」
康太に背中を叩かれる。その拍子に、喉につっかえていたものがポンと飛び出して、声が出た。
「もしかしておれ、嫌われてる?」
智親の言葉に、康太と長野が顔を見合わせる。
「なんでよ? そんなことあるわけないだろ」
康太が言う。
「ほめたつもりだったんだけど」
と、長野が言う。
「うらやましいんだよ、智親が」
「そうそう、うらやましい。智親みたいに生きれたらいいなあって思う」
「気を悪くしたら、ごめんな」
二人ににこやかに言われて、智親は、そうなの? と返した。
「そうだよ」
とうなずかれ、智親はとりあえず胸をなでおろした。
今日はバイトの入りが早いので、智親は終業のチャイムとともに学校を出た。日傘を差して足早に歩いていると、うしろから誰かがかけてくる足音が聞こえた。
かの子だった。
「悪い。おれ、ちょっと急いでる。バイトなんだ」
「わたしだって、早く帰りたい」
「おれと一緒にいるとこ見られていいの?」
「うん。そのぐらいはいいかなあって思いはじめた」
かの子は長袖シャツを着ている。リスカの痕は隠されている。
「なんか、おれに用事?」
「なんもないよ」
かの子は、智親の早足に必死でついて来る。そのうちに駅に着いた。
「じゃあな」
二人はホームの反対側だ。
「ねえ、智親」
「ん?」
「九月一日って、自殺者がいちばん多い日なんだって。知ってた?」
「知らなかった」
智親はそう返して、手を振った。今来た電車に乗りたい。
「じゃあね。バイバイ、智親」
かの子の大きな声を背中で聞きながら、智親は電車に乗り込んだ。
車内は空いていたけれど、智親は扉の前に立って、流れていく景色を眺めた。
「ちか兄って、ちょっと損してるよね」
民に言われた言葉を思い出す。さっき康太には「得だよな」と言われたが、そういうところが損してるかもしれないと思う。こんなに生きづらいのに、長野には「智親みたいに生きれたらいいなあ」と言われた。
自分が思っている自分と、他人から見える自分はかなり違う。自分のことを本当にわかってくれる人が、はたしてこの世にいるのだろうかと、そんなことをつい考えてしまう。
智親はスマホを取り出して、LINEでかの子の名前を出した。
──9月1日とか関係ないから。死んだら絶交な。
と送った。かの子からはすぐに返信が届いた。
──わたしが死ぬとでも思ったの? 死ぬわけないじゃん! 笑える!
──てかさ、これまでずっと耐えてきてあとたった半年なのに、死ぬわけないよ!
──そもそも死んだら、絶交もなにもないし!
三つ連続で届いて、そのあとは猫が爆笑しているスタンプが届いた。
──9月1日、学校が終わったら、そのまま新大久保に直行な。約束!
──制服で?
──もち。てか、朝も一緒に行こう。9月1日の朝、駅で待ってるから。
しばらくしてから、わかった、と返ってきた。
最寄り駅に着いた。西に傾きはじめた夏のはじまりの太陽が、アスファルトを郷愁じみた色合いにさせる。
「映画じゃない 主役は誰だ 映画じゃない 僕らの番だ」
『夏と青』を口ずさみながら、智親は日傘を差してバイト先へ急いだ。
(つづく)