北極星ポラリスの道しるべ

 

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 由埜は記憶を失ってなどいなかったのではないかと、わたしは推測していた。高岡に嘘を吐いていた引け目があって、覚えていないていでうやむやにしようとしたのではないか。
「七星は、何でもお見通しだね」
 由埜のほろ苦い笑みに、少し驚いた。今は、そんな風な笑い方もするのか。謎を解くスリルや快感からではなく、苦笑と慈愛の間のような、謎に巻き込まれた誰かを慮るような表情。
 だったらなおさら、あのメールの意味を知りたいと思った。
「そうでもないよ。これ、まだ教えてもらってない」
 スマートフォンの画面を由埜に向ける。十年ぶりに由埜がわたしを呼び出そうと送ってきたあのメールの、最後の一文。
 ──メラクとドゥベを見つけたよ。
「ああ」
 由埜は意外そうに目を瞬かせた。
「それ、見てくれてたんだ。返事がなかったから、届かなかったのかもって思ってた」
「それに関しては本当にごめん。迷惑メールに埋もれて、見逃してて」
「なあんだ」
 由埜は怒るでもなく、のんびりと言った。この奇妙な呑気さは懐かしかった。
「で、どういう意味だったの? メラクとドゥベを見つけたって」
「うん」
 由埜は立ち止まった。ちょうど、管理事務所の前まで戻ってきて、事務所の外に簡素なテーブルセットが置かれていた。
「座る? そんなに長い話じゃないけど」
「じゃあ、うん」
 霊園から駅までは、下りとはいえそれなりに距離がある。話に集中するなら、腰を据えたほうがよさそうだった。
 かろうじて建物のひさしの日陰になったプラスチックの椅子に腰を下ろした。軽く汗ばむほどによく晴れた陽気の中では気休めのようなものだが、それでも少しほっとする。
「懐かしいね」
 由埜は目を細めて笑う。多分、同じことを考えていた。
 あの頃、由埜とはよく外で話をした。初めて謎を解き明かされたのは、今日のようによく晴れて暖かい春の日の、学校の屋上だった。
「宗像一の日記に、七星のお母さんがお話を書いていることも出てきたの。詳しい内容までは知らなかったみたいだけど」
 由埜はおもむろに話し始めた。
「七星のお母さんにとって、昔から北斗七星は特別だった。父親について思い出せる唯一の記憶だったから。子どもの頃から、北斗七星をベースにしたおとぎ話を書きたい気持ちはずっとあって、結婚前に宗像と交際していた頃から話していたみたい」
「そっか。知らなかったな。家ではそんなこと、一言も言わなかった」
 現実的な性格の父には言えないまま、育児や祖母の介護に追われて忙しくなっていったのか、それとも、あえて手放したのかもしれない。
 けれどその気持ちは完全に失われたわけではなくて、ある日蘇った。おそらくは、何かのきっかけで偶然宗像と再会し、恋人に物語を聞かせていた昔の日々を思い出した時に。
 ふと、足を止めてしまったのだろう。本当にこれでよかったんだろうか。別の道もあったんじゃないだろうか、と。
「それで母は、おとぎ話を書き始めたんだね。自分の人生を振り返りながら」
 『雪の里の双子星』──もし、十代の頃に一人親の母親を置いていく痛みに耐えて自立していたら。
 『蛇の娘と時計塔の男』──もし、若い頃に恋の情熱のままに突っ走っていたら。
 『親愛なる王へ 哀れな道化より』──もし、もっと心の通う結婚生活を築くことができていたら。
 『鬼神王の戦女神』──もし、世間体よりも家族よりも自分の気持ちを貫いたなら。
「でも、途中で物語の向かう先が変わった。七星が、これを書いたことで」
 由埜は膝の上に置いていた鞄から、紙袋を取り出して、テーブルに置いた。
 中を覗き込むと、「星座ものがたり」が入っていた。
「これ」
 手に取って、ページをると、あの紙片も挟まったままになっていた。
「勝手に持ってきたんじゃないからね。示談の交渉が終わった後に、向こうからくれたの。本来の持ち主に返してくださいって」
 きまり悪そうに、早口で由埜が言う。
 そうか、高岡浩貴が。これに託していた彼の物語は、もう終わったのかもしれない。
「それを見てから書かれた唯一のお話が、『砂の国の女王が死んだ』。あれだけは、違う色の紙に書かれていたよね。それは、自分のためじゃなくて、七星のために書かれた最初で最後の物語だったからだと思う」
「……そうか。そうだったね」
 物語を通じて否応なしに母の人生に直面する中で、忘れかけていた。
 由埜が初めて解き明かしてくれたあの物語は、わたしに向けて書かれたものだった。わたしに男の子のような振る舞いを望んで育ててきたことから解放するような、ベネトナシュという星が自由になる物語。同時に、母がこれまでの人生で女として背負ってきた負の感情を打ち明けた物語でもあった。希望と恨み──二面性のある複雑な物語にしたのは、どちらも母の本音だったからなのだろう。
 そこで、ふと気付く。
「でもあれが最後の物語なら、メラクとドゥベのお話は?」
 母が遺した物語は五つだ。メラクとドゥベの物語は、どうなったのか。
 由埜は、すっと神妙な表情を浮かべた。
「初めに言っておくと、これはあくまで私がそう思ったってことで、七星のお母さんの意図とは違うかもしれない。亡くなった人の心の真実は、わからないから」
 それは、わたしが由埜に決別を告げた時の言葉だった。
 由埜は慎重な口調で続けた。
「その上で、物語は作者の思惑を超えて転がっていくことがあると、多くの作家が語っている。あの物語もそうなんじゃないかって、私は思ってる」
「……だから、持って来いって言ったの?」
 背中と背もたれの間に置いていたトートバッグから、クリアファイルを取り出した。中身は十年も前にコピーされた紙束で、さすがにくたびれてところどころ文字がかすんでいるが、読むのに支障はない。
『砂の国の女王が死んだ』。今日、持ってきてほしいとあらかじめ由埜に言われていたから、何かあるんだろうとは思っていたけれど。
 テーブルに物語の束を置いて、ぱらぱらとページをめくっていく。
「昨日、久しぶりに読み返したけど……やっぱり、メラクもドゥベも出てこないよ」
「うん、星の名前そのものは出てこないの」
 由埜の指が、横からすっと割って入ってきて、開いたのは最後のページだった。
「この、シーン」

***

 強い風が、砂漠の乾いた砂を舞い上がらせ、老婆のしわくちゃの顔を打ちました。
 遠く地平線の向こうに、もやのような塊が見えています。砂嵐が近づいているのです。
 老婆は振り返り、王宮から密かに連れ出した同行者の様子をうかがいました。人目を避けるため、大ぶりのマントで顔と体をすっぽりと覆っていても、薄く頼りない体つきを隠しきれていません。
「ベネトナシュ」
 老婆の声は、勢いを増した風にかき消されてしまいました。
 ベネトナシュ──この国の頂点に君臨する気高き血筋の貴種は、口に入った砂に苦戦しているようです。無理もありません。生まれてこの方、砂嵐どころかそよ風にも当たらぬように、大事に育てられてきたのですから。ごてごてとした飾りをすべて外した柔らかな薄衣は風になぶられ、乱れた黒髪は被り物から半分ほどはみだしています。それでも、滑らかな肌を痛めつける砂に怯まず、満月の瞳で前を見据え、しっかりとした足取りで老婆の後をついてきています。
 老婆は言葉を続けようとしましたが、また砂が吹き付けられたので、口を閉ざしました。
 焦ることはありません。話をする時間は、まだまだあるのです。
 ふたりの前には、砂の大地が果てしなく広がっています。

(ページ終わり)

***

「ここ?」
 ベネトナシュと老婆が、自由を目指して砂漠を渡る場面。物語の重要なシーンではあるが、このページの何処に、メラクとドゥベがあるのだろうか?
 困惑するわたしに、由埜はそっと頷いた。
「この二人は砂漠を旅している。現代ならGPSを頼りにするけど、この世界にそんなものはないよね。昔の砂漠の遊牧民や海の船乗りも同じ。彼らは、星を頼りに進路を決めていた」
「北極星のこと?」
 船乗りが北極星で方角を読むという話は、わたしも聞いたことがある。目印のない広大な海では、動かない北極星だけが頼りになるのだと──それは砂漠も同じか。
「そう。だからベネトナシュと老婆も、きっと北極星を頼りに進んでいった。そして、メラクとドゥベは、北極星に向かう星なの」
 由埜がスマートフォンの画面を見せてくる。星について解説されたウェブサイトだ。
 ──メラクからドゥベに向かって線を伸ばしていくと、ちょうど五倍の距離で北極星にたどり着く。
「ね? まるで、このシーンみたいでしょ? きっとこの二人は、目的地にたどり着いたよ」
 ハッピーエンドを語るように、由埜が優しく言う。
 あまりに果てしない道のりを、ただひとつ確かな星を頼りに進むふたり──二つの星。迷わず進め、と言わんばかりに。
 黙って物語のページを見続けるわたしに何を思ったのか、由埜は「でもね」と慌てて付け加えた。
「これはあくまで私の解釈だから……きっと七星のお母さんは、ちゃんとメラクとドゥベの物語を書くつもりだったと思うよ。それに『鬼神王の戦女神』だって途中だったし」
「わたしが破いちゃったからね」
 つい自嘲の笑いが交じったが、由埜は笑わなかった。
「うん。だから、お母さんは戻ってくるつもりだったと思うよ」
「……そっか」
 何故急に由埜が焦ったのか、腑に落ちた。母が物語を書き上げて満足してもう戻ってこないつもりだった、つまりあれはやっぱり心中だったとわたしが考えることを心配したのだ。もう大丈夫なのに。
 物語から視線を上げて、由埜の目を見た。
「ありがとう、由埜」
 母の物語を、由埜が届けてくれた。母の意図と違ったとしても、由埜の優しさが嬉しかった。そういう気持ちを伝えたつもりだった。
 けれど、何故か由埜の瞳は、不安そうに揺らいでいた。意を決したように大きく息を吸って、由埜は言った。
「ごめんね」
 一瞬、意味がわからなかった。
「え……何で?」
「ちゃんと謝ってなかったから、あの時のこと。七星が望まない謎解きをして、傷つけたこと。七星のお母さんの原稿、塗り潰しちゃったこと」
 十年前、わたしが由埜を突き放した原因。わたしの心に穿うがたれた穴。
 その傷痕を、由埜も抱えていたのか。さっきまであんなに自信満々に振る舞っていたのは、もしかして虚勢だったのか。
 大人になったわたしたちが、互いにひっそりと抱えてきた、最後の答え合わせ。
「……うん。あの時は、わたしもごめん」
 口に出して、気付く。
 多分ずっと、わたしもこの一言を、伝えたかった。
 由埜の事件を調べている間ずっと、考えていた。わたしにとって由埜と過ごしたあの一年は何だったんだろうと。
 わたしと由埜の関係は、あの日心に空いた大きな穴の形をしていて、わたしはずっとそれをそのままにし続けていた。でも、空っぽにしなきゃいけない理由なんてなかった。砂で埋めても、水で満たしても、毛布を持ち込んで秘密基地にしてもよかったのだ。
 閃くようにその答えにたどり着いた瞬間、言葉がぽんと口から飛び出した。
「由埜。星、見に行こうか」
「星?」
「北斗七星……おおぐま座は、春の星座でしょ」
 思えば高校生の頃、わたしたちはあんなに一緒にいたのに、一度も一緒に星を見なかった。物語の中の星ばかり追っていた。
 不自由で視野が狭く、無鉄砲で無様な青春だった。悪くなかったけれど、それだけで終わらせなくてもいい。
 物語の結末は変えられなくても、続編を作ることはできる。
「せっかくだから、星が綺麗に見えるところまで遠出しようか。プラネタリウムじゃ、もったいないでしょ」
 スマートフォンで「星 綺麗に見える場所」と検索し、由埜のほうに向けて、物語の上に置く。
 わたしたちは大人になったので。もう、何処にだって自由に行けるのだ。
「……うん。行く」
 由埜は、嬉しそうに笑った。

 

(了)