鬼神王の戦女神

 

最初から読む

 

 わたしに男の子のような服装や振る舞いを求める母に、違和感を覚えることはあった。わだかまりもあった。それでも、大切にされていると信じていたから、言うことを聞いて母を喜ばせようとしてきたのに。
 その思い出を全部、汚された気がした。母自身の手で、言葉で。
 痛みと悲しみは、すぐに怒りに変わった。
 わたしは、赤子の誕生を否定する文章が書かれた箇所を破り取って、その裏側に燃えるような怒りを叩きつけ、クリップで留められた物語の一番上に挟み込んだ。
 その時は復讐のつもりだった。でも今思えば、あれは哀願だったのだと思う。
 わたしが生まれてきたことを否定しないで。こんなのはただの作り事だって、本心じゃないって言って、という。
「母が帰ってくる前に、ファイルをもとの場所に戻して、あとは知らんぷりした。母がいつそれを見たのかは知らない、母も何も言わなかった。いつも通り過ごして、年が明けて、そして母は死んだ」
 葬式のあと、呆然としながら、再びキッチンの棚を開いた。ファイルはまだそこにあって、一番上に置かれた物語は、色の違うルーズリーフに書かれた「砂の国の女王が死んだ」に変わっていた。それは最初にファイルを見つけた時にはなかったもので、その代わりのように、わたしが破り取った欠片はなくなっていた。
 これが、母の答えなのだと思った。遺された物語と──母自身の死が。
 お母さんは、わたしに何を伝えたかったんだろう?
 その問いが頭から離れなかった。母の死を知らされた日からずっと──由埜に出会った五月のあの日まで。
「由埜は、『砂の国の女王が死んだ』のお話を読み解いてくれたよね。あれは、母がわたしのために書いた物語なんだって。嬉しかったよ。それは、母がわたしを赦してくれたってことだから──あの時は、そう思えたから」
 わたしは生まれてきてよかったんだと、母に言ってもらえた気がした。
 だから、由埜と一緒にいたいと思った。何故だかわたしを好いてわたしを肯定してくれる由埜の存在は、母からの赦しの象徴で、証拠だった。
 もっともそれは、二つ目の物語を読み解き始めた時から、少しずつ変わっていったけれど。
 母の過去を辿る物語を追いかけるうちに、だんだんとわからなくなっていった。お母さんはやっぱり、今の生活を後悔していたんだろうか? 昔の恋人との手に入らなかった未来を望んでいたんだろうか?
 だって「鬼神王の戦女神」は──わたしに破られた時のまま、遺されていたから。わたしを否定する物語のまま、何一つ変えられずに。
「これがもし本当に、母親が子どもを殺す物語じゃないなら、どうしてお母さんはその結末まで書き終えてくれなかったの。そうしたらわたしは」
「七星」
 由埜がそっと、利き手でわたしの手を取った。その表情から怒りは消えていて、あの寒い夜には温かいと感じた肌が、今日は何故か、ひんやりしているように感じられた。
「大丈夫。ちゃんとわかってるから」
 逆の手に持っていた物語を、わたしに示す。
「七星は、こんなに苦しかったんだって」
 それは、黒っぽい紙切れだった。
 何だろう?
 目を凝らして、それが何だか理解した時、息が止まるかと思った。
 由埜が手にぶら下げているのは、物語の最後のページ──だったもの。
 下から四分の一ほどが破り取られて残ったページの大半が、鉛筆で黒く塗り潰されていた。その下の文字はほとんど読み取れない。
 そしてそこにうっすらと、白い文字が浮かび上がっている。
 『生まれてきてごめんね お母さん 今から消えてあげようか?』
「七星はこれを隠したかったのね。お母さんにぶつけてしまった言葉を」
 その文字を、由埜のほっそりとした指がそっと撫でる。白い指先が灰色に汚れていく。
 子どもの頃に誰でもやったことがあるだろう。筆圧で凹んだ紙を鉛筆で塗り潰して、見えない文字を浮かび上がらせるたわいもない遊び。
 でもこれは、遊びでもいたずらでもない。そんな微笑ましい気持ちじゃなくて。
「そのせいで、お母さんが死んでしまったと思ったから」
 由埜がゆるりと微笑む。何処を見ているかわからない、それでいて何処までも見通すような、大きくて真っ黒な瞳。
「七星はきっと、ものすごく怒ってたのね。だからこんなに強い筆圧で、殴り書きみたいに書いて、お母さんに突き付けた」
 その通りだった。だって、そうせずにはいられなかったから。
 最後のページを途中から破り取って、その裏側に、叩きつけるように書いた思い。その紙片はきっと母が処分したのだろう。誰にも見つからないまま捨て置かれていたその爪痕のかすかな凹凸を、由埜は指先で探り当てて、そして。
 母の最後の物語を、真っ黒に塗り潰した。
「どうして、こんな」
「知りたかったの。だって、私たちは『家族よりももっといいもの』なんだから」
 当たり前のように由埜は言う。
「七星がどうしてお母さんの死にこだわるのか。どうしてこの物語の存在を隠していたのか。どうして、わたしと『約束』してくれる気になったのか。全部知りたかったから」
 黒鉛で汚れた指をすり合わせて、満足げに目を細める。
「原本で読めてよかった。コピーじゃわからなかったもの」
「よかったって、何が? これじゃ、もう」
 母の物語は、鉛筆で書かれていた。こんな風に塗り潰されたら、もう、元には戻らない。
 角ばって右肩下がりの文字。丁寧だけど、いくつかの平仮名だけ強い癖の残った母の手書きの文字が、失われてしまった。
 お母さんがくれたものだったのに。
 お母さんがわたしに何かを書くことは、もうできないのに!
 今のわたしはきっと、ひどい顔をしているのだろう。由埜は不思議そうに、小首を傾げる。
「でも、七星、もういいって言ったじゃない。前に進むって」
「言ったけど、でもこんなこと、許してない!」
 睨みつけると、由埜はようやく不安そうな表情を浮かべた。
「七星、でも、勘違いなんだよ?」
「何が」
 ぴしゃりと言い返すと、由埜は取り繕うように早口で話し始めた。
「七星のお母さんが亡くなった時に乗っていたタクシーの中には、花束があったんだよね。そして車は上り坂の途中で転落した」
 由埜は坂の上── 山頂を指さした。
「上の霊園には、七星のお祖母さんのお墓があるでしょう? 七星のお母さんは、お墓参りに行く途中だったの。そんな道中で、ついでみたいに心中なんて、すると思う?」
 細かいことまでよく知っているものだと、場違いな感想が頭をよぎる。父の書斎で資料を見て覚えたのだろう。
 こんな時でさえ、由埜は優秀で綺麗だった。きらきらと降り注ぐ木漏れ日に照らされて話し続ける姿は、舞台の上の女優のようだ。
「七星はお母さんにひどいことを言った自覚があるから、自分のせいだって思ってるのよね。でも客観的に考えて、警察の判断は妥当だよ。あれは事故、あるいは運転手による無理心中の可能性が高い。七星のお母さんが、家族を捨てて死を選んだわけじゃない」
 初めて会った時からずっと、猫みたいな子だと思っていた。気まぐれでマイペースで、意外と甘えたがりで、懐くとそばを離れなくて。
「だから、七星のせいじゃない。七星は何にも悪くないの」
 だから、しょうがないのかな。
 わかりあえないことは。
「ここにお墓はないよ」
「え?」
 切り捨てる、というのは、多分こういう感覚のことを言うんだろうな。
 命綱を切られたような、無防備な由埜の顔を見て思う。
「ここに、祖母のお墓はないんだよ」
「そんなわけない、だって上にお墓が、墓石にも名前が」
「確かに祖母の家の墓はここにあるけど。祖母の骨はお墓から出して、散骨したから」
 絶句する由埜に、畳みかける。
「祖母は、自分が死んだら散骨してほしいって言ってたんだって。『星が綺麗に見えるところに撒いてほしい』って……ずっと忘れられない恋人が、星の好きな人だったから」
 中学に入ったばかりの頃、母方の家の墓参りに行かないのを不思議に思って尋ねたわたしに、母が教えてくれたことだ。その「星の好きな人」が母の父親なのだろうかとわたしは想像したけれど、それを聞くことはできなかった。
「とはいっても、他の親戚の手前もあるし、母自身も踏ん切りがつかなくて、いったんは生家の墓に納骨したらしいけど……何年か経って、散骨の手続きをしたんだって」
 母は祖母に複雑な感情を抱いていたようだけれど、それでもやっぱり、母一人子一人で生きてきた親子だ。最期の願いは、叶えてあげたかったのだろう。
 家族って、本当に、面倒で複雑だ。
「だから、母がここに墓参りにくるはずがない。相手の男も、この霊園に墓なんてなかった。──さあ、ここで問題です」
 わたしも由埜も、勘違いをしていたんだ。
 由埜の鮮やかな謎解きに魅了されて、このまま物語を解き明かしていけば、自動的にハッピーエンドにたどり着ける気になっていた。
「ふたりは何故、縁もゆかりもない霊園に向かう山道を上っていたのでしょう? 花束は、誰に手向けたものだったのでしょう? 何故、車は転落したのでしょう?」
 由埜に口を開く隙を与えずに、答えを封じる。
「正解は、わからない。永遠に」
 だってこれは、全てのヒントと解決が正しく準備された推理ゲームじゃない。
 遺された物語をいくらこねくり回しても、もっともらしい解答を用意しても。
 死んだ人の本当の心なんて、わかるわけがないんだ。
 それなのに、どうして。
「どうして、放っておいてくれなかったかな。由埜が引っかき回さなきゃ、考えずにいられたのに」
 由埜はどうしていいかわからない様子で、縋るようにわたしを見つめている。
 けれどわたしは、言葉を制御できない。
「母がここで死んだのは、全部わたしのせいなんだってこと」
 はっと、由埜が息を飲む。
「そんなこと」
「母が亡くなったのは、わたしの高校受験の直前だった。受験生の娘を置いて一人で里帰りなんて、家のことを完璧に回していたあのひとが、普段なら絶対にしないことだった。大体里帰りなんて、親戚付き合いもないのに」
 ──お母さん、ちょっと出かけてくるね。夜には帰るから。ごめんね、こんな時期に。
 そう告げたあのひとに、わたしは「そうなんだ」と平然と返事した。
 いつか由埜が言っていた通りだ。わたしたちはあの時、自分たちに都合のよい役回りを演じて、その根っこにあるものを見ないふりをした。
「なりふり構わず男に会いに行くくらい、母は動揺していた。隠していた物語をわたしに見られて、あんなことを書かれて。だから、唯一縋れる相手に会いに行って、それで帰ってこなかった」
 自嘲して笑ったつもりが、唇が震えてうまく笑顔を作れない。
「でも、お母さんが悪いんだって思ってた。あんなお話を書いておいて、反撃されたら自分だけ傷ついたみたいに逃げ出して卑怯だって思ってた。最低でしょ? だってあれが、子どもを殺す話じゃないなら」
 知らなかった。知りたくなかった。
「わたしがお母さんの秘密を暴いて、勝手に勘違いして責めたせいで、お母さんはこの町に逃げ込んで、この場所で死んだってことなんだから」
 心中でも事故でも、どっちでもいい。
 わたしがお母さんを傷つけたせいだってことは、変わらないから。変えられないから。
「だから、この物語のことは忘れたいって、言ったんだよ。だけど由埜は──どうしても、謎を解かずにはいられないんだね」
 一緒に見て見ぬふりを、してほしかったよ。
「七星、でも、でもね」
 由埜は掠れ声で呟いて一歩踏み出し──手に持っていた紙を落とした。
 ばさりと、アスファルトに広がるルーズリーフの束。
 母の最後の言葉が、土と塵で汚される。
「あ、ごめ」
 はっとした由埜がしゃがむよりも早く手を伸ばし、拾い集めた。
「いいよ」
 初めて話した時から、わかっていたはずだった。頭は良いけど何処かずれている、魅力的でミステリアスな同級生。
 そんな距離感でいるべきだったんだ。こんな風に、心の内側を踏み荒らされるくらいなら。
「七星、あの、あのね」
「由埜が悪いんじゃないよ。わたしが、物語の謎を解いてほしいなんて言い出したのが悪かったんだ。だから、もうやめよう」
「やめる、って」
 震える由埜の声を無視して、集めた物語の束を持って立ち上がり、ガードレールに供えられた花束を拾った。由埜が用意したのだろう。お供えにしてはカラフルすぎる花々。
 花束から包装紙を外し、ガードレールの向こう側に放り投げた。ばらばらと散った色とりどりの花が、薄暗い崖下に吸い込まれていく。
「さよなら」
 自分でもびっくりするくらい優しい声が出た。ぞっとするような、薄っぺらな響きだった。
 そうやってわたしは、家族よりも大切になるはずだった存在を、突き放した。

 あの時由埜は、どんな顔をしていたんだっけ。
 高校二年の春だった。わたしたちはまだ子どもだった。自立どころか感情のコントロールもできず、無防備にお互いの気持ちに触れて、傷ついて、八つ当たりした。
 幼稚で、無神経で、考えなしだった。
 それが──高校生のわたしたちが二人で過ごした最後の時間になった。

 さよなら、わたしの戦女神。

 

(つづく)