親愛なる王へ 哀れな道化より

 

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 試すように問いかける由埜の口元が、携帯の刺々しいライトに照らされて、ゆっくりと笑みを形作る。緩やかな弧を描く唇に、喜びと期待がにじんでいる。
 ほんの数秒前までわたしを心配していたことなんてすっかり忘れてしまう、後ずさりができない猫のように、好奇心のままに突き進む、それが由埜だ。
 だけど、今日はいつもとは逆。わたしが謎解きを披露する番だ。
「道化は王様に、『最期に見た月』についてしつこく尋ねるけど、その文章は全部過去形になってる。処刑が行われるのが翌日なら、現在形で尋ねるべきなのに。つまり、王様はすでに処刑されている。それが一つ目のヒント」
 由埜が黙ったまま、視線で先を促してくる。
「あとは、処刑賛歌の『うらぎりもののくびをつれ』も、王様に対する言葉としては違和感があるよね。王様はどっちかっていうと、道化に裏切られた側なんだし。むしろ、主人を売り渡した道化に向けられていると考えたほうがすっきりする。それから、最後」
 すう、と息継ぎをして、畳みかける。
「処刑前の夜、鉄格子の向こうに見える最期の月の様子は、『坊ちゃんとやつがれだけの秘密』──王と道化だけが知っている。つまり、道化も同じ状況で月を見たことがある。それは、道化がこれから処刑されるから」
「……お見事」
 音が鳴らないようにゆっくりとした手つきで、由埜は拍手した。だけど残念ながら、まったくいい気持ちにはなれなかった。
「ばっかみたい」
 吐き捨てた言葉の鋭さに、由埜が目を丸くした。
「七星?」
「こんなの、自己満足でしょ。現実では何もできないから物語の中で父をボコボコにして、だけど自分が浮気してる罪悪感に耐えられなくて、ごめんなさい断罪されるから許してくださいって、そういうこと。勝手にやってろって感じ」
 想像の世界で、自らの手で惨めな境遇に突き落とした父の分身を見下ろして、母はさぞかし優越感に浸ったことだろう。けれど結局現実は何も変わらず、昔の恋人と不貞を働いている自己嫌悪が、惨めな死を迎える結末を描かせた。
 なんてみっともなく、馬鹿馬鹿しい茶番だ。
 母を大切にしなかった父への怒りと失望は変わらない。けれども母だって、心の中で父をそんな風に貶めていたなら、同罪だ。
 そして──母が作り上げた世界に、わたしはいなかった。要らなかった。そのことに思った以上に傷ついている自分が腹立たしい。
 四方八方に向かって感情がこみ上げて、言葉にならなかった。喉をけいれんさせながら、ただ息を吐くしかないわたしに、由埜は静かに言った。
「でもね、七星。お母さんは、お父さんをただ貶めたかったわけじゃないと思う」
 視線で疑問を投げかけると、由埜は大きな目をゆったりと細めて笑う。
「解くべき謎は、もう一つ残っているの」
 そう言って、由埜は物語のページを開いてみせた。
「七星の言う通り、王だけではなく道化も処刑されることが、一つ目の隠された秘密。その謎を解くヒントの一つが、『最期の月』というキーワードだよね。ところでこの物語はいくつかのパラグラフに分かれているわけだけど、最後の一文を除いて、すべてが『最期の月』という言葉を含む文章で締められている」
 由埜はわたしにページをめくって見せながら、四つの文章をささやき声で読み上げた。
 ──あなたが見た最期の月の、消えゆく光が残す終わりのひとかけらは、どんなものでございやしたか。
 ──坊ちゃんが見た最期の月だってきっと、あなたを哀れみ嘲笑っていたんじゃあございませんか。
 ──最期の月を見た時にでも、もしや思い出していただけましたかな。
 ──処刑前夜の最期の月が、鉄格子の向こうでいったいどんな風に見えたものか、残念ながら、観客の皆々様は知る術もなし。
「しつこいくらいに『最期の月』っていう言葉を強調して、しかも最初の文章には『終わりのひとかけら』なんて不自然な表現が出てくる。じゃあ、次の文章から、それぞれの『最後の文字』を拾ってみると」
 ──か。
 ──な。
 ──し。
「かなし……?」
 思わず口に出てしまった。由埜は満足げに頷いた。
「『かなしい』なら現代文の範疇だけど、『かなし』なら古文の単語で、意味はふたつ。今と同じように悲しい、という用法と──大切にしたい、愛おしい、という用法と」
 そんなの知っている、とは、言えなかった。
 言葉の意味は知っていても、この物語に秘められた意味がわからなかった。
「これは想像だけど」
 ぱたり、と、由埜が物語の紙束を閉じた。
「道化は、王のことがかなしかったのかもしれない。身分も立場も違いすぎて、どちらも望んだ出会いではなかったけれど、分かり合いたいと思うくらいには大切だった。王は自分のことなんて、歯牙にもかけていないとわかっていても」
 それは──母も同じだったということなのか。
 父の無関心に傷つきながら、昔の恋人に心を移しながら、何処かで父と分かり合うことを望んでいたと?
「……こんなの、偶然かもしれない」
「うん」
 自分の推理を否定されても、由埜は反論しなかった。
「だって、都合がよすぎるよ」
 壊れたスピーカーみたいに、声が揺れるのを抑えられない。由埜はまた「うん」と言って、柔らかくそれを受け止めた。
「自分は勝手に、浮気してたくせに」
「うん」
「見合いだか何だか知らないけど、自分で結婚するって決めた癖に、無責任だよ」
「うん」
「わたしは……ここに生まれることを、自分で選べなかったのに」
「そうだね」
 由埜がそっと、わたしにもたれかかってきた。人形みたいにすましている由埜も、触れると温かいのが不思議で、安心した。
「ねえ、七星。家族って、不自由だよね。選べないのに、断ち切れない」
 由埜の声の震えが、直接伝わってくる。
「私は今、祖母と二人で住んでるの。祖父は小さい頃に他界して、両親は私が小学生の時に離婚して、それぞれ再婚した。どっちの家庭にとっても邪魔者だから、わたしはここにいる。祖母にとっても、望まないお荷物なのは変わらないけど」
 教科書でも読み上げるみたいに、由埜は淡々と言う。
「育児放棄されているわけじゃない。この部屋の家具は両親が買ってくれたものだし、進学だって好きにしていいって言われてる。親としての最低限の責任は果たしてくれてるの」
 でもね、と、由埜は繋いだ手に力をこめる。
「それは、私があの人たちにとって『都合がよい』時だけ」
 いつだったか、由埜は言っていた──ひとは、自分に都合のよい物語を選ぶものだと。
 由埜は物憂げに、部屋に視線を向けた。
「七星、さっき聞いたよね。ここが私の部屋? って」
「うん」
 聞かずにはいられなかった。ピンク色の子どもっぽいカーテンも、プリンセス風ベッドも、いかにも女の子向けデザインの学習机も、今の由埜には幼すぎるし、何より普段の由埜のイメージと食い違っていたから。
「気付いてくれて、嬉しかった」
 由埜はほんのりと笑みを浮かべた。
「このベッドも、あの机もカーテンも、全然私の趣味じゃない。あの人たちは、カタログで一番人気の商品を注文して、子どもに尽くす自分にご満悦なの。祖母は祖母で、安くて用が足りるものなら何でもいいと思ってる。二言目には『そんなことに金をかけるなんてもったいない』って」
 だからね、と、由埜はのんびりとしてさえいる口調で続けた。
「私はずっと、家族ってノルマなんだと思ってた」
「ノルマ?」
「親は子どもが独り立ちするまで面倒を見る。子どもは親に迷惑をかけないように成長する。お互いにとって都合のよい役割を演じ合うことで、平穏な家庭が出来上がるんだって」
「そんなこと」
 ないよ、とは言えなかった。
 由埜は、わたしが否定できないことをわかっていたみたいに、うっすらと笑った。
「だってその証拠に、わたしが滑り止めの高校にしか受からなくても、誰も何も言わなかったもの」
 由埜は中学受験の模試で、全国トップ10の常連だったらしい。その秀才が、中堅程度のうちの高校に入学したことは、学園七不思議と冗談でいわれるくらいには謎とされていた。
 そうか。由埜は、わざと失敗したんだ。そうやって親の愛情を試すような幼さが、由埜にもあった。
 そして由埜は勝負に敗れ、両親は入学式に姿を見せず。
「でも、おかげで、七星に会えた」
 由埜は本物の猫みたいに、暗闇でいっそう瞳を大きくさせて、ひたむきに言った。
「入学式って、家族ごっこの晴れ舞台だと思わない? もちろん純粋に喜んでいる家庭もあるだろうけれど、本当はこんな高校に行きたくないとか、もっといい学校に入った元同級生と比べて恥ずかしいとか思ってる親子だっているよね」
 そして容赦なく、建前に爪を立てて引き剥がしていく。
「でもそういうネガティブな気持ちはなかったことにされて、お祝い事のていでみんな笑って、写真撮って、おめでとうなんて言い合って」
 毒を吐いているのに、由埜のうっとりとした声は、歌のように耳に心地よい。
「その中をひとりですいすい進んでいく七星は、一目で私の憧れのお星さまになったの」
 保護者の同伴が指示されていた入学式に、ひとりきりで参加したわたしと由埜。
 わたしは中学浪人したことで勝手に疎外感を覚えていて、自分がひとりであることに何の感情も抱いていなかった──卑屈になっていたともいえる。だから由埜に憧れられる要素なんて、本当は何ひとつないのに。
 こんな風に由埜に見つめられたら、そんなこと、とても言い出せない。
「七星も、私を選んでくれた。カレシとも別れたし、今日だって一番に私に連絡してくれた」
 由埜の言葉を、否定もできない。初めに踏み込んできたのは由埜でも、引きずり込んだのはわたしだという自覚がある。
「だから、七星。私たちは、選べない家族なんかより、もっといいものになれると思う」
 そう言って目を輝かせている由埜は、かわいそうなくらい、無邪気な期待に満ちている。
 由埜のいう「いいもの」──例えば、友達、同類、共犯者。家族という絶対的な繋がりに比べたら、脆くて、頼りないものばかり。
 でも、わたしだって──母の遺した物語を読み解き共有する相手に、家族である父ではなく由埜を選んだ。
 わたしたちに必要なのは、家族よりも、きっと。
「ねえ、由埜。母が遺したお話は、これで終わりなんだ」
 おもむろに切り出したわたしに、由埜は不思議そうに、それでも従順に「うん」と頷いた。
「だからもう、悩むのはやめる。心中でも事故でも、どっちでもいい。わたしは前に進むよ」
 わたしはすぐ隣にあった由埜の小指に、自分の小指を絡めた。
「約束。わたしたちは、家族よりももっといいものになる」
 由埜はぱっと表情を明るくした。
「うん、なる」
 きゅっと小指同士が絡み合って、わたしたちの約束を形作る。
 寒さはもう、感じなかった。

 ──それがあんなにもあっさりと崩れてしまうなんて、この時はまだ、知る由もなかったのだ。
 嘘なんて、吐くもんじゃないことも。

 

(つづく)