親愛なる王へ 哀れな道化より
何処かぼんやりとした表情。感情が抜け落ちて、考え事に集中しているからだろう。今の由埜は道化と王の物語で頭がいっぱいで、それがわたしの両親をモチーフとしていることには気づいていても、謎を解くための情報としか認識していないに違いない。
由埜は潜めた声で問いかけてきた。
「七星。これは、私に読ませてくれた四つ目のお話だよね」
「うん」
わたしもささやき声で返事をする。
「見せてくれた順番は、書かれたのと同じ?」
「……わからない。日付が入っていないから」
母が遺した物語は、ファイルケースの中に積み重ねて収納されていた。それを上から順に由埜に見せているのだと説明すると、由埜はふうんと息を漏らした。
「つまり、七星のお母さんが指定した順番ということだよね」
「指定、って言っていいのかな……。読ませるつもりがあったかどうかも、わからないけど」
わたしの返事には、どうしても後ろめたさがつきまとう。だってこのお話たちは、母のテリトリーだった台所の棚の奥に、ひっそりと隠されていたのだから。
しかし、七星はきっぱりとした声で、わたしの迷いを切り捨てる。
「ひとに見せるつもりがあったかどうかは関係ないの。七星のお母さんの中で、この順番で繋がっていたということが大事」
「……何の順番?」
「物語のモチーフである、七星のお母さんの人生。多分だけど」
由埜にしては珍しく、歯切れの悪い返答だった。自分でも据わりが悪いのだろう、わたしの返事を待たずに、ひとり言のように喋り続ける。
「二つ目のお話の『雪の里の双子星』は高校生の時のエピソード、次の『蛇の娘と時計塔の男』は結婚前の恋愛、そしてこのお話は結婚生活の話と考えられるから、七星のお母さんが物語を通じて自分の人生を振り返っているっていう仮説が立てられるんだけど」
由埜の早口が、少しだけ緩む。
「最初の『砂の国の女王が死んだ』だけ、その法則に当てはまらないの。あのお話だけは書かれている紙も違ったし、プロローグ的な扱いなのかな」
「よく覚えてるね」
他の物語は白地に青の罫線のルーズリーフに書かれていたけれど、「砂の国の女王が死んだ」だけは、黄色っぽい紙に書かれていた。それも謎を解く手がかりにはなったが、その選択に込められた母の本当の意図はわからないままだ。
由埜は物語の順番がよほど気になるらしく、ぶつぶつと呟き続けている。
「このお話に出てくる『アリオト』も今までも同じように、北斗七星を構成する星のひとつ。物語の登場人物につけられている星の名前と、実際の北斗七星の星の並びを比較してみたけど、ばらばらで関連はなさそうなの。書いた順番とは一致するのかもしれないし、あるいはまったく関係なくて、単に音のイメージを優先させたのかもしれないけど」
「由埜」
呼びかけながら手を伸ばし、由埜の膝の上にある物語を、とん、と指で叩いた。由埜の気を引くように。
「それで、この物語は、どうだった?」
考え事に熱中している由埜には悪いけれど、わたしは早く、この物語の話をしたいのだ。王を裏切った道化の物語について。
無理やり思考を引き戻された由埜は怒るでもなく、静かに「ううん」と唸った。
「……これは、七星のお父さんとお母さんの話、なんだよね?」
「それと、間男のね」
わたしの合いの手に、由埜はきょとんとした。
わたしがそこまで気付いていると思っていなかったのか、それともまさか、間男という言葉を知らないのか。
「間男っていうのは、つまり」
念のために説明しようとしたが、もちろんその必要はなく、由埜が後を引き取った。
「道化が、主人を売り渡した革命軍のこと?」
「そう」
奴隷商人によって売り渡された哀れな道化は、見合いで望まぬ結婚をした母の分身。
道化の主人となった冷徹で無情で無関心な王は、わたしが目にした父の姿そのもの。
現実と違うのは、革命軍と通じた道化が主人を裏切り、処刑台に送り込んだこと。
「実際には、母は父と離婚しなかったし、妻としてうまくやっていたと思うよ。でも、心の中では、こうしてやりたいって思ってたのかもしれない」
「お父さんを裏切って、離婚したいって?」
「うん。でもね」
おかしくもないのに、何故か笑い出しそうになってしまう。
「浮気は、してたよ。うちのお母さん」
由埜は、しばらくわたしの顔をじっと見た。それから物語の紙束に視線を移し、けれども目の前の文字ではなく、記憶を辿っているように遠い目をして。
沈黙は、三十秒も続かなかった。由埜が確信を持って呟いたからだ。
「……相手は、別れさせられた恋人?」
ぴたりと当てられた正解に、今度こそわたしは声を出して笑った。
「当たり! さすがだね、由埜」
暗がりに、笑い声が虚しく転がった。
ひとつ前に由埜に見せた「蛇の娘と時計塔の男」は、母が父と結婚する前に交際していた元恋人との物語だった。ふたりは祖母によって無理やり別れさせられ、母は父と結婚した。しかし物語には続きがあった──時計塔の男が舞い戻ってきて、蛇の娘を支配していた魔女を打ち倒すという結末が。
現実でも、その男は再び母の前に現れたのだ。
「電話を、取っちゃったんだよね」
我ながら脈絡のない一言を、由埜は黙って聞いていた。
母が亡くなる半年ほど前のことだった。私は風邪をひいて高熱を出し、一晩中母が看病してくれた。朝になり熱は下がったが、学校を休み、ベッドの中でうつらうつらしていた。
その時、枕元の携帯電話が鳴った。三回、四回、五回。なかなか鳴りやまないコール音に苛立って、わたしはぼうっとする頭のまま、手を伸ばして電話を取った。
「はい」
電話の向こうで、低い男の声が答えた。
「妙ちゃん?」
熱の余韻が残っていたわたしは、すぐに反応できなかった。妙ちゃん、とは誰だろう。
いったん電話を耳から離して、通話相手の登録名を見る。知らない名前だった。
誰?
その間も、男は矢継ぎ早に喋り続けた。
「ごめん、何度も電話して。でも電話に出ないし、メールも返事がないから心配で。……妙ちゃん?」
そこでようやく、頭が働いた。妙ちゃん、つまり、母の妙子のことだと。
「……母に何か用ですか?」
返事をした瞬間、受話器の向こうで息を呑む気配がして、電話が切れた。
ぽかんとして手の中の携帯電話を見つめていると、ばたばたっと足音がして、母が部屋に駆け込んできた。わたしが携帯電話を握りしめているのを見て、母の顔は明らかに強張った。
母は足早に歩み寄ってきて、携帯を取り上げ、優しく言った。
「……ごめんね、携帯、置き忘れちゃってて。誰かから電話あった?」
「うん。でももう切れた」
わたしはふわふわと答えて、ベッドに戻った。母の返事は、覚えていない。
起きたことの意味に気付いたのは、翌日になってからだ。
本来なら家族が出払っている平日の昼に電話をかけてきて、母を親しげに「妙ちゃん」と呼んだあの男性は、誰だったのか。何故、母はあんなに慌てていたのか。何故後ろめたそうに、手の中に携帯電話を握り込んでいたのか。
母は──あの男と浮気しているのではないか、と。
「疑ったけど、証拠もないし、それに正直、知りたくなかった。だから両親には何も言わなかったし、母も何も説明してくれなかった」
わたしの説明にじっと耳を傾けていた由埜が、「でも」と言葉を挟んだ。
「それだけじゃ、浮気とは断定できないと思う。ただ友人と連絡を取り合っていただけかも」
「わたしもそう思ってたよ。母が亡くなるまでは」
母は出身地の町に里帰りして、タクシーの事故で亡くなった。峠道でカーブを曲がり切れずに転落し、乗っていた母と運転手はふたりとも助からなかった。
「その運転手の名前はね、あの日、母の携帯電話に表示されていた名前と同じだった」
由埜がはっとして口を開こうとするのを先回りして、わたしは続けた。
「それに、葬式で親戚が噂してた。あの運転手は、母が二十年前に別れさせられた恋人だったらしいって。だから、本当に事故かどうか、怪しいって……心中だったんじゃないかって」
声が震えてしまったのが情けなかった。
「その人、変わり者だったらしくてね。頭は良くて、いい大学の院に行ったらしいんだけど、途中で退学して、働くわけでもなくふらふらしてて、地元ではあんまりよく思われてなかったみたいで──それもあって、母は無理やり別れさせられたんだろうけど」
そんなこと、知りたくもなかった。母の心も命も持っていった男のことなんて。でも否応なしに聞こえてくる噂話に、耳を塞ぐのではなくそばだててしまう自分が嫌だった。
道化は王を捨てて革命軍のもとに走り、母は──。
「でも、これが書かれたのは、七星のお母さんの事故の前だよ。これは、ただのお話」
由埜の説いて聞かせるような口調に、言い返す。
「わかってる。だから、死ぬのは王と道化なんだ。現実とは違って」
わずかに目を見開いた由埜に、笑いかける。
「わたしだって、ちょっとは謎解きできるようになったんだよ。このお話では、翌日に『アリオト様』──王様の処刑が行われるように書かれているけど、それはミスリード。処刑されるのは、道化の『アリオト様』なんでしょ」
「……どうして、そう思うの?」