親愛なる王へ 哀れな道化より

 

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 呆然とするわたしの横で、父は平然と答えた。
「考えます」
 祖母は「そうなさい」とそっけなく言い、祖父は株価の話を再開した。
 それきり、誰も母の話をしなかった──思い出話の一つどころか、名前を口にすることさえなかった。そのまま三十分ほどで会話は尻すぼみになり、新年のあいさつという儀式は終わった。
 帰りの電車の中で、わたしは一言も話さなかった。父の顔を見ることすらできなかった。
 祖父母の言葉や反応よりも、わたしは父が恐ろしかった。
 このひとにとって、母の死は、母の存在は、その程度のものだったのか。「不便だから次をもらえ」などと軽んじられて、怒りも悲しみも見せずに受け流せるくらいに。
 それは、わたしが死んでも同じなんじゃないだろうか。
 母の死は、わたしの心に大きな傷を残した。けれどもしわたしが死んだとして、このひとは、同じように傷ついてわたしを覚えていてくれるだろうか。とてもそうは思えなかった。
 父が家族というものをどう考えているのか、わからなかった。なければないで済ませられる、必要なら調達すればいい──いくらでも替えが利く家具や家電の一種だと思っているようにすら感じた。
 それでもう、耐えられなかった。連れていかれたレストランで味のしない食事を済ませて帰宅し、父が寝室に引っ込むまでじりじりと時間が過ぎるのを耐えてから、由埜に電話して家を飛び出した。
 わたしが死んだら悲しんでくれるひとに、どうしても会いたかった。
「だから、由埜。この物語を読んで。お母さんが遺したものを、わたし以外のひとにも受け取ってほしい」
 忘れないでほしいから。忘れられるのが、怖いから。
 もう一度物語を差し出すと、由埜は今度は断らなかった。そっと紙束を受け取って、膝の上に広げた。
「わかった。じゃあ、七星も一緒に読もう」
「うん」
 由埜は、肩が触れるぎりぎりの距離まで体を寄せてきた。さらりと、長い黒髪がわたしの肩にかかる。しかし、窓の外から差し込む光だけでは、文字を読み取るのは難しかった。
「七星、携帯の画面で、手元を照らしてくれる? 電気をつけて祖母に見つかると、面倒だから」
「わかった」
 トートバッグから携帯を取り出して、ライトの機能をオンにする。突き刺すような光に目を細め、由埜の手元に明かりを向けながら、ぽろりと言葉が零れ落ちた。
「これは、わたしの両親の物語なんだよ」
 最期まで心を通わせることができなかった二人の物語──わたしの父と母の、虚しくて滑稽な物語。


***
「親愛なる王へ 哀れな道化より」

 鉄格子のすき間から見た月はどんなものでござんしたか、坊ちゃん。
 あなたに割り当てられた牢は、王城の北の塔でしたな。冷たくてじめじめした石造りの床からうんと高いところにある窓を見上げると、太い鉄格子にまっぷたつにされた月が見えるでしょう。格子の内から見る月というのは実に気の毒で、完璧にまん丸いお姿も、乱暴に串刺しにされては台無しというもの。右に体を寄せたり左に首を傾げたり、しゃがんだり背伸びしたり、どれだけあがいても、鉄格子に邪魔されずにお月様を拝むことはできやせん。
 かつては立派な玉座に腰掛けて、太陽も月も従えたようなすまし顔で世間を見下ろしていた一国の王のそんな姿を、想像するだけで実にゆかい、ゆかい。けれども、やつがれはわかっておりますよ。坊ちゃんは決してそんな真似はなさらない。冷え冷えとした牢屋で寒さに震えながら、せめてきれいなお月様を見たいなんて、無邪気な想像を抱いたりはしない。
 ええ、本当に、ようくわかっておりますとも。坊ちゃんは初めて出会った頃から、にこりとも笑わない少年でいらしたんですから。
 もう、三十年も前のことになりますな。坊ちゃんの十三歳のお祝いに、父君から贈られたのが道化のやつがれでござんした。
 やつがれは奴隷商人に拾われた孤児で、月どころか太陽も地面も風も雨も、何もかもを格子の向こう側に見続けた売れ残りの商品でしてね。そのうちすっかり育っちまって、ますます買い手がつかなくなった。
 そんな不良品のやつがれを、だまされて押し付けられたのが坊ちゃんの父君だ。お城の広い風呂場でピカピカに磨き上げられ、ごてごてと飾りの多い服を着せられ、終いにゃ首に大きな鈴をぶらさげられたやつがれを、父君は大変お気に召したようでござんした。上機嫌の父君に連れられて、やつがれは坊ちゃんにご挨拶申し上げた。
 坊ちゃんは、やつがれをちらりとご覧になった。道端の石ころを見る時よりも無感動で無関心な目でございましたけれども、とにかくそうして、やつがれは坊ちゃんのものになりやした。
 それからやつがれは四六時中、びらびらとした滑稽な衣装を着て、白塗りの化粧を塗りたくり、坊ちゃんのおそばにはべりましたな。お勉強の時間も武芸の鍛錬中も、わずかな気晴らしに庭園をお散歩される時も、いつだってやつがれは坊ちゃんについて回り、べらべらとつまらぬお喋りをして、何とか坊ちゃんに気に入られようと必死でござんした。
 何しろやつがれには、後がなかった。坊ちゃんに気に入られなきゃ、その場で処刑されても文句は言えやせん。運が良ければ商人に返品されるだけですみましょうが、そうなりゃやつがれはいよいよ肉包丁でさばかれて、豚肉として売り飛ばされたことでしょうや。
 けれども坊ちゃんは、まるでやつがれなど目に入らぬ素振り、笑うどころか視線一つよこしてくださらぬ。父君から厳しく帝王学を叩きこまれて、わずかでもしくじりがあれば鞭で仕置きを受けるような生活では、惨めな奴隷風情に心が動く暇もなかったのでしょうな。
 やつがれは、それはそれは焦りましたよ。家臣やメイドたちからの、嘲笑と同情の視線に、さらに拍車をかけられまして──とうとうやけを起こした。
 覚えておいでですか、雨上がりでむっと湿気の香る庭園の四阿あずまやを。坊ちゃんのいつもの散歩に犬のように付いていったやつがれは、突然タンバリンを叩き鳴らし、大声で卑猥な数え歌をがなりたてた。でたらめに手足を振り回して、あちこち飛び跳ねるやつがれに、坊ちゃんはようやく久方ぶりの視線をくださった──馬の背で跳ねるノミでも見るようなお顔で。
 ああ、懐かしや。やつがれは今でも、あの歌をそらんじることができやすよ。ひとつ、ひとめにつかぬよう、ふたつ、ふらちでふつつかな──いやいや、ひどいもの。
 今や王城のあちこちから聞こえてくるは、わらべの数え歌でなく、革命軍の処刑賛歌。
 うらぎりもののくびをつれ、いやいやざんしゅでさらしくび──で、ございますからね。かつては熱狂的に叫ばれた「アリオト様」の名も、今ではかつのごとく嫌われ吐き捨てられるばかり。
 ねえ、坊ちゃん、国王陛下。
 あなたが見た最期の月の、消えゆく光が残す終わりのひとかけらは、どんなものでございやしたか。

 あの裁判の間、何を考えていたんですか、坊ちゃん。
 あれは盛大な見世物でござんした。かつて坊ちゃんのものであった豪華な玉座の間にぎっしり詰め込まれた、革命軍の上層部と平民の聴衆。その真ん中の冷たい床に、かつての主たる坊ちゃんをひざまずかせ、口枷くちかせと槍で言葉も動きも封じて、あとはもう、言いたい放題、やりたい放題。今じゃ平民だってきれいに口ひげを撫でつけているというのに、坊ちゃんの着せられた囚人服ときたら、ぼろきれのほうがましに思えるような代物でござんした。
 金縁眼鏡の自称裁判官が読み上げるは、もったいぶった言葉とこんがらがった屁理屈で飾られた九十九の罪状。
 何でしたかな、第一の罪は──そう、きようしやと莫大な浪費。法廷に立った宮廷商人は、きらびびやかな宝石や毛皮や希少な珍味がいかに掃いて──あるいは吐いて捨てられるほどに浪費されたかを証言し、宴に招かれた歌い手や踊り子は、醜悪で馬鹿げた余興にうんざりするような金額が費やされていたことを明らかにし、かつて貴族と呼ばれて今は革命軍の要職についた者たちは、舞踏会や晩餐会での破廉恥な見世物や振舞いを、宮廷がいかにきよしよくと見栄と怠惰と腐敗に溺れきっていたかを赤裸々に告白し──ええ、まったく、見事な脚本でございやした。観客は大喜びで、坊ちゃんを口汚く罵り、ごみや糞尿を投げつける。楽しそうで、何より、何より。
 確かに坊ちゃんは、時々びっくりされるようなお金の使い方をされた。例えば、郊外の新しい離宮。外壁はてっぺんから最下段に至るまで、本物の金でピカピカに塗り飾られ、朝日や夕日の光が当たると目を焼かれるようでござんした。見事な離宮の噂を聞いて、誰もが招待にあずかろうと媚びへつらい、次々と坊ちゃんに贈り物をなさった。けれども坊ちゃんは、誰一人としてお招きにならず、自分でも二、三度足を運んだきりで、打ち捨ててしまわれた。
 宴や舞踏会もお好きでしたな。お上品な貴族様たちが煌びやかな夜会服で着飾り踊るその中に、安っぽい道化服に大きな鈴をぶら下げたやつがれを放り込む。やつがれが必死になって、聞いたこともない上品なワルツに合わせて下品な踊りと替え歌を披露すると、皆がこらえきれずに笑い出す。それを、坊ちゃんはにこりともせずに眺めていらした。あるいは外交使節をもてなす宴席の途中にやつがれを呼びつけて、気の利いたお喋りを披露させるのもお気に入りだったようで。異国の使節の皆々様に感心していただく知識と教養を身に付けるために、やつがれはまず字を覚えるところから始めにゃなりませんでした。それでも、坊ちゃんからお褒めの言葉を頂戴したことなど一度もありゃしませんでしたがね。
 そう、やつがれはいつだって、笑われ、試され、見下されてきやした。
 でもね、坊ちゃん。今のやつがれは違いますよ。明日になれば、誰もがやつがれの姿におののき、歓声を上げるはず。
 だってやつがれは、民を苦しめた悪しき王を革命軍に引き渡した、一番の功労者でございますからね。
 坊ちゃんが見た最期の月だってきっと、あなたを哀れみ嘲笑っていたんじゃあございませんか。

 あなたの一番の罪は何だったと思いますか、坊ちゃん。
 あのインチキな裁判で読み上げられた九十九の罪状は、こじつけやでっちあげも多かったけれども、坊ちゃんの治世で国が傾いたのは事実でござんしょう。
 おてんとうさまのご機嫌が悪くって、作物の実りが悪かったのは坊ちゃんのせいではござんせんが、飢える民をそのまま捨て置いたのは失政に他ならない。それでいて、王宮では相変わらず、貴族の皆々様が腹の探り合いのために舞踏会や夜会を開いて、じゃぶじゃぶと湯水のごとく金が使われていくわけで。隣国とは国境を巡って小競り合い、使い捨ての兵士や兵糧や武器の類で財政はますます傾き、海の向こうの島国とは喧嘩別れで断交されて、さらに民の食卓は貧しくなり。
 少しずつ、大地は枯れて、人心は荒んで、外国からの借財は増えるばかり。やつがれは一介の奴隷にすぎやせんでしたが、三十年も坊ちゃんのお傍にいれば、この国が壊れていくのが目に見えるようでござんした。
 けれども坊ちゃんは、何にもなさらなかった。何も変えようとなさらなかった。父君の治世と同じように、民に重税を課し、貴族に遊興を許し、隣国とのつまらぬ戦に金と兵士をつぎ込んだ。見かねて進言した家臣の一族が丸ごと王都から消え、屋敷は不審火で焼け落ちるとあっては、誰も異を唱えなくなりやした。
 それでやつがれはとうとう、自分が坊ちゃんに物申すべきだと思い定めたわけでございやす。
 何も、国のためなどと大それた展望を抱いたわけではござんせん。ただ、この三十年、お妾との間にお子は授かれどもついぞ正式に妻帯されなかった坊ちゃんのお傍に、一番長くいたのはやつがれであると、そういううぬぼれがあったので。きっとやつがれの声ならば、坊ちゃんにも届くだろうと。
 月のきれいな晩でした。やつがれは、一等上等な道化服を着こんで、首の鈴をピカピカに磨き上げて、坊ちゃんの寝室にお邪魔しやしたね。坊ちゃんから呼ばれもしないのに参上したのは、実に二十五年ぶりでござんした。
 坊ちゃんは、執務机で書類を読んでらっしゃった。部屋に入ってきたやつがれを、いぶかしむでもとがめるでもなく、ちらりと視線を遣ったきり、また仕事に戻ってしまわれた。
 やつがれはその背中に、精いっぱいのれ歌を叩きつけた。貴族たちが陰で坊ちゃんをどのように嘲笑っているかを、民が王室をどれほど憎んでいるかを、力を持ち始めた軍の上層部が坊ちゃんをさんざん見くびっていることを──我ながら気の利いた駄洒落と風刺をちりばめて、誰もが口ずさみたくなるようなメロディに乗せて、タンバリンを叩き鳴らし、手足をやみくもに振り回して、大声でがなりたてた。
 そして──沈黙。
 坊ちゃんは一度も、振り返らなかった。歌い終え踊り疲れたやつがれが、息を切らしながらじっと待っても、坊ちゃんは「出て行け」の一言もくださらなかった。まるで、何にも聞こえていないかのように。
 その時でございますよ。
 パリン、と、やつがれの中の何かが、脆く砕けてしまったのは。
 やつがれの声など、この三十年の中で一度たりとも、坊ちゃんに届いたことがなかったのだと思い知ったのは。
 やつがれは、汗で冷えた体を震わせながら失礼し──そのまま、とある貴族のお屋敷に馳せ参じました。今は、革命軍の最高司令官を務めておられるお方のもとに。
 そうして、やつがれは坊ちゃんを裏切った。あの月夜の晩の歌と踊りが、坊ちゃんにお捧げした最後の戯れ歌となりやした。やつがれとしては、最高の出来だったと自負しておるんですがね。
 最期の月を見た時にでも、もしや思い出していただけましたかな。

 ねえ、坊ちゃん。即位式の前の夜を、覚えていらっしゃいますか。
 坊ちゃんは十八歳、成人になられたばかりでござんした。父君が急な病でお隠れになり、唯一の嫡子である坊ちゃんが次期国王の座に就かれた。
 一見何の問題もない即位に見えましたけれども、もちろんそんなはずもなく。確かに先王の息子は坊ちゃんお一人なれど、濃くも薄くも血の繋がった親戚筋には、玉座を欲しがるお歴々がごまんといらした。しかも坊ちゃんの母君は、何処の馬の骨とも知れぬ踊り子で、坊ちゃんを産んですぐに行方知れず。坊ちゃんの出自は後ろ盾になるどころか、後ろ指を指されるばかり。即位したとて安心はできず、しくじればあらぬ罪を着せられて謀略の刃の餌食となる運命が、足元にぽっかりと口を開けて、今か今かと坊ちゃんを待ち受けていやした。
 もっとも坊ちゃんはそんな恐れなど微塵も垣間見せることなく、父王崩御の瞬間でさえ、いつもと変わらぬ氷のような無表情と岩のような落ち着きを保っていらした。
 やつがれは──そんな坊ちゃんが、気の毒でならなかったのですよ。その時はお仕えして五年ばかり、相変わらず坊ちゃんのお気持ちは見えないままなれど、やつがれの主はこのひとであると、ようやく心に定めた頃でございやしたから。
 ですからあの新月の晩に、呼ばれもせぬのに寝室にお邪魔したのです。
 坊ちゃんは、バルコニーから夜を眺めていらした。翌日の即位式のために仕立てられた、特別な晴れ着をお召しになって。星をちりばめたように煌めく深紅のマント、代々受け継がれてきた勲章で埋め尽くされた上衣、ずしりと重い宝玉のベルト、磨き上げられた靴。完成品を身につけた姿に仕立て屋も大臣たちも召使も、皆感嘆の息を漏らしたものでしたな。何とお美しい、何と立派な、何と凜々しく荘厳な。口々に献上される褒め言葉を、坊ちゃんは顔色一つ変えずに聞いていらした。
 そして、夜の闇にひっそりとたたずむ坊ちゃんは、あまりに遠すぎるお星さまのように、さびしく見えたのでございやす。
 やつがれは、用意していたタンバリンをそっと床に置き、首の鈴が鳴らぬように手で押さえつけて、坊ちゃんのお隣に立ちました。明日には国王となるひとと奴隷が肩を並べるなど、不遜ととがめられ処罰されて当然でございましたけれども、やつがれは不思議と怖くなかった。なるようになれと──今思えば、あれは愚かな若さの仕業。
 坊ちゃんは、やつがれをお叱りにはならなかった。
 それで、やつがれは、胸がいっぱいになりました。褒美も名誉も、ただ一言の言葉も必要ない、主のお傍に控えることを許されたことを誇りに、坊ちゃんをお支えしようと誓ったのでございやす。
 ええ──まったく、浅はかでおめでたい勘違い! 結局のところあの夜だって、やつがれの存在など、坊ちゃんの目に留まっていなかったというだけのことなのに!
 それを思い知った二十五年後の月夜の晩に、やつがれは、悔しくて、恥ずかしくて、憎くてたまらなくなりました。これまでいかに笑われようと辱められようと、坊ちゃんのためにと思えばこそ耐え、ねぎらいも労わりもないことこそ信頼の証と信じて、どんな恥辱も甘んじて受けてきたというのに──長年のうぬぼれが一気に憎悪に転じて、やつがれは、革命軍と内通し、王城に軍を招き入れ、坊ちゃんを引き渡したのでござんした。
 やつがれの寝返りは、諸手を挙げて歓迎されやした──裏では、「主を裏切った薄汚いねずみ」と陰口を叩かれやしたがね。革命軍が王城を占拠した後は、名誉指揮総長とかいうわけのわからぬ位を授けられて、貴族の方々から「様」をつけて挨拶されるようになり、歴代の王太子に与えられていた私室まで賜りやした。泥水すすって虫の死骸を食い、犬の仔よりも安値で売られていた惨めな奴隷風情が、まあ何と出世したことか。
 ですから、坊ちゃん。やつがれは、坊ちゃんが裁かれたあの裁判も、一段高い傍聴席から見下ろしていたのですよ。殴られて目元を腫らしていた坊ちゃんには、見えなかったかもしれやせんがね。
 出会ってからの三十年、やつがれの名を呼ぶこともなく、替えの利く靴や剣や、せいぜい馬のようにやつがれを扱ってきたかつての主が、嘲笑と軽蔑の視線にさらされて、ぼろきれを纏った姿で床に這いつくばる姿を見たならば──さぞかし胸がすっとするだろうと思いやしてね。
 坊ちゃんの九十九の罪状がすべて読み上げられるまでの五日間、やつがれは毎日坊ちゃんを見下ろした。そして最後の日に、坊ちゃんの死刑が宣告された。
 革命軍がいっせいに拍手し、聴衆が狂気じみた歓声を上げる中で、やつがれは──立ち上がることもできやせんでした。隣にいる誰かが耳元で、立て、笑え、喝采しろと怒鳴りつけてきやしたが、うるさいと振り払ってしまいやした。
 これで終わりか、こんなものか、と。何だか急に虚しくなって、どっと全身から力が抜けてしまったのでございやす。
 期待をかけすぎるのもよくないものなのですな。何しろやつがれは、これまで生きてきて何かに期待したことなんて一度もなかったものですから、初めて知りやした。
 今はもうすべて、あとのまつり。
 明日はいよいよ、国民が待ちに待った処刑の日。国中から憎悪と嘲笑を向けられた、「アリオト様」の最期の日。
 貴族も庶民も分け隔てなく、断頭台で行われるショーを一目見ようと広場に押し掛け、周りの建物や家の屋根に鈴なりになって、血なまぐさい見世物に心躍らすことでしょうや。
 処刑前夜の最期の月が、鉄格子の向こうでいったいどんな風に見えたものか、残念ながら、観客の皆々様は知る術もなし。

 あとには坊ちゃんとやつがれだけの秘密を残して──さあ、これにて、終幕でございやす。

***

 物語を読み終えた由埜は、最終ページを見つめたまま、じっと考え込んでいる。その横顔を、わたしは眺めている。
 携帯電話のライトは、手元だけではなく由埜の顔も照らし出している。いつもは大きな瞳にばかり気を取られていたけれど、それを囲む白目が透き通って青みを帯びていることを、初めて知った。
 熱心に見つめ過ぎたのか、由埜がふと、こちらに視線を向けた。

 

(つづく)