鬼神王の戦女神

 

最初から読む

 

 唐突な質問に、意表を突かれた。まず最初に聞かれるのは、破られたページのことだと思っていた。
 由埜は気にならないのだろうか? 誰が、何故、物語を中断させたのか。
 返事に迷って黙っていると、由埜はもう一度言った。
「トゥーテオのお腹の子は、どうなったと思う?」
「……そんなの、わかるでしょ。殺されちゃったんだよ」
 西瓜を飲みこんだような腹をしていた妊婦のトゥーテオは、数日後にはすらりと身軽な体で、主に付き従った。
 ──邪魔な腹の中身を、始末して。
 由埜は軽くうつむいて目を伏せている。その表情は、ちょうど木漏れ日の複雑な影に邪魔されて読み取れなかった。不安を取り繕うように、わたしは早口に言った。
「だから、見せたくなかったんだって。どうせ完成していないお話だし、読んでも気分悪いでしょ」
「そんなことないよ。読めてよかった」
 それは、どういう意味?
 尋ねる前に、由埜はふっと視線を上げて、わたしを見た。
 磨き上げられた黒檀こくたんのような瞳に瑞々しい緑が映りこんで見えて、そんな場合でもないのに一瞬、見とれてしまう。
 無防備なわたしに、由埜は容赦ない一撃を浴びせてくる。
「七星は、自分が殺されたと思ったんだね」
 静かだが断定的な物言いに、胸を鋭く貫かれる。反射的に吸った息は、悲鳴のように耳障りな音を立てた。
 聞こえていないはずもないのに、由埜は身じろぎもせずに話し続ける。
「トゥーテオと鬼神王は特別な絆で結ばれていた。だけど政治的な思惑で、トゥーテオは好きでもない男と結婚させられた。これは、今までの物語でも描かれてきた、七星のお母さんの状況だよね」
「……そうだね」
「だから七星は、トゥーテオのお腹の子に自分を重ねたのよね?」
 言葉は問いかけの形をとっていても、由埜の表情には確信があった。そしてそれは確かに、間違いではなかった。
 母と同じ事故で死んだタクシー運転手は、母の昔の恋人だった。母は、学歴は高かったが定職に就かない変わり者の恋人と無理やり別れさせられ、見合いで父と結婚し、わたしを産んだ。その後、元恋人と再会して──おそらくは不貞関係にあった。
 その全てが、母にとって不本意だったのかもしれない。だから物語の中で、違う選択肢を思い描いた。心底愛する男の傍にいることを選び、意に沿わぬ結婚相手とその子どもを切り捨てる生き方を。
 それを見た子どもが、どんな気持ちになるかなんて、想像もしないで。
 無言のまま答えを催促する由埜の視線に負けて、渋々口を開く。
「そうだよ。初めて読んだ時は……しょせん物語だってわかってても、やっぱりショックだった。母親が子どもを殺す物語なんて……お母さんは、わたしを産みたくなかったのかなって」
 慎重に、言葉を選ぶ。
「だから……嘘を吐いたのはごめん。その物語のことは、もう忘れたかったんだ。だから、由埜も、もうこの物語のことは忘れて」
「違うよ、七星」
 割りこんでくる、噛み合わない返事。
「何が?」
「『鬼神王の戦女神』は、子どもを殺す話じゃないよ」
「え?」
 一瞬、理解が追いつかず戸惑った隙に、由埜が話の主導権をさらっていく。
「確かに物語の後半、トゥーテオは『すらりとしたお姿』で鬼神王の隣にいるけど、お腹の子どもを始末したとは明言されていない。それに不思議なのは、鬼神王の行動」
 由埜の目はわたしに向けられているけれど、その焦点は何処かぼんやりとしている。
今の由埜に見えているのは、物語の世界だけだ。
「『血の巡礼』は、トゥーテオが鬼神王の屋敷に辿り着いた嵐の夜に始まった。トゥーテオは、『明日の夜』こそが絶好の機会だと伝えているのに。どうして鬼神王は、虐殺の決行を早めたの?」
 口を挟む隙も与えずに、由埜は自らの問いに答える。
「明日になったら、トゥーテオが腹を裂いて子どもを始末してしまうから。そうさせないために、鬼神王は朝を待たずに襲撃に向かった。忠義の騎士であるトゥーテオも、その意図は察したはず。『二人の信頼の言葉は不要だった』のだから、王の意思に逆らって、子どもを殺すとは思えない」
 これ以上、聞きたくない。
 そう思うのに、由埜を止める言葉がどうしても出てこない。
「じゃあ、トゥーテオの子どもはどうなったのか? ここで気になるのが、語り手の母親──ウェーリ・クロノに関する描写」
 膝の上の物語の束に視線を落とし、由埜は話し続ける。
「この時点ではっきりとは書かれていないけど、いくつか伏線らしいものは張られている。例えば冒頭で、語り手は母親のウェーリと十歳で死別し、母親は『大往生』だったと語られているけど、十歳の子どもの実の母親としては高齢だよね。手記の中でも、当時すでに彼女が老境に差し掛かっていたことが暗示されている。『遠くなった耳』とか、『年々言うことを聞かなくなりつつある足腰』とか。『子宝を授からぬままに夫に先立たれた独り身』だった彼女が、いつの間に母親になったのか」
 沈黙するわたしを置き去りに、由埜の声は熱を帯び、口調は速くなっていく。
「語り手が母親と死別したのが二十年前で、その時語り手は十歳。ということは、生まれたのは三十年前──『血の巡礼』と同じ時期だった。『故郷では産婆の手伝いをしていた』ウェーリなら、人知れずトゥーテオの出産を手助けすることができる」
 物語の結末が塗り替えられていく。圧倒的な──暴力的なほどの勢いで。
「何よりこの物語の語り手の名前は、『メグレズ』。北斗七星の星の名前が与えられているのだから、ただの語り手で終わるはずがない。そう考えると、語り手の正体はひっそりと生き延びたトゥーテオの子どもで、ウェーリに育てられていた、というどんでん返しは、結末にふさわしいと思わない?」
 そこまで言い切って、由埜はようやく息を吐き、満足げにわたしを見た。
「ね、七星。だから、お腹の子どもは殺されていないの」
 解き終わった宿題を、完成させたジグソーパズルを見せびらかしにくる子どものように、胸を張っている。
 だからわたしは、答えなければいけない。
 すごいね、由埜。きっと、その通りだよ、と。
 それなのに、今口を開いたら──そんなわけない、と言ってしまいそうだった。
 だって、もしそれが本当なら、わたしはひどい思い違いをしていたことになってしまう。
 ふつふつと湧き上がる気持ちを、ぐっと抑え込んだ。
 謎を解き明かせば、由埜は満足して興味を失う。物語はわたしの手に戻り、二度と話題には上らない。それこそがわたしの望むところだ。
 だったら、そこにたどり着くまでの最短ルートを選ぶだけ。一時的な不快感を堪えるくらい、なんてことはない。
 それでも由埜の目を見ることは難しくて、足元に視線をそらしてようやく言った。
「すごいね、由埜。きっと、その通り」
 ばんっ、と、地面が鳴った。
 由埜が両足で、ガードレールから着地したのだった。
 ぶらんこから飛び出すように勢いよく、がむしゃらに。フラットシューズだからよかったものの、ヒールだったらきっと捻挫していた。それくらいの勢いだった。
「嘘つき」
 不自然なくらい平坦な声には、聞き覚えがあった。
 乱れた髪の向こうの鋭い目つきに、はっとする。
 由埜は──怒っていた。
「由埜」
「七星はそんなこと思ってない。わたしの謎解きを信じてない」
「そんなこと」
「違うなら違うって言って。そう思わないならちゃんと反論して。適当に聞き流してなかったことにしないで!」
 由埜が張り上げた大声が、木々に囲まれた静寂を切り裂く。
 それは、ひどく下手な怒り方だった。声は震えてひっくり返って聞き取りにくく、怒鳴っているはずなのに今にも泣き出しそうだ。
 思えば由埜と知り合ってから一年、拗ねたり傷ついたり駄々をこねたりしたことはあっても、声を荒らげて怒る姿を見たことはなかった。この子はいつでも、わたしを肯定し続けていたから。
 なのに今こうして、全身全霊で不器用にぶつかってきてくれている。
「……だって!」
 気が付くと、わたしも声を張り上げていた。
「だって、わからないよ。もし由埜の言う通りなら──これが子どもを殺す話じゃないなら、どうして母は何も言ってくれなかったの? それを」
 由埜の手の中の、破られたページに視線を移す。
「それを破ったのは、わたしなのに」
 母の書いた物語を初めて見つけたのは、中学三年生の初夏の頃だった──風邪でもうろうとしたわたしが母宛ての電話を間違って取ってしまうより少し前のことだ。母は何かの用事で外出していて、小腹の空いたわたしはお菓子を探して、キッチンのあちこちの棚を開け閉めしていた。そうして収納棚の一番下、古いレシピ本が詰め込まれた段の端に、プラスチックの薄い書類ケースが押し込められているのを見つけてしまった。
 何気なく手に取って、開いた。その時一番上に置かれていたのが、書きかけの「鬼神王の戦女神」だった。興味本位で読み始めたが、その時はまだ、語り手の母の手記の冒頭までしか書かれていなかった。
 母に物語を書く趣味があったことを知らなかったわたしは、何だか母の秘密を知ったようで、後ろめたさを感じながらもわくわくしていた。母に気付かれないように元に戻し、それからも、母の留守の度にそっと物語をのぞき見た。
 物語が進むにつれて母の筆は遅くなり、トゥーテオが神々しい笑みを浮かべて鬼神王に発破をかける場面から先になかなか進まなかった。やがて夏が来て、母に特別な相手がいることをわたしが知ってしばらくして、トゥーテオは、腹の中の子を処分して王に付き従うと微笑んで告げた。
 そこでわたしは唐突に理解した。これは我が子を殺して愛する相手を選ぶ女の物語で、腹の中の赤子はわたしのことだと。
 当時のわたしは、母に恋人がいるかもしれないことを、複雑な気持ちながらも受け入れていた。父が家庭を顧みない人なのはよく知っていたから、「母が父以外の人を好きになっても仕方ない」と、大人ぶって見逃しているつもりだった。だからこそショックは大きかった。
 傲慢だった。母にとって「要らない」のは父だけだと、盲目的に思い込んでいた。わたしも母にとっては邪魔なもののひとつだなんて、想像だにしていなかったのだ。

 

(つづく)