北極星ポラリスの道しるべ

 

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 父は無言だった。少し、眉のあたりが動いたようにも見えた。
「お母さんの事故があった場所で、怪我した女性が保護されたんだって。その人が持っていた本の中に、わたしがお母さんに書いた手紙が挟まれてた。それで、わたしのところに話を聞きに来た」
 もし、あの手紙をこの家から持ち出したり、由埜に渡したのがこの人だったら、何か反応があるんじゃないか。
 じっと父の顔を見つめ、追い打ちをかける。
「どうしてお母さんが持っていたはずの手紙が、そんなところから見つかったのか、わからないんだけど。何か知らない?」
 ようやく、父が口を開いた。
「私を疑っているのか」
「可能性を検証しているだけ」
「……手紙のことは、今初めて知った」
 父は静かに言った。
「怪我をした女性のこともだ。まして、私がその女性にお前の手紙を渡したと考えているなら、それはお門違いだ」
 真摯な声に聞こえたけれど、確信は持てなかった。嘘かどうかを判断できるほど、わたしはこの人とコミュニケーションを重ねてこなかった。
 家族なのに。あるいは、家族だからかもしれない。
「お母さんの遺品の中に、手紙はなかった?」
 質問を重ねると、父はやはり冷静に答えた。
「なかった。お前の見た資料にも、遺品についてはまとめてあったはずだが」
「……待って」
 今、この人は何と言った?
「資料、って」
「私の書斎に置いてある事故の資料だ。位置が少し変わっていることがあった。私のいない時に見ていたんだろう」
 父の声は淡々としていて、責めているようではなかった。
 昔、父の書斎にある資料を勝手に見たのはわたしではなく、由埜だ。白状した時には「ちゃんと全部もとに戻した」とか言っていた癖に、しっかり気付かれているじゃないか。さすがの父も、赤の他人が勝手に家探ししていたとは思わなかっただろうが。
「どうして、何も言わなかったの」
 自分の部屋に勝手に入られるなんて、神経質なこの人が一番嫌うことのはずだ。だから当時のわたしは、書斎に近づくこともしなかった。
「お前の母親だ。知る権利はある」
 当たり前という風に言われて、言葉が見つからず、黙り込む。苛立ちと、少しの恥ずかしさがこみ上げる。
 あの頃のわたしたちは、周りすべてが──特に身近な大人がみんな敵に見えていた。実際、父は家庭に無関心で、冷たく、心を開かない人だった。母が亡くなったあとも、仕事優先の生活を改めることはなかった。でも一方で、こうして知らないところで見守られていた部分もあったのだと、この歳になって気付く。
 もちろん、父が嘘をついている可能性もある。信じるかどうかは、自分で決めるしかない。
 沈黙は、長く続かなかった。父が口を開いたからだ。
「お前は、母さんと一緒に事故に遭った運転手のことは、知っているのか」
「……お母さんの、昔の知り合いでしょ」
「少し待っていろ」
 父はおもむろに立ち上がって、リビングを出て行った。ふう、と、肩から力が抜ける。無意識に緊張していたらしい。
 父と面と向かって母の死について話すのは、初めてだ。あの頃のわたしにはそんな余裕がなかったし、何より、父を信じていなかった。
 だから、母の書いた物語のことも言わなかった。大学を卒業してこの家を出た時も迷わず持っていったあの物語たちは、今はわたしの狭い1Kの部屋にひっそりと保管されている。
 いつかは父にも伝えるべきだろうか? 母は、それを望むだろうか?
 ばさり、と、目の前のローテーブルに、大判の封筒が置かれた。
宗像むなかたはじめ。当時の職業はタクシー運転手。離婚歴があり、前妻との間に息子が一人いた」
 封筒を手に取ると、中には十数枚の書類が入っていた。ホッチキスで綴じられた表紙には、「身辺調査報告書」の文字と、探偵事務所の名前が見て取れた。
 急いで中身を引っ張り出す間にも、父は淡々と話し続けた。
「宗像の息子は当時未成年で、面会交流はなかったが養育費の支払いは継続していた。宗像の遺品はおそらく、前妻と息子に渡されただろう。ほかに身よりはなかったようだ」
「ちょっと、待って。何の話?」
「母さんの手紙の話だ。これはあくまで仮定の話だが」
 ちらり、と、父の視線が向いた先は、リビングの棚だった。その引き出しは、母の本棚の代わりだった。今でも中身が残されていることは知っている。
「母さんがその手紙を本に挟んで持ち出して事故に遭い、その本ごと誤って先方の遺品として渡された可能性は否定できないんじゃないか」
 確かに、可能性はゼロではない。宗像の遺族と由埜が直接繋がっているかどうかは、まだわからないが。
「この書類、借りてもいい? その、警察とかに話す時に使うから」
「構わない、が」
 父はしかめ面で尋ねてきた。
「何故だ?」
「何故、って」
「怪我をした女性というのは、お前の知人か? そうだとしても、お前がそこまでする必要はないだろう」
 理屈で考えれば、その通りなのだろう。それでもわたしが何かせずにいられないのは、それが由埜に関することだからだ。
 だけど、由埜がわたしにとってどういう存在なのか、その答えはまだ出ていない。
「……また今度話そう」
 封筒を突っ込んだ鞄を持って立ち上がると、父はそれ以上追及しなかった。
 わたしも、父に尋ねたいことがあった。身辺調査報告書の日付は、あの事故が起きるよりも前だった。どうしてこんなものを持っていたのか。何故調査を依頼しようと思ったのか。
 母とこの男の関係に、父はいつから疑いを持っていたのか。
 母の死後、祖父母からしつこく再婚を勧められたのに、どうして独り身でい続けたのか。
 だけどわたしと父がそういう話をするには、もう少し時間が必要だった。
 多分、お互いに。

 家を出たその足で警察に行くべきか、迷った。
 けれど、あの本と手紙が宗像一の遺族から由埜に渡ったものだというのは、何の証拠もない仮定の話だ。由埜の事件との関係もわからないまま。それに、自分で決めたタイムリミットまではあと半日以上ある。
 そういう言い訳をいくつも重ねて、わたしはここに来てしまった。父から受け取った資料に書かれていた、宗像一の遺族の住む団地に。
 そこは、わたしや由埜の住んでいたエリアと、母の事故現場との中間あたりの県境にある住宅街の一角だった。数多くの棟が並ぶ古い団地は、少なくとも築五十年以上は経っていそうだ。カーテンがかかっていない部屋も多く、空室が多そうだった。もう十二年も経つのだから、遺族がとっくに引っ越していてもおかしくない。
 またしてもいくつも予防線を張りながら、わたしはガタガタとうるさいエレベーターに乗り、資料に記載された部屋のある五階に向かった。表札の苗字が違えば、すっぱりと諦めがつく。離婚後の姓は、高岡たかおかだったはずだ。
 辿り着いた部屋に、表札は出ていなかった。
 最近では珍しくもない。それでも、肩透かしを食った気分で、しばらく立ち尽くしてしまった。
 インターホンを押してみようか。それで名乗られた苗字が違ったら、今度こそ引き返そう。
 でももし、まだここに住んでいたら? 顔を会わせることができてしまったら?
 いずれにしても、このまま居座れば不審者だ。いったん引き返そうと一歩退いた、その時だった。
「うちに何か用ですか」
 一メートルほど離れたところから声をかけてきたのは、同い年くらいの青年だった。中肉中背、地味なカーキ色のコートにデニムにスニーカー、やや神経質そうな顔立ちの、ごく普通の若者。
「……高岡ひろさんですか」
 資料に書かれていた名前を呼ぶと、彼は警戒の表情を浮かべながら頷いた。
「そうですが」
 迷っている暇はなかった。
「失礼しました。わたしは……十二年前の事故で亡くなった、あなたのお父様の遺品のことでうかがいました」
 一瞬、高岡の目元がけいれんしたように見えた。
「ちょっと、待ってください。父の遺品、というか、何故ここに」
「わたしもあの事故の遺族です。母を亡くしました」
 取り繕われる前に、あえてぶしつけに切り込んだ。
「『星座ものがたり』の本は何処にありますか? 中に手紙が挟まっているはずです。あれは、わたしが書いたものなんです」
 さあ、どんな返事が返ってくるだろうか。
 もし、あの本が宗像一の遺族に渡ったという推測が誤りなら、あるいは所持していても記憶に留めていないなら、「何のことですか」と不審がられるだろう。
 遺品として受け取っていたとしても、すでに手放していれば、「もう手元にはない」と答えるだろう。
 でももし、そのどれでもないのなら──と、思っていたが。
「身分証を見せてくれますか」
 高岡は相変わらず、警戒心をむき出しにしている。
「免許証でいいですか」
 財布から運転免許証を出すと、高岡は足早に近づいてきて受け取った。食い入るように見て、わたしの顔をちらりと確認して写真を見比べ、ふっとかすかに笑った。
「……そうですか。あなたですか」
 噛みしめるような物言いとともに、免許証が返された。
 身分証を要求したのは、わたしが警察だと疑ったからだろうか? いかにも怪しい態度だが、それにしては確認の仕方が甘すぎるようにも思える。
「星座の本のことでしたね」
 言いながら、高岡はポケットから鍵を取り出し、目の前のドアに挿して、回した。
 がちゃん、と、錠が開く音。
「よかったら、少しお話ししませんか。あの手紙を書いた人に、会ってみたかったんです」
 ──これは率直に、想定外だが。
「……ええ、喜んで」
 想定とは少し違ったが、どうやら、当たりを引いたようだった。

 とはいえ、この状況で相手の家に上がり込むのは気が進まないので、喫茶店に誘導した。高岡は特に反論しなかった。
 近くにあったカフェチェーンの中型店舗の二階席、隣のテーブルとは少し距離がある絶好の席に陣取って、向かい合う。店内はそこそこ混雑しているが、適度な音量のBGMのおかげもあって、周囲に会話を聞かれる心配はなさそうだった。
「何故、あの本を探しているんですか」
 席についてすぐ、高岡が尋ねた。わたしは上着を椅子の背にかけるために立ったままだった。こちらを見上げる視線が、わたしの真意を探っているようにも思えた。
「……身内の事情で恥ずかしいのですが、最近、父と話をしまして」
 さりげなく、手元の上着に視線を移して答える。目をそらす人間は嘘をついていると思われがちだが、相手の目を見すぎるのも不信を招くことがある。
 それに、これは嘘ではない。一部を省いているだけだ。
「母が亡くなって十二年経って、ようやくきちんと話をすることができて。それで、本のこともちゃんと片をつけたくなったんです。その時に、事故に関する書類も見て、高岡さんの住所はそこで」
 浮気調査の調書だとは言い出しづらかったが、幸い、高岡はそこにはあまり関心を持たなかった。
「そうですか。いえ、わかります。僕も母と、あの事故の話はなかなかできませんから」
 そう呟いてからブラックコーヒーを一口すすり、高岡は言った。
「実は、本はなくしてしまったんです」
「なくした?」
「ええ。他の遺品と一緒に保管していたんですが、気が付いたら部屋に見当たらなくて。少し前に部屋を本格的に片づけたので、その時に処分したのかもしれません。お役に立てず申し訳ないですが」
 平坦で落ち着いた口調だ。淡々と事実を告げているようにも、敢えて言い訳の余地を残しているようにも思えてくる。大学で心理学を学んだところで、結局他人の嘘ひとつ確実に暴くことは難しい。
「いえ、こちらこそ、急に押し掛けてしまってすみません」
 とりあえず愛想笑いを返し、コーヒーを飲んで、気になっていたことを尋ねる。
「あの、さっき、あれを書いた人に会ってみたかった、と言っていたのは……」
「本心です。僕はあれに、助けられたので」
「助けられた?」
 思春期真っ盛りのわたしが母に投げつけた醜い言葉で?
 高岡は、「こっちも身内の話になりますが」と断って、話し始めた。
「僕が小学生になる前に両親は離婚して、僕は母に引き取られたんですが、生活はあまり楽ではなくて。父親は養育費は払っていたようですが、そっちもそんなに裕福ではなかったみたいで、母はいつもお金に苦労していました」
 高岡の父親──宗像一は、若かりし日の母が交際していた時は無職だったと聞いた。大学を中退して定職にも就かない変わり者だった、と。いつからタクシー運転手をしていたのかはわからないが、家族のために働き出したのかもしれない。
「母もつらかったんでしょうね。時々、ものすごく酔っ払って……まだ子どもの僕に、『お前がいなければ』と言うことがありました。次の日には忘れてるんですけど」
「……言われたほうは、忘れませんね」
 わたしが、母の物語を許せなかったように。
 思わず割って入ってしまったわたしの言葉に、高岡は静かに頷いた。
「僕が中学に上がる頃には、母もようやく正社員の仕事に就けて生活も安定したので、そういうことはなくなったんですが、僕はずっと覚えてましたよ。酔っぱらった母が僕を見る目と、あの言葉は」
「離婚してから、お父さんと会ったことは」
「一度もないです。母が嫌がったし、父も望まなかったようで。もともと母と父はデキ婚で、母が妊娠を理由に強引に結婚に持ち込んだそうなので……父にとって、僕はそれほど望まれた子どもではなかったんでしょう」
 高岡の説明には、宗像一への情も執着も何も感じられなかった。彼にとっては、母親の恨み節の登場人物でしかなかったのかもしれない。わたしにとって、宗像一が物語の中の偶像としてのみ存在していたように。
「だけど、あの事故の後……お父さんの遺品は、高岡さんたちが引き取られたんですよね」
「ええ、他に身内がいなかったようです。母とは、養育費の関係でかろうじて連絡を取っていたので。といっても、段ボールに詰めて送られてきたのを放っておいただけなんですが、それでも僕は見てはいけないような気がしていて。だからあの本とあの紙を見つけたのは、二十歳を過ぎてからのことです」
 おもむろに、高岡はわたしの目を見据えた。
「まるで僕のことを言っているようだと思いました」
 ──生まれてきてごめんね お母さん 今から消えてあげようか?
 高岡は静かに暗唱した。
「何ていうか……それまで僕が感じていたことを一気に言語化された感じがしたんです。ああ、僕はあの時、母親にこう言い返したかったんだなって。それだけで、少し救われた気がしたんです」
 それは、わたしにも覚えのある孤独だった。お前なんて要らない、と突きつけられた痛みの後遺症。
 高岡は、かすかに笑みを浮かべた。
「だから、いつかこのメモを書いた人に会ってみたいと思いました。何処の誰が書いたのかもわからないから、無理だとは思ってましたけど」
「無理じゃなかったですね」
 高岡は頷き、感慨深そうに目を細めた。
「ええ。まさか、本当に会えるとは」
 もしかしたら、わたしとこの人が出会う偶然もありえたのかもしれない、と思う。ここではない何処か、今とは違うタイミングで──それこそ十代で出会っていたら、自分のことのように共感していただろう。わたしと由埜が偶然同じ高校に入り、お互いを選んだように。
 もちろん、ただの想像だ。現実には、わたしは高岡と今日初めて出会ったのだし、共感もしない。
 高岡は、わたしに嘘を吐いているからだ。
「知ってたんですよね?」
「え?」
 意表を突かれたらしい高岡の顔を、しっかりと見た。表情の変化を見逃さないために。

 

(つづく)