鬼神王の戦女神

 

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 ひどい嵐の夜でした。横殴りの雨と雷の合間に、勝手口を乱暴に叩く音が聞こえました。わたしの遠くなった耳にもはっきりと届くほど力強く、何度もその音は続きました。見回りに行った門番のジョエルが忘れ物でもしたのだろうと思い、わたしは勝手口を開けました。
 ジョエルではありませんでした。
 そこにいたのは、死んだ月のように青白い顔をしたトゥーテオ様でした。
 わたしは驚いて口も利けませんでした。トゥーテオ様にお会いするのは数年ぶりのことでした。トゥーテオ様は、マーロウ公のお屋敷に行かれてから一度もこちらに帰られたことが無かったのです。
 ウェーリ、とトゥーテオ様は微笑みました。
 久しぶりだね。悪いが拭く物と乾いた洋服を。そして私を陛下のもとに通してくれ。
 わたしは呆然として、それでも反射的に頷きました。頭から爪先までぐっしょりと濡れ、足を引きずるトゥーテオ様を中にお通しすると、年々言うことを聞かなくなりつつある足腰に鞭打って、リネン室に走りました。服はトゥーテオ様が残していかれたものがありましたが、それを取りに行くには屋敷を端から端まで往復しなければなりません。とにかく濡れた体を乾かすのが先ですから、まずはタオルをお届けしようと思ったのです。
 わたしが大判のタオルを五枚ほど抱えてよたよたと戻った時、トゥーテオ様は細々と火が燃える暖炉の傍で、雨よけのガウンを脱いだところでした。
 声をお掛けしようとして、わたしは言葉を失いました。ばさばさと手からタオルが落ちると、トゥーテオ様はくすくすと笑いました。
 ウェーリ、すまないが、タオルを拾ってくれぬか。何せこの体では、屈むのも立ち上がるのも一苦労でね。
 トゥーテオ様のお体は、全身傷と痣だらけでした。数え切れないほどの赤や青や紫の斑点が、揺れる炎にちらちらと妖しくうねっておりました。それだけではありません、かつて陛下と並んで馬に跨り戦場を駆けた御御おみあし──ああ、わたしは何度そのお姿にうっとりと見とれたことでしょう──その逞しい御御足は今や膝から下が奇妙に捻れて歪み、骨と皮ばかりに細っていました。これでは先ほど足を引きずっていたのも道理です。むしろ、一体どうやってここまで歩いてきたのかわからないほどでした。
 しかし何よりも恐ろしかったのは、トゥーテオ様の腹部が、大きな西瓜を飲み込んだように丸々と膨らんでいたことでした。わたしは子宝を授からぬままに夫に先立たれた独り身でしたが、故郷では産婆の手伝いをしていたので、見間違えるはずもありません。
 臨月のお腹でした。トゥーテオ様は、ご懐妊されていたのです。
 わたしは急いでトゥーテオ様を客室にお通しすると、小姓を叩き起こし、陛下への伝言を預けました。それから蝋燭ろうそくが小指の先ほども減らないうちに、陛下はトゥーテオ様のもとにお姿を現しました。
 寝台に横になったトゥーテオ様を見下ろして、陛下は黙っておられました。わたしは一通りのお世話を終えるとその場を辞したのですが、どうしてもお二人の様子が気になってしまい、いけないことと分かっていながら、扉の隙間からそっと覗き見てしまいました。
 陛下はつい先程までご就寝中だったとは思えないほど、きりりとした表情を浮かべておられました。考えの見通せない鋭い眼差しも、横一文字に結ばれた薄い唇も、一見すると、地図や書物を前に考え事をされている時と同じように見えました。しかしそのお顔はトゥーテオ様にも劣らぬほど白く、眉間には深い皺が寄せられていました。
「陛下、お加減が優れませぬか」
 トゥーテオ様が気遣わしげに呼びかけると、陛下はゆっくりと首を横に振りました。
「私は問題ない」
「このような夜分に押し掛けた上、御心を乱してしまい心苦しゅうございますが──マーロウ公は謀反を計画しております」
 わたしは慌てて口を押さえました。幸い、掠れた悲鳴は部屋の中までは届きませんでした。
 トゥーテオ様は淡々と続けました。
「明日の夜、マーロウ公の屋敷で会合が開かれ、賛同者や協力者が顔を揃えるとのこと。裏切者どもを一気に叩く絶好の機会でございます」
 陛下は頷きましたが、口を開こうとはしませんでした。びゅうびゅうと風が吹き荒れ、窓をがたがたと鳴らしていました。
 陛下の沈黙に焦れたのか、トゥーテオ様はふらつきながら上体を起こし──血が足りていないから決して無理はなさらないでくださいと申し上げたのに! ──陛下の顔を覗き込みました。
「陛下」
「お前の足は、そのためか」
 陛下の低い声が聞き取れなかったのか、トゥーテオ様は首を傾げました。
「申し訳ありませぬ、陛下、今何と」
「トゥーテオ、お前はそれを知ったから、足を潰されたのか」
 それはまったく、獣の唸り声そのもので、わたしは背筋をぞっと震わせました。お屋敷での陛下は、噂に聞く戦場での残酷ぶりが信じられないほどに物静かな方でしたから、わたしは陛下のそのような声を初めて耳にしたのです。
 ところがトゥーテオ様ときたら、平然とした声で答えるのです。
「ええ、二か月前のことでした──申し訳ございません。うまく盗み聞いていたつもりが油断して捕えられ、奴らに」
「わかった」
 トゥーテオ様の言葉を遮る陛下の低い声の、恐ろしいこと。
 陛下がお怒りになるのも無理はありません。わたしは若い頃に戦場で看護婦をしていましたから、同じような怪我をした退役兵を見たことがありました。骨を砕く傷を治療もせずに放置されると、骨が曲がったままくっついてしまい、うまく歩けなくなって筋肉も落ちてしまうのです。
 トゥーテオ様のそれは、恐らく拷問の跡でしょう。その残酷な光景と痛みを想像するだけで、血の気が引く思いがしました。
 マーロウ公の恥知らず! 地獄に落ちるがいい!
 大陸中央の広大なトリステン地方を治めていたマーロウ公は、破竹の勢いで勝ち進む陛下と争うより手を結ぶことを選び、政略結婚に応じました。しかし、名門貴族のマーロウ公はプライドが高いことで有名で、自分より貴族階級の低い陛下に降ったのは何かの策ではないかと、疑念を抱く者も少なくありませんでした。
 大半の予想通り、マーロウ公は陛下に対する軽蔑と無礼を隠そうともせず、自分に賛同する貴族連中と徒党を組んでいることは誰もが知っていました──しがない下女であるわたしでさえ。平民の出のトゥーテオ様との婚姻も本意ではなく、陛下との関係を強めるために仕方なく受け入れただけで、舞踏会でも晩餐会でも仮面夫婦であるのが誰の目にも明らかな不仲ぶりだと、貴族の付き人や近衛兵が噂していたものでした。
 もっともそれは、トゥーテオ様とて同じこと。ひとえに陛下の治める帝国の安定のために、トゥーテオ様は昨日まで刃を向けていた男の妻になったのです。
 だからといって──あの残酷な傷、何という手ひどい仕打ち!
 怒りと屈辱でわたしの手はぶるぶると震え、目には涙が滲みました。けれども当のトゥーテオ様は、心底可笑しそうに笑いました。
「奴らも詰めが甘い、足が潰れた孕み女なぞ取るに足らぬと踏んで、監視を外すとは。おまけにこの嵐では、逃げた私の跡を追うこともままならぬ」
 トゥーテオ様は身を乗り出しました。
「陛下、明日の朝一番で兵をお集めください。裏切り者には代償を払わせねば」
「なあ、トゥーテオ」
 陛下の声は静かでしたが、唸る嵐をものともせずに耳に届きました。
「お前に──褒美の羊をくれてやろうと言ったら、もう遅いだろうか」
 ああ、この時のトゥーテオ様のきょとんとしたお顔、くすくすと漏れた無邪気な笑い声に、わたしは心底ぎょっとしたものでした。
「これはまた、懐かしいお話を」
 その声の、何と嬉しげでお幸せそうなこと。美しく気高き心と体を踏みにじられた挙句、冷たい嵐に打たれた無情な夜だというのに、陛下のお言葉一つで!
「忘れたことなどない」
 それに答える陛下の声の、重く苦しげなことといったら──錆び付いた鉄のかんぬきを無理矢理に動かすような、悲鳴にも似た響きでした。
「お前はいつも羊をねだっただろう。広い野を、自分の羊の群れを追って走り回るのが夢だと言って」
「貧しい羊飼いの子の戯言ざれごとです。けれども陛下は、必ずそれを叶えると約束してくださった」
 トゥーテオ様はうっとりと目を細めました。その眼差しの先に、陛下と過ごした幼き日を見ておられるようでした。
「あの頃の陛下は、格好はみすぼらしくとも既に王者の目をしておられた。その時トゥーテオは決めたのです。陛下にお仕えして、必ずやこの大陸の王にしてみせると」
「トゥーテオ」
 トゥーテオ様の歌うような声。陛下の傷ついた獣のような声。
「お前は私の初めての友であり、臣下だった。めかけばらの末子故に疎まれた私を、お前だけが慕ってくれた。お前の忠誠だけが、私の心を慰めた。だから私は、豊かな大地と数え切れぬ程の羊でお前に報いたかった。そのために、広く豊かで、美しい国が必要だった」
 陛下は、トゥーテオ様の御御足を覆う布をそっと取り去りました。ランプの明かりが浮かび上がらせたそれは、痛々しくねじれた二本の棒切れにも見えました。
「ようやく手に入ったと思ったのに──そのためにお前の足を失わせてしまった」
 陛下はおもむろに膝をつき、骨が歪に飛び出た足を両手でそっと包み込んで、深くこうべを垂れました。
 それは何か、神聖な儀式の一幕のようでした。王がひざまずく相手など、神以外許されない筈なのに。
「トゥーテオ、私はどう報いればよい。もう野を駆けることの叶わぬお前に、何を」
「陛下」
 トゥーテオ様はゆっくりと手を伸ばし、陛下の右手と重ね合わせました。枕元のランプに照らされた頬は、朗らかな少年のように火照って見えました。
「お顔をお上げください。陛下は王になられる御方、全てを手にする御方。邪魔する者は何人なんぴとたりともじ伏せ、這いつくばらせねばなりません。トゥーテオは、その為の剣でございます。この足の惜しいわけがありましょうや」
 胸が震えるような朗々としたお声でした。かつて城門で、戦陣で、陥落した敵の城で、トゥーテオ様はこのように力強く、勝利の雄叫びをあげておられたものでした。
「だが、トゥーテオ」
 陛下のお声は──ああ、どうか聞き間違いであってほしい、いや、やはりそんなことは望まない──泣き出すのを必死でこらえる幼い子のそれに、よく似ていました。
 あの鬼神王ディアブロが! 百の町を焼き、千の首を刈ったと恐れられる死の化身が!
 何とも悲しい声で──嘆いていたのです。
「お前は私の──私の」
 そのあとに陛下が何と続けるおつもりだったのか。それはもう永遠にわかりません。
 陛下のお言葉を待たず、トゥーテオ様はこう言われました。
「では陛下、一つだけお許しいただけますならば」
 トゥーテオ様は、花が綻ぶように微笑まれました。
「私の王──ありとあらゆる敵を滅ぼし、全ての頂点に立たれませ。トゥーテオは、それが見とうございます」
 その時のトゥーテオ様のお姿を、わたしは一生忘れることはないでしょう。
 薄い体つき、やつれたお顔、奇妙な形に捻じ曲げられた御御足。傷だらけのお体は見ているこちらが涙ぐむほどにひどく痛々しいのに、大きく見開かれた両の瞳は煌々と輝いて力に満ち溢れ、神々しささえ感じさせました。
 ああ、戦女神とは、まさにこのような姿をされているに違いないと、あまりの美しさにわたしはもう少しでひざまずくところでした。
 そしてトゥーテオ様は、片手をそっとお腹に当てました。
「明日の朝には、忌々しいこの腹を裂いて始末いたします。そうしたら、トゥーテオにお供をお許しくださいませ」
 一瞬、聞き間違いかと思いました。
 遅れて言葉の意味を理解して──ひっ、と、わたしの喉が堪えようもなく鳴りました。
 だって、あの大きく膨らんだトゥーテオ様のお腹には。
「腹さえ軽くなれば──この足は確かに歩くには無様ですが、馬に乗る分には差し支えありませぬ。あの頃と同じように、トゥーテオが陛下をお守りいたします」
 トゥーテオ様の声には一切の迷いが無く、むしろ無邪気な喜びの響きすらありました。
「──だが、それは、お前の」
 暫くの沈黙の後にやっと答えた陛下の声の方が、よほど動揺されていました。
「トゥーテオ、お前は私に文をくれたではないか。腹の内側で小さな鼓動が響いているのが感じられると、それは不思議な心地だがとても、とても愛おしいものだと、代筆までさせてわざわざ文を」
「それは、ご存じでしょう、私は字が書けませぬから」
「そうだ、だからあれはお前から受け取った最初で最後の文だった。そうまでしてお前は私に伝えたかったのだろう、それほどお前にとって喜ばしいことだったのだろう、その腹に宿ったお前の子はお前にとって、大切な」
 陛下が──どうかご無礼をお許しください──無様なほど早口に言い立てるのを、トゥーテオ様はきっぱりと遮りました。
「いいえ。私の足も腹も子も、陛下以上に価値のあるものなどありませぬ。ましてやあの裏切り者の子など」
 さあ、とトゥーテオ様は笑いました。
「陛下、今日はもうお休みくださいませ。明日は忙しくなります」
 少し間があって、陛下は答えました。
「そうだな、トゥーテオ。お前も、よく休め」
 トゥーテオ様に微かに笑い返す陛下の瞳は、ランプのゆらゆらと揺れる光を受けて、暗い影を宿していたように思います。
 その足取りがこちらに向かう前に、わたしはその場から逃げ出しました。
 鬼よりも残酷で、神よりも容赦の無い王だと、皆陛下をそう呼びました。
 けれどももしや、本当に残酷で、本当に容赦無いのは──。
 その夜、あの有名な「血の巡礼」が起きました。陛下は、トゥーテオ様を見舞ってわずか数時間の後に出立してマーロウ公の屋敷を急襲し、マーロウ公と親族、取り巻きや臣下、護衛に衛兵に雑兵──全てを斬り捨てました。さらに、マーロウ公に同調していた首謀者たちの屋敷を片端から襲って一族郎党を滅ぼし、計画に手を貸した者を次々と血祭りに上げました。その数は、三日三晩に及んだ凶行で数百を超えたと言われています。
 そして四日目の朝、血まみれで屋敷に戻られた陛下の隣には、トゥーテオ様のすらりとしたお姿がありました──トゥーテオ様のお腹の中にはもう何もなくなっていたので、コルセットで存分に締め上げることができました。まるであの夜のことは、何もかも悪い夢だったかのようでした。
 陛下はトゥーテオ様を


***

 物語がそこで唐突に終わっていることは、今さら見るまでもなく知っている。ページの下から四分の一ほどのところで、荒っぽく破り取られていることも。
 由埜はガードレールに座った膝の上に物語の束を伏せて、破られたページの歪な切り口を指先でなぞりながら言った。
「子どもは、どうなったと思う?」

 

(つづく)