蛇の娘と時計塔の男
思考を断ち切るためにコーヒーを一口飲み、店内に流れている音楽に意識を向ける。オペラ、だろうか。力強い女性の声が、畳みかけるように響いている。ホームページには「クラシック音楽を聴ける喫茶店」と書かれていたので、何となくインストゥルメンタルをイメージしていたが、人の声が入った曲も受け付けているようだ。とはいえ、外国語の歌詞はまったく聞き取れず、どんな思いを歌いあげているのかもわからない。
大して音楽に興味も知識もないわたしの集中力は長続きせず、結局また物語のことを考えてしまう。思考が望まない方向に深入りしそうになる度に、聞き慣れない音楽だとか、ハンバーガーセットと同じ値段のコーヒーだとかに意識を無理やり逸らす。
堂々巡りを繰り返し、カップがほとんど空になりかけた時だった。
ぱさり、と、由埜が最後のページを裏返した。それを見た瞬間に、思わず言葉が飛び出していた。
「どう思う?」
言った後で、しまった、と思う。そもそもわたしたちは、喧嘩ではないにしても、気まずい状態だったはずだ。もう少し慎重に切り出すつもりだったのに。
由埜は、裏返ったままの紙束に視線を落として、じっと考え込んでいるようだった。思考に沈む時の由埜はいつも淡々とした表情を浮かべているから、今もそうなのか、それともわたしを避けているからこその無表情なのか、わからない。
「お母さんには、昔、恋人がいた?」
おもむろに、由埜が口を開いた。久し振りに、由埜の声を聞いた気がした。
「……いたよ」
母の葬式で親戚たちから聞いた話では、父と見合いで結婚する前に、母には恋人がいた。けれども無理やり別れさせられた、と。
そう伝えると、由埜は小さく頷いた。
「なら、この時計塔の男がきっとその別れた恋人。蛇の少女はお母さんで、魔女はお母さんのお母さん──七星のお祖母さん。お母さんは、母子家庭で育ったんだよね」
あまりに普通に由埜が話しかけてくるのに、拍子抜けして答える。
「うん。母は……父親が恋しかったのかもしれない」
だからこそ、母の分身である蛇の少女は想像上の父親を作り上げ、年上の謎めいた男に恋をした。そして少女は幼い初恋を捧げ、別れよりも男とともに焼け死ぬことを選んだ。あるいは、少女を敵と見なした男の策略にはめられ、焼き殺された。
「どちらが、本当のことなんだろう」
「書いてある通りだよ。どちらも本当」
由埜の迷いのない返事に、わたしは言い返した。
「でも、そんなの成立しない。どちらの話でも少女は蛇の姿に戻って塔で焼け死んだけど、男は、死んだ結末と生き残った結末に分かれてるんだから」
「それを成立させる方法があるの」
由埜は静かに、物語の束を表に返して言った。
「時系列をずらすこと。二つの物語は、一つの事実が違う形で伝わったものではなくて、二つの事件をそれぞれ伝えていると考えればいい」
「二つの、事件?」
「そう。だって、一つ目の物語で焼き殺されたのは、魔女に作り出された魔物の少女。二つ目の物語で退治されたのは、森の魔女自身だもの」
物語の小さな食い違いは、伝言ゲームのミスではなく、それぞれが独立した真実なのだとしたら。
「じゃあ、軍人はまず森の魔女を退治してから、次に蛇の少女の──あれ、でも」
混乱するわたしに、由埜は首を横に振る。
「蛇の少女の物語には魔女が登場している。だから、順番は逆。蛇の少女が死んだ後に、魔女を退治した」
「でも、時計塔の男は、蛇の少女に飲みこまれて死んだはずじゃ」
大蛇の体は焼けつくされて、灰になったと書かれていた。そこまで思い出して、あっと閃いた。
「灰になったのは、大蛇の少女だけ……?」
「私もそう思う」
由埜は嬉しそうに微笑んだ。
「だって物語には、『大蛇の体は燃え尽きて、一山の灰となりました』としか書いてない。しかもその直前で、大蛇は『げえげえとえづいて』いるの」
「少女は、燃え尽きる直前で、男を吐き出した……?」
愛する人を丸呑みにして手に入れて――けれど、道連れにできなかったのか。
「隣国の軍隊は、まさか男が生きているとは思わずに帰って行った。その後男は、素性を隠して隣国に戻り、再び軍に入った。『何処の馬の骨とも知れぬ一兵卒』として。そして再び時計塔に戻り、今度は魔女を焼き殺した」
するすると、由埜の声が糸のように物語を繋ぎ合わせていく。
「大蛇の少女が死んだ時に、時計塔の絡繰も壊れてしまったんだと思う。だから、二つ目の物語には時計に関する記述がない。魔女を塔に誘き寄せて焼き殺すという作戦も、少女の最期から考案したのかも。『男は、その古い石造りの塔が火に強く頑丈であることを知って』いたんだから」
「それって、敵討ちだったのかな」
魔女から逃れたいと時計塔の男にすがり、その手すら振り払われて絶望した少女の。
「どうしてそう思うの?」
問い返す由埜は、本当は答えを知っているんじゃないだろうか。
「だって男は、『フェクダ』と──蛇の少女の名前を名乗って、魔女を殺したんだよ」
自分を道連れに死のうとして、けれど結局思い切れなかった哀れな少女に、男も少しは心を移していたのではないだろうか。少女の悲恋を思えば、そうであってほしいと思う。
けれど、これを母の物語と考えるなら──。
「違うよ」
由埜が慌てて言った。
「七星のお祖母さんが、お母さんの恋人に殺されたって言ってるわけじゃないの。そこはさすがに、創作というか、比喩だと思う」
「わかってる」
わたしの答えに、由埜はほっとした表情を見せた。物語の謎に夢中になり、それがわたしの家族の物語であることを忘れてしまう無頓着さと無邪気さが、いかにも由埜らしかった。
気にしなくていいのに。わたし自身が、母の心に対して呆れるほど無関心だったのだから。
「由埜は、『インナーマザー』って言葉、聞いたことある?」
由埜は記憶を探るように、少し首を傾げた。
「確か、心理学用語だよね。自分が作り出した想像上の母親。自分自身を検閲し、批判し、支配する超越的な存在」
「うん。その本が、家のリビングにあった。母の本棚に」
我が家には、母の個室がなかった。父の書斎も、わたしの部屋もあるのに。だから母の私物は寝室とリビングに分けて置かれていて、リビングの棚の引き出しにある本はほとんど母の本だった。思い出してみれば、心理学や家族関係に関する本が多かった。
あの本棚は、母の心の一部だったのではないか。
「多分、男が殺した『森の魔女』は、母の心の中の存在だったんだと思う」
「『森の魔女』は、七星のお母さんにとってのインナーマザー?」
「そう。母は祖母に命じられた父との見合い結婚のために、恋人と泣く泣く別れた。その時に、母の心はきっと死んでしまった」
だから蛇の少女は、男との思い出の時計塔で焼け死ぬことを選んだ。
「だけどその後に、恋人は母のもとに戻ってきて──母の心を支配していた枷を解き放った。これは、そういう物語なんだよね」
「うん。だけど、それが」
「ねえ、由埜」
言いかけた由埜の言葉を、わたしはわざと遮った。
「由埜は、どうして今日、ここに来てくれたの?」
「えっ」
由埜は不意を突かれたように目を逸らした。わたしが由埜を翻弄するのは、珍しいことだ。
「ずっと避けてたよね。わたしのこと」
「だって」
うろうろと視線をさ迷わせてから、由埜はいっそう小さな声で言った。
「約束、してたから」
「わたしに会えるかもって思った?」
「……うん」
幼い子のように頷き、由埜はそわりと髪を耳にかけた。貝殻みたいに小さな耳が、ちらりと覗いた。
「どうして由埜は……わたしがいいの?」
前から不思議だった。どうしてこの子は、そんなにわたしにこだわるんだろう。頭がいいわけでも、特別見た目に秀でているわけでもないのに。
由埜は恥ずかしそうに目を伏せた。
「七星は、格好良かった」
「……いつの話?」
五月に図書館で話すまで、由埜と接点はなかったと思うのだが。
「入学式。保護者説明会もあるからみんな親と一緒だったけど、七星はひとりで来てた」
「うん、そうだったね」
入学前に配られた書類には、保護者の同伴が指示されていたが、父は子どもの行事のために会社を休むひとではない。
ふっと、由埜が視線を上げて、わたしを見つめた。
「私もひとりだった。周りは家族だらけで、私たちだけがひとりで、七星はその中をまっすぐ歩いて行って、目が離せなくって」
夢見るような、何処かぼうっとした眼差しで、由埜は言った。
「星みたいで、格好よかった」
「星?」
「でも、それだけじゃなくて──私たち、きっと同じなんだって思ったの。ひとりとひとりだって」
由埜の理屈は、時々よくわからない。
ただ、それは拍子抜けするほど単純で子どもっぽくて──だからこそ簡単には覆らないだろうということだけは感じられて、ほっとした。
同時に、疑問も湧いた。
「でも、入学式の時からわたしのこと知ってたわりに、最初に話した時はよそよそしかったよね」
五月に図書館で声をかけてきた由埜は、今思えばよそ行きの雰囲気だった。ミステリアスで、秘密を隠し持つ優等生っぽさがあった。
「あれは」
由埜は唇をもぞりと動かして、照れ笑いした。
「本当はずっと話しかけたかったんだけど、タイミングがなくて……いざってなったら、ちょっと気取っちゃった」
「何、それ」
確かに、あの時の由埜のすました表情や物言いは、借りてきた猫のようだった。それでも、もともとの天真爛漫さは隠しきれていなかったことを思い出して、笑いがこみ上げる。
本当に、この子は──頭はいいはずなのに、不器用で。
だから、わたしなんかにつけこまれるんだ。
「……でも、七星には、カレシできたでしょ。だから」
思い出したようにふてくされた口調で由埜が言うのに、わたしはきっぱりと答えた。
「別れる」
「え?」
「由埜が嫌なら、別れるよ。だけどその代わり」
とん、と、わたしは由埜の手元の原稿を指先で叩く。
「母の物語を読み解くのに、最後まで付き合ってくれる?」
ごめん、と、短い期間の恋人に、心の中で謝った。
穂高は、本当にいい奴で、わたしには眩しすぎる。にぎやかなショッピングモールでデートをして、一緒に文化祭を回って冷やかされるような恋愛は、それを心から楽しめる子としたほうがいい。
今のわたしには、この場所のほうがふさわしい。窓のない地下の薄暗い喫茶店で、女の悲鳴とも怒声ともつかない歌声を聞きながら、母の遺した物語を追い続けるほうが。
「本当に?」
おそるおそる聞き返す由埜の目に、期待が宿っているのが見えて、どうしようもないなと笑ってしまう。わたしも、由埜も。
「本当だよ」
「じゃあ、付き合う。絶対、最後まで」
ようやく、いつものように甘えた笑みを見せる由埜に、ちくりと心が痛んだ。
由埜がさっき何を言いかけたのか、わたしはわかっていて遮った。
時計塔の男が森の魔女を焼き殺したように、母の別れた恋人が舞い戻って母の心を解放したのだとしたら──それはいったい、いつのことだったのか? 母は恋人と別れさせられてすぐに、父と見合い結婚したはずなのに。
母の恋は、本当に過去のものになったのだろうか。
由埜に、まだ伝えていないことがある。
母は交通事故で亡くなった。故郷の町に一人で里帰りした際に、乗っていたタクシーがひとけのない峠道でカーブを曲がり損ねて崖から転落し、運転手も助からなかった。
その運転手こそ──二十年前に、母が別れさせられた恋人だった。
母の葬式の記憶は全体的にぼんやりしているのだけれど、親戚の噂話でそれを知った時の、足元が抜けたような感覚は、今でもはっきりと思い出せる。
──本当に事故だったのかねえ、というささやきも。
「ねえ、七星」
「なに?」
「文化祭、一緒に回ろうね」
喉を鳴らす猫のように目を細める由埜に、わたしは答えた。
「うん。一緒に行こう」
わたしの求める真実まで、由埜はきっと一緒に行ってくれる。
母の死が、本当に偶然の事故だったのか。
少女が男を飲みこんだように、母がかつての恋人を道連れにしたのか。
軍人に退治された魔女のように、母は無理やり連れていかれたのか。
わたしは、知りたい。
帰り際、磨りガラスのドアを抜ける前に、ふとカウンターを振り返った。
曲のリクエストを書き込む黒板の一番下に、『松明と蛇で武装して』と書かれていた。店員に聞いてみると、さっき流れていた女性歌手の曲だと教えてくれた。
それは、復讐を誓う歌曲なのだ、ということも。