蛇の娘と時計塔の男
母が遺した物語。わたしと由埜を、最初につないだきっかけ。たまたま床に落とした原稿を、由埜が拾って読み、話しかけてきた。それがわたしたちの始まりだった。
二つ目の物語は、わたしから頼んだ。読み解いてほしい、と。
今手にしているのは、三つ目の物語だ。そうやって、物語とそこに隠された母の気持ちを、順番に一つずつ探っている。
だけどそれは、一人ではできないことだった。由埜と一緒じゃないと。
これを読み終わったら、由埜に話しかけよう。「謎を解いてほしい」と。この物語を共有できるのは、血の繋がった父親でも最近できた彼氏でもなく、由埜だけなんだと伝えよう。
だってこれはおそらく──母が、父以外の男に寄せた恋を吐露した物語なのだから。
***
「蛇の娘と時計塔の男」
大陸の中央に広がるのどかな平原が、不毛の荒れ地へと姿を変えるぎりぎりの境界に、その塔は立っています。
初めてそれを見る旅人は、いったい何の建物だろうと困惑することでしょう。船旅を経験した者だったら、灯台を連想するかもしれません。しかし当然のことながら、海から遠く離れた内陸の地に、灯台は必要ありません。
それは、壊れた時計塔なのです。よく目を凝らしたなら、塔のてっぺんに大きな丸いものが見えることでしょう──針を失った時計の文字盤が。
今では人の住まない辺境の地と化していますが、昔はこの地にもささやかな田舎町がありました。ある時、町の大商人が、都の技師を呼び寄せて、当時の最新技術を駆使したこの時計塔を造らせたと言い伝えられています。
しかし、石造りの外壁は今や大火に遭ったかのように焼け焦げて、時計も内部の絡繰も壊れて動かなくなっています。塔の周囲にはイバラが生い茂り、その鋭いとげの間から、ヘビイチゴの実が毒々しい赤色を覗かせます。どういうわけか、この塔の周りにはヘビイチゴが群生して、季節を問わず実を付けるのです。
この奇妙な塔の名は、「フェクダの時計塔」──その呼び名は、ある謀られた恋の物語に由来しています。
少女は、みっしりとした重い木の扉に肩を当て、息を詰めて踏ん張りました。
大人の腰ほどまでの小さな体で、一歩、二歩、絞り出すように力を込めてようよう押し開けると、つんとした油の匂いが鼻を突きます。塔のてっぺんまで吹き抜けになった広い空間に進み出た少女は、ほうと息を吐いて、中央に高くそびえる柱を見上げました。
それは、歯車とピストンと数え切れない部品の組み合わさった絡繰の支柱でした。
赤い歯車がくるくると回り、鈍色のハンマーがゆったりとレバーを叩く横で、黒い鎖がギリギリと巻き上げられています。青い金属のベルトコンベアがキチキチと軋む音を立て、金色の螺子を締め上げます。
天窓から差し込む光があちこちの金属に反射して、見上げる角度によってその光は、金色にも銀色にも白にもピンクにも見え、少女は首がもげそうなほどにのけぞったまま、なかなか目を離せませんでした。
とはいえ、少女の一番の目的はそれではありませんでした。少女は口の両脇に手を当てて、精いっぱいの大声で、「おうい」と叫びました。
すると、三階ほどの高さの歯車とピストンの間から、男がひょっこりと顔を出しました。少女のいる場所からでも、その顔が油で黒く汚れているのがはっきりと見えました。
男は少女の方を見て、にっかりと微笑みました。
「よう、フェクダ。また来たのか」
途端に少女の心臓は速いリズムで鼓動を打ち始め、小さく頷くのが精一杯でした。男が「すぐ下りるから待ってろ」と朗らかに言って歯車の奥に姿を消すと、少女はまた、ほうと息を吐きました。
少女がこの時計塔に偶然たどり着いたのは、半年ほど前のことです。かつては最新の技術の結晶だった時計塔は、長い時間が経った今では、すっかり古くさい遺物となり果てていました。繊細な細工が施された華奢な懐中時計が流行する時代に、塔一つ使って時計を動かす仕組みなど野暮の極みというもので、鐘を泥棒に盗まれて音を出さなくなった時計塔のことを、町の人々はすっかり忘れてしまいました。
少女は、そのような事情など知るべくもなく、ひとけのない塔の様子に心を惹かれて、鍵の壊れた扉から中に入ってみたのでした。そして、絡繰の間からひょいと顔を出した男と出会ったのです。
男はいつも、塔の頂上の時計が正確に動くように、絡繰の支柱を整備しています。千も万もありそうな小さな部品を一つ一つ手作業で、掃除し、修理し、油を塗っているのです。黙々と作業するその姿を見ていると、少女は胸がいっぱいになるような、すうすうと寂しくなるような、不思議な心地に陥るのでした。
「待たせたな」
ふと気が付くと、男は少女の前に立っていました。油で汚れたシャツやオーバーオールもそのまま、顔の汚れさえ拭き取らずに、穏やかに微笑んでいます。目尻のかすかな笑い皺は、男を二十歳にも五十歳にも見せて、少女は未だに男の歳の見当がつかずにいるのでした。
「さて、今日はどんな話を聞きたいんだ」
男は、壁際の古い長椅子に座りながら尋ねました。絡繰の支柱がほとんどを占める空間に不似合いなそれは、男が少女のために用意したものです。
「……暴れ狼退治の話」
隣にすとんと座った少女の答えに、男はおかしそうに目を細めました。
「またそれか。同じ話ばかりで飽きないのか?」
「飽きない。それに同じじゃない。毎回ちょっとずつ、前と違う」
少女が唇を尖らせると、男はきまり悪そうに肩をすくめました。
「そうだったか? 大人は忘れっぽいからな」
「いいから、早くお話しして」
子どもっぽく足をばたつかせる少女に、男は「へいへい」とぞんざいに応じて、けれども優しい眼差しで語り始めました。
「あれはおれが、国の兵士になって間もない頃のことだ。国境の辺鄙な村に、巨大な暴れ狼が現れたという報告が入った──」
男の低く張りのある声に、少女はじっと耳を傾けました。
男は、この町の人間ではありません。もう随分と前に、よそから来てこの時計塔に住み着いたのだそうです。当時、時計塔の時計はすっかり壊れて止まっていて、男は錆びついた歯車を磨くところから始め、何年もかけて、時計をよみがえらせたのでした。
もっとも、町の誰も時計が動き出したことには気付いていないのですが、男はちっとも気にしていませんでした。少女が「せっかく直したのに」と不満を漏らすと、男は言いました。「お前が気付いてくれたじゃないか」──だから、満足だと。
その時に少女は思ったのです。自分がたくさんここに来て、男が毎日大切に手入れしている時計を見てあげなきゃいけないと。
男は昔のことを話したがりませんでしたが、少女が何度かねだると、ぽつぽつと話してくれるようになりました。昔は何処かの国の兵士だったという男の話は、村々を怖がらせていた山賊を退治した話や、高い塔に閉じこめられた人質のお姫様を助け出す話や、少数の兵士たちで大軍勢を追い返した話など、ワクワクするものばかりです──ただし、聞く度に細部が違っていることに目をつぶらなければなりませんが。
「──というわけで、自警団たちは山賊をひとり残らず捕まえて、改心させましたとさ。めでたしめでたし」
男がいくつ目かの話を語り終えた時には、天窓から差していた光がすっかり姿を潜め、石造りの塔にはひんやりとした夜の気配が忍び寄っていました。
「さあ、そろそろ帰らないと、親父さんが心配して、また具合が悪くなっちまうぞ」
男に促されて、少女は渋々立ち上がりました。
「また来てもいい?」
フードを被りながら祈るように尋ねると、男は優しく笑いました。
「ああ、いつでも待っているよ、可愛いお姫様」
いかにも気障でからかい交じりのセリフに、少女は呆れたふりをして鼻を鳴らし、けれども高鳴る胸までは抑えきれずに、弾むような足取りで時計塔を後にするのでした。
塔の周りの寂しい丘を突っ切って町に入ると、通りはたくさんの人でごった返していました。遊んでいる子どもを呼びに来る母親、逃げる子ども、その首根っこを掴む父親。屋台で酒を飲み交わす男たち、売り込みの声を張り上げる露店の店主。
少女はフードをぐっと引っ張って深くかぶり、うつむいて歩きました。すると、幼い子どもたちが下から少女の顔を覗き込んで、大声をあげました。
「へびおんなだ」
「へびのくせに女の服なんか着てやがる」
「似合ってねえぞ、へびおんな」
「やめなさい」
母親たちが慌てて子どもたちを捕まえて、自分の体の陰に隠します。少女は、あたかも何も聞こえていないかのような素振りで、町の反対側の外れにある家を目指してひたすら足を動かしました。
時計塔で男と過ごしている間はすっかり忘れていられる己の容姿のことを、町ではこうして否応なしに突き付けられるのでした。少女は必死に、考え事で気を逸らしました。
この道をまっすぐ進んで、角の商店で明日のパンを買って、それから、それから。
「号外だあ」
若い男の叫び声と同時に、少女はドンッと突き飛ばされて、尻もちをつきました。すれ違いざまに少女にぶつかった男は、口から泡を飛ばして喚いています。
「戦争だ! 隣の国と、戦争が始まるぞ!」
ざわっと、町の人々が若者の周りに詰め寄りました。
「戦争だって?」
「そうだ! このところずっと、国境の森の領有権を巡って揉め続けていたが、ついに隣国が宣戦布告をしてきた」
「国境の森っていうと、この町の近くじゃないの」
幼い子を抱いた中年の女が、不安そうに言いました。
「それに、森には魔女が住むと言うぜ。戦争なんかしたら、魔女が怒って何もかも焼き尽くしてしまうんじゃないか」
ひげを蓄えた男が呟くと、人々は口々に恐れや怒号を吐き出し始めました。
少女は喧騒に背を向けて、ひっそりとその場を離れました。この騒ぎでは、パンやそのほかの欲しかったものは、諦めるしかなさそうでした。
とぼとぼと足を動かして帰り着いたのは、古く傷んだ洋館です。ギイッと悲鳴のような音を立てる玄関の扉を開けると、うす暗い家の中には、しんとかび臭い空気が漂っています。
「ただいま」
少女の声が埃で淀んだ空気を震わせると、「おかえり、私のお姫様」とか細い声が答えました。ぐねぐねと曲がった廊下の突き当りの、父の部屋から。
「父さん、具合はどう? スープを少しは食べられた?」
「ああ、美味しかったよ、ありがとう」
ぼそぼそと掠れた声を聞きながら、少女は台所に入りました。少し歪んだ古い鍋が火の消えたかまどに置かれていて、その中身は昼に少女が口にした時から、ひとくちだって減っていませんでした。
「……そう。それならよかった」
嘘に気付かない振りをして、少女はつぶやきました。
「すまないね、何にもしてやれなくて。こんな父さんと一緒にいてくれて、お前は良い子だよ」
ああ、と少女は胸の内で嘆息しました。
なんて優しくて、無力なひとなんだろう。
父からの慈しみと愛情の言葉は、確かに少女の心を温めてくれます。けれども、それで日々の生活が楽になることもなければ、町の人々の冷たい視線から守ってくれるわけでもなし。少女はたったひとりで、外の苛烈な現実に立ち向かわねばならないのです。
──時計塔のあの人が、ここにいてくれたら。
冷たいスープに火を入れながら、少女は思いました。
あの人が一緒に食事をして、町に出て、この家を守ってくれたら、どんなに心強いことだろう、と。詮無い戯言とわかっていながら、その想像は、少女の胸にぽっと灯をともすのでした。
この屋敷に住み始めた頃、少女は父親と同じテーブルで食事をしたり、手を繋いで町に出かけたり、大声で笑い合ったりすることを想像して心を慰めたものでした。けれど今では、思い描く相手は時計塔のあの男に変わっています。
それが「恋」であることを、少女は誰に教えられるでもなく知っていました。叶うことはないと知りながら、それでも少女には、その思いが日々を生きるための大切な灯でした。
翌朝、少女が再び町に出ると、広場に大勢の人が集まっていました。中央で木箱の上に立って大声を上げているのは、昨日少女にぶつかった若者でした。
「みんな、聞いてくれ! 成年以上の男子は徴兵に応じるようにお触れが出た。これは名誉なことだ。俺たちの国を、俺たち自身の手で守るのだ!」
不安そうにどよめく人々に、若者はさらに声を張り上げました。
「心配は要らない! 森の魔女が俺たちの国の味方についたそうだ! 千年生きているといわれる魔女がいれば、隣の国なんて怖くないぞ!」
群衆はおお、と歓声を上げ、興奮で頬を上気させました。
けれども少女はさっと青ざめて、転がるように駆け出しました。町はずれの古い屋敷、ボロボロでかび臭くて薄暗い、彼女だけの巣穴に向かって。
父さん、助けて。息を切らして走りながら、少女は胸の内で叫びました。
あたしを助けて。ここから連れ出して。
魔女が来る、来てしまうから。
屋敷に駆け込んだ少女は、一目散に廊下を抜けて、最奥の部屋に向かいました。重い病を患い、部屋から一歩も出られない父のための部屋。
けれども、曲がりくねった廊下の突き当り、部屋の前にいたのは──魔女でした。
夜空の漆黒と月光の真珠色を織り込んだ不思議な長衣をまとい、もじゃもじゃとした暗緑色の髪を携えた魔女は、古木のように硬い肌に埋もれた目を見開き、鋭く少女を睨みつけました。
「無駄だよ」
魔女が口を開きました。その声色だけは、妖精の楽器のように甘く優しいものでした。
「お前はわたしと帰るんだよ。誰に助けを求めても無駄さ」
「嫌よ」
少女は後ずさりしそうになる足を、懸命に留めました。
「あたしは父さんと一緒にいるの。戦争には行かない、あなたのところには戻らない」
「父さん?」
風に揺らされる木々のように、さわさわと魔女は笑いました。
「父さんって、いったい誰のことだい」
かぎづめのように曲がった魔女の指が、埃塗れのドアノブを握りました。
「いったい、何処にいるんだい」
「やめて」
少女のか細い悲鳴をかき消すように、魔女は勢いよく部屋の扉を開け放ちました。
もわりと舞い上がる埃。クモやムカデがわらわらと、積み上げられた木箱の陰に逃げ込んでいきます。箱のあちこちはネズミにかじられ、クモの巣が白いカバーのように覆いかぶさっています。
病気の父親が眠るベッドも、少女が傍で語らうための長椅子も、何もない。そこはただの、物置部屋でした。
父さん、助けて、と少女は悲鳴をあげました。
いつも頭の中に響く、彼女だけに聞こえる声に向かって。
「ごっこ遊びもいい加減にするんだね。お前に、父さんも母さんもいないよ」
魔女は意地悪く笑って、少女の前に立ちふさがりました。
「お前は、私が作った使役の魔物なんだから。さあ、森へ帰って、戦争の準備をするよ」
そして魔女は、少女が目深にかぶっていたフードをはぎ取りました。
露になった少女の顔は、乳白色の滑らかな鱗に一面覆われていました。目鼻立ちは人間のそれだというのに、肌はぬるりと冷たい爬虫類そのもの。腐った血のように赤黒い瞳孔は、眼球を縦に真っ二つに割っています。
その姿はまさに──人間の形をした蛇でありました。
「お前に人間の擬態を教えたのは、わたしの目をくらまして逃げるためではなくて、敵を油断させるためだよ」
魔女は吐き捨てるように言って、少女の細い首をわしづかみにしました。
「さあ、森へ帰るんだ」
「待って」
少女は懸命に踏みとどまりました。
「わかりました、言うことを聞きます。だけど、ひとりだけ、お別れを言わせてください」