親愛なる王へ 哀れな道化より
駅の天井の蛍光灯が、目障りにチカチカと点滅している。
通学路から外れたこの駅に降りたのは初めてだった。夜十時を過ぎたばかりのホームには、不思議なくらい人気がない。今が正月休みの真っ最中だからかもしれないけれど、狭いホームのコンクリートがひび割れて売店も見当たらない様子からして、普段から利用者は多くなさそうだ。
息を吸うと、冷たい空気で鼻の奥がずきずきと痛んだ。二十分ほど電車に乗っていた間も、一駅ごとにドアが開くのでそれほど暖かくはなかったが、吹きさらしのホームの寒さは段違いだった。
ホームは上りと下りに分かれていて、改札はこちら側にしかない。ホームから数段の階段を下りるとすぐに、不愛想な自動改札が三台、雁首を揃えてわたしを待ち構えていた。
その向こうに、由埜が立っている。
駅前の通りは真っ暗で、唯一の光源ははす向かいのコンビニの灯りだった。それを撮影用ライトのように従えて、ロングコート姿の由埜が、まっすぐにこちらを見つめていた。
一歩、二歩、気が付けば走り出していた。
改札にICカードを叩きつける。チャージは足りていたようで、足止めされずに済んだ。のろまに開くフラップドアを膝で蹴飛ばすと、もう目の前に、由埜がいた。
「由埜」
急に、足に力が入らなくなった。由埜のところまで、あと十歩も残っていないのに。
「七星」
その馬鹿みたいにもどかしいわずかな距離を、由埜は小走りであっという間に埋めて、わたしの前に立った。
「ありがとう、私を呼んでくれて」
真っ赤になった頬で、由埜は嬉しそうに笑った。
由埜は何度も振り返った。すぐ斜め後ろを歩くわたしがいなくなるのを、心配しているみたいに。
駅を出てから十五分ほど歩いている間も、こぢんまりとした敷地いっぱいに建つ古びた一軒家の前で立ち止まった時も、「狭いけど、こっち」と隣家の壁との狭いすき間に踏み込んだ時も。
「祖母の寝室が玄関のすぐ横なの。起こすと面倒だから、裏の勝手口から入るね」
もはや振り返る余裕もないすき間の先を進みながら、由埜は申し訳なさそうに言った。
謝るのは私のほうだった。元日の翌日のこんな時間に、電話一本で友人の家に押し掛けるなんて、常識的な行動じゃないことはわかっている。
それでも由埜は「駅に迎えに行く」と即答したし、私はためらわずに電車に飛び乗った。
「……ありがと」
ささやき声が、雑草を踏み分けて進む由埜に届いていたかはわからない。
外壁に沿って直角に曲がると、凹んだ壁にのっぺりとしたドアが貼りついていた。由埜がそっと丸ノブを回して引っ張ると、音もなくドアが開いた。
「鍵、開けておいたから」
得意顔でささやき、由埜は私の背を押した。
しんと静まり返っている暗い家の中に、板張りの廊下がまっすぐに伸びている。「靴も持って行って」と耳打ちする由埜に頷いて、脱いだ靴を右手にぶら下げた。靴下で踏みしめた廊下は飛び上がりそうになるほど冷たく、古い家特有の埃っぽいにおいの空気も、冷蔵庫のようにしんと冷えていた。
「こっち」
私の横をすり抜けて歩き出す由埜の背を追いかけて、暗い廊下を忍び足で進む。
廊下の突き当りに、急こう配の狭い階段があった。空いている左手で足元を確かめながら、ほとんど四つん這いのようになって進む。時折ギシッと踏み板を鳴らしてしまい、その度に由埜と二人で息をつめた。
ほんの十数段の階段を上り終わった頃には、手にうっすらと汗をかいていた。
「はい、到着」
由埜は、階段を上って最初のドアを細く開けた。促されるままに、一人分のすき間をすり抜け、暗い部屋にそっと足を踏み入れる。
六畳ほどの広さの部屋の灯りは消されていて、カーテンの開いた窓から、電飾の光が差し込んでいるのが唯一の光源だった。窓に近づいてみると、裏手のコインパーキングの看板が眩しく光っていた。
「由埜の部屋?」
わかり切ったことを尋ねたのは、薄暗がりでも見て取れる違和感を覚えたからだった。
ピンク色に仔犬がちりばめられたファンシーなカーテンは、由埜の趣味とは思えない。プリンセス風の白塗りのベッドフレームに、紺色の地味な布団の組み合わせもちぐはぐだ。壁際の学習机は、白とピンクの可愛らしいデザインだがどう見ても小学生向けで、その狭い机に、数学や英語の参考書がずらりと積み上げられている。
「うん」
後ろ手にドアを閉めた由埜は、コートを脱ぎながら頷いた。太もも辺りまで覆うグレーのロングコートの下はくったりとしたベージュのパーカーで、もしかすると部屋着のまま迎えに来てくれたのかもしれない。
わたしもコートを脱ぐと、首筋にぞくっと震えが走った。暖房はついていないようだ。
と、ふわっとした感触がうなじに当たって、肩のあたりが一気に暖かくなった。
由埜が後ろから、毛布をかけてくれていた。
「ごめんね。この部屋、暖房つけるとすごい音がして、もったいないから早く寝ろって怒られるの」
わたしの手から回収したコートをハンガーにかけながら、潜めた声で由埜が言う。パーカーを羽織っただけの肩は薄く、頼りない。
「由埜は、寒くないの?」
「慣れてる」
あっさりと答えながら、ベッドの横にクッションを二つ、せっせと並べて、由埜は満足げに息を吐いた。
「お待たせ。ここ、座って」
そう言って、さっそく片方のクッションの上に体育座りした由埜の隣に、わたしも肩を並べた。ずるずると引きずっていた毛布の片方の端を、由埜の肩に回す。大きくて分厚い毛布は、わたしたち二人をすっぽりと包むのに十分だった。
「七星?」
きょとんとする由埜に、ぼそぼそとそっけなく答えた。
「ふたり、入れるから」
「……うん」
由埜は毛布の端を自分の肩に巻き付けて、はにかんだ。
わたしは脇に置いていたトートバッグからクリアファイルを引きずり出し、ファイルの中身を差し出した。
「それから、これ」
手書きのルーズリーフをコピーした紙の束。
亡くなった母が書き遺し、由埜と一緒に読み解いてきた物語の、四つ目だ。
由埜は紙束を一瞥してから、何かを問うようにわたしを見た。だからわたしも、誤魔化さずに謝罪した。
「遅くなってごめん」
今年の五月に由埜と出会い、夏に少し距離を縮め、秋に喧嘩らしいものをした後、わたしたちが一緒に過ごす時間は以前より増えた。それまでは、水曜日以外は学校が終わるとまっすぐ家に帰っていたのを、ほとんど毎日、由埜と二人で過ごすようになった。
だから、この物語だって、渡そうと思えばいつでも渡せたのだ。コピーを取ったのは数ヶ月も前のことだった。
そうしなかったのは、わたしのずるさだった。母の遺した物語に興味を持っている由埜が、「次」を催促せずにわたしと過ごしていることに、何処かでほっとしていた。
だけど、今日は──事前に約束していたわけでもないのに、真冬の夜に電話一本で駅まで駆けつけると即答した由埜に、不誠実でいるのは駄目だと思った。だから家を出る時に、咄嗟に鞄に突っ込んできた。
それなのに、由埜はそっと、わたしの手を押し戻した。
「いい」
「え?」
「あのね、七星」
由埜の猫のような大きな目に、窓から差し込む電飾の光が反射している。
「私は確かに、七星のお母さんの書いたお話を読むのが好き。お話の中に隠された謎を解くのは、もっと好き」
「うん、だから」
「でも、七星のほうが大事。今の七星をほったらかしてお話に飛びつくほど、馬鹿じゃない」
きっぱりと言って、由埜はじっと私を見た。
「話して。何があったの?」
「……容赦ないね」
思わず、笑ってしまった。
初めて会った時から、由埜はそうだった。母の遺した物語を読んで「闇が深い」とあけすけに言い放った、ほぼ初対面のクラスメイト。
本当に無遠慮で、デリカシーがなくて、お節介で。
わかってる? わたしたち、一応、思春期ってもののど真ん中にいるんだよ。人に悩みを打ち明けるとか、人の気持ちにずかずか踏み込むとか、そういうのを図々しく感じたり恥ずかしく思ったりして、こじれる時期なんだよ。
なのにどうして由埜は、こんなにまっすぐなんだろう。
「……何も、なかったよ」
だから、話そうと思った。
暗い部屋の端っこで、ひとつの毛布に包まって、まるでわたしたち以外誰もいないみたいな世界で、由埜がわたしの事情に踏み込みたいと言ってくれるから。
「何もなかったことに、されちゃったよ」
今年、母を亡くして二度目の正月を迎えた。
母が亡くなったのは一昨年の一月で、去年の正月は喪中だった。それにわたしが一年遅れの高校受験を控えていたこともあって、正月らしいことは何もせずに過ごした。母が生きていた頃は、年末から慌ただしかったのに──大掃除をして、玄関にしめ飾りをかけて、おせち料理を用意して。
それを思い出したのは、先月、店頭に並ぶおせちのチラシや鏡餅を見た時だ。
またあの季節が来るのか、もう来てしまうのかと、愕然とした。気が付けば、母の死からもうすぐ二年が経とうとしていた。その間も世の中は平常運転で進んでいて、わたしもそこに戻らなければならないのだと突きつけられた気がして、息苦しさがこみ上げた。母のいない日常には慣れたつもりだったが、こういうイレギュラーの度に、不意打ちで思い知らされる。
結局、正月飾りもおせちも鏡餅も準備しなかった。大掃除だけは少しずつ済ませたけれど、それだけだ。父も特に何も言わなかった──そもそも母が生きている時から、父は家庭内の差配に興味を示したことがない。
だから、今日の夕方になって突然「実家に新年のあいさつに行く」と言われた時は、「何のことだっけ」と一瞬戸惑った。父の実家は電車で一時間ほどの場所にあり、毎年一月二日に日帰りで新年のあいさつに行くのが習慣だったことを、少し遅れて思い出した。去年は喪中なので行かなかったけれど、そういえば母は毎年この日に備えて、新しい服や靴を準備してくれていた。もちろん、今年は何の用意もない──また、胸がぎゅっと苦しくなった。
父はわたしの戸惑いに構うことなく、「早く支度をするように」とだけ言った。父の命令口調は、いつものことだ。父が休日でも襟のあるシャツとプレスされたズボン以外を着ているのを見たことがないし、寝ぼけた姿も酒に酔った様子も知らない。髪は伸びすぎることも短くなりすぎることもなく、眼鏡の奥の目は感情に昂ることがなく、声を荒らげることもなければ感動に震えることもない。
昔から、父はそういう存在だった。一定で、不動で、何も響かない。
だからわたしは、とりあえずそつがないだろうと選んだ制服姿で、父の両親が住む実家に連れていかれた。そこでは、何もかもがいつも通りだった。やたら広い敷地の平屋の一軒家。門前に仰々しく飾られた門松の横を、スーツや着物で盛装した大人たちが何人も行き来していた。
父方の祖父は何処かの大学の偉い教授で、ついでにそのあたりの地主でもあるらしく、正月に来るといつも賑わっていた。普段からそうなのか、それとも正月だからなのかはわからない。父は実家と疎遠で、年に一度の新年の挨拶以外、訪れることがなかった。
父とわたしは客間に通され、いかめしい顔をした祖父と、やたら高い笑い声をあげる祖母とあいさつを交わした。「あけましておめでとうございます」と。父も平坦な声で「おめでとうございます」と返した。
それから祖父は、父に仕事の成果や景気の先行きについての見解を尋ね、祖母はわたしの成績について問いただした。どの質問にも父が淡々と答え、わたしに発言の機会は与えられなかった。
ふっと会話が途切れた時に、祖母はまるで今気が付いたかのように言った。
「そういえば、あの人が亡くなってもうしばらくね」
わたしは内心、ドキリとした。母の話題が出たのは、その日これが初めてだった。
祖母はちらりとわたしを見て続けた。
「独り身は不便でしょ。早く次をもらいなさいな」
──次って、何。