鬼神王の戦女神
木漏れ日の綺麗な山道を上っていく。
五月らしい明るい陽光が降り注ぎ、穏やかな風に新緑がさわさわと心地よく鳴る。最初は涼しく感じていたが、歩き続けるうちにうっすらと汗をかいてくる。車二台がぎりぎりすれ違えるくらいの道には、車の音も人の気配も感じられない。
何しろ、都心から在来線で二時間以上──新幹線を使っても最短で一時間半はかかる中途半端な田舎町だ。しかもこの山の上にあるのは、広大な墓地と管理事務所だけ。盆でも彼岸でもないゴールデンウィーク明けの平日に、この道を上る人がそうそういるはずもない。
足元のアスファルトは、ところどころひび割れて凸凹している。だんだんと勾配がきつくなる坂道に、自分の呼吸と鼓動ばかりが響いている気がする。
その先に、由埜が立っている。
一見、突き当たりと錯覚するような急カーブ。周囲より明らかに新しいガードレールの足元に、供えられた花束。
息を切らして立ち止まったわたしに気が付いた由埜が、こちらを見て微笑む。長い黒髪を優雅に垂らし、汗一つかく様子もなく、まるで映画のワンシーンのようにセリフを紡ぐ。
「待ってたよ、七星。綺麗なところだね」
うららかな景色にも、由埜本人にもちっとも似合わない黒いワンピースは、由埜なりに気を遣った結果なのだろうか。
ここは、わたしの母が最期を迎えた場所だから。
高校生活で二度目の春を迎え、わたしたちは無事に二年生に進級した。
新たに足を踏み入れた教室に渦巻くのは、新しい環境への期待と緊張、そして焦りだ。教師の説明では三年生から進路別にクラスが分けられるとのことだったが、今回から既に成績順に選別されているのではないかという噂が流れるくらいには、皆受験を意識し始めていた。一応進学校を名乗るこの高校ではほとんどの生徒が進学の道を選ぶし、一年生の終わりには進路希望表も提出させられた。
将来のことなどまだ何も考えられていないわたしは、とりあえず無難に「私立文系」と記入した。父は基本的にわたしに無関心だが、いずれ何処かで話はしなければならないだろう。ままならないことに、わたしはまだ自立できない子どもなのだ。
憂鬱なことは、もう一つあった。由埜とクラスが分かれてしまったことだ。通学や休み時間はお互いの教室を行き来して過ごしているけれど、学校生活の大半を授業が占めている以上、一緒に過ごす時間はどうしても減ってしまう。
とはいえ、意外にも由埜はこの状況が気に入ったらしかった。教科書を貸し借りしたり、先にミニテストを受けたほうが問題を教えたり、「違うクラスだからできること」を楽しんでいる。少し前の由埜なら拗ねるばかりだっただろうに、立場が逆転したようで少し悔しい。
都合の良いことに、三月に入った頃から、父は仕事の関係で出張が増えた。それを知った由埜は、父が不在の日にはほとんど毎回泊まりに来るようになった。「七星といっぱい一緒にいられる」と、由埜は無邪気に笑う。由埜が喜ぶならわたしも嬉しいけれど、同時に気がかりなこともあった。
由埜は気付いていないのか、それとも気にしていないだけなのか。一年の時に同じクラスで仲が良かった畑野真衣やその友人たちが、最近ではほとんど話しかけてこないことに。
ちなみに真衣は今、わたしの元カレである日比谷穂高と付き合っている、らしい。最初はそのせいで距離を置かれているのかと思っていたが、そうではないことを、新学期が始まって数週間で理解した。
わたしと由埜の関係は、周囲全般から遠巻きにされつつあった。
あからさまに何か言われたりすることはないけれど、由埜と話している時は誰も近づいてこないし、お互いのクラスの前で待ち合わせをしているのをちらちら見られたりする。髪が伸びたわたしは、制服のスラックスをはいていても男子に間違われることはなくなったけれど、だからこそ悪目立ちしているのかもしれない。
わかっている。わたしと由埜の関係が近すぎること──それは隣に並んだ時の肩が触れ合うほどの近さだったり、ふとした時に理由もなく相手の髪や袖に触れる仕草に、どうしても表れてしまう。
わたしたちにとっては、当たり前のことなのだけれど。だって、「家族よりももっといいもの」になると約束したのだから。
けれど、それがあまり一般的とはいえない関係であることを、わたしは自覚している。友情にも恋愛にも当てはまらない、異質なつながりと見なされることを。
由埜はどうだろう? 「私の好きは一種類しかない」と言い切るくらい、由埜の情緒は偏っている。
その無鉄砲な無垢さが、愛おしかった。由埜に嫌な思いをしてほしくなかった。
わたしたちはこれからもずっと一緒にいられるんだと、信じていたかったのに。
「七星、制服のまま来たんだね。補導されちゃうよ」
由埜はガードレールに浅く腰かけて言った。その向こうには、日の入らない薄暗い藪と、底の見えない谷が広がっている。そこに背を向ける勇気を持てなくて、わたしは由埜の前に立ったまま答えた。
「何も言われなかったよ。コスプレだと思われたんじゃない」
「まさかあ」
ころころと、由埜は何事もなかったかのように笑う。
わたしは──笑えない。笑えるはずもない。
「何で由埜がこの場所、知ってるの? 話した覚えないんだけど」
それどころか、母が亡くなった場所に足を運んだのさえ初めてだった。あの日、警察から連絡を受けて駆け付けた時にはもう、母は病院の地下の固い台の上に横たわっていたから。
それから二年が経つ間も、ずっと見て見ぬふりをしてきた。いつか行かなければと思いながら、受験や高校生活の忙しさを理由に先延ばしにし続けていた。
その代償のように、今こうやって、強引に引きずり出されている。
「ネットで調べたの。事故の日付と大体の地名で、簡単にヒットしたよ」
飄々と言う由埜に、語気を強める。
「本当に? わたしもネットで検索したけど、出てこなかったよ」
母を乗せたタクシーは、この坂道を上っている最中、カーブを曲がり切れず、老朽化したガードレールを突き破って転落した。母と運転手の個人的な関係を知る由もない警察は、後部座席に花束が積まれていたこともあって、墓参りに向かう途中で起きた不幸な事故だと判断した。
狭い町ではめったにないこととはいえ、ただの交通事故として処理されたのだ。現場の詳しい場所も実名も報道されなかった。
由埜がその情報を手に入れた方法は、おそらく。
「父の書斎で、調べたんじゃないの?」
母の死に関する書類や記録は、すべて父が書斎に保管しているのだ。
由埜は、「うん」とあっさり頷いて言った。
「だって仕方なかったから」
父の書斎に鍵はかかっていないが、わたしでさえ勝手に出入りしないことが暗黙の了解になっている。だから書斎にはめったに近寄らないし、そもそも由埜にとっては他人の家だ。相変わらず、予想外のことをしてくれる。
「でも、ちゃんと全部もとに戻したよ。事故関係の書類はひとつにまとまってたから、他のところには触ってないし。お父さん、何も言ってなかったでしょ?」
けろっとした顔で言い訳を口にする由埜は、反省しているようには見えない。ため息交じりに言い返す。
「そんなことまでして調べようと思ったのは、あれを見つけたから?」
「うん、もうばれちゃった」
案の定、由埜は無邪気に笑って、肩に提げた大きな鞄からルーズリーフの束を取り出した。
ああ、やっぱり。
あれは、母が遺した物語の最後の一つ。
由埜には、その存在すら隠していた物語だ。
由埜とわたしは去年の春からずっと、母が遺したおとぎ話を読み解いてきた。砂の国の女王の死の真実、雪の里の双子が選んだ運命、蛇の娘と時計塔の男が迎えた結末、道化と王の交わらなかった心を。
そして、前回の物語を解き明かしたあの寒い夜、わたしは由埜に言った──これで、母の遺した物語は終わりだと。それ以来わたしたちの間で、母のおとぎ話が話題に上ることはなかった。
そのまま、隠し通すつもりだったのに。
「……それを持ち出したのは、一昨日泊まりに来た時?」
由埜がやたらとうちに泊まりたがるようになったのは、クラス替えが近づいて不安になっているせいだと思っていたけれど、目的があったのだ。
思い返せば、昨日の由埜は少し変だった。いつもは、泊まった翌日も何かと理由をつけて昼過ぎまで居続けるのに、あの朝はすんなりと帰っていった。
「そう。お話自体はもう少し前に見つけてたけど、いろいろ準備があったから」
持ち主に黙って持ち出したというのに、由埜は悪びれる様子もない。むしろ、いたずらの成果を試すように、上目遣いでわたしを見る。
「七星は、いつ気付いたの?」
「昨日の夜」
わたしの部屋の本棚の一番下の一番端、大判の図鑑や資料集のかげに押し込んであったファイルケースの中を確かめたのは、気まぐれだった。
母が遺した物語。由埜と「約束」をしてからは見ることもなくなっていたそれを、ふと思い立って見てみる気になった。それは、何かの予感だったのかもしれない。
物語がひとつ足りないことに気が付いた時、急激に口の中が乾いて、背筋が冷たくなった。ドンドンとうるさいのは、自分の心臓の音だった。
まっさきに父が持ち去った可能性を疑って、すぐに否定した。もし父がこれを見つけたとしても、そのまま放っておくか、母の遺品であることを事務的に確認してくる程度だろう。
だとしたら、これを持ち出せるのは──由埜しかいない。
電話やメールでは、とても聞けなかった。次の日に学校で、由埜にそれとなく確かめてみようと思った。
そして今朝学校に行ってみたら、由埜は欠席だった。いてもたってもいられずに送ったメールの返事は、この場所の写真と地図だった。
そして、「待ってる」という一言。
だからわたしは、ここに来た。
「何で、こんなことしたの?」
短く尋ねると、由埜もきっぱりと答えた。
「七星のためだよ」
手に持った物語を。誇らしげに掲げて。
「七星のために、これの謎を解いてあげる」
美しく微笑む由埜の長い髪を、不意に吹き付けた強い風が乱す。
その手の中でパタパタと音を立てる物語の書き出しを、わたしは諳んじることができる。
***
「鬼神王の戦女神」
まるで鬼のように強く、神のように無慈悲な王であったと言われています。
鬼神王ディアブロの名を前に、震えあがらぬ者は少ないでしょう。かの有名な「血の巡礼」が起きてからすでに三十年が経っていますが、その残虐で悲惨な顛末は、まるで昨日のことのように語り継がれています──鬼神王の餌食となった貴族の館では、病床に伏した老人からゆりかごの乳飲み子まで、その刃の前に生き延びた者は一人もおらず、鬼神王が歩いた跡は滴る返り血で辿れるほどであった、と。
けれども私の母は違いました。母は鬼神王の名を耳にすると、怯えたり眉をひそめたりする代わりに、決まって何処か悲し気に微笑んだものでした。
そのわけを知ったのは、母が亡くなったあとのことです。
当時の私は、やっと十歳になったばかりでした。親族たちは皆優しく親切でしたが、父を知らない私にとって、母との別れは耐えがたい悲しみでした。いくら「大往生だった」と慰められたところで、二度と母の温かい手に頬を撫でられることも、しわがれた声で「メグ」と呼びかけられることもないのです。私は母にもらった「メグレズ」という名をもちろん愛していますが、母にだけ呼ばれる「メグ」という愛称は、また特別なものでした。あれから二十年経った今でも、私をメグと呼ぶのは母だけです。
母との思い出に涙して溺れそうになっていたある日、私は母が書いた古い手記を見つけました。そこに綴られた過去を読んで初めて、私は母の微笑みの理由を知りました。
母──ウェーリ・クロノは、かの鬼神王に仕えた下女だったのです。
鬼神王は、大陸の歴史上で最もドラマティックな軌跡を辿った王といわれています。彼は十七歳で成人し、二十一歳で父を亡くして、辺境のインフィエルノ伯の地位を継ぎました。彼は妾の子で、正妻にはすでに三人の男の子があったので、継承争いからは完全に外れていました。幼い頃は母親ともども虐げられ、家畜小屋に寝起きし、羊とえさを奪い合って育ったと言われています。けれども、三人の兄が原因不明の病や謎の事故といった奇禍に次々と見舞われて、ついに彼は遠かった権力の座に就きました。
そこから、貧しい妾の子の運命が動き始めました。名ばかりの弱小貴族の地位を継いだ青年は、わずか十年足らずで、大陸の三分の二を占める大帝国を築き上げます。当初は若造の無謀な戦を鼻で笑っていた周辺諸国も、次々と攻め滅ぼされ、帝国に膝を屈していきました。
けれども鬼神王は、帝国を手にしたわずか一年後に、その全てを失ったのです──あの虐殺劇、「血の巡礼」事件によって。
それ以前にも、この若き王は異常なまでの冷酷さを見せる事が度々あったと伝えられています。例えば北斗歴三十九年、まだ無名だった鬼神王の名を轟かせた、無敵の要塞と呼ばれた城塞都市・トールの攻略。鬼神王の要求と脅しを鼻であしらったその街をひと月足らずで攻め落とすと、王は住民全員の首を刎ねるよう命じました。激しい籠城戦の末に生き残っていたのは非戦闘員の老人と女子どもばかりで、彼らは涙ながらに命乞いをしましたが、鬼神王は顔色一つ変えませんでした。二十人を斬ったところで処刑人の腕が痺れ、血と脂に濡れた剣が使い物にならなくなると、王は自ら剣を振るいました。刑場の土は泥のように赤く湿り、半月もの間、乾くことがなかったと語られています。
また、鬼神王は降伏した街での略奪を禁じ、その命に背いた兵士は手足を縛り四頭の牛に曳かせて八つ裂きにするように定めていました。この刑は確認できるだけで十数回執行されており、当初は見物人が集まって大変な騒ぎになったそうですが、やがて人気のない荒地で行われるようになりました。あまりの残虐さに耐えかねた民が、刑場を街の外に移すよう求めたからです。
こうして並べてみるとにわかには信じがたいことばかりですが、私が子どもの頃は、「鬼神王の戦いをこの目で見た」という元兵士も少なくありませんでした。彼らは皆一様に青い顔で、鬼神王の恐ろしさを語りました。鬼神王は鋼鉄の意思を持ち、情というものを知らない男であった、と。そして必ずこう言い添えるのです──トゥーテオが彼の良心だった、と。
トゥーテオは、鬼神王の副官として、どの逸話でも登場する騎士です。トゥーテオというのは古い言葉で「我が友、親友、腹心」という意味の呼び方なので、おそらく本名では無いでしょう。しかし鬼神王はこの騎士を常にトゥーテオと呼び、騎士もそう名乗りました。
トゥーテオは背が高く、人の好い優しげな風貌であったそうです。しかし一度戦場に出れば、誰よりも多くの返り血を浴びて戦果を上げる最強の騎士であり、味方にとってはこの上なく心強い守護神でした。「鬼神王あるところにトゥーテオあり、トゥーテオあるところに敗北なし」と称えられ、付いた通り名は「鬼神王の戦女神」──そう、トゥーテオは、どんな男よりも腕が立ち、誰よりも鬼神王に忠実な女騎士でした。戦場の敵には一切容赦しませんでしたが、前述のトールの住民の処刑の際、三十人が処刑されたところで王を諌め、それ以上の死を防いだのはこのトゥーテオであったと伝えられています。
鬼神王とトゥーテオの関係を物語る有名な逸話が、北斗歴四十四年のテヴィディア公国との戦いです。公国は幸運にも(あるいは不幸にも)、鬼神王の副官を捕えることに成功しました。この時鬼神王は、公国の首都ティエルに猛攻を加えていました。公国は、「ティエルから兵を退かなければ副官を公開処刑する」と宣告しました。鬼神王のもとには、ぼろ布一枚をまとって檻に入れられたトゥーテオとそれを取り囲む猛獣を描いた絵が送られてきました──七日と待たず猛獣たちは檻を破壊し獲物を貪り食うであろう、それとも獲物が餓死するのが先か、という残酷な文言と共に。
鬼神王は返書よりも、火と刃を選びました。わずか五日間でティエルを草木も生えぬ焦土に変え、テヴィディア公とその将らを生きたまま獣に食わせたのです。
助け出されたトゥーテオは、見るも無残に痛めつけられ瘦せこけていたといいますが、鬼神王の姿を見ると気丈に微笑んで、膝をついて頭を垂れました。鬼神王は何も言わず、ただ己の上着を投げ与えました。王はトゥーテオが生き延びると信じて戦を続け、トゥーテオは王の勝利を信じて待った──二人の信頼に、言葉は不要だったのです。これは鬼神王の伝説の中でも珍しく、人気のあるエピソードです。
けれどこの忠義の騎士は、突如として戦場から姿を消すことになります。北斗歴四十八年、鬼神王が、トリステン地方の領主マーロウ公とトゥーテオを政略結婚させたからです。これによって、鬼神王はついに大帝国を完成させました。そして数年後に「血の巡礼」が起き、鬼神王の異様な残虐ぶりを恐れた貴族たちの反乱で、帝国はあっけなく崩壊するのです。
母・ウェーリの手記には、その前夜に起きたことが語られていました。冒頭にはこう記されています──「あの夜のことは、誰にも打ち明けることができず、さりとて自分の胸におさめておくにはあまりにつらく、ここに記すことにしました。書き上げたら、ひとに見られる前に焼き捨てるつもりです」と。
当時の母がいったい何を見たのか、何故手記を焼かずに取っておいたのか──私が覚束ない言葉で語るよりも、これから引用する母の手記を読んでほしいと思います。