北極星の道しるべ
くだらない昔話を口走るところだった。
勤務先のクリニックが入っている商業ビルの休憩室で、同僚とともに短い昼休憩を過ごす間の、たわいない雑談だった。暇さえあれば──時には仕事中にもこっそりと──スマートフォンを触らずにいられない同僚の目下の関心事は、SNSで炎上している某インフルエンサーの整形疑惑だった。
「でもさ、今どき、整形も加工も別にフツーじゃん。七星ちゃん、百パー天然物の美人なんて会ったことある?」
短いが華やかなジェルネイルで彩られた指先で画面をスクロールしながら、同僚はつまらなそうに言った。彼女は先日、鼻の整形のために親に金を借りようとして大反対されたとふてくされていた。
そうだね、無課金無加工の美人なんているわけないよね──と望み通りの答えを返そうとしたのに、何故だか口はまったく違う言葉を吐き出していた。
「あるよ」
「えっ」
同僚が勢いよく顔を上げたので、慌てて言い添える。
「でも、昔の話だし、思い出補正かかってるかも。高校生の時だから、十年くらい前だし」
「ふーん……あ、やばっ、また推しが炎上してる!」
幸い、同僚はすぐにSNSの世界に戻っていった。ほっとして、残り少ないアイスコーヒーをすすった。
十年──もう、そんなになるのだ。由埜と、最後に会ってから。
高校二年の春、わたしたちは決別した。
というより、わたしが一方的に拒絶した。それより前にも由埜と喧嘩をしたことはあったけれど、その時と違ったのは、関係を修復する時間が与えられなかったことだった。
高二の夏休みを迎える前に、由埜は転校した。同居していた祖母が急に亡くなり、母親に引き取られて引っ越すことになったのだと、ホームルームで担任教師から聞かされた。由埜は一度も教室に現れることなく学校を去り、もちろん別れのあいさつも何もなかった。携帯の番号とメールアドレスは知っていたけれど、結局、連絡はしなかった。
わたしはそのまま高校を卒業し、近場の中堅私立大学に進学し、都内で就職した。その間に何度も携帯を機種変更し、通信会社を乗り換えるうちに、由埜とやりとりしたメールや撮りためた写真のデータは何処かに失われた。だから、わたしが思い出せる由埜の顔がどれくらい正確なのか、確かめることはできない。似顔絵を描けと言われても無理だと思う。
ただ、覚えている。
あの子はわたしを絶望させるようなことをしでかした瞬間でさえ、綺麗だった。それは顔貌だけのことではなく、十代の若者らしい残酷で無神経なまっすぐさを含めて。無鉄砲な若さを美しいと思うのは、歳を取った証拠と言われればそれまでだが、わたしだって気付けばもう立派なアラサーなのだ。それなのに、あの子と過ごしたたった一年のことを、ふとした瞬間に思い出してしまう。まるで幼子が、お気に入りの絵本をボロボロになるまで何度も読みたがるように──結末が変わるわけでもないのに。
「……そろそろ、戻ろうか」
同僚を促し、コンビニの袋にゴミをまとめる。同僚も渋々、スマートフォンをポケットにしまって立ち上がった。ビル内に休憩室があるおかげで、一月という真冬の季節でもコート要らずなのはありがたい。
休憩室の向かいにある従業員用の無骨なエレベーターに乗って、最上階へ向かう。ドアが開くと、目の前には白い廊下が一直線に延び、耳鼻科や眼科などのクリニックがずらりと並んでいる。壁紙の淡いブルーと小さく流れるヒーリングミュージックも病院独特の清潔感と緊張感は隠しきれない。その廊下の突き当たりに、わたしの勤め先のメンタルクリニックがある。
更衣室のロッカーに貴重品を仕舞って、持ち場の受付に向かった。生成り色のインテリアで統一された待合室に患者の姿はなかったが、電話番のために残っていた遅番の後輩が、強張った顔でわたしを見た。
「蔵内さん、あの、ここはいいので、診察室Bに行ってください」
「え、なんで?」
大学では一応心理学部を卒業したものの、わたしの仕事はあくまで事務だ。診察には関わったことがない。
後輩は、隣に座った同僚を気にしながら、ささやいた。
「警察、来てるんです」
「警察?」
思わず声が大きくなるのを何とか抑え込むと、後輩は頷いた。
「さっき、院長と話してるのが聞こえて……カイゼヨシノさんのことで、って言ってました。変わった名前ですけど、知ってる人ですか?」
「海瀬、由埜」
──その名を口にしたのも、きっと十年ぶりだった。
冬は日が暮れるのが早い。
一人暮らしの狭い1Kの部屋は、まだ夕方と言っていい時間なのにすっかり真っ暗で、それでも自分の城に戻ってきたことにほっとした。鞄を放り出し、ソファ代わりの巨大なクッションに倒れるように座り込む。
あの後、急きょ午後半休をもらい、診察室Bで待っていた二人組の警察官と話をした。まるでドラマのような年配と若手の二人組の刑事たちは、警視庁から来たという。それは由埜の住民票が都内にあるからで、「事件」は他県で起きたものだと説明された。
正直、理解が追いつかなかった。そもそも由埜が都内に住んでいることも初めて知った。転校したのだから、もっと遠くに、少なくとも他県に行ったものだとばかり思っていた。
その上、由埜は何かの「事件」に関係していて、そのことで刑事が話を聞きに来ている。十年も前から疎遠になっているわたしに、わざわざ。
いくらなんでも、情報量が多すぎた。この時点で充分混乱していたのに、「事件」が起きた場所を聞いて更にあぜんとした。
その場所は、あの山道のカーブ── 十二年前、母が死んだ場所だったから。
三日前の深夜、由埜はあの事故現場の、ガードレールの向こう側の斜面で倒れているところを保護されたそうだ。衣服は着ていたものの、スマートフォンや財布といった貴重品類はもちろん、鞄も持っていなかった。全身は泥まみれで、頭からひどく流血していたという。
真冬の深夜の山中で意識を失っていた由埜が大事に至らずに済んだのは、誰かが救急車を呼んだからだった。駅前の公衆電話から、男の声で一一九番に連絡があったが、名乗らず、現場にも人影はなかった。
医師の診察によると、由埜は現場の急斜面を転がり落ちて頭を強く打った可能性が高いらしい。ガードレールからは血痕が見つかった。諸々の状況から事件性が疑われたため、警察は病院で治療を受けた由埜に事情を聞いたが、答えは得られなかった。
由埜は、直近の数週間の記憶を失っていた── 少なくとも、そのように主張したのだ。
逆行性健忘。いわゆる記憶喪失だった。治療法は確立されておらず、失った記憶が戻る保証はない。
被害者である由埜から情報を得られず手詰まりと思われた時、ある刑事が、同じ場所で起きた交通事故のことを思い出した。母とタクシー運転手が死んだ、十二年前の事故だ。
試しに調べてみると、共通点は場所だけではなかった。由埜は治療を受けている間、意識がもうろうとした状態で、「ナナエ」という名前を何度か口にしていた。それが事故の遺族の名前であることがわかり、刑事たちがわたしに話を聞きに来たのだった。
年配の刑事は、事件と事故の両面から慎重に調べを進めていることを告げた上で、穏やかな、しかし拒絶を許さない口調で尋ねてきた。由埜とは親しかったのか。最近連絡を取ったか。三日前の夜は、何処にいたのか。
そこまで聞かれれば、混乱したわたしでもさすがに察しが付いた。要するに、わたしは容疑者候補のひとりだったのだ。
幸い、その夜は近所のダイニングバーで外食していた。一人だったが、なじみの店員は覚えているはずで、いわゆるアリバイが成立する。刑事たちもそれ以上突っ込んでこなかった。
由埜とは高校以来連絡を取っていないと話したせいか、刑事は簡単に由埜の近況を教えてくれた。大手銀行の総合職として働き、優秀と評判で、部下からは慕われ上司からは頼りにされて、誰からも好かれていた、と。
そうですか、と相槌を打ちながら飲みこんだ違和感は、悟られずに済んだだろうか。
慕われて、頼りにされている? 誰からも好かれる? おまけに銀行員だって?
わたしの知っている由埜は、そんな優等生らしい子ではなかった。頼られるというよりは物珍しいマスコットとしてかわいがられ、結局は異質な存在として遠巻きにされていた。そもそも、あの子が部下だの上司だのという、ごく普通の職場環境に適応して働いている姿を思い浮かべられない。ましてや、銀行なんていうお堅い業界で。
わたしの知っている由埜は──あの日、あの山道で、謎解きにこだわってわたしの気持ちを無遠慮に踏み荒らした十七歳の姿で止まっている。あれから十年にもなるのだから、もちろん、由埜が変わっていてもおかしくないのだけど。
そうやって一通り話をした後、刑事たちは、由埜が見つかった時に両腕で抱え込んでいたという本の写真を見せて、心当たりがないかと尋ねてきた。
それは、『星座ものがたり』というハードカバーの古びた単行本だった。一般向けに書かれた星座と神話の解説書で、その中に、ルーズリーフの紙片が挟まっていたそうだ。
「生まれてきてごめんね お母さん 今から消えてあげようか?」と、見覚えのありすぎる筆跡で書かれた古い紙きれ。
明らかに動揺したわたしを、刑事たちが見逃すはずもない。気は進まなかったが、説明するしかなかった。その紙片は十二年前にわたしが母に宛てて書いたもので、その後の行方は知らないこと。どうして由埜が持っていたのかも、もちろんわからないこと。
刑事たちからはそれ以上は問い詰められることもなく、わたしは解放された。
由埜が入院している病院を聞かなかったことに気が付いたのは、帰り道の途中だった。
他意はなかった。単純に、混乱していて聞き忘れてしまっただけだった。
十年前、確かにわたしは本気で由埜に怒っていたし、失望していた。連絡もなしに姿を消した時には、逃げ出したんだと思って軽蔑し、携帯電話に登録された連絡先を見る度に苛立った。消さなかったのは、そうすること自体があの子を意識している証拠のようだというひねくれた思いからだった。
今思えば、幼稚で馬鹿馬鹿しい意地だったと思う。先に由埜を突き放したのは、わたしだったのだ。だけど当時のわたしには──母の死を飲み込めず、父に心を開くことができなかった十七歳のわたしには、由埜の存在が唯一の頼りだった。だからこそ、由埜が何も釈明せずに姿を消したことに傷ついた。
ただ、その感情が同じ熱量でずっと続いていたかと聞かれれば、それも違う。
当時爆発した怒りは、わたしの心にクレーターのような痕をくっきりと残した。けれど熱は少しずつ冷めていって、心は凹んだ形のまま、溶岩のように静かに固まった。
それはまるで落とし穴だったが、不便はなかった。そこに穴が空いていることはわかっているから、目をそらしたままでも足を取られずにいられたし、時々思い出すことはあっても、すぐに背を向けて遠ざかった。そうやって過ごしてきた十年だった。
──そう、嘘は、吐いていない。
あの子とはもう十年、会っていないし連絡したこともない。こんなことに巻き込まれているなんて知らなかった。刑事たちが帰った後、まるで虫の知らせのように、携帯のメールボックスを確認するまで。
少し前から急に迷惑メールが大量に届くようになり、受信拒否の設定も面倒なので、メールチェックもせずに放置していた。大学の友人や職場の同僚とはメッセージアプリでやりとりするから、問題はなかった。
だけど、高校生の時、わたしはまだスマートフォンを与えられていなかった。だから由埜とのやりとりには携帯のメールを使っていた。そのアドレスと電話番号しか連絡先を知らないまま、わたしたちは離れ、そのまま関係は途切れたはずだった。
手を伸ばし、放り出した鞄からスマートフォンを引きずり出す。メールボックスを開き、迷惑メールを削除してすっきりとした受信ボックスの、一番上に表示されたメールを開く。
十日前、由埜からメールが来ていた。
***
〈件名〉
待ってる
〈本文〉
来週、七星のお母さんの命日に、事故現場で待ってる。見せたいものがあるの。
メラクとドゥベを見つけたよ。
***
十年ぶりの、あんな別れ方をしてから初めての連絡が、これだ。
「やっぱ嘘でしょ」
つい声が漏れた。これが、「職場で誰からも好かれる優秀な人間」の打つメールだろうか。一方的に約束を押し付けて、時間の指定も、ろくな説明もない。
母の命日は、三日前だった。その日、わたしはひとりで過ごしたくなくてダイニングバーに出かけ、由埜はあの事故現場でわたしを待っていて、何かに巻き込まれた。
「見せたいもの」とは、あの古い紙片のことだったのか。それとも、もっと別の何か? そもそも由埜は、あれを何処で手に入れた?
このメールが今回の由埜の「事件」と直接関係しているとは限らないけれど、やはり警察には話しておくべきだろう。
刑事に渡された名刺が鞄の内ポケットに入っていることを思い浮かべながら、わたしは手を伸ばす代わりに、スマートフォンの検索ブラウザを立ち上げた。
「逆行性健忘」と入力して検索する。病気や怪我が原因で、昔のことを思い出せなくなる障害。失われる記憶は近い過去のことが多いが、稀に生まれてからのすべてのことを──自分が誰かということさえ忘れてしまうこともあるという。期間の長さにかかわらず、失われた記憶は戻ることも戻らないこともある。
警察が事件を解決したところで、由埜は思い出すだろうか。どんな思いで、どんな意味を込めて、このメールを送ってきたのか。
メラクとドゥベはどちらも、北斗七星を構成する星の名前だ。母が書き遺したおとぎ話の中で登場しなかった、最後の二つ。
由埜は今さら、何を見つけたのだろう。何を伝えたかったのだろう。
スマートフォンの画面を切り替えて、カレンダーを表示する。今日は金曜日。明日の土曜日はクリニックの営業日だが、わたしは非番だ。
──一日だけ、自分に時間を許そうと決めた。
明後日になったら必ず警察に連絡して、由埜が持っていた紙片のことや十年ぶりに届いたメールのことを話す。その時に入院している病院のことも尋ねよう。
それでようやく──中途半端になっていたこの物語を、終わらせられるだろう。
翌朝はどんよりとした曇り空で、呼吸するだけで鼻の奥がつんと痛むほどの寒さだった。久しぶりに、仕事でもないのに早起きをして家を出た。
目的地に向かう電車の中で、段取りを整理する。
わたしは、由埜が巻き込まれた(かもしれない)事件を解決しようとしているわけではない。あくまで、わたし自身に関わる謎の答えを明らかにしたいだけだ。むやみな謎解きがひとを不幸にしかねないことは、身をもって知っている。
由埜がメールで告げた「見せたいもの」が、本に挟まれていたあの紙片である可能性は高い。ではいったいどういう経緯で、あれが由埜の手に渡ったのか?
事故の前にすでに母の手を離れていたなら、その行き先を探るのは難しい。しかしもし、事故の時点で母があれを所持していたのだとしたら、遺品として扱われたはずだ。
事故の後、母の遺品を受け取ったのは、当時未成年だったわたしではなく、父だった。となれば、わたしが向かうべき場所はひとつだ。
電車の窓から、見慣れた景色が見え隠れする。大学卒業と同時に一人暮らしを始めるまで二十年以上使い続けていた馴染み深い駅で、電車を降りる。通い慣れた道を辿れば、目的地まではすぐだ。今は父がひとりで暮らす家。
鍵は持っているが、あえてインターホンを押した。わたしの部屋もまだ残されているが、帰省らしい帰省をしたことはない。年に数回、日帰りで立ち寄る程度では、訪問という言い方のほうがふさわしい気がする。
呼び出し音がしてまもなく、玄関の扉が開き、ワイシャツにスラックス姿の父が出てきた。
「早かったな」
「時間通りだよ」
定型句のあいさつよりも意味のない会話だな、と思う。あるいは父の言葉は、年末に顔を見せてから一ヶ月もしないうちに再び訪問したことを指しているのかもしれなかった。
家の中に戻る父のあとについて、靴を脱いで上がり込む。家の中は片付いているが、リビングに干された一人分の洗濯物や台所のシンクに置かれた鍋に、かすかな生活感が感じられた。
少しだけ、父は変わった。昨年会社の定年を迎えた時か、その前年に両親を相次いで病気で亡くした頃からか。
定年後も子会社に出向して働いてはいるが、以前のような激務ではないようだ。休日もワイシャツを着る生活は相変わらずで、けれど今目の前の父が着ているのは、わたしが退職祝いに送った形状安定素材のノンアイロンシャツだった。どうせ休みの日もワイシャツを着るんだろうと、半ば皮肉で選んだ品物だ。現役時代はアイロンのかかったシャツしか着ず、母の死後はシャツ一枚でもクリーニングに出していた人だから、ノンアイロンシャツなど邪道だと無視されるかと思っていたのだが。父は家でも何処かピリピリした緊張感を保っている人で、話しかける時はひどく気を遣ったものだった。
リビングのソファに、ローテーブルを挟んで向かい合って座る。あんなに近寄りがたかった父は、いつの間にか、少し猫背になり痩せたように見えた。
岩のように頑なで変わらない人だと思っていたけれど、時が経ってそうではなくなったのか。それとも、わたしに見えていなかっただけだろうか。
「それで、何の用だ」
素っ気ない口調は昔のままだと思いながら、わたしも単刀直入に返した。
「警察が来た」