蛇の娘と時計塔の男

 

 真っ青な空に、かすれた白い雲が浮かんでいる。
 天高く馬肥ゆる秋——。
 昔、国語の教科書で見かけた慣用句を思い出す。残念ながら現代の町中で馬が太る余地はないだろうけれど、空は変わらずに頭上高くに広がっている。
 まあ、あれは偽物なのだけれど。
 わたしは椅子の背にもたれていた体を起こし、天井を見上げていたせいで痛む首筋をさすった。すぐ横の通路では、足取りの覚束ない子どもと若い母親が手を繋いで歩き、不機嫌そうなサラリーマンが洋菓子店で菓子折りを買い、小学生たちが駆け回って笑い声を上げて——と賑やかだ。無料で居られる上に空調完備のショッピングモールは、わたしたち高校生のお財布事情にも優しい施設である。
 高校生活最初の夏休みが明け、九月下旬の前期期末テストを乗り切って、ようやく十月を迎えた。が、早くも月末には文化祭が控えている。来週には本格的な準備——ポスター作りや教室の装飾準備などが始まって、忙しくなるらしい。
 そういうわけで時間を無駄にしてはいけないと、週の真ん中の水曜日に、オープンしたての高級ポップコーンの店に出向いている。実のところ、甘いものにはそれほど興味があるわけでもないけれど、熱心に誘われたので。
 わたしを連れ出した張本人は、店の前のオープンスペースで確保した席にわたしを座らせると、「待ってて」と張り切ってショーケース前の行列に向かって行ってしまった。
 それで手持ち無沙汰に天井の人工の空を眺めていたわけだが、そろそろ戻ってくる頃だろうか——と考えた矢先に、後ろからぬっと茶色いペーパーバッグが現れた。
「お待たせ」
 弾んだ声とともに差し出されたペーパーバッグには、洒落た横文字が印刷されている。受け取った瞬間、かすかに開いた袋の口から、甘ったるいにおいが立ち上がった。
「ありがと」
「おすすめって言われたから、塩バターキャラメルにしてみた」
 向かいの席に腰を下ろして、彼はにこりと笑った。太い眉やくりっとした目、大きな口が、屈託ない笑みを形作る。
 彼——日比谷穂高は、同級生で。
 先週から、わたしの彼氏だ。

 約二週間前の九月下旬——期末試験の翌日のことだった。
 ホームルームが終わって、帰り支度を整えているわたしに、海瀬由埜は不機嫌な顔で近づいてきた。
「七星」
 由埜は椅子の後ろに回り込み、全身でのしかかってきた。長い黒髪が垂れ下がり、これではまるでホラー映画に登場する日本人形だ。
「重いよ、由埜」
 だらりと前に垂れた手の甲を軽くたたく。さらりと乾いた感触が、いよいよ人形めいていた。試験の出来が悪くて落ち込んでいるのかな、と思ったのだが、そうではなかった。
「委員会、嫌だ」
 濁点だらけの発音でうめく由埜に、「そっちか」と思わずため息をついた。
 その日は水曜日——由埜とわたしが、昼休みも放課後もふたりきりで過ごすと決めた曜日だった。しかし由埜は、所属する保健委員会で月に一度開催される会議に出なければいけなかった。要するに、由埜は拗ねていたのだ。
 背中に張り付いて、「行きたくない、さぼる」と駄々をこねる由埜を何とかなだめて送り出した矢先に、今度はクラスメイトの畑野真衣に捕まった。
 わたしは基本的に、由埜と過ごす時以外は居残らずに帰宅する。父は仕事で毎日帰りが遅いので、母が亡くなってからは、洗濯や掃除などの家事を自分でしなければならないからだ。なのでその時もすぐに帰宅するつもりだったのが、「まあまあ、ちょっと顔貸してよ」と、物騒な物言いに似合わない愛らしい笑顔で、近くのファストフード店に連れ出された。
 そこでわたしは、日比谷穂高の話を聞かされた。穂高が真衣に、わたしとの仲を取り持ってくれるように頼んだ、と。
「え、何で?」
「そんなん、わかるでしょ」
 真衣は呆れ半分、面白半分といった表情で笑ったが、わたしは本気でわからなかった。
 これが、由埜や真衣ならわかる。由埜は整った容姿と全国模試トップレベルの成績で校内の有名人だし、真衣は社交的で明るく、教師の目をかい潜ってさりげなく爪に色を載せるくらいのお洒落好きだ。
 でも、わたしは——梅雨の頃から伸ばし始めた髪はようやくショートボブ程度には伸びたものの、制服がスラックスということもあって、後ろ姿では未だに男子に間違えられることもある。中学浪人して皆より年が一つ上ということに気後れして、友人も知り合いも少ない。
 そんなわたしに何故——というか。
「誰?」
「えっ、そこから?」
 真衣は大げさにハンズアップして、一から説明してくれた。
 クラスの違う穂高がわたしを知ったきっかけは、六月に行われた運動会だという。学年対抗の男女混合リレーで一緒だったそうだ。「腐りもせずネタにも走らず真面目に練習している姿にぐっときた」らしい。と言われても、その頃はまだ今ほどクラスに馴染んでいなかっただけだし、わたしのほうは穂高をまったく覚えていなかったので、何だか申し訳なくなった。
「日比谷は中学から知ってる。いい奴だよ。ななが嫌じゃなければ、一度話してみれば?」
 真衣に背中を押され、わたしは前日まで名前も顔も認識していなかった穂高と会うことになった。
 一度目は、コーヒーショップでお喋りをした。
 二度目は、ファストフード店で一緒に課題を解いた。
 三度目は、映画館で話題のアクション映画を観て、帰り際に告白された。
 穂高は確かに、「いい奴」だった。いつもにこにこしていて、聞き上手。部活はサッカー部で、背が高いので細長く見えるが、袖をまくった腕は男の子らしくがっしりしていた。行き先を決めたり、食事場所を調べたりと、デートをリードしようという気合いがこちらにも伝わってきた。
 多分、こうやって恋愛は始まるんだろう。だから、付き合ってみようと思った。
 わたしの報告に、真衣は喜んだ。「絶対お似合いだと思ってたんだよ」と笑い、それからふと、少しだけ眉を寄せて尋ねた。
 「由埜には、もう言ったの?」と。
 それで、わたしは——。

 きゃーっという歓声で、我に返った。
 向こうの席の女子高生たちが甲高い笑い声をあげ、ポップコーンをつまんで写真を撮り合っているのが見えた。
 なるほど、ああいうふうにするべきだったのか。
 手元のペーパーバッグの中身は、いつのまにか三分の一ほど減っている。無意識に口にしていたようだが、味も触感も思い出せない。
「どう?」
 目の前の穂高に問いかけられる。何の話だっただろう。
「うん……おいしい」
 取り繕った答えに、穂高は「違くて」と笑った。苦笑でも嘲笑でもなく、純粋に好意が伝わってくる表情だった。
「今週の土曜、空いてない? サッカー部の交流試合があって、スタメンじゃないけど、交代で出られると思うんだ」
「そうなんだ、すごいね」
 スタメンではないにしても、一年生で試合に出られるというのは、それだけ実力があるのだろう。彼女として喜ばしいことだし、応援に行くべきだ、と頭ではわかっていた。
 だけど、土曜日は。
「……ごめん。その日は、文化祭のクラスの出し物の準備があって」
 穂高は一瞬表情を曇らせたが、すぐに笑みを浮かべた。
「そうなんだ。何やるの?」
「音楽喫茶。単にBGMかけて喫茶店をやるだけなんだけど、軽音とか楽器やってる子が生演奏してくれることになって」
「すごい。本格的だ」
「うん。それで、実際にそういうお店を見に行くことになってて」
 後ろめたい気持ちから、つい早口になってしまう。穂高はわたしを責めることなく、穏やかに頷いた。
「そっか。じゃあ準備、頑張って。文化祭当日は、一緒に回ろうな」
「……穂高も、試合頑張ってね」
 優しい表情を浮かべた穂高に笑い返して、甘ったるいポップコーンを口に放り込んだ。
 
 その階段は、細い路地にひっそりと入り口を開いていた。
 コンクリートが打ちっぱなしのひんやりとした壁に手をついて、一人分の幅の狭い階段を慎重に下りていく。蛍光灯の灯りは弱弱しく、足元どころか目の前すら薄暗い。
 階段下の、磨りガラスのはまった重厚なドアに体重をかけて、そっと押し開く。
 途端に、弦楽器の優美な音が流れ出した。隙間から滑り込むように店内に入ると、後ろでドアが音もなく閉まった。
 目の前には、古い映画のセットのような光景が広がっていた。入ってすぐの場所にオーダー用のカウンターがあり、その奥にソファとローテーブルの並ぶ喫茶スペース、一番奥に大きなスピーカーが設置されている。カウンターやテーブル、床は、飴色というのだろうか、つやつやとした焦げ茶色で、どっしりとした風格を放っている。淡いクリーム色の壁紙に、椅子の赤いクッションと白いレース飾りも落ち着いた印象だ。二十席程度のこぢんまりとした店内は、半分ほど客で埋まっているが、同世代の姿は見当らない。
 カウンターのオーダー票の「ホットコーヒー」の欄にチェックを入れ、千円札を添えてカウンター内の店員に差し出した。おつりと共に戻ってきたプラスチックのタグを握りしめて、店内に足を踏み入れる。
 流れている曲の名前はわからない。カウンター横の黒板で希望の曲をリクエストできるらしいが、わたしの音楽の知識なんて、授業で聞いたことがあるような、ないような——その程度だ。
 できるだけ目立たない席を探し、店内を歩き回る。結局、スピーカーに近すぎない、壁際の二人席に落ち着いた。
 ぼんやり音楽を聴いているうちに、コーヒーが運ばれてきた。タグを回収していく初老の店員に軽く会釈すると、かすかに微笑みを返してくれたことにほっとする。
 この店は音楽を聴いてゆったりと過ごすというコンセプトの、「音楽喫茶」と呼ばれる喫茶店だ。同じようなタイプの店では私語が禁止されていることも多いが、ここでは大人数で騒いだりしない限り、会話は許されているらしい。
 この店を見つけてきたのは、由埜だった。
 文化祭の出し物で音楽喫茶をやると決まった後、「実際に行ってみようよ」と、この店を紹介するウェブサイトを見せてきた。「下見」と言いながら、由埜はわたししか誘わなかったし、わたしもあえて指摘しなかった。
 由埜が、休みの日に誘ってくるのが珍しかったからだ。
 平日、由埜はわたしとできる限り一緒にいたがる。真衣たちのグループと過ごす時も、朝晩の通学も、由埜はわたしに合わせて予定を立てる。
 けれど由埜は、学校以外の場所でわたしに会おうとしない。理由は知らない。例外は、夏休み中にわたしの親戚の家に行った時だけだ。
 由埜から、家族の話を聞いたこともない。両親がいないので祖父母と暮らしている、という噂の真偽も知らない。
 真衣やクラスのみんなが思うほど、由埜はわたしに心を許していないのだと思う。
 だから、由埜に誘われたことは素直に嬉しかったし、楽しみにしていた。約束していた日時に、ひとりで店を訪れてしまうくらいには。
 一緒に行くはずだった約束は、なくなってしまったから。
 まだ蒸し暑さの残る十月の最初の水曜日、わたしたちはいつものように二人で放課後を過ごしていた。日陰になっている外階段に座り込んで、携帯ゲーム機で遊んでいる時だった。
「あのさ、由埜。わたし、彼氏できた」
 由埜の指が止まった。ゲーム機の小さな画面の中で、お気に入りのキャラクターが敵の攻撃を受けて、次々と消えていく。
 味方パーティが全滅して、「再挑戦しますか?」の文字が画面に浮かび上がってようやく、由埜はわたしを見て、小さな声で言った。
「なんで?」
 おめでとう、でも、いつから? でも、誰? でもなく。
 由埜はそれだけ尋ねた。暗闇の中の猫のように、大きな瞳で、じっとわたしを見て。
 わたしは何となく恥ずかしくなって、うつむいた。
「……告白、されて。いい奴だし、一緒にいて楽しいし」
「なんで?」
「何でって」
「なんで?」
 ようやく、由埜の様子がおかしいことに気付いて、顔を上げた。
 由埜の声は平坦で、顔色ひとつ変わらず、唇はすっと一文字に結ばれていた。ただただ無表情で、それなのに、ひどく傷ついているのが伝わってきた。
「七星は、私のこと、好きじゃないの?」
 いつもの、陽だまりの猫のような悠々とした態度が様変わりして、今の由埜はまるで、手を放したら落ちて割れてしまうガラスの置物のようだった。
「……何でそうなるの」
「だって、七星はカレシのこと好きなんでしょ。そうしたら、私の分が減る」
「減らないよ」
 わたしは少し、腹が立った。
 無邪気な由埜に比べれば、わたしは言葉や態度で感情を表すことが少ないのかもしれない。それでも、由埜はわたしにとって、大切な存在だった。
 五月のあの日、図書館で出会って、わたしの抱えていたモヤモヤを晴らしてくれた。
 八月のあの日、汗も枯れるような酷暑の中を、何時間もかけて遠方まで付き添って、謎を解いてくれた。
 それを、彼氏ができた程度のことでないがしろにすると思われたくなかった。
「友達と彼氏は違うでしょ。わたしは、由埜のこと」
「違くない」
 幼い口調で由埜は言い返した。
「違くない。一緒だよ」
「由埜」
「わかんない。私の好きは、一種類しかない」
 由埜は立ち上がった。わたしを見下ろして、それなのにどういうわけか、すがりつきたがっているようにも見えた。
「——全部くれないなら、何にもいらない」
 その時の由埜は——夏のあの日に一瞬だけ見せた、投げやりで皮肉げな表情を浮かべて、去っていった。
 それからずっと、由埜はわたしを避けている。教室では目も合わせず、会話もない。クラスメイトには「痴話喧嘩?」「親離れでしょ」と軽口を叩かれていて、真衣だけが少し心配そうで何か言いたげな顔をしている。
 わたしは、どうしたらいいのかわからなかった。今まで、由埜に拒絶されたことがなかったから。
 だからこれは、みっともない悪あがきだ。
 白いコーヒーカップをおそるおそる手に取って、一口だけ飲んでみる。砂糖もミルクも入っていないコーヒーは当然ながら苦い。
 わたしはトートバッグから、コピー用紙の束を取り出した。

 

(つづく)