蛇の娘と時計塔の男

 

最初から読む

 

「お別れ?」
 魔女は少女をじろりと見て、げらげらと笑いました。
「まるで人間みたいなことを言うね。いいさ、行っておいで。どうせお前は、わたしから逃げられないんだから」
 魔女の言う通りでした。自由を望んだ少女が魔女のもとから逃げ出して、町の片隅で暮らしてこられたのは、魔女がそれを許していたからに他ならないのです。
「日暮れまでに、お前の生まれた森に戻っておいで」
 そう言い残し、魔女は煙に姿を変えて消えました。
 少女は屋敷を飛び出し、町の大通りに飛びこみました。演説の群衆にぶつかり、屋台の売り物を蹴飛ばしながら、少女は懸命に走りました。向かい風にフードは吹き飛ばされ、露になった少女の顔に町の人々は罵声や悲鳴を浴びせましたが、その全てを置き去りにして、少女は駆け抜けました。
 目指すのは、時計塔です。寂しさを埋めるために生み出した想像上の父親ではなく、血と肉を携えて、少女に笑いかけてくれる男のところです。
 少女は、魔女のところになど戻りたくありませんでした。
 助けて、と少女は心の中で叫びました。
 あたしを助けて。ここから連れ出して。遠いところに一緒に逃げて。
 魔女に生み出された蛇の魔物を恐れずに、お姫様と呼んでくれたひと。現実の声と言葉で、初めてあたしを大事にしてくれたひと。
 あたしもあなたも戦争になんか行かないで、誰も知らない場所で、時計をいじったりお話を聞かせ合ったりして、静かに暮らしたいの。
 きっとあなたも、それを望んでくれるよね?
 町を出た少女は、萎れかけた草がまばらに生えた荒れた丘を、息をはずませてまっすぐに越えていきます。塔の入り口までは、もうあと五十歩もないというところで、少女は、はっと息を呑んで、足を止めました。
 そこには、軍隊がありました。
 革の鎧にぴかぴかの銀色の盾と槍を構えた兵士たちが何十人と整列し、時計塔を取り囲んでいます。彼らの前には、もっと眩しい銀色の鎧に全身を包んだ騎士たちが数人、馬にまたがって胸を張っています。
 その真ん中に、男が立っていました。
 男はまったく、いつもと同じ格好でした。絡繰の整備油で汚れたシャツとオーバーオール。武装した兵士たちの前で、男はまるで幼い子どものように無防備に突っ立っていました。
 危ない、と思った時には、少女の足は動き出していました。引き絞られた矢のように思い切り地面を蹴って、兵士たちの隊列のすき間に突っ込んでいきます。
「何だ!?」
「子どもだ、子どもが隊長のところに」
 兵士たちは慌てて少女を捕えようとしますが、小さくすばしっこい少女は巧みにその腕をすり抜けて、男の薄い身体に飛びつきました。
「待って、行かないで」
 突然しがみついてきた少女に、男は目を見張りました。
「お前、どうして」
 けれども、少女は問いに答えるどころではなく、必死に訴えました。
「戦争になんて行かないで。あたしと一緒に逃げて」
「……そうはいかない」
 男が穏やかに言って少女の手を外そうとするのに抗い、少女は重ねて言いました。
「どうして? 大人だから? 男だから?」
「違うよ」
 男はどういうわけか、諦めたように笑いました。
「おれが、人でなしだからさ」
 男の後ろで、がしゃがしゃと鎧のぶつかる音が鳴り響きました。
「隊長! その化け物から離れてください」
 騎士のひとりがくぐもった声を張り上げると、兵士たちもいっせいに槍を構えました。
「あの不気味な姿は、魔女の刺客に違いない」
「子どもの形だからと油断するな、怪物だぞ」
 口々に浴びせられる声を、男は手を払う仕草一つで制しました。
 そして男はいつものように、深くて優しい声色で言いました。
「最後に、取っておきの話を聞かせてあげよう」
「ねえ、そんな場合じゃないでしょう」
 少女が焦って言い返すのを、男はまるで聞こえないように続けました。
「お前の好きな山賊退治の話、あれは本当は山賊じゃない、ある小さな民族を皆殺しにしたんだよ。山賊の汚名を着せてな」
「……何を言っているの?」
 唐突に、それは始まりました。
「人質が高い塔に閉じ込められていた時には、その塔を大砲で撃ち崩した。おれたちの王様が、高い身代金を払いたくないと言ったからさ。人質は全員死んだよ」
 少女が胸躍らせた冒険譚の、裏返しの真実の暴露。
「それに、少人数で大群を打ち破ったんじゃない。逆だ、逆。まともに戦える者も残っていない連中を大勢でなぶり殺したんだ、相手はもう降伏していたのに」
 男はゆるゆると首を振りました。
「そうやって、命令されるままにたくさん殺してきた。平気でどんどん殺すもんだから気味悪がられて、国を追われて、ここに逃げてきた。何がいけなかったのかわからなかったが、とにかくまともな人間になろうとした」
 だけどな、と男は、周りを取り囲む鎧の兵士たちを見まわしました。
「こうやって、お迎えが来た。あの国にはやっぱり、おれみたいな人間が必要らしい。それなら、おれは行かなきゃならないよ」
「……あたしを、置いていくの?」
 男は悲しそうに目を細めました。
「まともな人間は、子どもを戦場にさらって行ったりしないものさ。それが、敵国の子でも」
 その言葉に、少女は今更のように気付きました。男を取り囲む兵士たちの、鎧や盾に刻まれた紋章が、隣国のものであることに。
 男は、徴兵されるのではありません。これから隣国に戻り、この国と戦争をするのです。
「お別れだ、フェクダ。親父さんと仲良くな」
 呆然としている少女を、男は今度こそ引き離し、騎士たちのほうに歩き出しました。
「行こう」
 男の一声に、騎士たちがいっせいに頭を下げ、馬を引いて進んでいきます。兵士たちの隊列が厳かに、その後に続いていきます。
 ──行ってしまう。あたしを大事にしてくれたただ一人のひとが、あたしを置いて。
 子どもを戦場には連れて行かないなどと、綺麗事を言って。
 見てわかるでしょう、あたしは化け物なのに。戦場でも地獄でも、あなたとならどんな場所に堕ちても構わないのに。
「待って」
 少女は叫んだつもりでした。けれども喉からしぼり出されたのは、しゅうしゅうと息の漏れる音でした。
「行かないで」
 少女は手を伸ばしたつもりでした。けれども何故か腕は動かず、胴体がどすんと地面に倒れてしまいました。
「あなたと離れたくない」
 少女は一歩踏み出したつもりでした。けれども両足はまるで縛られたようにぴたりとくっついてしまって、ぐねぐねと這うことしかできません。
「あたしを、置いて行かないで」
 少女は男に向かって駆け出しました。どういうわけか、これまでよりもずっと速く、それこそ風のように、男の背中に飛びつくことができました。
 そして──少女は、ぱくりと、男を飲みこんでしまいました。
 周りにいた兵士たちが、引きつった悲鳴を上げました。
「蛇だ! 蛇の化け物だ!」
「隊長が食われた!」
「化け物を殺せ!」
 耳障りな声を振り払うように、少女は──白い大蛇の化け物は、体を大きくくねらせました。大人が数人がかりでも抱えきれないほどの太い尾が、数人の兵士たちを紙屑のように吹き飛ばしました。大蛇の真白い鱗肌に、真っ赤な血が飛び散りました。
「死ね!」
 兵士の一人が斬りかかってきましたが、鱗一枚傷つけることもできません。大蛇は兵士の体をくわえて、遠くに投げ飛ばしました。
 どうして邪魔をするの? せっかく、この人を手に入れたのに。
 あたしたちはこれから静かに暮らすの。時計をいじったりお話を聞かせ合ったりして、ふたりきりで。だから、もう放っておいてよ。
 大蛇は体をもたげると、ぐるりと時計塔に巻き付きました。男と過ごした大切な居場所を守るように。
「剣は駄目だ! 距離を取れ」
「火矢を使え!」
 兵士たちは油をしみこませた布を矢にとりつけ、火をつけて放ちました。数十、数百と射られた矢は、大蛇の頑丈な鱗に弾かれるばかりでしたが、そのうちの数本が、時計塔の絡繰に引火しました。何しろ巨大な絡繰の部品一つ一つに、丁寧に機械油が塗られていたのです。
 あっという間に、時計塔は燃え上がりました。大蛇は苦しそうにげえげえとえづいてのたうち回りながらも、塔に巻き付いた体を決して離そうとしませんでした。
 やがて、騎士と兵士たちが固唾をのんで見つめる前で──大蛇の体は燃え尽きて、一山の灰となりました。
 有能な将であった男を連れ戻しに来た隣国の軍隊は、仕方なしにそのまま国に戻りました。けれども、男一人いなくとも、戦争は止まりません。
 やがて戦争は国境の森も町も根こそぎなぎ払い、後には寂れた時計塔だけが残りました。
 恋に身を焼き尽くされた哀れな少女の名を取って、その塔は「フェクダの塔」と呼ばれるようになったと伝えられています。

 ここまでならば、よくある悲恋の物語といえましょう。
 しかし不思議なことに、ここにまったく別の言い伝えが残っています。それは、ある国の、フェクダという名の軍人にまつわる口伝です。
 その男は、何処の馬の骨とも知れぬ一兵卒でしたが、戦場でいっさい怯むことなく戦い、敵の裏をかく知略を次々と生み出し、名を挙げました。悪名高い人身売買組織の壊滅、敵の人質となったさる貴族の跡取り息子の救出劇に、絶体絶命の戦場に取り残された味方の救出劇など、その武勲は枚挙に暇がなく、男はまたたく間に一つの隊を任せられるまでになりました。
 しかし、男の出世を妬んだ競争相手が、悪い噂を流しました。強すぎた男には敵が多く、あっという間に噂は広がり、男は国の王から謀反の疑いをかけられました。男は隣国に逃れ、国に戻る機会をじっとうかがっていました。
 そんな時、男は美しい少女と出会いました。ほの白い肌とルビーのように赤い瞳が蠱惑的な少女で、その所作には歳に似合わぬ妖艶さを兼ね備えていました。病の父とふたりきりで心細いと涙ながらに縋りつく少女に、並の男ならばあっという間に籠絡されていたことでしょう。
 しかし、フェクダは違いました。姿かたちこそいとけない少女であるものの、その正体は、森に住む魔女だと見抜いていたのです。実は魔女は隣国の王に雇われて、有能な将である男を寝返らせようとしていたのでした。
 男は少女の計略に乗った振りをして、町外れの古い塔に少女をおびき寄せました。そして、「早う来てくだされ」と甘い声で誘う少女に「今しばらく」と答えながら、あらかじめ内部に油を撒いておいた塔に火を放ちました。
 謀られたことに気付いた少女は、怒り狂って本性である大蛇の姿を現し、激しく暴れました。しかし男は、その古い石造りの塔が火に強く頑丈であることを知っていました。狭い塔の中では巨躯がかえって足手まといとなり、魔女は身動きできぬままに焼け死にました。
 見事に魔女を退治した男の名声は、男の国にも届きました。王は、隣国の強大な敵であった魔女を打ち取った男の忠誠を確信し、男を国に呼び戻しました。男は王の下で勇敢に戦い、隣国との戦争を勝利に導きました。
 男の武勲を称えるために、その塔は「フェクダの塔」と呼ばれているということです。

 さて、どちらが真実なのでしょう? 人の話は伝えられるうちに少しずつ変わっていき、一番最初の「本当のこと」が何だったのか、わからなくなってしまうのが世の常というもの。
 けれども、実は──この二つのお話は、どちらも本当のことなのです。
 それこそが、「フェクダの塔」にまつわる数奇な伝承なのですから。

***

 顔を上げると、由埜がこちらを見つめていた。
 向かいの席に、誰かが座ったことには途中で気付いていた。視界の端に映ったその人物が誰かということにも。顔を上げなかったのは、半ば意地のようなものかもしれない。
 由埜は、すとんと感情の抜け落ちた顔をしていた。そうしていると、顔立ちの良さがいっそう際立つことについ感心していると、すっと手が伸びてきた。
 上向きの手のひら。きちんと揃えられた四本の指と、少し浮いた親指。
 明らかに「何か」を催促する横柄な仕草に、妙な上品さがあるのが不思議だ。素直に物語の紙束を差し出すと、受け取った由埜はするりと手を引っ込めて、さっそく読み始める。
 手持ち無沙汰になったわたしは、読んだばかりの物語のことを考えた。
 壊れた時計塔にまつわる、二つの物語。似ているけれど少しずつ違い、けれどどちらも「本当のこと」だとうそぶく。塔の名前である「フェクダ」は、北斗七星の一角を担う星の名前だ。北斗七星について調べているうちに、覚えてしまった。
 伝言ゲームの間に伝えられる内容が変わってしまうのはよくあることで、例えば桃太郎伝説もかぐや姫のお話も、少しずつ異なるバリエーションが存在する。ましてや、時計塔の二つの物語は、視点人物も語り口も違っている。少女の初恋の物語と、軍人の英雄譚──それぞれの視点で語られたのなら、多少の認識のずれは許容範囲だろう。
 けれど、二つの物語には明らかに大きな違いがある。時計塔の男の生死だ。
 少女の語りでは、大蛇と化した少女が男を飲みこんで焼け死に、兵士たちは手ぶらで国に帰って行った。一方、軍人の伝承では、大蛇を退治し、大手を振って国に戻った。これがどちらも「本当のこと」というのは、さすがに成立しないのではないか。
 もっとわからないのは、この物語を書いた母の真意だ。
 これまで読み解いた二つの物語には、母自身の人生が投影されていた。この矛盾した物語も、母の人生の一部なのだとしたら。
 これでは、まるで──。

 

(つづく)