北極星の道しるべ
「さっき、わたしがあのメッセージを書いたと伝えた時、あなたは身分証でわたしの名前を確認して納得していました。つまりあなたは、『何処の誰が書いたのか』を知っていた──『蔵内七星』が書いたんだって。それ、いつどうやって知ったんですか?」
「それは……あなたと同じですよ、事故の書類を見て」
高岡は大きく息を吸って、続けた。
「もともと、父の遺品にしては変な本だと思っていたんです。でも、父と一緒に亡くなった女性に七星さんという娘がいると知って腑に落ちた。きっと本はその女性の物で、娘から母親あての手紙だったんだろうと。だから」
「いいえ。それなら、最初からわたしが書いたことがわかっていたはずです。『何処の誰が書いたのかもわからないから会うのは無理だ』とは考えないでしょう」
反論の隙を与えず、畳みかける。
「それに、わたしがあなたの名前を知ったのは、事故の書類ではなく浮気調査の身上調書です」
高岡は一瞬、呆気にとられたようだった。
「……浮気調査?」
「ええ。母と宗像一さんの関係を疑った父が探偵に調べさせた中に、あなたたち親子の情報がありました。事故についての書類ではなくて。だから、わたしの名前も載っているはずがないんです」
実のところ、これははったりだった。父の持っていた事故関係の書類に高岡浩貴の名前がなかったのは確かだが、それはすでに離婚して戸籍から抜けていたからかもしれない。高岡が見た書類にわたしの名前が載っていた可能性を、完全には否定できない。
けれど、一瞬無防備に愕然とした高岡の表情を見て、疑いが確信に変わった。
「蔵内七星があれを書いたことを知っていたのは、わたしと、あともうひとりだけです」
妙に懐かしい感覚だった。ちょっとした違和感から情報を拾い集めて、自分の推理を話し出すと止まらなくて、流れるように話すのは、由埜の癖だった。
「海瀬由埜。彼女に、本とあの紙を渡したんじゃないですか」
言い切ってじっと見つめると、高岡は顔を強張らせて答えた。
「……何の話ですか」
「四日前、わたしは由埜からあの事故現場に呼び出されました。見せたいものがある、って」
高岡の目つきが険しくなるのを感じながら、続けた。
「でも連絡の行き違いがあって、わたしは行かなかった。同じ日の深夜に、由埜は怪我をして見つかりました。あの本と紙とを持って」
「……あれを探して僕のところに来たというのは、嘘ですか」
少し前の高揚が嘘のように、高岡の声は冷えていた。
けれどこちらも、今さら引き下がれない。
「はい。あなたの反応を見るために嘘を吐きました」
犯人捜しをするつもりはないはずだった。でも、聞かずにはいられなかった。
「あなたが、由埜を突き落としたんですか」
高岡は冷ややかにわたしを見た。
「仮に、僕がその人に何かしていたとして、馬鹿正直に答えるとでも? 知りたいなら本人に聞けばいい。死んだわけじゃないんでしょう?」
「ええ、死にませんでした。誰かが、すぐに救急車を呼んだので」
終電などとっくに終わり、人通りもない深夜に、駅前から掛けられた一一九番。それがなかったら、由埜は人目につかない斜面で気を失ったまま、凍死していたかもしれない。
「何があったにせよ、最終的には由埜の命を救うことを選んだ。悪意があったわけじゃなく、なにか事情があったんだと思っています」
高岡は、しばらく黙っていた。店内のBGMが白々しくポップな音を奏でるのを、わたしもじっと口を閉ざして聞いていた。
「……変なことを言い触らされても困るので、お話ししますが。嘘を吐かれていたんです」
高岡はうんざりしたような、それでいて疲れ切ったような声で言った。
「嘘、ですか。由埜に?」
「その名前は聞き慣れませんね。僕の前では、七星と名乗っていたので」
一瞬、何を言っているのかわからなかった。強いフラッシュのような驚きの後、一瞬遅れて、妙な納得がこみ上げた。
「由埜は、わたしのふりをしていたんですか?」
正直、信じがたいが、嘘にしてはあまりに脈絡も突拍子もない。それに、わたしの身分証を確認した妙な用心深さに説明がつく。
何より、わたしの知っている由埜なら──一度夢中になると周りが見えなくなり、デリカシーも配慮もどこ吹く風で踏み荒らす十七歳のままの彼女なら、やりかねない。
「最初に勘違いしたのは僕のほうですけどね」
高岡は自嘲気味に薄く笑った。
「ちょうど一年前です。気まぐれを起こして、父の命日にあの事故現場に行って、彼女に出会いました。花を供えて、熱心に手を合わせていた。そんなことしていたら、遺族だと思うでしょう? それで、声をかけたんです。自己紹介までして」
その時、由埜が何を思ったのか。頭の回転の速い由埜のことだ、高岡が自分を『蔵内七星』だと勘違いしていることには、すぐ気付いただろう。
でも、訂正しなかった。わたしの母と一緒に死んだ男の息子から情報を引き出すには、同じ遺族のほうが都合がよいからだ。
十年前、わたしたちは、母と宗像一の死についてわからないことを残したままだった。何故、参る墓もないあの霊園に向かっていたのか。車に積まれた花束は誰に宛てたものだったのか。何故、車は山道から転落したのか。警察は事故だと結論付けたが、それは真実なのか。母と宗像のどちらかの意図によるものではなかったのか。
由埜は、その謎を解く誘惑に抗えず、高岡を巻き込んだ。
高岡は静かに話し続けた。
「それで、彼女と連絡先を交換して、時々会って話すようになりました。見事に騙されましたよ。僕はすっかり、彼女が『蔵内七星』本人で、あの文章を書いたんだと信じた。だから『本とあの紙を貸してほしい』と言われて、疑いもせず渡したんです。父の日記とともに」
「日記?」
初めて聞く話だった。宗像一の日記はそれこそ、由埜にとっては垂涎の的だっただろう。
「命日に、一緒に事故現場に行こうと誘ったら断られた。『ひとりになりたい』と言われてしまえばそういうものだろうとも思いましたが、夜遅くなっても連絡がつかなくて──心配になって行ってみたら、彼女はひとりで誰かを待っていた。真っ暗な山道で」
──来週、七星のお母さんの命日に、事故現場で待ってる。
由埜から来たメールに、時間の指定はなかった。わたしが返信しなかったから、あの子はずっと待っていたのか。
「僕が現れて、彼女はものすごく驚いていた。危ないから帰ろうと言っても聞かない。それでちょっと言い合いみたいになって──その時にようやく、彼女が『蔵内七星』じゃないことがわかった」
高岡は、指で何度もテーブルを叩いた。衝動を打ち消すように。
「裏切られた、と思いました。僕にとってあの文章は心の支えだったから、僕は自分の気持ちを全部、素直に彼女に話していたんですよ。あの文章に救われて、みっともなく泣いたことまで打ち明けたんだ。それなのに、偽者だったなんて、本当に──本当に腹が立って、全部取り返そうとして、掴み合いになって」
本とあの紙片、それに日記。由埜がわたしに、見せようとしていたもの。
「わざとじゃなかった。気が付いたら、僕の手の中には日記があって、足元には彼女の鞄の中身がぶちまけられていて、彼女は──いなくなっていた。スマートフォンのライトをつけたら、ガードレールに血がついていて、斜面のほうからうめき声が聞こえて」
高岡は大きく息を吸った。
「とにかく夢中で、その辺に落ちていたものを拾って、立ち去りました。本とメモがないことに気付いたのは、駅まで下りてきてからで……それで、やっと冷静になって、公衆電話で救急車を呼んだ。僕のせいじゃない、嘘を吐いた彼女の自業自得だと思ったけど、それでも、人殺しにはなりたくなかったので」
思い出したように、高岡は冷めたコーヒーを一気に飲んで、暗い目でわたしを見た。
「それで、どうしますか。警察に通報しますか。まあ、そうしたら僕は、全部冗談だったって言うだけですけど。証拠なんてありませんよ、全部捨てましたから」
わざとではないと言う割に証拠隠滅は入念で、開き直った態度も不愉快だった。ただ、カップをソーサーに戻す高岡の手は小刻みに震えていて、耳障りな音を鳴らしていた。取り繕っているだけで、内心は動揺しているのだと思うと、少しだけ溜飲が下がった。
「でしょうね」
あえて平然と返すと、高岡は「ははっ」とわざとらしい笑い声を上げた。
「じゃあ、何しに来たんですか。ただの自己満足ですか?」
「それも否定はしません」
挑発に乗るつもりはなかった。実際わたしは、自分のためだけにここに来たのだ。あの頃の由埜と同じ。誰かの秘密に踏み入って、暴きたてた。
残ったコーヒーを飲み干して、席を立つ。探るように見上げてくる高岡に、少し迷ってから、言った。
「ありがとうございました。由埜を、助けてくれて」
背を向けて歩き出したところで、高岡が「くそっ」と毒づいた。
「何なんだ。何であいつはあんたになりすまして僕をだました? 何であんたは、わざわざ僕に話を聞きに来た? 何でそんな……何なんだよ」
上ずった声だった。無理もない。理解できないものは誰だって怖い。
わたし自身でさえ、まだうまく言葉にできないでいるのだから。
「なあ、通報なんてしないよな。あれは事故みたいなものだし、ちゃんと助けも呼んだだろ」
どんどん荒っぽくなる声に、わたしはゆっくりと振り返る。
「さあ、わかりません」
わたしはこの件については部外者なので、由埜の記憶喪失について教えるつもりはなかった。刑事には今日のことを含めて話すつもりだが、それがどんな結果を招くのか、わかるはずもないので、こう答えるしかない。
何より、うかつな発言で、高岡を安心させたくはなかった。
高岡の話が本当なら、由埜の怪我には自業自得の部分もあるけれど、それでもやっぱり由埜を傷つけられたことは腹立たしくて不愉快だし、それに。
「そういえば、ひとつ、聞き忘れました」
一瞬、眼差しに期待を浮かべる高岡を、見つめ返す。
「メラクとドゥベについて、知りませんか?」
わたしはわたしの物語の始末で、手いっぱいなのだ。
物語の終わりにたどり着くのに、それから二ヶ月必要だった。
暑さ寒さも彼岸まで、というが、それにしても今日は三月にしては暖かい。しかも、まだ彼岸までは二週間もあるというのに。
中途半端な時期だからか、広大な霊園にはほとんど人影が見当たらなかった。それほど高い山ではないが、ふもとの住宅街や遠くの田畑を見渡す眺望は、思ったよりも爽快だった。この霊園は民営で、宗派を問わず利用できる広い敷地がアピールポイントらしい。
母の事故現場の先にあるこの霊園に足を踏み入れたのは、覚えている限りでは初めてだ。
管理事務所で祖母の家の墓の場所を調べてもらい、花を供えて手を合わせる。わたしがぎこちなく墓参りを済ませる間、由埜が後ろで興味深そうにうかがっている気配がしていた。
二ヶ月前──高岡浩貴と話した翌日、わたしは予定通り刑事に連絡して洗いざらい打ち明け、由埜が入院している病院も教えてもらった。次の休みが三日後だったので見舞いに行こうと決意して、それなりに緊張しながら準備など進めていた矢先に、由埜からメールが来た。「退院しました」と、あっさりした文面だった。
そこから何往復かメールのやり取りを経て、会うのは今日が初めてだ。
振り返ると、由埜が「もういいの?」と首を傾げた。
「うん。行こ」
「わかった。こっち」
軽やかに頷いて歩き出す姿は、怪我の後遺症も見当たらず、昔とあまり変わらなかった。もちろん、見た目は年齢相応に大人になったと思うけれど、何処か無邪気な雰囲気はそのままだ。
一時間ほど前にふもとの駅のタクシー乗り場で落ち合った時、わたしはそれなりに緊張していた。何せ十年ぶりの再会で、しかも大怪我を負った事件の後だ、悩みもする。それなのに由埜は、家出していた猫が何食わぬ顔で帰って来たかのように、「久しぶり」と懐っこく笑っただけで──それでわたしも「うん」と答えて、再会のあいさつは終わってしまった。
失われていた記憶が無事に戻ったことや、高岡の話がおおむね事実であることは聞いていた。由埜と高岡の間で示談が成立して、刑事事件にはならなかったことも。
大きさも形もまちまちな墓石の間を、由埜は蝶のようにひらひらと抜け、ふいに立ち止まった。
「ここだよ」
周囲と比べて、一際立派で大きな墓石に刻まれた苗字は、「星野」。墓石の周りは掃除が行き届き、少し萎れかけているがまだ新しい花が供えられている。
横に立つ墓碑にはずらりと、故人の名前が並んでいる。その中のひとつを、由埜の細い指が差した。
「この人が、七星のお祖父さん。お母さんのお父さんだね」
未婚で母を産んだ祖母の、結ばれなかった恋人。星が好きだったというその人は、天文系の学者だったという。そして、『星座ものがたり』の著者だった。
「……母はあの日、ここに来ようとしてたんだね」
おそるおそる足を踏み出し、花立てのすき間に、持ってきた小さめの花束を差し入れる。
十二年前のあの日、たどり着けなかった母の代わりに手を合わせた。
この場所を突き止めたのは、由埜──ではなく、宗像一だった。由埜が高岡から見せてもらった日記に書いてあったという。
「生きている間に、一度でいいから父親に会ってみたい」、ある時そう呟いた母のために、宗像は母の父親捜しを始めた。手がかりは、母のわずかな記憶だけ。祖母が開いていた小料理屋の二階の和室で、やっと文字を覚え始めたばかりの母に向かって何やら専門的な話をとうとうと話し続ける男に、祖母が「お父様にかかると、ひしゃく星のお話だって難しい論文になってしまうね」と幸せそうに笑いかけていた風景が、母が覚えているすべてだった。
宗像は地道に地元のうわさ話を集め、その男が亡くなっていることがわかってからは、墓の場所を突き止めた。事故の前日に書かれた最後の日記には、「明日、妙ちゃんを父親の墓に連れて行く。その後で話があると言われた。きっと僕たちの関係についてだろうが、どんな話でも僕は彼女を尊重する」と記されていたと、由埜は相変わらずの見事な記憶力で話した。
「二人が墓参りの後で話をする約束をしていたのなら、話の内容が何であれ、墓参りの前に死を選ぶ理由はどちらにもない。つまり、心中の可能性は否定できると考えていいと思う」
由埜らしい、論理的な意見だった。
「そうだね。わたしも、そう思うよ」
同意したのは、由埜のロジックに納得したからだけではなかった。
わたしはずっと、わたしの書いた手紙が母を傷つけ、追い詰めたのだと思っていた。わたしがあんなことを書かなければ、母がこの町で死ぬことはなかったのだと。
けれど母は、自棄になってこの町に逃げ込んだわけではなかった。宗像との関係に結論を出して、自分の意思で来た。そして宗像は、徒労に終わるかもしれない人探しを母のために成し遂げて、母を尊重する意思を日記に書き残すような男だった。
そういう二人が、心中という後ろ向きの選択を取るとは思えなかった。単なる想像と言われれば、それまでだが。
それでも、心中ではなく不幸な事故だったと、ようやく心から納得することができた。
短い祈りを終えて、目を開ける。少し離れて立っている由埜と、目が合う。
「ありがとう。お母さんも喜んでいると思う」
「どういたしまして」
控えめながら胸を張る由埜を促して歩き出しながら、「でも」と付け足した。
「ありがたいのは本当だけど、何であんなやり方したの? 本当に危なかったんだよ」
由埜は、母の遺品の本やわたしの手紙、そして宗像の日記の存在を高岡から聞き出し、それらを持ち出してわたしに見せようとして、結果的にあんなことになった。よりによってわたしに──遺族になりすましたのでは、高岡の怒りを買ったのも無理はないと思う。やっぱり本質的には、高校時代からあまり変わっていないのではないか。
由埜はさすがに気まずそうに目をそらした。
「私だって、止めようと思ったんだよ。あの時、七星を本気で傷つけちゃったから。謎は解かない、人の事情に首は突っ込まない、わかったことを何でもかんでも言わない……って、七星と離れてからはずっとそういう風にやってきた」
由埜が「優等生」になった経緯は、そういうことだったのか。
「七星とお別れしたあの場所は、わたしにとっても特別な場所で、時々、自分の確認のために行ってて。たまたま命日に行った時に、あの人に話しかけられたの。七星のことじゃなければ、ちゃんと流せたよ。でも、これだけは最後に解かなきゃ、って思って、でも」
由埜はふっと、表情を暗くした。
「ああいうことになっちゃって……悪かったなって、思ったから」
「だから被害届を出さなかった?」
「うん」
素直に頷く由埜に、もう一つ尋ねた。
「記憶を失くしてたのは、本当?」