10:51
「変装なんかなさっているから、お探しするのに苦労しましたよ」
天童は微笑んで見せた。狩野も、少しだけ顔をほころばせている。
「しかも失礼ですが、変装はあまりお得意ではないようで。それはともかく、先日は立ち話で失礼いたしました。今日は座りませんか。椅子もたくさんある」
天童は受付用テントの隅に、空いている長椅子を見つけた。狩野を促す。
「前回、お会いしたのは土曜日でした」並んで腰を下ろした。「で、今日は祝日です。当方の働き方改革に、多少は気配りいただける心優しきテロリストさんはいらっしゃらないものでしょうか。この国には、もう少し思いやりが必要だと思うのですが」
天童は狩野を見た。わずかに眉を寄せている。
「僕がテロリストだとおっしゃりたいんですか」
「これは軽率な発言、お赦しください。今は、まだ違いますね。間に合ってよかったです」
初めて会ったときから、天童は狩野に着目していた。彼の瞳に、過去の自分を見たからだ。脳の底に沈殿している記憶を浚われたような気がした。
「天童くん、爆弾興味ないかな」
酒寄輝夫の声が鼓膜を震わせた。幻聴に過ぎないと、何度も己に言い聞かせた。
あれから、何年が経過したのか。“テロちゃん”こと酒寄から爆弾製造の指導を受け、いっしょに作り上げていった。
そして、両親の仇だった市長とその息子を爆殺した──
「あなたなら、何を望むの。誰を憎み、何を仕掛ける?」
葛城の言葉を受けて、天童は考えた。自分なら誰を憎み、何を仕掛けるのか。
不埒な父親と、彼を溺愛する祖母がいる。選挙前のスキャンダルに対して、SNSによる印象操作が行なわれた。その悪辣さに気づいていないか、あるいは知りつつも支持する者が巷に溢れている。
標的候補は無数にいる。ならば、すべてを同時に狙うのではないか。
狩野の身辺調査を、天童は石塚に指示した。石塚のスキルからすると、多少は時間がかかった方だ。
結果、ダークウェブ上での森田法男との関係が判明した。
「まさか、あの森田と繋がっていたとは驚きでした」天童は、さらに微笑んだ。「カルト教団入信中は、さすがの森田氏も、マスタードガスの開発を途中で断念せざるを得なかったそうです。ですが、捲土重来を期して、悲願の毒ガスを完成させた」
“辛子”が森田法男と分かれば、“粒マスタード”はマスタードガスに違いない。極めて単純な連想ゲームだった。自分を過信している人間ほど脇が甘いものだ。
「ご存じとは思いますが、森田は福井県に潜伏していましてね。地元県警が身柄を確保しました。連絡したところ、県警の皆さんは大喜びしていましたよ。長年指名手配されてきた“毒ガスの森田”逮捕となれば、大手柄ですから」
狩野がマスタードガスを入手済みなら、あとは瀧脇と支援者が合流する会合を調べれば済む。近々でもっとも大きいものが、今日の相模原慰霊塔でのイベントだった。
「いやあ、職場からごく近い距離なので助かりました。遠方で、テロを企む方が多いものですから。阻止するためには、いつも遠出しなければならなかったのです。ローンオフェンダーの皆さんは、底意地が悪くて困ります。こちらの都合など、お構いなしですからね」
「それで、僕を“優しい”と言ったのですか」
狩野の表情は穏やかに見えた。
「違います」天童も穏やかに告げた。「こんな開けた場所で、毒ガスを撒こうとしたからです」
狩野の頬が、微かに動いた。
「まるで、消臭装置の真ん前でオナラするようなものじゃないですか。あ、下品ですみません。僕の父は一介の市役所職員でしてね。あまり育ちがよろしくないのです」
「もっと、密閉された空間を狙うべきだと?」
「気化されたマスタードガスは、空気よりかなり重いそうです。低いところに滞留するし、残留性も高くて、遅効性でもある。おっと、失礼。“釈迦に説法”でしたかね」
「なら、効果は期待できるんじゃないですか」
狩野の態度は穏やかなままだった。
「瀧脇氏のスケジュールを拝見しましたが、もう少し待てば、あなたがおっしゃるところの“密閉された空間”でのイベントの予定もありました。あなたはこう考えたはずです。事件は大きくしたいが、被害は大きくしたくない。むしろ、最小限に留めたかったのではないでしょうか。だから、“優しい”と言ったんです」
「なるほど。ですが、その森田さんは、マスタードガスを無償で提供していたのでしょうか。希少な毒ガスなのでしょう? 有償なら、大変高価なはずです。恥ずかしながら、僕は家庭教師のバイトで食いつないでいる貧乏学生です。そんな物には、とても手が出ませんよ」
狩野の口ぶりは自信に満ちていた。
「あなたが資金源にしていた、“トクリュウ”グループのことは判明しています」
初めて、狩野の顔が強ばった。
「蟻の穴から堤も崩れる」天童は笑みを大きくした。「私の部下に、非常に優秀なハッカーがいましてね。一度化けの皮が剥がれてしまえば、あなたが作ったネット上の防御壁など、彼には障子紙同然でした。あなたが率いていた“トクリュウ”のグループに関しては、構成員や犯行形態及び犯歴その他、八割方が判明しています」
目を閉じた狩野は、大きく息を吐いた。呼吸と同時に、自信も吐き出されているように見えた。
「お祖母さまやお父様の支援者から奪ったお金で、彼らに毒ガスをプレゼントする。なかなか奇抜なアイディアではありますが、褒められた企画ではありませんね」
「……グループの仲間は逮捕されたんでしょうか」
「具体的なことは申し上げられませんが、両手は見えるところに出しておいてください。スマートフォンなどの通信機器はお使いにならないように」
天童には、狩野が仲間の身を案じているように見えた。
「あなたは、一人でここに?」
「いいえ」天童は、あっさりと首を横に振った。「小心者でしてね。そんな度胸はありません。神奈川県警に協力を要請して、捜査一課と公安の捜査員を多数配備し、慰霊塔周辺を取り囲んでいます。NBCテロ対応専門部隊もフル装備で待機中です」
「そのことは、父や祖母には?」
「主催者側には知らせていません。正直、僕は瀧脇さん母子を信用していませんので。あなたや毒ガスの確保を邪魔されても困ります」
「あいつらは、僕を助けたりしませんよ」
「それには、激しく同意します。僕が心配しているのは、あの母子がまた被害者面でしゃしゃり出てきて、好感度アップの茶番につき合わされることです。あ、お父様やお祖母様の悪口は失礼でしたね」
「いいえ。お気遣いなく」
狩野に、自信と穏やかさが戻ったように見えた。少しだけだったが。
「なぜ、僕が怪しいと思ったのですか」
「あなたは“血税”という言葉をお使いになった」
天童は口元を緩めた。
「“血税という言葉を使う奴は信用ならない”──死んだ父親の口癖でしてね。税金なんて払って当たり前のものです。それを、あえて“血税”などと仰々しく表現する人間は、世の中に恨みか不満を抱えている。そう考えていたらしいのですが、親父は正しかったようですね」
「そうかもしれません」
「マスタードガスは、バックパックの中ですね。今から係の者を呼びますので、それをお渡しください」
16:14
「おやまあ。お優しいのはあなたよ」葛城が嗤う。「瀧脇雄大に対するネットの反応が変わってきたようね。何をしたの」
天童は、いつもの面会室で葛城と対面していた。
狩野には障子紙同然と見栄を張ったが、防御壁突破のため石塚は働きづめとなった。
筒井には、瀧脇に対するネットの同情論を逆転させるよう指示した。保有している無数のアカウントによって、母子の悪行を暴き立てさせた。“あんな奴を当選させるんじゃない”と炎上騒ぎになっている。
「それにしても、戦没者の方々がお気の毒だわ」
瀧脇母子が企画した慰霊祭及びその後のパーティは中止となっていた。防護服に身を包んだNBCテロ対応専門部隊が突入してきたのでは無理もない。その騒ぎも、ネットの瀧脇に対する風向きに影響している。
「今回も、上手く阻止できてよかったわ。私のポイントにしておいてね。それにしても、昔の自分を思い出したんじゃない?」
葛城は何を言おうとしているのか。天童は“アジ子”を凝視した。
「あなた。二年前に、自分の力で私にたどり着いたと思っているんじゃないでしょうね」
葛城の笑みが大きくなる。
「違うわよ。私が、あなたを誘きよせたの。ある人からの勧めがあってね」
天童は葛城の目を見た。明るい表情のまま見返してくる。
「この前、偽名で拘置所に手紙が来ていたわ。お元気そうよ。ネットで写真まで拾っちゃった」
葛城は、アクリル板にプリントアウトを貼りつけた。
「どう? 懐かしいでしょう」
少し齢を重ねていたが、見間違えるはずもない、
写真に写っているのは、酒寄輝夫だった。
「“テロちゃん”が言ってくれたの。“面白い奴がいるから会ってみないか”って」
“テロちゃん”こと酒寄が、一人で罪を被って逃走し続けているのは何のためか。
「あなたが警察庁へ入ったことを、彼は大変喜んでいたわ。で、どうすればあなたを引き寄せられるか。レクチャーまでしてくれた。神奈川県知事の毒殺未遂、覚えているでしょう?」
天童のようなローンオフェンダーを増やさないためではないのか。
「あなたと会ったあと、どうするか。それは私に任せるって言ってくれたの」
天童が自身の経験を踏まえて、その嗅覚でローンオフェンダーの犯行を阻止し続けるようにと──
「あらまあ。あなた、思ったより落ち着いているわね」
葛城が嗤って、腰を下ろした。酒寄の顔が遠ざかっていく。
「そんな奴は知らない」天童は腰を上げた。「じゃあな、“アジ子”。また、よろしくな」