12:21
天童は、神奈川県横須賀市へ到着した。
宮地サクラが谷中にあるアパートを越してから、半世紀近くが経過している。横須賀の親類を頼ったとして、今も住み続けているだろうか。
平岡の言に従い、まずは市役所を目指した。傍の公園に腰を落ち着け、スマートフォンのマップ機能で“宮地”という名を探した。
近くの商店街に、“宮地精肉店”という店を見つけた。ここから始めることにした。
「ああ。それ、親父の従妹だよ」
精肉店の店主は愛想が良かった。店では揚げたてのコロッケやメンチカツも売っているが、昼どきを少しだけ外れている。客の姿はなかった。
その従兄──店主の父親はすでに亡く、息子が店を継いでからでも一〇年以上になるという。
「でも、うちにやって来たなんてことは覚えていないし。親父からも聞いたことないけどなあ」
今の店主は、六〇歳を過ぎている。宮地サクラが住んでいたなら、多少の記憶はあるはずだった。
「言いにくいんだけどさあ」白衣を着た店主が腕を組む。「その人、学生運動かなんかやってたんだろ、それも、かなり熱心にさ。その関係だろうな。うちとの交流は一切なかったよ。親類の集まりで名前とかを聞いたことがあるだけで、おれは会ったこともない」
昼食と礼代わりに、何かを買っていくことにした。“横須賀海軍カレーメンチカツ”が売りだという。自分用に一つ揚げてもらった。冷めても美味いらしいので、LO室への土産用に作り置きも三個買った。歩きながら食べたが、確かに美味だった。
食事を終え、スマートフォンで各自に連絡を取り始めた。
「いやあ。空振りばかりですなあ」
金村の苦り切っている顔が浮かぶようだ。半日かけて籔島が告げた住所を回り、周囲に聞きこみを行なった。昔の近隣住民や知人に、宮地の消息を知る者はなかった。
「話が古すぎて、覚えている人間がいないようでして」
宮地はセクトに入っていた関係から、周囲に印象を残さないようにしていたのではないか。
「夕方まで、もう少し粘ってみます。何か掴めましたらすぐに連絡しますので。そのあとは、直帰でよろしいですかな」
まさかメンチカツ一個だけを取りに、相模原まで来いとは言えない。了承した。
余った分は、石塚と筒井にやろう。メンチカツでケンカにもなるまい。奴らに、半分コするという平和的な知能が備わっていればの話だが。
世界には、平和的な知能の欠落した輩が多すぎる。ニュースなど観ているとうんざりする。
続けて、LO室の石塚へ連絡した。
「宮地の戸籍に動きはないです」こちらは面倒くさそうな顔が浮かぶ。「住民票も、七〇年代の文京区から動いてないですね」
スマートフォンを切り、筒井にかけ直した。奴らに、電話を取りつぐという社会人の常識など期待するだけ無駄だ。
「その宮地って女の人のことじゃないんですけどお」
筒井から、意外な反応が返ってきた。訝しげな顔をしているようだ。
「最近、ネットで話題なんですよ。室長が言ってた腹腹時計。だって、五〇年も前の本でしょう? それも地下出版とか。おかしくないですか」
確かに、おかしな話だ。当時の過激派が逮捕されるなど、最近は話題になるような出来事もない。
期待していなかった方面からの動きに、天童は考えた。合点がいくと同時に、多少失望もした。
「ああ。それ、おれが流したんだよ。ネットに」
やはり、籔島の仕業だった。
パソコンは駄目だが、スマートフォンはある程度使えると聞いていた。昨夜、連絡先も交換してある。
「腹腹時計をバズらせて──表現合ってるよな──サクラの行方に繋がらないかと思ってさ。結局、ろくなネタ拾えなかったんだけど」
「年寄りの時代錯誤は、冷や水以上に怖ろしいですね」
「そうでもなかったぜ。爆弾のマニュアルだって広めたら、若いのが喰いつくのなんの。日本もアレだな、おかしな野郎ばっかりになっちまった。過激派でヤクザだったおれが言うのもなんだけどよ、この国の将来が心配になってくる。困ったもんさ」
15:31
生まれてこの方、ずっと貧しい生活だった。
母が生きていたときもそうだったし、死んでからはよりひどくなった。
掃除機のスイッチを切り、一息ついた。犬の散歩でもするように引きずる、旧式のタイプだ。
美青は、店長の柴田からかけられた言葉を思い出していた──何かやりたいこととかないの。
「やりたいことか──」
やりたいことは分からず、できることも思い至らない。これといった特技もなく、人に誇れるものなどあるのかどうか。自分が訊きたいぐらいだ。
子どものころから、勉強もスポーツも苦手だ。人見知りで、コミュ障だとも思っている。友達も皆無ではないが、少なかった方だと思う。
そうした内気な性格は、祖母の調子が悪化してから強まっているようだ。
親友の悠美みたいに、向学心もない。夢や、何かを目指したこともなかった。
美青は、ずっとその日暮らしを続けてきた。幼いころから日々を過ごすのに精いっぱいで、先のことを考えて生活するなど無理な話だった。
唯一、おっぱいにだけは中学生のころから自信があった。
「美青ちゃん、触らせてえ」
よく、同級生──当然、女子限定だが──が触らせてくれと寄ってきた。恥ずかしさを感じながらも、大人しい性格のため断れなかった。
どこか誇らしく思ってもいたのかもしれない。自信になったのは最近で、それが今の仕事に繋がり、何とか暮らしていけている。
そろそろ夕食の準備をしなければならない。今日は簡単だ。鍋の残り汁を温め、うどんを入れるだけで済む。その他の家事は終えている。
祖母は日課の昼寝中だ。
自室に戻り、押入れを開けた。小ぶりな圧力鍋があった。蓋には安物の時計などが、配線で何本もの電池と繋がれている。
「どうしよっか、これ」
鍋の中には、五キロのANFO爆薬が入っていた。
16:07
「あなたが差し入れなんて珍しいじゃない」
葛城亜樹子は、嬉しそうに“横須賀海軍カレーメンチカツ”を頬張っている。東京拘置所相模原女性支所、いつもの面会室だ。
結局、筒井と石塚にはメンチカツを一個ずつしか渡さなかった。連中の紛争に関して、天童の調停能力は国連以下だ。真の平和主義者とは、そもそも争いの種を撒いたりしない人間を言う。
「いい心がけだわ。少しは女心を勉強する気になったのかしら。あなたみたいに不愛想なナルシストでも、多少はモテるようになるかもよ」
「ナルシストは余計だ」
「おやまあ。不愛想はいいのね。ところで、このメンチカツが高くつかなきゃいいんだけれど」
天童は、籔島の腹腹時計について話した。
「カビの生えた古本に振り回されてる。早くカタをつけたい」
「流行は巡るのよ」葛城は、インターネットで腹腹時計が話題となっていることは知っていた。「その籔島さんって方が流していたのね。さすがに、このタイミングでどうしてかしらとは思っていたの」
午後から気温は持ち直し、一月にしては暖かくなっていた。葛城はいつものスウェットにカーディガンだけだが、寒そうには見えない。
「ごちそうさまでした」
メンチカツを食べ終え、葛城は丁寧に手を合わせた。
「団塊の世代は油断がならないわ」
葛城はハンカチで口元を拭った。化粧は薄く、口紅が剥げたりはしない。
「だから、私もここに入れられる前、あの世代は相手にしなかった。非常に傲慢で、我が強いでしょう。私たち後進の世代では、歯が立たないわよ。それより、あなた。どこかで騙されたんじゃない?」
アクリル板の向こうで、葛城が薄く嗤う。長い黒髪が微かに揺れた。
「あらまあ。惚けた顔しちゃって。寒い日が続くから、風邪でもひいてるんじゃなくて。嫌な予感がするわ。もう一度、一から考え直してごらんなさい」
21:01
脂ぎった頭皮が、目の前で揺れている。
髪の薄い中年男に乳首をしゃぶらせながら、美青は爆弾のことを考えていた。
眼前の客に、神経を集中させる必要がない仕事だ。むしろ、無心でいたい。ほかに気を紛らわせることがある場合は、これ幸いと注意を逸らせている。
あれは、年末の大掃除をしたときだった。
祖母と二人で作業を進めていたが、祖母は途中で体調不良を訴えた。微熱もあった。残りは、祖母の部屋だけだった。
亡き母の部屋に祖母を休ませ、一人で掃除を始めた。普段は祖母が自分でするので、隅々まで祖母の部屋を掃除するのは初めてだ。
ほぼ清掃を終え、最後に押し入れを開けた。整理していると、奥から古びた衣装ケースが出てきた。ピンク色のプラスティック製で色が落ち、朽ちかけている。
中には茶色い薬瓶が何本かとブリキ缶、一冊のノートがあった。表紙にはマジックの手書きで“腹腹時計マニュアル(抜粋・概要)”と書かれていた。
美青はスマートフォンを手に取り、腹腹時計を検索してみた。結果、爆弾製造に関する本だと知った。インターネット界隈では最近、話題となっているようだった。
衣装ケースごと動かすと、祖母に気づかれてしまう。中身だけ、自分の部屋へ移動することにした。分散しても、かなり重かった。祖母を起こさないよう注意したため、時間もかかった。
“私は、腹腹時計を持っている”
つい嬉しくなって、SNSに書きこんでしまった。最近は、祖母以外の人間と接する機会が滅多にない。仕事先でも女性同士の会話はほとんどなく、親友の悠美と話す程度だ。あとはアパートの大家と、店長の柴田ぐらい。その反動もあったのだろう。
プレミアがつくのでは──一時的に、ネット民が盛り上がっていた。原本でないことが分かると、途端に冷めてしまったが。
腹腹時計マニュアルは実に分かりやすかった。勉強全般が苦手、特に理数系は壊滅的な美青にも辛うじて理解できた。瓶や缶の中身は、肥料や軽油などらしい。ANFO爆薬の材料だ。
爆薬を作り、ホームセンターで圧力鍋や時計を仕入れ、マニュアル通りに爆弾を組み立てていった。材料が古びている恐れはあったが、買い替える金もない。そうした作業は簡単だし、楽しかった。
数日で、爆弾は完成した。アナログ時計の時限式だ。
だが、使い道がない。
今の生活に対する不満はある。それを、どこにぶつけたらいいのかが分からない。いっそネットで売り飛ばすか。世間に恨みを抱いた人が、有効に活用してくれるだろう。
そもそも爆発するのだろうか。材料は相当に古い物だ。場所がないので実験さえしていなかった。
「何だよ、もう時間かよ」
目の下で汗だくになった頭皮が喋り、時間切れを告げるタイマー音が聞こえた。店内は暖房が効きすぎていた。美青も腋の下が汗ばんでいた。
そのあとも数人ほどの客を相手するうちに、閉店時間が来た。
「店じまいが、二か月後に決まったよ」
退勤しようとして、たまたま店長の柴田と顔を合わせた。オーナーは今月末と宣告したらしい。
「従業員が再就職先を探す必要があるって、粘ったんだけどね。それが限界だったよ」
着替えしていると、悠美が入ってきた。閉店の話を聞いたかと問われたので、うんと答えた。
「不安だよお」悠美は漏らした。「これ以上ハードな風俗への転職は避けたいけど、お金ないし」
自分と同じだ。別れを告げ、外に出た。自転車に乗ってから、思いついた。
そうか。爆弾は、こう使えばいいのか。
1月21日 水曜日 10:23
「今日も、朝からご精が出ますね」
天童は再度、平岡虹子を訪ねた。彼女は、今日もアパート前の掃き掃除をしていた。
空は薄曇りで、昨日の夕刻から引き続いて過ごしやすい。
「大してゴミもないのに」天童は地面を見回す。「まるで門番みたいですね」
「何が言いたいんだい」平岡は視線も上げない。
「あなたの本名は、佐々木洋子さんですよね」
平岡は、掃除の手を止めなかった。竹箒の周囲には、枯れ葉一枚落ちていない。
「戸籍を調べさせていただきました。平岡虹子って、セクト時代の組織名か何かですよね。そして、あなたは宮地サクラと同じ団体に所属しておられた」
平岡は、宮地の二年先輩となる。籔島に確認した。平岡虹子こと佐々木洋子は、セクトが内部分裂した際に脱退している。
「そのあとも、宮地さんとは交流を続けていらっしゃった。今も彼女を匿う、もしくは庇っておられるのではないですか」
昨日、葛城と面会したあと、天童は思い返した。平岡に言われた横須賀行きが、空振りに終わったのはなぜか。平岡の戸籍及びアパートの住人について、石塚に調べさせた。
住人の一人に、丹生トシ子がいた。
天童は、丹生トシ子について調べた。年齢的に、宮地サクラと合致するのは丹生だけだった。
トシ子の夫、丹生政男はセクトの地下生活者だった。すでに逮捕され、服役中に病死している。
丹生政男も偽名だ。供述調書には本名もある。取り調べられた際、丹生という夫婦のホームレスから戸籍を買ったと自供していた。
その後、セクトメンバーの宮地サクラと夫婦を装い、地下へ潜った。見せかけの“丹生夫妻”が、“本物の夫婦”となるのに時間はかからなかった。
「そのうちに、娘が生まれて。久実と名づけて、丹生の戸籍に入れました」
丹生政男の調書には、そう書かれてあった。トシ子と久実──妻子の行方は不明なままだった。
「あなたは、このアパートでずっと、後輩に当たる丹生トシ子こと宮地サクラさんを守っておられた。警察はもちろん、元は仲間であったセクトの手からも。地下生活者の“夫”が逮捕され、宮地さんもセクトから追及される立場になってしまった。そこで、あなたに助けを求めたのでしょう」
「何言ってるんだか、よく分からないね」
天童の言葉に、平岡は鼻を鳴らした。掃除の手は、絶え間なく動き続けている。
「仕方ありませんね」一つ息を吐き、天童はスマートフォンを取り出した。合図を送る。
「お久しぶりです、佐々木先輩」
数秒後、金村が籔島を連れてきた。平岡の箒が初めて止まった。
「サクラに会いたいわけじゃないんです」
再会の挨拶もそこそこに、籔島は語り始めた。表情は真剣だった
まず天童が話したうえで、籔島と会わせる。平岡の反応を見る限り成功だったようだ。
「昔、預けた腹腹時計マニュアルと爆薬の原材料」籔島は急いている感じだった。「それがどうなっているか、確認したいだけなんです」
「今でも、それをサクラが持っていると?」
籔島がうなずいた。平岡は、大きく息を吐き出した。
「分かったよ」箒が、アパートの壁に立てかけられた。