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1月19日 月曜日 17:08

「よいしょっと」
 アパートの台所で、丹生美青はテーブルにレジ袋二つを載せた。どちらもはち切れそうに膨らみ、かなりの重さがあった。
 行きつけのスーパーは、月曜日がポイント五倍の日だった。三〇〇ポイント貯まると、同じ額のお買い物券が貰える。金曜と日曜も五倍になる。そのタイミングを狙って、買いだめしている。
 美青は今年一九歳、台東区谷中の古びたアパートで、祖母と二人で暮らしている。六畳の和室が三部屋に台所と浴室、トイレがある。
「お祖母ちゃん、ただいまあ」
 孫の呼びかけにも、祖母のトシ子は反応を示さない。台所と隣接した六畳間でTVを観ている。美青の帰宅には気づいていない様子だった。
 祖母は聴力が衰え、五年前から補聴器を使用している。
 元々、左耳は幼少時の水難事故により聴力を失っていた。加齢により右耳も極度の難聴となった形だ。ここ一年ほどで急激に落ち、現在はほとんど聞こえない状態となっている。使っている補聴器も、性能が聴力の低下に追いついていない。
 TVの音量も完全に落としている。最近はTVも字幕を出せるので、支障はあまりないようだ。たまに、古いドラマで字幕がないと文句たらたらになる。
「美青、お帰り。重かったろう」
 視界に入ったか、雰囲気で察したようだ。立ち上がろうとする祖母を手で制した。
 美青は、手元に置いてあったホワイトボードとマーカーを手にした。二五センチ四方の小さな物で、一〇〇円ショップで購入していた。
 マーカーのキャップを外し、美青はホワイトボードに書きこんだ。
“座ってて、今晩はブタの鍋にする”
 うなずいた祖母は、TVに戻った。マーカーの尻には、文字を消すための小さなイレイサーが付属されている。書いた文字が、黒いカスに変わっていく。
 このカスが、美青は嫌いだった。始末がうっとうしいうえに、祖母の面倒を見るという負担の象徴にさえ感じていた。
 スーパーで購入した物を冷蔵庫に収納し始めた。本日は、豚コマの特売日でもあった。鍋に入れる野菜なども買ってある。
 鍋はいい。一度の買い出しで、何回も作れる。祖母は小食で、美青はダイエットを心掛けている。白菜など、四分の一カットサイズで三回は使える。肉や魚も、余った物を冷凍しておく。
 何より、初日の鍋では〆をしない。余った汁は冷蔵庫で保存し、翌日に回す。その汁にうどんやご飯、ラーメンを入れる。汁には肉や野菜の屑が浮いているので、茶漉しで漉す。一回の鍋で、二日分×三回で六食浮く計算だ。
 美青の母親、久実は数年前に死亡している。新型コロナウィルスの感染によるものだ。以前から、かなり肝臓が悪かったことも影響したようだ。それから、祖母と二人になった。
 父親の顔は知らない。名前も聞かされていなかった。その男は母が美青を妊娠している最中に、女を作って出奔した。久実が二八歳、トシ子が五六歳のときだ。
 美青が生まれてから、祖母は孫の面倒を見ることに専念した。母が働き、育児や家事全般は祖母が担当することとなった。
 祖母も若いころは各地を転々とし、いろいろな職にも就いていたそうだ。美青が物心ついてからは、家にいるところしか見ていない。住居も、今のアパートにずっと住んでいる。
 母は町工場の事務員を経て、新橋の小さなスナックで雇われママとなった。コロナ禍に見舞われ、店は経営難となり、解雇された。感染が分かったのも、その直後だ。
 美青が高校を卒業する少し前から、祖母の体調が急激に悪化した。
 祖母は美青と同じく一五〇センチ程度と小柄だが、中肉な孫と違い極端に痩せている。腰が曲がり、さらに小さく見えるようになった。食欲は減退する一方で、体重が落ち続けている状態だ。今では、三〇キロ台前半となっていた。
 耳が聞こえない祖母は、歯医者へ行くにも付き添いが必要な状態だった。
「どこが痛いですか」
 歯科医の質問にも、微笑を浮かべてうなずいているだけだ。聞こえるふりをするなと注意はしているのだが、無視されている。付き添わないと、危なくて仕方がなかった。
 歯だけではなく。耳や高血圧など通う病院も多い。祖母は杖を突けば、歩みは遅いが歩行はできる。だが、美青が付き添わないと、医師の診断が聞こえない。耳鼻科はさすがに筆談等の対応をしてくれるが、ほかの病院では難しい。
 聴力の悪化は急激だった。ある日、全く聞こえなくなった。補聴器の不調かと思ったが、検査で聴力がまったくないことが分かった。補聴器センターから個人病院、さらに総合病院を紹介された。一週間程度の入院を伴う投薬治療が行われたが、左耳の聴力はあまり回復しなかった。
 人工内耳の手術を検討するため、大学病院へ向かうこととなった。カンファレンスとやらで不可とされたらしい。人工内耳手術は全身麻酔を伴うため、肺気腫の状態では人工呼吸が外せなくなるリスクが高いそうだ。
 現在、祖母の体調でもっとも心配なのは、その肺気腫だった。胸部レントゲンを撮影すると、肺が真っ白に写る。小柄で温厚そうな見かけから想像できないのだろう。新しい病院で検査を受けるたびに、喫煙者なのかと驚かれてしまう。祖母は煙草を吸わないが、若いころから喫煙者の多い場所にいたらしく、受動喫煙の影響と見られている。
 認知能力も落ちつつあり、物忘れが激しい。耳が聞こえないストレスからか、感情の起伏も激しくなっている。
 ちょっと意見しただけで物を壊されたり、暴力を振るわれることもある。一度、激昂して茶碗を叩きつけようとしたことがあった。止めたところ、腕を何度も殴られた。七十代半ばの女性なら、まだ力も強い。青痣となり、氷で冷やす羽目となった。
 微熱や頭痛その他の体調不良も始まった。聴力が落ちたストレスによるものではないか。美青はそう考えているが、心療内科にまでは通っていない。
「介護認定を受けた方がいいですよ」
 祖母は認知症にまでは至っていないと、美青は思っている、だが、かかりつけ医から地域包括支援センターを案内されたため、相談に向かった。
 区の調査員による訪問調査も受けた。筆談なら、祖母の受け答えは明瞭だ。運動能力も、調査員の課題はクリアできた。認定されるのか、不安になるほどだった。
 あとは区の介護認定審査会を待つだけだが、延期の通知が届いた。“主治医意見書が医師から返送されていないため”と書かれていた。かかりつけ医は忙しいのだろう。病院は、常に患者で溢れている。
 聴力の診察は、引き続き大学病院で世話になっている。通うのに、一時間はかかる。当然、美青の付き添いが必要だ。
 大学病院からは、新しい補聴器を勧められている。そのため、今日は補装具の申請に区役所へ行った。これが認められれば、新たな補聴器の購入に際して自己負担がなくなる。医師の指示でやはり区役所で手続し、障がい者手帳の等級は四級から二級へと上がっていた。
「補装具費の支給申請で補聴器を購入された場合、五年間は交換できないんですよ。それに、まだ使える場合は五年経過していても、引き続き使用していただくことになっているんです」
「ですから、聴力の衰えが激しくて、今の補聴器では聞こえないんです。障がい者手帳の等級も二級にしましたし、お医者さんからも“新たな補聴器を使いなさい”と言われているんですが」
 来庁の主旨を説明するのだが、区役所職員には話が通じない。
「確かに、以前の申請から五年は経過しているようですが」区役所職員は、無表情のまま書類に目を落とす。「今お使いの補聴器は故障しているんですか」
「いえ、故障じゃなくて。難聴が進んだため、もっとレベルの高い補聴器をいただきたいんです」
「今でも重度難聴用の機種が支給されているんですけどね。故障じゃないと支給できませんよ」
「じゃあ、もう。故障でいいです」
 美青は説得を諦めた。重要なのは、新たな補聴器を至急手に入れることだ。
 補聴器は使い始めたからといって、すぐ明瞭に聞こえるわけではない。調整を重ねていかなければならなかった。急ぐ必要がある。
 区役所を出た美青は、疲れ果てていた。重い躯に鞭打って、スーパーで買い物を済ませて帰宅した。
 この国の政府は、とかく無責任だ。何かにつけて、家族の責任にしようとする。福祉は縮小傾向で、家族の負担は増すばかりだった。
 日本の福祉は、原則として申請主義となっている。自ら動かなければ一切扶助されない。
 祖母は重度心身障がい者医療費受給者証を給付されていて、予防接種等の実費を除いて医療費はかからなくなっている。大変助かっているが、これも病院からの指導があって申請したものだ。自動的に給付されたわけではなかった。
 病院や区役所など祖母の世話に係る手続その他は、すべて日中に行なわなければならない。働きながらでは限界がある。中小企業では介護休暇の取得さえ覚束なく、大手企業や官公庁には美青の学力では採用されないだろう。第一、働きながら祖母の付き添いなど可能なのか。
 卒業後に勤めていたカフェでは、介護の話などまったく通用しなかった。
「付き添い? お祖母さん歩けるんでしょ。それとも寝たきり?」
 店長は呆れ顔で、耳掃除をしている。
「ですが、耳が聞こえなくて。一人で外出させるのは、ちょっと……」
「だったら、施設に入れちゃえば? それくらいで仕事休むってあり得ないっしょ。しっかりしてよ」
 結局、高校卒業時に就職したカフェは一カ月で退職した。
 そうした状況のため、美青は昼間の仕事に就くことができなかった。そこで、“夜の仕事”に切り替えた。職を転々としてきた祖母の年金は少額だ。それだけでは、生活できなかった。
 大学や短大、専門学校への進学など論外だった。日中は時間が取れないし、これ以上支出を増やして生活に負荷をかけることはできなかった。
 今日も夕飯を作り、祖母のトシ子が床についてから出勤しなければならない。
 これも、昼の仕事ができない原因だった。耳が不自由では、何か起こっても連絡を取る手段がない。
「お祖母ちゃん、スマホ覚えなよ」
 たびたび説得したが、本人にまったく覚える気がない状態だ。
 何もかも面倒くさく思えてきた。疲労も限界を超えると、思考が停滞してしまう。昔から考えるのは苦手だったが、もうそんな気力さえなくなっていた。


18:51

「室長、こっちです」
 居酒屋の前で、金村靖が手を振っている。安さだけが売りの全国チェーンだ。
 横浜駅西口はすでに暮れ、真冬の月曜でも華やかに賑わっている。
「籔島は、中で待っていますんで」
 天童怜央が金村に並ぶと、店の自動ドアが開いた。座敷席を予約しているそうだ。
「お呼び立てして悪いな」
 店員が障子を開くと、籔島研吾が右手を挙げた。奥の上座で胡坐をかいている。
「席替わるかい? 下座に控えてるのも仰々しいと思って、ここに座ったんだが」
「結構です」天童は金村と下座に腰を下ろした。さすがに正座はしなかった。籔島が微笑する。
 籔島の人となりは、金村から事前に聞かされていた。七五歳、元武張組二次団体の組長だ。五年前に引退している。
 背筋が伸びて、恰幅が良く、座っていても長身と分かる。グレーの地味なスーツに白いYシャツ、タイはしていない。短い頭髪は白くて多い。
 武張組草創期からの組員だ。若いころは学生運動にのめり込み、安田講堂占拠事件にも参加した。その後、東京大学経済学部を中退し、某極左セクトの活動に専念する。指名手配まではされなかったが、公安のマークを受けるようになった。地下生活を続けた後、意見の対立によりセクトを放逐された。日雇いやアルバイトで生計を立てていたところを、武張組の初代組長に拾われた。
 当時は、まだ組も小さかった。籔島は、武張組の勢力拡大に一役買った立役者と目されている。
「生ビールでいいよな。あとは、適当に注文しておいた。足りなければ追加してくれ」
 籔島が生中二つを追加する。ジョッキ二つと併せて、刺身盛り合わせと鶏の唐揚げが届いた。確かに、適当なオーダーだった。乾杯はしなかった。
「おれなんかに呼び出されて、不服だって顔だな」
「まったくもって、そのとおりですね。用件は何です?」
「そうツンケンすんなよ」籔島がビールを呷る。「これでも、あんたにとっては大学の先輩なんだぜ。中退したがね。アカの本読んで、勉強もしないで暴れ回って、気がつきゃ極道さ」
「“先輩”の世代では珍しくないお話ですね」
「だが、今ではシルバー人材センターに勤める立派な堅気なんだ。公園の清掃や剪定作業で糊口をしのいでる。官憲なら、そんな一般市民の声には耳を傾けてくれたっていいだろ」
 籔島は“現役”時代も刺青を入れなかった。指が揃わなくなるようなへまも犯していない。そのため、周囲には元暴力団員とばれていないそうだ。
「あんたが太田の売り飛ばした拳銃を取り戻したって、金村さんから聞いたんでな」
 太田は、武張組二次団体の組員だ。幹部の子息でもある。キャバ嬢に嵌まって金が足りなくなり、組に無断で拳銃を売り捌いた。それを、天童が使用前に回収していた。
「そんなあんたを見込んで、頼みがある」
 天童はジョッキを口から離した。籔島と目が合った。先刻までの微笑は消えていた。
「宮地サクラという女の行方を捜してほしいんだ」
「誰です?」
「五十年前、セクトから叩き出される前につき合ってた女さ」
「酔ってます?」天童は鼻を鳴らした。「昔の女に会いたいなら、興信所にでも頼んでください。それか、ネットで配信でもしたらどうですか。過激派老いらくの恋、バズるかもしれません」
 籔島はビールを呷り、さらに真顔となった。
「その女には、『腹腹時計』の爆弾製造部分のみを抜き書きし、さらに簡略化したマニュアル一部と、ANFO爆薬五キロの製造に必要な肥料その他を預けてある」
『腹腹時計』は、ある極左グループが地下出版した書籍だ。思想や活動方針だけでなく、爆弾の製造方法やゲリラ戦についても記述されている。
「このマニュアルは、我ながらよくできていてな」籔島は目を逸らさない。「料理のレシピみたいに、そのとおり作業するだけで、中学生でも爆弾が作れる。材料が経年劣化で使い物にならなくなっていたとしても、成分なんかは詳細に記してある。ネットで少し調べれば、簡単に代替物を入手できるだろうよ」
 天童は、籔島の瞳を奥まで覗きこんだ。嘘を言っているようには見えない。
 金村も視線を向けてくる。用件までは知らされていなかったようだ。
「いずれ必要になる日も来るかと思ってたんだが、どうもおれが生きている間にはなさそうなんでな。回収をお願いしたい」
 籔島のジョッキが空になった。テーブルに置く音が、鋭く響いた。
「サクラが、とっくに処分しちまってるならそれで良し。確認だけでもお願いしたいんだ」
「室長、これやばくないですか」金村のビールは、先刻から減っていない。
「困りましたね」天童は息を吐いた。「話が古すぎます。……いいでしょう。空振りに終わるとは思いますが、動くだけは動いてみます」
「すまねえ。恩に着る」籔島が頭を下げた。「ここは、おれの奢りにさせてくれ」
「いえ、僕がすべて払います。ヤーさんは僕の部下ですし、あなたは──」
「元ヤクザだからかい」
「後期高齢者だからです」

 

(第11回につづく)