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19:32


 美青は、風俗店──おっぱいパブ“乳ゴールド”へ出勤した。
 カフェ退職後、美青は即座に風俗業界へ飛びこんだ。この店を選んだ理由は、家から一番近かったからだ。近所に夜も営業している店は数少なく、業種も限られていた。
 店までの移動には自転車を使っている。徒歩では少し遠く、車やバイクの免許は持っていない。
 乳ゴールドは、雑居ビルの一階に入っている。二階のスナックは先月閉店し、三階と四階には得体の知れない小さな事務所が居を構えていた。
 時給は高くない。辛うじて暮らしていける程度の収入だ。昼のパートやアルバイトよりはましだが、躯を張ってこの程度かと考えてしまう。
 勤務中は、さまざまな客の相手をすることになる。薄汚い中高年の男に胸をまさぐられ、しゃぶられ、ひどいときには説教までされる。今対応している客も、そういう最悪な部類だった。
“楽して稼ごうとするんじゃない。もっとマシな仕事に就け。自分を安売りするな。ちゃんとした学歴はあるのか。おれを見てみろ、額に汗して働くまともな姿を”
 額に汗するのは勝手だが、この体臭は何とかならないものか。大抵の客がすでに酒を呑んでいる。筆舌に尽くしがたい臭いが、全身から発散されてくる。そんな男の股間に跨り、胸をさらけ出す。
 何で、こんな臭い生き物に説教されなければならないのか。毎度ながら、美青は情けなくなった。
 こうした客たちは、さぞかし立派な仕事をしているのだろう。日本を、こんな貧しい国にまで落ちぶれさせたのだから。
 なら、優しい客がいいかといえばそうでもない。
「ねえ、いいでしょう。おっぱいだけじゃなくてさあ。口でとか言わないから、ちょっと触るだけ、ね」
 甘い言葉をかけてくる奴の多くは、規定以上のサービスを求めてくる。店には内緒だが、ズボンの上からなら触るぐらいはしてやる。最後までいかせるつもりはないが、そんな奴に限って早漏だ。
 真剣に交際を申しこんでくる馬鹿までいる。金まで払っておっぱいをしゃぶりに来る男と、交際したい女なんているだろうか。おっパブ嬢だからと舐められているに決まっていた。
 そういう輩には、あーとか、えーとか困ったふりをしていれば時間切れになる。ポイントは深入りさせないことだ。思わせぶりな態度など厳禁だった。疑似恋愛めいたサービスを提供する以上、本気にさせてはならない。ストーカーと化し、身の危険に晒されることとなる。安い金に目が眩んで、殺されるなどまっぴらごめんだ。
 店長はそのあたりはしっかりしていて、ストーカー対策も明文化されている。だが、実際にどこまで効果があるかは疑問だった。変な男には、あらかじめ一線を引く。自衛こそが肝心だと思う。
 好きにはなれないが、同情したくなる客はいる。
「会社の上司がさあ、無能なくせによお、おれのことばっか目の敵にしやがって、ちくしょおおお」
 会社の愚痴を語る連中は多い。時に怒りながら、中には泣き出す者まで。マザコンだろうか、母親に甘える感じでおっぱいを吸う奴もいる。
 開始一分で、そのまま最後まで熟睡する人もたまに現れる。こっちは楽でいいけど、安くない金を払っているはずだ。そこまで疲れ果てているのだろう。いいのかなと心配はしても、起こしたりはしない。
 女ほどではないにしても、男の人も大変だとは思う。やっぱり、この国はどこか間違っている。
 同じ店に勤める悠美は、乳ゴールドで唯一親友と呼べる存在だ。
 悠美は都内の大学に通っている。奨学金だけでは学費や生活費が追いつかず、風俗店で働き始めた。
 父親は中堅どころの食品会社に勤務している。就職氷河期時代に、やっと見つけた仕事らしい。そのため、給料は高くない。
 母も同じ会社に勤務していたが、妊娠と同時に関連企業のパートに回された。その程度の認識しかない企業だった。
「うちの実家にはさあ、古臭い長男信仰があって」
 お互いの愚痴を語り合うのは、美青と悠美の日課だった。
「両親は、長男の兄貴にばっかり金かけてんの。“私も大学に行きたい”って言ったら、“女に学なんか必要ない。嫁に行けばいい”だって。何時代の人って感じ。結局、大学進学の費用も一切出してくれなくて。家まで追い出されてさあ」
 対して、悠美の兄には留学費用まで出したという。ひどい話だった。
「勉強するのに、自分の性を切り売りしなきゃいけない国って終わってるよね」
 悠美の愚痴は、最後の言葉が決まっている。美青も激しく同意だ。
「お疲れ。ミミちゃん、このあとちょっといいかな」
 “ミミ”は源氏名だ。閉店時刻を迎え、美青は雇われ店長の柴田敏生に呼ばれた。三十代後半らしいが、長身で整った顔立ちをしている。何より温厚な性格で、いつも美青やスタッフを気遣ってくれていた。店長が嫌な奴だったら、とっくにこんな店辞めていたかもしれない。
「ミミちゃんさあ、この店にはもったいないと思うんだよね」
 店長室で、柴田は電子タバコをくゆらせている。美青はその前に座っていた。
「くっきりした目鼻立ちでさ、眼なんかぱっちりして、美人というより可愛いタイプだよね。こんな照明落とした薄暗い店、もったいないんじゃない? 特にバストは大きくて上向き、形もいいしさ。乳首もピンク色。客の評判上々よ」
 確かに、胸は客からよく褒められる。気持ちの悪い客ばかりだが、悪い気はしない。
「これって、セクハラ? でも、うちさあ、おっパブだからね。八百屋が野菜の話できないと、商売上がったりじゃない」
「でも、お尻はちょっと垂れぎみだし、ウェストも太いですよ」
「ああ、ああ」電子タバコを持ったまま、柴田は右手を振った。「別に、グラドル育成するわけじゃないんだからさ。ちょっとぐらい崩れてる方が、愛嬌があるってもんでね。ただ、夜の仕事だから。結局はサービスのハードさか、テクニックの高度さによって対価が決まるわけよ」
 キャバクラやガールズバーは、サービスがライトな割に高給だという。ただし、トーク力や男のあしらいなど対人テクニックが要求されるそうだ。
 夜の仕事を目指した際、キャバクラは一番に考えた。だが、美青は幼少時から徹底して、引っ込み思案の陰キャだった。人との会話自体が苦手では、対象から外さざるを得なかった。
「ソープはサービス、テクニックともにもっともハードだけどさあ、金はいいんだよねえ。ピンサロはうちと同じで店内暗いから。顔や胸がきれいなミミちゃんじゃ宝の持ち腐れだし」
 ピンサロはサービスがハードな割に、給料はうちの店と大差ないらしい。
「だからさ、ヘルスとかどうかと思うんだよね」柴田は煙を吐き出した。「ハコは減ってるけどさ、デリなら大手コンビニと同じくらい数があって、過当競争だけど、ここよりは稼げると思うし」
 ハコとは店舗型のファッションヘルス、デリはデリバリーヘルスのことだ。
「その気なら、うちの系列店に紹介するけど、どう? 正直、おれにも紹介料入るからさあ、助かるってのもあるんだよね」
「ご親切にありがとうございます」
 店長から他意は感じられない。美青は素直に礼を言った。
「ですけど、このままこの店に勤めさせていただくことはできませんか。私は胸しか自信がないし、ヌキのスキルとかそういったのも何もないですから」
 内心、今以上にハードなサービスには抵抗があった。
「実はさ」親切な店長は息を吐いた。「業績不振で、この店もうすぐ閉められちゃうんだよね。オーナーの意向だから、逆らうわけにもいかないし」
 驚いた美青は、柴田を見た。苦り切った顔で、電子タバコを喫っている。
「いっそ火事でも起きればさ、保険金も下りるし。大金が入ったらオーナーの気分も変わるかもしれないけど。店を建て直したりとかさ。ま、そんな都合よくはいかないよね。ミミちゃんは若いし、いつまでもこんな仕事続ける気ないだろ。何かやりたいこととかないの」
「……いえ、あんま考えたことないです」
 曖昧にはぐらかしながら、美青は母の死に際を思い出していた。
「本当は美容師になりたかった」
 それが、母にとって最期の言葉になった。
 髪をいじるのが好きな女性だった。上手でもあった。母自身の髪もそうだが、美青の髪もよく結ってくれた。
「はい。綺麗になったよ、美青」
 いつもそう言ってくれたし、美青自身も満足していた。苦しい生活の中、唯一と言っていい楽しい思い出だった。
「少し、考えさせてください」美青は席を立った。


1月20日 火曜日 9:35


 冬の曇天が、頭上にのしかかっていた。風も冷たい。
 早朝から、天童は宮地サクラの捜索を開始していた。
「入っていたセクトの関係でな」籔島から聞かされた情報を反芻する。「あいつは、文京区から台東区あたりの住居を転々としてたんだ。その辺りから当たってくれねえか」
 籔島から知っている限りの住所を聞き出し、金村と手分けして当たることにした。
 見せられた宮地サクラの写真は、スマートフォンで撮影してある。かなり小柄な女性だった。美人でもある。だが、五十年前の代物だ。容貌は著しく変化しているだろう。面影でも残っていれば御の字か。ほかに特徴などはないか訊いてみた。
「あいつは子どものころ事故に遭って、左耳が聞こえなくなってるんだ」語りながら、籔島は遠い目をした。「手術でもして、治してくれているといいんだけどよ」
 LO室には寄らず、石塚祐一と筒井史帆には電話で指示した。石塚には、宮地の戸籍や住民票を探らせている。筒井にはいつもと同じくネットの状況等を調べさせているが、五十年も前の話だ。こちらは望み薄だろう。
 天童は、二軒目となる谷中のアパートへ向かった。木造二階建て、築四〇年といったところか。ならば、宮地が住んでいたころから一度は建て替えていることになる。
 部屋は、横に四部屋が並ぶ構造だった。その前を、竹箒で掃いている女がいた。中背でふくよか、割烹着と大阪のおばちゃんみたいなヒョウ柄の上下を着ていた。
 天童は声をかけ、名刺を渡した。“警察庁ローンオフェンダー対策室”と記されているものだ。
 女は、平岡虹子と名乗った。アパートの大家だという。
「宮地サクラさんという女性が、こちらにお住まいだったはずなんですが。ご存じないですか」
「また、古い話だねえ」平岡は苦笑する。「宮地さんなら知ってるよ。同世代で仲が良かったから、よく覚えてる。このアパートはさ、私の父母が四十年前に建て替えてるんだけど、その前の住人さ」
「今どちらにいらっしゃるか、分かりませんか」
「五十年近く前に引っ越したときは、横須賀の親戚んちへ行くとか言ってたねえ。でも、今はどうだろう。退去のときも詳しい住所は聞かなかったけど、市役所の傍とか話してた気がするよ」
 五十年近く前のことを、すらすらと諳んじられる。多少の違和感は感じた。よほど印象深い人物だったか、忘れがたい出来事でもあったのだろうか。
 横須賀か。かなりの遠征になる。礼を言って、天童は内心嘆息した。


9:47


「美青ちゃんお帰り」
 大家の平岡から声をかけられた。コンビニエンスストアから帰ってきたところだった。
 朝食用のマーガリンが切れていることを失念していた。夜が遅いため、朝食のタイミングも遅い。逆に、祖母は高齢のため朝が早い。毎朝、美青の起床を待っている。
 これ以上朝食が遅くなると、また祖母の機嫌が悪くなる。マーガリンは少しでも安いスーパーで買いたいところだったが、近所のコンビニで済ませることにした。
「あんたさあ」
 平岡が掃き掃除の手を止めた。少しだけの落ち葉が掃き集められている。
「何か、トラブルに巻きこまれてないかい。借金とか」
 今のところ、思い当たるトラブルはない。貧しい暮らしは続いてるが、借金だけはないのが自慢だ。
「変な男が尋ねてきてね」大家が顔をしかめる。「背が高くて、男前だったけどさ。そんな奴ほど信用ならないからね。警察のローンがどうとか言っていたからさ、借金取りか詐欺だろけど。適当に追い返してやったよ。これが、そいつの名刺」
 見せられた名刺には、確かに警察やローンの文字があった。ただ、“ローンオフェンダー”は借金などの意味ではなかったはずだ。TVで聞いたことがある。詳しくは知らないけれど。天童怜央という名前にも、心当たりがない。
「ありがとうございます」マーガリン入りのレジ袋を下げたまま、美青は頭を下げた。「気をつけますね」

 

(第12回につづく)