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  2月6日 金曜日 11:36


「じゃあ、次の問題行くぞ」
 狩野航大は、自室でパソコンに向かっていた。家庭教師の授業をリモートで行なっている。
 生徒は中学二年生の男子、鈴木だった。不登校で、たまに保健室登校する程度だと聞いていた。通塾も拒否している。ほかにも複数の生徒がいるが、皆似たような状況だ。
 狩野自身は、東京大学教養学部文科一類の一年生だ。三年生からの後期は、法学部を志望している。
 金曜の午前中だが、大学が休講となったのでアルバイトの授業を入れた。科目は国語だ。生徒とは、タブレットで教材を確認し合っている。読解問題の指導中だった。
「問題文全部を読むな。設問部分にだけ集中しろ」
 国語が苦手な生徒は、問題文をすべて理解しようとして混乱する。空欄に接続語を入れる問題を解説しているところだった。(1)“だから”(2)“つまり”(3)“しかし”(4)“そして”、この中から一つを選択するというよくある設問だ。
「空欄の前後にある二文だけを読んで、よく意味を理解するんだ」
 こうした問題は「A」の文、空欄、「B」の文という順で構成されている。「A」→「B」と順当に流れれば、答えは(1)“だから”となる。「A」=「B」と両文が同じ意味なら、答えは(2)“つまり”だ。「A」⇔「B」と違う結果になる場合は、(3)“しかし”。「A」≒「B」と似た趣旨の文が続けば、(4)“そして”を選択すればよい。
 ほかにも「A」≠「B」ならば“ところで”、「A」or「B」なら“または”などがある。
 今回の設問は「鶏は昨日三個、今朝四個の卵を産んだ。(問一)、二日で七個の卵を入手できた」とある。前後の二文は「A」卵三+四個=「B」卵七個、(問一)に入る答えは(2)“つまり”となる。
 狩野は、読解問題を方程式化して教えていた。それでは、本当の読解力は身につかない。真の学力向上には繋がらないのではないか。そうした批判はあるだろう。
 それは、学校の教師に任せておけばいい話だ。家庭教師の仕事は、テストで点を取らせることに尽きる。高校入試を突破させ、当面の道を切り拓いてやる。狩野の役目はそれだけだった。そのあとは作家になろうが、科学者を目指そうが生徒本人の好きにすればいい。
「先生。おれ、学校に行かなくても大丈夫かな」
 本人も悩んでいるのか。登校拒否している鈴木に限らず、狩野が担当している生徒の多くは学校に馴染めていない。そのため、こうした問いをよく口にする。
「いいんじゃね、別に」狩野は首筋を掻いた。「お前が決めたとおりにすれば。安心しろ。行きたい高校には、おれがねじ込んでやるから」
 残りの問題をすべて解説したところで、ちょうど終了の時間となった。授業を切り上げ、宿題を与えて自室から出た。
「ただいま」母の狩野理子が帰宅した。今日はパートを休んで、朝から病院へ行っていた。
「母さんの口座に、二〇万入金しといたよ。先月の家庭教師代」
「ありがとう。いつもごめんね」
 両親は、狩野が小学生のころに離婚している。父からの慰謝料や養育費の支払いはなく、貧しい生活を余儀なくされてきた。
 横浜市保土ヶ谷区和田町──相鉄本線近くの木造二階建てアパートに二人で暮らしている。六畳間二つに台所、風呂にトイレと、狭く簡素な物件だ。
 狩野は頭脳明晰で成績優秀と、昔から近所でも評判だった。運動神経もよく、スポーツ万能で通ってきた。生徒や教師からの人気と人望ともに厚かった。中学、高校ともに生徒会長まで務めた。
 背が高く、顔はハーフのようだとからかわれることがよくある。彫りが深くて、目は大きく切れ長、鼻も高い。鏡を見るたびに、そう言われても仕方ないとは思ってきた。母に似ている。父は、凹凸のない顔立ちをしている。
 ジーンズの尻ポケットで、スマートフォンが震えた。“アーノルド”からの連絡だった。
「ちょっと、ごめん。友達から連絡が入った。昼は弁当でも買ってくるよ」
 狩野は自室へ戻った。“アーノルド”が送信してきたメッセージを開く。
「“2034”のケツが引けている」
 狩野は“トクリュウ”──匿名・流動型犯罪グループのリーダーだった。主に、特殊詐欺と強盗を生業としている。
“アーノルド”は幹部のコードネームだ。組織のナンバー2に該当する。リーダーの狩野は“クリント”と呼ばれている。
 狩野たちは、闇バイト要員をナンバーで管理していた。“20”は強盗を指し、その34番目の構成員ということになる。
“トクリュウ”グループは闇バイトの募集にSNSを使うとよく言われるが、狩野たちも同様だ。そうして集めた人間に関しては、職業や学籍から家族構成まで個人情報をすべて押さえる。狩野に至っては、全情報を暗記までしていた。
「“2034”には妹がいたな」
 脳に“2034”の情報を引き出し、メッセージを打つ。
「“君には、妹がいたよね”とだけ言え。それ以上は言わなくていい。それで、充分伝わるはずだ」
 家族に危害を加える──暗に、そう警告する。
 余計なことは口にしない。“トクリュウ”グループの統制と機密保持には欠かせないことだった。


  13:02


「この間の、法相への投石事案だけどな」
 天童怜央は、官房長の正源寺光彦から警察庁へ呼び出されていた。窓から、薄曇りの霞が関が望める。
 正源寺は、椅子を左右へ半回転させ続けていた。高級官僚でありながら、小学生のように落ち着きがない。
「相当、官邸から突き上げを喰らってるらしい。長官から八つ当たりされて弱ったよ」
 先日、神奈川20区で衆議院議員補欠選挙が行なわれた。その際、政与党公認候補の応援演説に来ていた法務大臣が投石被害を受けていた。
 事案が発生した神奈川20区は、LO室がある相模原市南区と座間市が該当する。
「だからよ。LO室は、地元の事案も予見できないのか。鳴り物入りで設置したわりには使えないって、散々嫌味を言われたそうだ」
 投石は六〇代後半、いい齢をした男性の犯行だった。夫婦喧嘩でむしゃくしゃしていたのが動機らしい。夫婦喧嘩の原因は、味噌汁の具がワカメでなかったからと聞いている。
「そんな偶発的なものまで予見しろって、無茶を言ってくれますね。それはもう予測や予報じゃなくて、予言です。超能力の領域ですから。それができたら、警察なんか辞めて、占い師か新興宗教の教祖にでもなりますよ。その方がはるかに儲かりそうですから。でなければ、味噌汁の具はワカメのみとするって法律で規定してください」
「そうカッカすんな。長官に言えって言われたから、おれも形式的に苦言を呈してるだけでな。正直、最近のお前さんとLO室の活動は評価してるんだ。当初に想定していた以上の実績だ」
 官房長が視線を向けてくる。天童は、特に表情を変えるでもなく受け止めた。
「証券会社の銃撃に、風俗店の爆破。どちらも未遂に終わらせた。もし実行されてたら、とんでもない被害が出ていたところだからな。LO室設置を受けてか、警視庁公安部は組織改編して、公安第三課にローンオフェンダー専門セクションを設けた。他の道府県警察も追随していくさ。最近は、中国でもローンオフェンダー的事案が続発してるしな」
 確かに中国では日本人を刺す、車で人の列に突っこむ、専門学校内において刃物で殺傷するなどの事案が連続している。経済の低迷を理由に挙げる識者もいる。それに関しては、日本も同じ状況と言えた。
「だからよ。中国からも、情報交換とか協力体制を構築してほしいって要望が来てる」
 中国の状況も深刻だ。被害者数でも、日本を凌駕する規模の事案も発生している。ローンオフェンダー対策は、中国にとっても喫緊の課題と言える。
「ま、LO室設置は正解だったな」
 凶悪な犯行を未然に防いだから──正源寺は、そんな心根の優しい男ではない。
 官房長には、長年の野望がある。警察庁の「省」昇格、現行の自治体警察に加えて国家警察を樹立させる。そうした宿願に寄与させるため、天童にLO室を設立させた形だ。よい風が吹いていると、悦に入っている。
 天童は、至って冷静だった。自身もLO室設置という希望を通すため、官房長の威光を利用している。そうした相互扶助関係は、暗黙の了解となっていた。
 正源寺の野望など知ったことではない。今後も、粛々と職務を遂行するだけだった。
「神奈川20区と言えば、例の瀧脇母子から捜査要請が長官に来ていてな」
 神奈川20区の衆院補欠選挙は、現職だった瀧脇富美恵の辞職により実施された。任期を残して引退した形だった。
「瀧脇のおばはん。心身の不調を引退の理由に挙げていたが、実際には息子の雄大に跡を継がせるためだってよ。突然に補選が始まったら、ほかの候補は準備不足になっちまうだろ。なし崩しに選挙戦へなだれ込ませて、息子が有利になるよう目論んだんじゃねえかって、もっぱらの噂さ」
 補選投票の結果、息子の瀧脇雄大は他の候補に大差をつけて当選した。
「法相への投石事案が理由で、僕を呼び出したわけではないようですね」
「最近、瀧脇母子の後援会員など支援者が、立て続けに強盗や特殊詐欺の被害を受けてるそうなんだ。で、長官から調べろとお達しがあってよ」
 正源寺は、官房室の部下に調査を指示した。上意下達と言えば聞こえはいいが、早い話が丸投げだ。
 調査の結果、確かに後援会員の被害が続いていた。遡ってみたところ、瀧脇富美恵の現役時代にも被害が散見された。主に同じ派閥の議員や、後ろ盾となってくれているベテラン代議士などの関係者が被害者だ。今のところ、政治家本人に被害は出ていない。
「瀧脇先生母子は、何と、テロに当たるとおっしゃるんだ!」
 正源寺は鼻で嗤い、天童は息を吐いた。
「で、LO室の所管だってねじ込んできたのさ」
「それ、“トクリュウ”でしょう。そんなこと言ってたら、LO室は日本中のありとあらゆる犯罪に対応しないといけなくなりますよ」
「今までも、なんだかんだ言い訳して手広くやってきたじゃねえか。“アジ子”ちゃんに言われたからって、盗撮犯パクったり」
 葛城亜樹子が仕掛けた“地雷ゲーム”で、盗撮犯を追ったことはあった。かなり前の話だ。
「物事は、何でも最初が肝心。新規の組織は、何事にも自ら積極的に取り組んでいくべきだと思うぜ。ま、これも実績を示した証拠、有名税ならぬ優秀税さ」
 正源寺は気楽に嗤ってみせる。
「それに被害者からしたら、テロかどうかなんて犯罪の種類分けはどうでもいいことだろ。不法行為に関して、そういう消極的な態度は警察官としていかがかと思うがね。天童警視」
 冗談か、本気か。官房長御大は畏まってのたまう。
 LO室は、相模原市南区の特別合同庁舎内にある。同じ地域の選挙区から選出されている代議士母子だ。基本情報は頭の中に入っていた。
 母親の瀧脇富美恵は六八歳で、神奈川県座間市の出身だ。今も在住している。
 亡き父親は地元の建設業者であり、県会議員も務めていた。その建設会社は婿養子の夫が継ぎ、経営に関しては全面的に任せられている。
 そうして、富美恵は政治活動に集中してきた。政府与党内でも地位は高く、保守的で有名だ。
 選択的夫婦別姓や同性婚、LGBT理解増進法にも反対の立場を貫いてきた。単に、党内の有力男性議員から気に入られたかっただけ。そんな悪評も流れている。
 息子の瀧脇雄大は四三歳、都内の有名私立大学を卒業後、旧財閥系の大手商社に勤務していた。独身だが、離婚歴がある。
 母──富美恵の庇護のもと、政治活動を行なっている。母子での世襲は日本政界では珍しいため、TVなどにはよくいっしょに出演する。政治信条としては、母親の保守的な考えを受け継いでいた。
 瀧脇雄大の衆院補選に関しては、騒動が持ち上がっていた。LO室へ戻ったら、確認してみよう。
「仕方ないですね」天童は息を吐き、軽くうなずいた。「緊急の案件もありません。調べてはみますよ」


  14:14


 狩野は強盗の計画を練っていた。
 パソコンに向かい、キーボードやマウスを操作している。ワープロソフトや表計算ソフトを駆使しているが、データを送信することはない。
 練り上げた計画は、すべて口頭で伝える。証拠を残さないためだ。録音も許さない。復唱させ、一度で記憶させる。
 狩野の“トクリュウ”グループは、ピラミッド型の四段階構成となっている。
 組織のトップは“クリント”こと狩野、その下に強盗担当の“アーノルド”、特殊詐欺を担当する“シルベスター”の幹部二名がいる。
“アーノルド”と“シルベスター”は、それぞれ複数の半グレを配下に持っている。半グレたちの下には、SNSで募集した多くの闇バイト要員がいる。
 狩野と二名の幹部は互いを知っている。ただし、配下の半グレや闇バイト要員は、それぞれ一つ上部の人間しか知らない。
 闇バイト要員には、“アーノルド”と“シルベスター”の存在は知らされていない。半グレも、頂点の狩野とは面識がなかった。
 犯罪計画は、すべて狩野が立てる。標的を決定すると、二名の幹部から半グレに伝えられ、闇バイト要員が標的の情報収集を行なう。収集された情報は逆のルートで上げられ、狩野まで報告される。すべて口頭伝達によるものだ。情報を集約及び分析して、決行日時など計画を練り上げていく形だった。
「“2034”は腹を括った。安心してくれ」
 数分前に“アーノルド”から送信があった。強盗用の闇バイト要員“2034”──彼らの管理及び使役は半グレが担当している。手に余ったときだけ、“アーノルド”や“シルベスター”に報告及び相談がある。狩野にまで話が上がってきたということは、かなり揉めていたはずだ。
「ふう──」
 手を休めて、目頭を揉んだ。狩野用の六畳和室には、IT企業ばりの機器が所狭しと並んでいる。
 始まりは、中学三年の夏休みだった。狩野は、近所の廃品回収業者で短期のアルバイトをした。真夏のもっとも暑い時期だったこともあり、きつくて辛い肉体労働だった。
 そのアルバイト収入を元手に、アパートの自室に高度なネット環境を整えた。
 高校に入ると、ダークウェブ上で“シルベスター”や“アーノルド”と知り合った。それが、“トクリュウ”グループを作り上げていくきっかけとなった。
 知り合ってすぐのころは、“シルベスター”や“アーノルド”と三人揃って顔を合わせた。二人ともボディビルダーのような体格で、狩野より五歳上だった。頼もしかったのを覚えている。
 今は、必ずコードネームで呼び合う。互いに本名は知っているが、使用することはない。“シグナル”等秘匿性の高い通信アプリを活用し、連絡を取り合っている。
“トクリュウ”の収益は学費に充てるほか、生活費として母に渡している。
 高校時代は飲食店でバイト、大学に入ってからは家庭教師のバイト代と称してきた。今の貧しい日本では、そんなアルバイトだけでは大した収入になどなりはしない。学費だけでなく、生活費まで賄えるはずもなかった。
「息子がアルバイト代を入れてくれるので、とても助かってるの」
 同じアパートの住人に、話しているのを聞いた。今のところ母から疑われている様子はない。
 TVのリモコンを手にした。滅多に点けることはないが、チェックしたい番組があった。
 画面に、瀧脇雄大が映った。祖母の富美恵と並んで、コメンテーター席に陣取っている。いつもの取り合わせだった。
「母とも、よく話すのですが」
 瀧脇雄大は、細身で神経質そうな顔立ちをしている。祖母より頭一つ分背が高い。縁なしの眼鏡をかけ、イタリア製のブランドスーツを好んで着る。
「夫婦別姓や同性婚といった新しい価値観を優先するよりも、もっと日本に古来から根づいている伝統や文化を大切にするべきだと思うんです」
 祖母の富美恵は、隣でうなずきながら微笑んでいた。父と顔つきは似ているが、少し肉がついている。スクエアタイプの眼鏡は、クールさを演出しているのか。かなりの近視で、今どきとしてはレンズがかなり厚い。濃紺のスーツは落ち着いた色合いで、オーダーメイドの高級感を隠していない。こちらもイタリア製だった。
 保守の論客という立ち位置での出演だが、単に頭が固いようにしか見えなかった。間抜けな母子が、馬鹿面を晒しているだけだ。悪意を持って観ているからかもしれないが。
「親父にも困ったもんだ」狩野は口元を歪めた。「婆ァもだけどな」
 瀧脇雄大は、狩野航大の父親だった。

(第14回につづく)